空(くう)の味

思わず手が湯呑みに伸びるが、湯呑みはまた空だ。


前書き前

お茶は奥が深いとよく言われるが、その奥深さは一体何にあるのだろうかと、私に教えてくれる人は誰もいなかった。しかし、その謎がどこに潜んでいるのか、私は知っているような気がする。それはお茶に限らず、私たちを取り巻くあらゆるものに共通する謎である。

何らかの普遍的な茶の法則を定義しようとすると、文の終わりはまるで自ずと「が」に行き着き、その後には、たった今まで絶対的な真理であったかのように見えたものを、ほとんど全面的に否定するような言葉が続いてしまう。茶には、もう一つの目に見えない対の力が働いているかのような印象を受ける。その力とは何なのか、そして何のために必要なのだろうか。そして茶の創造と発展に関わっている主要な力は何であろうか。

これまでに出版された茶に関する書物の多くは、茶の歴史や種類、品種、栽培法、製造法、さらには飲用法について語ってきた。

読者は「何か」「どこで」「いつ」「どのように」といった事柄について豊富な知識を得ることができる。しかし、「なぜ」という問いに踏み込み、茶文化がいかなる根本原理の上に成り立っているのかを説明しようとする試みは決して多くない。

茶の本質とは何か。茶はいかなる方向へ発展しているのか。茶文化はいかなる仕組みによって機能しているのか。その繁栄と衰退はどのように説明できるのか。そもそも、私たちはどのようにして茶を理解すればよいのか。

本書は、茶と茶文化を捉えるための分析的な枠組み、いわば茶を見るための「眼鏡」を提示しようとする試みである。私たちは茶を、新茶と番茶という二つの極のあいだに広がる空間として捉える視点を提案する。

茶の世界は、新茶と番茶という二つの岸のあいだを流れる一筋の川として立ち現れる。一見すると、その「茶の川」はつねに同じ場所にあるかのように見える。しかし近づいて目を凝らせば、その流れが驚くほど速いことに気づく。

本書は、茶の川を渡るための認識の筏である。私たちは新茶という此岸を離れ、番茶という彼岸へと向かう。そして、そこに隠された独自の価値を探っていく。

新茶・番茶という対概念は、対立物の統一と闘争を説く弁証法的理論ともよく対応している。しかし本書が主要な哲学的道具として採用するのは、それよりも茶の世界と響き合う東洋的思惟の道、すなわち仏教の空の思想である。私たちはこの思想を筏の竿とし、「茶」という複雑かつ多面的な現象の本質を読者とともに探究していきたい。

茶文化の仕組みを知り、その原理を理解することで、私たちは単なる傍観者から、その担い手へと変わることができる。茶文化が抱える諸問題にともに向き合い、その発展に寄与し、祖先から受け継がれてきた価値を次世代へと伝えていくことも可能となる。

もっとも、禅の立場から見れば話はさらに面白い。私たちはすでに、いまこの瞬間にも茶に影響を与え、茶文化を形づくっている。私たちはすでにその創り手、茶の仏たちだ。

茶即是空 前書き

日本のお茶の場合は、美しい形と色に仕上げようとするため、

香りと味は、二の次になっています。p. 10、小川八重子、くつろぎの茶、1982

理想のお茶は、たんなる夢でなく、

作ろうと思えばすぐできるものです。

小川八重子、暮らしの茶、1975

今日、世界はかつてないほどの抹茶ブームに沸いている。収益向上を期待して、日本の多くの茶農家は、リーフ茶(葉茶)である煎茶の生産から「粉末の黄金」の生産へと急いで転換している。

外側から見れば、これは古き良き伝統の待望の復活のように映る。長年停滞していた日本の茶業界に、ようやく幸運が舞い込んできたかのようである。

しかし、内側から見れば、それはむしろ伝統的な茶文化のさらなる崩壊に近い。なぜなら、その文化の根底にあったのは、決して粉末茶ではなくリーフ茶であったからである。

残念ながら、日本において煎茶の消費量は年々減少の一途をたどっている。なぜだろうか。それは、現代の煎茶がそもそも伝統的な日本茶ではないからかもしれない。

煎茶は、150年ほど前の明治時代、現代の抹茶ブームと同様にアメリカから押し寄せた煎茶ブームに乗じて外貨を稼ぐべく、日本人が急ピッチで切り替えた輸出向きの高級版なのである。

今日の煎茶の多くは、見た目こそ綺麗であるが、非常にデリケートであり、抽出や保存に特別な条件を必要とする、庶民の日常生活にはあまり適していないものとなっている。

高度経済成長の波に乗って定着した窒素肥料や農薬の多用、そして在来種からクローン繁殖される選抜品種「やぶきた」への一斉転換は、茶を消費者の生活からさらに遠ざけ、いわゆる「お茶離れ」の火種となった。

ちょうど20年前の2006年に出版された著書『お茶は世界をかけめぐる』のあとがきにおいて、高宇政光はその調査研究を締めくくり、次のような切ない結果を提示している。

«この本では、特に日本茶の近・現代史に目を向け、実像に迫る努力をしてきました。そこから見えてきたことは、煎茶は日本の伝統飲料ではないということ、日常茶飯とは番茶が主役であって、それらの番茶には各地の食文化に根ざした様々な製法と利用法があるということ、などです。

明治政府が行った殖産振興策としての煎茶製法の普及は、当時の国家政策としては有効性を主張できる判断だったでしょう。多分、正しかったのです。しかし、意図はどうであれ、明治政府は各地にあった豊かで多様な日常茶飯を破壊したのです。各地の様々な製法の番茶は、贋茶と呼ばれ、不正茶として排斥され、蔑まれました。これがどんな結果をもたらしたか、今、各地で、後継者のいない番茶が人知れず消え続けています。

高度経済成長がそれに決定的な追い討ちをかけました。それまで自家製のお茶として細々と作り続け、飲み継がれてきた番茶が、一気に受け継ぎ手を失ったのです。それを引き継ぐべき担い手は都会へ出て行ってしまいました。

現在はどこの地域でも、番茶を作り、飲んでいる人たちのほとんどが七十歳を超えてしまっています。一九六〇年代から七〇年代にかけて家族から生活の基礎を学んだ世代の人々です。そして、その後の世代はもうそこには住んでいません。

滅びるものはそのまま滅べばいい、という考え方にも当然理があります。必要とされなくなって滅びたのだからそれで良いではないかということです。

でも、僕には食文化という生存の根幹を成す大事な要素をそう簡単に切り捨てることには賛成できないのです。それは、僕たちの生活に大切な豊かさを運んでくれるはずだからです。

各地に点在しているだろう番茶の調査には、沈んでいく夕陽を追いかけていくような切なさがあります。でも、いつかその成果をご報告できると確信しています。» p. 235-236

残念ながら、高宇政光氏は2021年にこの世を去り、また、私たちの日常生活において、素朴で便利な日常茶が果たす極めて重要な役割に初めて注目した研究者である小川八重子氏(1927-1995)も、すでにこの世にはいない。

しかし、彼らの研鑽は無駄ではなく、本書の焦点となった「茶の日常茶性」という茶学の重要分野の基盤になったと考える。

日本茶に関する書物では、「茶は日本人の日常生活に深く根付いている」とし、その証左として「日常茶飯」という有名な表現がしばしば引用される。

多くの人々にとって、この事実は茶が持つ不変の属性であるかのように思われているが、実際はそうではない。

万物は「空」であり、固定的な実体(自性)を持たない。それらは特定の因縁(原因と条件)が相互に作用して生じる産物に過ぎず、その条件が消滅すれば、物自体もその属性も消え去るのである。これこそが仏教の根本教理である「空」の教えである。

茶とは、多くの世代の労働によって築かれ、維持されてきた茶文化という因縁が生み出した人工物である。それは高宇政光氏がその破壊を嘆いた日常茶飯そのものであり、今まさに私たちの目の前で崩れ続けているものである。

いかなるメカニズム(因縁)が、茶を人々の生活に溶け込ませる「日常性」を形作っているのか。茶の日常性を支える仕組みと基本原理を明らかにすれば、私たちは悲嘆や「沈んでいく夕陽を追いかける」ような切なさから解放されるであろう。

本書では、この「茶の空」を詳細に検討し、子供がレゴブロックを組み立てるように、日本茶を再構築していきたい。

実を言えば、その茶はすでに完成している。日本の茶農家たちとの協働によって生み出されたものだ。写真に写るその茶が、まさにそれである。

私はそれを日々、喜んで飲んでいる。急須で丁寧に淹れることもあるが、時間がない時、そして面倒な時には茶こしをカップに差し込み、湯を注ぐだけで十分だ。苦味は出ず、むしろ香りは驚くほど豊かである。これこそ、最高品質の日常茶なのである。

見ての通り、茶葉の形状はきわめて素朴だ。しかし、どうかその正確な茶名、品種、産地等を問わないでほしい。形に執着しないでください。形は空である。

山あいの朝

まだ四月が始まったばかりだというのに、日本ではすでに新茶の収穫が始まっている。すぐ近くでは、摘みたての新茶の甘く陶酔的な香りに満ちた製茶工場が、楽しげな唸り声を上げている。

若い茶芽は熱い蒸気で処理され、徐々に乾燥されながら専用の機械で揉み込まれていく。農家は朝から晩まで収穫と製造に追われているが、その工場を取り巻く自然は、まるでまったく別の、ゆるやかな時間の流れの中に生きているかのようだ。

野生の鶯のさえずりに心を奪われながら、私は春の緑に包まれた山々の中にひっそりと佇む茶畑に立っている。

目の前では、小さな茶芽たちが懸命に太陽へと伸びている。あと数日もすれば、その多くは葉へと成長してしまう。だからこそ農家は気を揉む――今日のうちに摘み、加工しなければならない。

たとえ収量が少なくとも、その方が品質は高くなり、茶市場でより高く売ることができるからだ。

八世紀末、『茶経』を著した中国の茶聖・陸羽の時代以来、最上の茶は春の若芽から作られるものであり、より大きく伸びた葉は品質で劣ると考えられてきた。

しかし、茶の世界全体をよく見つめれば、現実はこの通説を容易に覆してしまう。柔らかな若芽は確かに素晴らしく、一種の洗練さを備えている。だが、洗練さだけが茶の価値ではない。

茶を探究する中で、私はもう一つの、より目立たぬが人間にとって遥かに重要な価値に気づいた。私はそれを「茶の日常性」と呼んでいる。茶の日常性とは、茶の一般の人々の日常生活に密着する能力である。

そしてここで、少し子どもたちを押しのけるようにして、より成熟した「大人」の葉が舞台に現れる。より大きく、より安価で、若芽のような繊細で甘やかな気品は持たないが、それらから作られる茶は実に飲みやすく、暑い日の渇きを心地よく癒やし、食事にもよく合う。

私は再び新芽を見つめる。その中には永遠のリズムが脈打っている。茶市場の相場がまだ下がっていないという理由だけで、私たちにそれを急かす権利はない。市場で取引する人々は、おそらく忙しすぎて理解する暇さえがないのだろう―自然は本来ひとつであり、善悪や上下に分けられるものではないということを。

茶もまた例外ではない。茶葉は成長するにつれ品質が落ちていくのではなく、変わっていくのだ。洗練性から日常性へ。

新芽を摘むのを急いではならない。茶芽たちはあなたの暮らしへと伸びようとしている。

しかし、あまりに長くためらわない方がいい。

さもなければ、茶の味は空っぽに感じられるかもしれない。

自己紹介

私は1973年、ソビエト連邦に生まれた。ロシアで育ち、2000年に日本文部省(当時)の奨学金を得て、神戸大学大学院で経済学を学ぶために来日した。

両親がそれぞれの愛する仕事に打ち込む、素晴らしい家庭で育った。父、ウラジーミル・セミョーノヴィチ・セレズニョフ(1936–2021)は新聞記者であり、博学多才で言葉に対して鋭い感覚を持ち、人との対話に長け、何もないところからニュースを見つけ出す才能を持っていた。

母、セレズニョヴァ・ラリサ・ボリソヴナ(1939–2019)は言語学者であった。彼女はロシア語の表記理論と実践を研究し、独自のアルゴリズムを用いてロシア語の綴字(スペリング)と句読法を体系化した。母は独自の用語を伴う自分自身の世界を築き上げ、私が学者になることを常に望んでいた。

私自身は学問の世界とは程遠いと考えていたが、今振り返れば、子供の頃から複雑な専門用語が飛び交う両親の難解な会話を聞く中で、科学における最も重要な道具、すなわち「既成の概念から自由になる能力」を両親から受け継いだように思う。

この能力は、すでに6歳の時に現れていた。父と叔父のエフゲニー・ボリソヴィチ・グルシャコフが、私にあらゆる「……とは何か?」という問いを投げかけ始めた時のことだ。私の答える定義は彼らにとって格言(アフォリズム)のように響き、やがてそれらは数冊のノートに書き留められた。

哲学者:問題の広がり屋。

永遠:鳴り止まない未来。

人間:他の人間の喜び。

海の深淵:水の根。

脈拍:健康の健康。

病院:負傷者の図書館。

ボタン:化石化した上着の住人。

埃:それは時間だ。絶えず飛んでいる。

金:給料の本質。

経験:準備された技術。

人生:未来についての思い。

水:喉の渇きに対する薬。

愛:生きる権利。

船乗り:海に屈しない人。

紙:万年筆の友。

過去:思い出。

秘密:隠れている言葉。

一日:ニュースの空間。

私には超能力があるのではないかと疑われ、モスクワへ連れて行かれた。そこである有名な研究所の職員たちにIQ測定のための様々なテストを受けさせられたが、結果は平均以下だった。

それにもかかわらず、1980年の『文学新聞(リテラトゥールナヤ・ガゼータ)』のある号では、最終ページ一面が私に割かれた。記事のタイトルは「神童たちをどう扱うべきか?」というものだった。

その後、叔父は私を有名な詩人エフゲニー・エフトゥシェンコの別荘へ連れて行った。エフトゥシェンコは、格言が6歳の少年のものだとは信じられず、私に意地悪な質問を次々と投げかけた。その中で覚えているのは一つだけだ。

「サーシャ、教えてくれ。鶏と卵、どちらが先に生まれたのかね?」と、小さな「問題の広がり屋」を窮地に追い込めるだろうと確信して、彼は尋ねた。

「命だよ!」

と私は鼻をほじりながら、迷わずに答えた。

日本で25年暮らした今、ようやくあの詩人との会話が、禅の問答に酷似していたことに気づいた。あの日、あらかじめ仕掛けられた論理の罠に陥らなかったことで、私は悟りを開いたのかもしれない。少なくとも、組織の枠組みの中に留まったままでは、その組織を変えることは不可能だと理解していたかもしれない。皮肉なことに、鶏と卵が、最終的に私にとってお茶を理解するための鍵となったのだ。叔父は私をモスクワの英才教育専門学校へ入れようと奔走したが、その計画は実を結ばず、私は両親と共にシベリアの都市オムスクへ戻った。

その後、母が新設されたヴォルゴグラード国立大学に職を得たため、1983年に私たちはヴォルゴグラードへ移住した。大学を卒業し、英語、ドイツ語、フランス語の教師の資格を得た後、当時自分にとって重要に思えた経済学の研究に数年間を捧げた。

やがてモスクワへ渡り、外国語図書館内にあった日本大使館の広報文化センターに偶然立ち寄った。当時の日本語の知識は乏しかったが、良さそうな研究計画書を作成し、奨学金の選考に合格した。

2000年10月、神戸に降り立ち、間もなく大学院へ進学した。懸命に勉強したが、自分の文系脳は数学や統計学、国民総生産(GNP)といったものと全く相容れないことを悟った。

2003年からは、当時盛んだった日本の中古車オークションの輸出業に携わった。子供の頃から異文化の接点に立ち、対外貿易に従事することを夢見ていたが、車や機械には興味が持てず、収入は良くても、常に空虚感と未充足感を感じていた。

2009年の世界金融危機「リーマン・ショック」と、その後の急激な円高により、私は中古車輸出から撤退し、新たな活動の場を模索せざるを得なくなった。

長く考えたが、おむつの輸出以上に面白い案は浮かばなかった。そんな時、京都に住む友人のアレクセイ・チェカエフが、日本茶のような高尚で気高いものを扱ってみてはどうかとアドバイスをくれた。

その助言が気に入り、全く未知のテーマにどこから手をつけるべきか考え始めた。茶道には関心がなかったが、日出ずる国の古来の飲料としての「日本茶」そのものには強い興味を抱いた。お茶との距離を縮めるため、京都へ通う頻度が増えた。

2011年の春、古都の細い路地を歩いていた時、六角堂の前に辿り着いた。その時はまだ、810年前の1201年に親鸞聖人がこの寺に100日間籠もり、仏教の修行者だけでなく、すべての人々を救う道を求めて苦悩した場所だとは知らなかった。

95日目、親鸞の夢の中に聖徳太子の姿をした救世観音が現れ、その導きによって親鸞は浄土真宗を開くことができた。

興味深いことに、その翌年の1202年、栄西という別の僧侶が京都の中心に建仁寺を建立した。その周囲には今も茶の木が育っている。中国から帰国した栄西は抹茶の製法を日本に伝え、日本全国にお茶を広める重要な役割を果たした。

六角堂の境内には、人々を助けるためにそれぞれの道を歩む、多くの地蔵さんがある。今思えば、彼らは私を仲間に誘っていたのかもしれない。

六角堂の門を出て数分歩くと、「ちきりや」と書かれた茶舗に行き当たった。中に入り、店主の若林氏に出会った。

彼は親切に、煎茶から玉露まで宇治の様々な茶を淹れてくれ、日本茶の種類や淹れ方について手短に教えてくれた。その独創的で深い味わいに大きな衝撃を受け、「ちきりや」を出る時には、日本における自分の使命は「最良の日本茶を世界に広めること」だと確信していた。

まずは、二つの課題を解き明かす必要があった。

お茶とは何かを理解すること

最良の日本茶とは何かを理解すること

お茶、あるがままに

お茶とは何か。一般に麦茶、カモミールティーやシーベリーティー、イワン・チャイ、ハイビスカスティーなど、ハーブや他の植物を煎じたものも「茶」と呼ばれることが多い。しかし、厳密な学術的意味において、これらは「非茶系飲料」、すなわちティザン(ハーブティー)と呼ばれるものである。

本書で語るのは、厳密な意味での「お茶」についてである。つまり、茶の木(学名:カメリア・シネンシス)の葉、あるいは茎から作られる、美味しく健康に良い飲み物のことだ。

お茶を作るのは、極めて簡単である。茶葉を蒸す(パルチャ)必要さえなく、また自分自身も、いわゆる「蒸される(パルッツァ/思い悩む)」必要はない。ただ、例えば日本や中国、あるいはラオスの山中で、野生の茶の木を見つければよいだけだ。

茶は温暖な気候を好み、降水を歓迎する植物である。そのため、寒冷な気候や雨の少ない国で育つことは、断固として拒否する。

また、茶は常緑樹であるため、心配はいらない。葉は一年中そこにある。冬眠から覚めた膨らんだ芽から、若く瑞々しい茶葉が芽吹く4月や5月を待つ必要はない。それがいわゆる「新茶」である。

新茶は「一番茶」とも呼ばれる。その年で最初の「初物」であり、若さゆえの繊細な香りと豊富な栄養素によって、最も品質が高いとされている。

最も早い新茶、いわゆる「お走り新茶」は、日本の最南端に位置する鹿児島県の種子島や屋久島で、3月末にはすでに収穫される。

3月末から冬眠に入る11月末にかけて、日本の南部では最大5回まで茶の収穫が可能である。より北の県では、せいぜい2回から3回だ。茶の木の自然な生命力を消耗させないよう配慮する茶農家は、年に1、2回しか収穫を行わない。そうすることで、味わいはより深くなる。

茶は一年中育っているため、場所さえ知っていれば、冬に山へ入って茶を作ることも可能だ(冬の茶は「寒茶」と呼ばれる)。冬の茶葉は「古い」、あるいは「大人」の状態であり、大きく硬くなっている。しかし、それらも十分に茶として成立する。太陽を浴びて硬くなった大人の葉から作られる茶は、「番茶」と呼ばれる。

大人の葉は、大人の人間と同じである。若いものより劣っているわけでも、優れているわけでもない。ただ「違う」だけだ。それらは「若者」と共に、一つの茶の木という全体を構成している。まるで仲の良い家族の子供と親のように。それらは鶏と卵のように、分かちがたく結びついている。一方がなければ他方もなく、すなわち「お茶」も存在しない。このことは、本書の鍵となる思考へと我々を導く。

「茶葉が成長するにつれて、その品質は低下するのではなく、変化するのである」

8世紀の『茶経』から現代の教本に至るまで、出版されたあらゆる茶の思想は、「茶葉の品質は成長とともに低下する」というドグマ(教条)化した定説を中心に回っている。この視点の幻想性を証明することが、本書の目的の一つである。

お茶を包括的に、「禅の眼鏡」を通して見るならば、我々は「若葉(最高品質)対 大人の葉(低品質)」というステレオタイプな茶の二元論を克服できる。そして、それぞれの葉にある特別な趣、すなわち独自の品質を見出すことができるだろう。

春だけ、あるいは秋だけを愛する人々にとって、生きることは困難だ。お気に入りの季節を待つあまり、他の世界の驚異を見過ごして退屈する必要がどこにあるだろうか。世界を白と黒に分けることは「執着」を生み、それこそが苦しみの主な原因となる。

自由になるほうが、簡単ではないだろうか。世界を二つに割る二元論的な思考に別れを告げ、悟りに達するほうが簡単ではないだろうか。今この瞬間を生き、それぞれの季節、それぞれの茶葉の中に、二度とない美しさを見出すのだ。禅の教えに「柳は緑、花は紅」という言葉があるように。世界を、あるがままに見るのである。

古の茶を作る

お茶を作るのは難しいと思われがちだが、茶の木をあるがままに見れば、実はお茶はすでにできていることに気づく。お茶を作ったのは自然であり、人間はそれを自分の好みに合わせて少し加工し、用意するだけなのだ。

さて、あなたは山に入り、茶の木を見つけたとする。仮に、あなたが茶の木と同じくらい野性味あふれる古代人だとしよう。あなたは猛然と、茶の木から枝をへし折る。茶という植物は強力な再生能力を持っているから心配は特にいらない。時が経てばまた新しい枝が生えてくるから。

そこから先は好みの問題だ。例えば、ベトナムの一部の愛飲家たちは、今でも極めて原始的な方法でお茶を作っている。生葉を20-30分ほどお湯に浸しておくか、あるいは数分間煮沸して、茶に含まれるカテキン、ビタミン、アミノ酸、カフェインなどの成分の抽出を早めるのだ。

もしあなたが真に野性的であるなら、沸騰した湯の入った器に枝ごと放り込み、数分後にはその煎じ汁(煎じ茶)を飲むこともできる。これは緑茶だろうか、それとも紅茶だろうか。これはまだ「何者でもない」茶、つまり生の茶であり、いかなる学術的な分類にも当てはまらない自由なお茶だ。

しかし、この「何者でもない」茶は、すでにお茶としての主要な生理的・社会的機能を果たしている。気分を爽快にし、喉の渇きを癒やし、マンモス肉を流し込むのを助け、身体に栄養を供給する。危険な狩りを前に、部族の絆を深めるために野生の仲間たちに振る舞うこともできる。

生茶の味は、文字通り「生」であり、好みは分かれる。生の草特有の鋭い臭いを嫌う人もいるだろう。その臭いを取り除くために、人々は茶を萎凋(いちょう)させることを学んだ。空気にさらして少し乾燥させ、酸化させる。こうして「白茶」が生まれた。

だが、もし今日の夕方にマンモス狩りを控えているとしたら、翌朝にのんびりと白茶を楽しめる確率は、望みよりも少し低くなるかもしれない。

幸い、草臭さを素早く消す方法がある。加熱処理によって「殺青(さっせい)」を行うことだ。殺青は緑茶製造における重要な工程である。生葉を、例えば古代の石鍋の上で外から熱した蒸気によって処理することができる。

あるいは、茶葉自体に含まれる水分を蒸気として利用することもできる。一掴みの茶葉を熱した金属の釜に入れ、焦げないように手で素早くかき混ぜるのだ。

熱い金属から伝わる熱が葉の中の水分を温め、葉の中に生きている酸化酵素に熱を伝える。高温が酵素を失活させ、茶葉の酸化プロセスを遅らせる。囓ったリンゴのように茶色くなるのを防ぐのだ。

「殺青(固定)」は単に草臭さを消すだけでなく、酸化(発酵)の進行を止め、茶葉の緑色と有用な成分の大部分を自然な形で維持する。いわば、茶葉を「ミイラ化」させるのである。

収穫直後の殺青は、茶をあるがままの姿――生きた緑のまま――に保とうとする試みである。直ちに発酵を止めなければ、空気中で茶は発酵し、まずは半発酵茶(烏龍茶)に、そして強発酵茶(black tea、中国の分類では紅茶)へと変化していく。

鉄釜で行う「釜炒り」の手法は、しばしば「roast(焙煎)」と訳されるが、この翻訳は正確ではないと考える。茶葉を焙じているのではなく、加熱処理、つまり「殺青」しているからだ。その結果できるのは、ほうじ茶のようなものではなく、緑色の「釜炒り茶」である。

私は、この「釜炒り茶」をロシア語で「釜茶(カトラヴォイ・チャイ)」と訳すことを提案している。今日、中国の緑茶のほとんどは釜炒り法で作られている。日本では「釜炒り茶」は主に九州地方に残るのみで、そこですら、近代日本の主流である蒸し製緑茶――煎茶――にほぼ完全に取って代わられてしまった。

しかし、古代の野生の茶の山に話を戻そう。私たちには釜も鍋もない。まだ発明すらされていないのだ。だが、私たちはすでに火打ち石で火を起こすことを知っている。火の上で茶の枝をかざし、炎で丁寧に炙ることで、不完全ながらも殺青を行う。

葉がひどく焦げないように注意し、数分もすれば「青臭さ」は消え、生の草の臭いは緑茶の繊細な香りに変わる。ところどころ少し焦げた匂いがするかもしれないが、特に問題なし。緑茶の完成だ!

次に、古代の土器を火にかけ、いにしえの水を注ぎ、火で固定した葉を放り込んで数分間煮る。

「あぶり茶」の完成だ!

どうやら、この「あぶり茶」は最古の茶の形態として、8世紀の陸羽『茶経』に記された主要な四種の茶の一つとして登場しているようである。

「茶に四種あり。曰く、觕茶、散茶、末茶、餅茶なり。

觕茶は斫(き)り、散茶は煮(に)、末茶は炙(あぶ)り、餅茶は搗(つ)く。」

青木正児氏(81頁)や石田雅彦氏は、觕茶を「番茶の一種」と見ている。

布目潮渢氏は次のように記している。「『茶経』「觕茶」 觕(cū)は粗(cū)に通ず。『広韻』模韻に、「粗は大なり、疏なり、物精ならざるなり、或いは觕に作る」とある。觕茶は以下の『茶経』の文に「斫(き)って作る」(原文は「乃斫」)とあり、これは茶の葉を採まないで、枝ごと切り、おそらくそのままあぶって、葉を湯にいれ、沸騰させて飲む、もっとも原始的な飲み方ではなかろうか。

以前に武漢にて茶工場を参観した時、工場の外側の壁に茶が葉のついたまま枝ごと立てかけてあるのを見たことがある。」(茶経、190頁)

こうして、私たちは香ばしい「あぶり茶」を堪能した。では、あなたの後に続いて野生の仲間たちが折り、火で炙った他の茶の枝はどうすべきか。保存性を高めるためには、緑茶をよく乾燥させ、葉の内部に残った水分を取り除くのが望ましい。

中国人は釜炒り茶をそのまま釜の中で温度を下げながら乾燥させ、日本人は(棚)乾燥機を使うが、私たち古代人は、洞窟の入り口の日当たりの良い場所に茶の枝を広げる。そして、明日もまた香ばしい「あぶり茶」を楽しめることを願いながら、皆で仲良く狩りに出かけるのである。

あぶり茶の、荒々しく、田舎風で野暮ったい茶葉は、茶屋で売られている繊細で整然とした針状の煎茶とは全く似ていない。どちらもカメリア・シネンシスから作られたお茶であるにもかかわらず、それらは味や外見だけでなく、込められた意味の根本的な部分において大きく異なっている。大石貞男は次のように記している:

ヤマチャの枝をとって火であぶっただけで湯を加えて飲むという始原的な利用法、茶を刈りとって陰干しておき、飲むに必要なだけほうろくで炒り、湯で煎じて飲む方法、さらに煮る、炒る、蒸すという第一工程の多彩さ、雲南、ビルマ、タイなどと共通性のみられる後発酵茶や、茶を摘む時期も春はもとより、夏秋冬に一回だけ葉をとって、それぞれ季節にあった加工法をとるなど、西南部中国や北ビルマの方法との密接な類似性を感じさせられる。それらは、主として京都において製法が洗練された抹茶や、蒸製煎茶と比較すると、さらにその古さを思わせ、軌を異にするように見えるのである。p. 57-58 健康食お茶

大石氏は、お茶の発展における二つの主要な方向性を指摘している。第一は、番茶に代表される、自然の日常化の道である。第二は、人工的な手法によって味と形状を強化する高級化の道である。これら二つの種類は、それぞれ独自の特性と機能を持っている。様々な生活シーンにおいて人間と関わることで、それらは「茶文化」と呼ばれる一つの体系を形成している。

3. 二つのお茶、二つの品質

古来より、お茶の中には二面性があることが気づかれていた。それは、日常生活に根ざした成熟した大きな茶葉(番茶)と、非日常的で高級な若芽(新茶)という、対極にある二つの極への分化である。これは、互いに補完し合いながら一つの全体を構成する「陰陽」という二つの相反する原理に他ならない。

陸羽の『茶経』は、古代の辞典『爾雅(じが)』(紀元前3〜2世紀)を引用している。

「早く採るのを茶といい、遅く採るのを茗(めい)という」。

林栄一は『日本のお茶。II:お茶と生活』(1988年、26頁)において、日本茶の主な消費パターンを二つに区別した。『嗜好性飲料、あるいは習慣的な飲料として飲まれるようになっているお茶』。大石貞男は『嗜んで飲む』お茶、と『生活必要品的に飲むお茶』、小川誠二は『日常茶飯というように毎日飲用しているお茶と味うお茶 』

大石貞男は、茶を『嗜んで飲む』もの」と「生活必要品的に飲むお茶」に分けた。小川誠二もまた、二つの主要な形態を挙げている。『日常茶飯というように毎日飲用しているお茶 』と「味わうお茶」。

1976年の日本茶の教科書の中で、茶の持つ二面性が次のように巧みに指摘されています。「お茶は嗜好性の強い必需品です」。p. 106

谷本陽蔵は、飲み方によって茶を「通のお茶」と「暮らしのお茶」の二つのカテゴリーに分けた。自著『お茶のある暮らし』の中で、彼は両者の特徴を詳しく述べている。

『すなわち嗜茶や啜茗 (茗はお茶の別称、くわしくいえば比較的大きくなった茶葉でつくった晩茶に近いお茶のこと)は、口に含んで味わうというような深い意味ではなく、むしろ大きく口をあけて日常の暮らしのなかでお茶を飲むという軽い意味であろうと思う。言い換えれば、食事のあとのお茶、喉が渇いたとき何杯もおかわりして飲むを意味すると解した方がよいようだ。

さて日本語の飲茶は文字通りお茶を飲むことであり、私はこれを喫茶と区別しなければならないと考えている。喫茶とは、飲むことには違いないが、あれやこれやお茶の品定めをし、自分の口に適したものを求め、いれ方にも蘊蓄を傾け、お茶の香味に重点を置き、例えばお客を招いて、得もいわれぬうまい高級茶をたがいに楽しみ合うといったお茶好きの、いわば通の飲み方をさすもの、いわゆる吟味のお茶なのである。

かたや飲茶とは、いわゆる日常生活のなかでのお茶であり、香味についてそんなにわずらわしいことをいわないで、気取らずにおいしく何杯でも飲むことのできる暮らしのなかのお茶であり、大衆茶を意味する。

もちろん何杯も飲むからには、香りの高いうまいお茶でなければならず、決して本来の香味を無視したお茶を意味しているわけではない。香りの高い喉ごしの良いお茶であるのは当然で、まずいお茶なら何杯もおかわりしないことはわかりきったことだ。ただたんに渇きを癒すだけのお茶なら、何杯も飲む魅力に欠けるし、それなら水でもよいはずだ。飽きずにいつでも、それでいて経済のこともそれほど考えずに飲めるお茶である。』pp. 76-77、お茶のある暮らし、谷本陽蔵、2012。

最近、日本茶の聖地である宇治市の歴史資料館で開催された展覧会の図録を手にした。2015年秋に開催されたその展覧会の序文には、日本一とされる宇治茶の本質を捉えるだけでなく、その二面性を通じて茶を理解するための枠組みが示されていた。以下にその一部を引用する。

「日常の茶 非日常の茶

日常茶飯というふだんごく普通に、あ

たりまえにおこなっている事どもをさす。か

つて村びとたちは、みずからの屋敷や畑の一

隅に茶を植え、その土地にあった方法で茶を

つくり親しんできた。次第に商品としての茶

が普及していくとは言え、こうした営みは全

国各地で見られた。

一方、宇治茶は、一貫して非日常の茶である。

安土桃山時代、大名や貴族、豪商たちにもて

はやされて早くに名声を確立する。江戸時代

なかば青製煎茶が流行し、三都と呼ばれた京・

大坂・江戸をはじめ都市部で高級な茶をたし

なむ人びとが増える。

世の中が豊かになり非日常を楽しむ層が拡大するにつれ、

茶どころとしての宇治の名が広く深く浸透していった。」

宇治茶は、その芳醇な香りや深い味わい、美しい外観にもかかわらず、大衆への普及には限界がある。それはまさに、高価格を伴う「高品質」ゆえである。

このような品質は「非日常の品質」と言える。宇治茶はその質の高さで有名だが、濃厚な旨味やその他の利点の裏には、客観的な矛盾が隠されている。宇治茶は第一に高級品であり、春の若芽を使い、通常は被覆栽培を行い、多量の肥料を施し、熟練の職人が丹念に仕上げる。これらすべての特徴が宇治茶の付加価値を高めるが、同時にコストを大幅に押し上げ、大衆への普及を阻む自然なブレーキとなってしまう。

問題は価格だけではない。宇治茶特有のアミノ酸豊富な濃厚な旨味は、喉の渇きを癒やすのには向かず、また日常の食事にもあまり合わない。そのため、上級茶は一般の人々の日常生活には適さないものとなっている。つまり、非日常的な「高級品質」は絶対的なものではなく、人間のニーズの一部しか満たせないのである。

上級茶は、時折単品で、あるいは菓子と共にゆっくり啜って楽しむには良い。しかし、喉の渇きを癒やし、価格を気にせず食事と共に飲むという、ありふれた日常の場面では、突如として不発に終わる。そのために日本茶の「第二の顔」である日常茶、すなわち番茶等が存在するのである。

抹茶の原料となる「碾茶(てんちゃ)」を作る宇治の農家たちは、経済的に豊かであり、あらゆる高級茶を自由に飲める立場にあるが、日常生活で抹茶や玉露を飲むことは稀だ。彼らが好むのは、素朴な京番茶やその他の番茶である。

抹茶や玉露が「最高品質」とされるなら、なぜ彼らは番茶を飲むのか。まして番茶が「下級茶」とされているのであれば、なおさら不思議ではないか。明らかに、抹茶や玉露の高級品質は絶対的なものではなく、人々があえて番茶を選ぶための「別の品質」が存在するはずである。

茶が二面性を持っているにもかかわらず、ここ数百年、日本茶の品質はたった一つの基準、すなわち「高級性(洗練性=旨味、形状、若葉の香り)」のみで評価されてきた。

例えば、トラックとスポーツカーを「速度」という基準だけで判定すれば、トラックに勝ち目はない。低品質な車と見なされるだろう。残念ながら、日本茶の品質評価の現状はまさにこれと同じである。上級茶も日常茶も、すべて「高級性」という一つの物差しで測られている。

このような偏った評価の結果、旨味も新芽の繊細な香りも、針状に細く寄れた茶葉の美しさも持たない番茶は、「下級茶」という不本意な場所へ追いやられている。

『煎茶入門』(1990年)には、番茶について次のような記述がある。

「一番茶の芽の硬葉したもの、または一番茶の上質の茶をつみとったあとの葉で作られるお茶で、いちばん下級のお茶ということになりますが、番茶特有の風味もあり、見のがせないお茶です。」(20頁)

いささか曖昧な言い方ではないだろうか。見のがせないと言うのなら、なぜ「下級」というレッテルを貼られたのか。これは、トラックがF1レースに出ないことを責めるようなものではなかろうか?

日本茶に関する書籍では、番茶は下級茶であるが、それなりの価値があると書かれることが多い。この表現は極めて矛盾している。価値があるお茶を、下級茶と見なすべきなのか。まずは、この「下級茶」が持つそれなりの価値を明らかにしてみよう。

4. それなりの価値

現代の番茶は、煎茶の大葉版へと変化し、以前よりもさらに便利になったのである。抽出を早めるために煎茶と同様に揉まれており、急須に入れた番茶に熱湯を注いで1分ほど抽出するだけで十分である。

40〜50年前までは、多くの日本人が「昔ながらの方法」で番茶を煮出していた。急須で淹れる方が煮出す手法より優れているとは言えない。どちらの方法にも利点と欠点があるからである。煮出すのは手間がかかるが、茶葉から成分を最大限に引き出せるため、最も効率的で経済的な抽出方法なのとである。

『もっとお茶を見直そう!』の著書の中で、蛭田泰代は番茶の魅力について語っている。

«番茶は手軽な飲みもの

娘十八番茶も出花というのは、番茶も一煎めは非常においしいように、どんな女性でも十八にもなると急に女らしくなるというたとえである。番茶にしてはいささか賞められているのかけなされているのかわかりにくいが、番茶は決して一煎めだけを飲むお茶ではない。むしろ常備茶ともいった方が適切ではなかろうか。

京番茶といわれるのは京都地方での飲み方で、やかんに湯をわかして番茶を入れ、それをさらに煮たててしまう。最初は熱い番茶を飲むことになるが、一回でやかん一つ飲みきれないからといって捨てるなどということはしない。冷めるにまかせておいて、のどがかわいたら気楽に飲むわけである。

夏などはやかんのまま冷蔵庫に入れておくと麦茶の代用にもなるというわけで、非常に重宝といえる。特に忙しい家庭ではなかなかよい方法である。

弁当もって一家総出で野良にでかける農家でも忘れてならないのは番茶の葉と大きなやかんである。昼めしどきには、簡単なカマドを手早く作り、近くから水をもらってきて、湯をわかす。そして番茶をつくって昼めしを食べるのである。三時の休けい時間には、その残りをのんでもいいし、新しく作ってもいいのである。

とにかく番茶ほど手軽に、肩をこらさずに飲めて、おいしいものも珍しい。しかも安いときている。どんな家庭にも緑茶がゆきわたった原因は、とりもなおさず大量に番茶が生産されるようになったからではあるまいか。文字通り一家団欒の潤滑油の役割を果してきた。

現在でも緑茶と考えて飲んでいる家庭でもじつは番茶と同じような飲み方をしていると考えてよい。食後のお茶、漬物といっしょに飲むお茶などすべて番茶と思って間違いない。

もし、漬物といっしょに飲んであんまりぴったりこなかったら、それは番茶ではない。番茶というのは黄味がかった茶色をしているが、その色の系統のお茶には漬物が合うわけで、その代表格が番茶ということになる。

その反対に、お菓子とよく合うのは緑色系統の玉露、高級な緑茶ということになる。» 61-63, もっとお茶を見直そう、蛭田泰代。

中村公一は著書『お茶』でこう書いている。

«番茶は高級煎茶と較べて甘みに欠けるため、品質の劣った安価なお茶と思われがちですが、番茶には番茶ならではのよさがあります。味わいがさっぱりしているので、お酒を飲んだ後やスポーツの後、渇いたのどを潤すのに最適。漬物といっしょに味わう番茶の味も格別です。

味の濃い高級煎茶に慣れている人が、食事の後に熱い番茶を飲むと、お茶の奥深い世界を発見したような気分になるといいます。» p. 18-19

歴史を通じて、番茶は日本茶文化の形成と普及における重要な役割を担ってきた。番茶こそがあらゆる家庭に浸透し、数百年にわたって日本人の日常生活に定着したからである。番茶は国民的な茶文化の基盤であり、それゆえに番茶独自の役割を理解せずして、日本茶の奥深い世界を理解することは不可能である。

1970年代初頭の高度経済成長の波の中で、番茶は「より高品質」とされる煎茶によって積極的に追いやられ始めた。番茶は「煎茶に及ばないもの」、すなわち安価で古臭い、低品質な茶と見なされるようになったのである。

とりわけ、伝統的に茶色であった番茶は、水色の美しさにおいて緑色の煎茶に劣っていた。皮肉なことに、日本語の「茶色」は文字通り「お茶の色」を意味しており、歴史的には番茶と日本茶という概念が同一視されていたことを示している。

ほぼ同時期に、いわゆる日本人の「お茶離れ」が始まった。多くの者は、その主な要因として食習慣の欧米化や多種多様な競合飲料の登場といった外部的要因を挙げている。

しかしながら、最大の原因は茶文化そのものの変質にあると考える。すなわち、番茶類(番茶の諸形態、釜炒り茶など)といった日常茶の価値低下と生産縮小である。

この状況に最初に警鐘を鳴らしたのが、茶文化研究家の小川八重子であった。彼女は「常茶」という言葉を提唱し、常茶という概念とその特別な価値に対する人々の関心を喚起した。

その夫である小川誠二は、茶の品質を単一の基準(高級性)のみで評価してはいけないと指摘している。彼はお茶を「あれかこれか」という狭い枠組みから、「あれもこれも」という多様な価値観が共存する自由な世界へ解き放って、二元的な評価を提案している。

«一口啜って味わうのもお茶ですが、ガブガブ飲んでいくらでも飲めるというのも、それなりの価値のあるお茶です。

商品としての価値は低くても、保健飲料としての評価が、飲む側にとっては、より重要な要素ではありませんか。

緑色の茶と、茶色の茶。嗜好飲料としての茶と、保健飲料としての茶。二つの異なった山があっていいのでしょう。夫々違った価値判断の規準があってよいと思います。茶色の茶だから安物と決めつけることはできない筈です、と私は考えています。「茶の色は緑色といった考え方が主流を占めている片方で、色に余りこだわらない現実もあります。» p. 72-73

禅僧のように、小川誠二は、多くの人が「真の品質」の唯一の担い手として色(形)に執着しがちであることに対して、注意を促しているのである。»

小川八重子は、日本各地の常茶を研究する中でそれらの特性を明らかにし、著書『暮らしの茶』(1975年)において次のように列挙しているのである。

1、子ども用には 苦くも渋くもない茶 食欲をます茶

2、お年寄りには 刺激性の少ない茶

3、中年には 血圧があがらないようにする茶 糖尿病にならないようにする茶 肥らないようにする茶

4、女性には 体を温める茶

5、菓子に合う茶(砂糖味)

6、洋菓子に合う茶(脂肪)

7、のどがかわいたときガブガブ飲める茶

8、茶の味をじっくりと味わえる茶

9、茶めし 茶漬け 茶がゆ用の茶

10、肉料理に合う茶

これらの特性のすべては、高級茶においては十分に発揮されていないものである。それらは渾然一体となって、日常茶特有の価値と見なすべき集合体を形成している。では、その価値とは一体何であり、どのように呼ぶべきなのだろうか。

それは、上述したすべての「下位価値」を包含する、より高次の包括的な価値であり、お茶を日常のものたらしめる価値である。これを「茶の日常性」という言葉で定義することとするのである。

5. 茶の日常性と洗練性

茶の日常性とは、お茶が一般の人々の日常生活に溶け込む(密着する)能力のことである。お茶の顕著な健康効果は、その常飲によってのみ可能になるという点を踏まえれば、茶の日常性は、お茶と人間の身体的・精神的な健康を結ぶ極めて重要な架け橋となるのである。

茶の日常性は、決して生まれ持った不変の特性ではない。それは、お茶そのものと同様に、茶樹とその葉を「手なずける」ことに向けられた何世代にもわたる自覚的な努力の結果、生み出された文化的産物なのである。

一国全体のレベルにまで達し、社会のあらゆる層に浸透した茶の日常性は、国民茶文化の主要な目的であると同時に、その存在を示す指標であると言っても過言ではない。

例えば、日本の茶文化の発達水準は、京都で執り行われる華やかな茶の湯によって判断されるべきではなく、ごく普通の日本人が日々、自宅で飲んでいる(あるいは飲んでいない)お茶の質によって判断されるべきものなのである。茶究学者である布目潮渢は、次のように指摘しているのである。

«唐代において、喫茶は一般常民にまで普及し、塩と並ぶ生活必需品となった。»p. 223, 中国喫茶文化史。

これは、我々の見解によれば、茶が«比屋ひおく(軒並み)»の飲み物となったという、中国における茶文化の確立を示すものに他ならない。中国の茶文化は唐代に形成され、宋代に全盛期を迎えたと考えられている。

日常性は番茶だけの専売特許ではないが、番茶においてそれが最も顕著に表れている。あらゆる茶の種類や銘柄は、「日常度が高く(洗練度が低い)茶」から「日常度が低く(洗練度が高い)茶」までの広いスペクトルとして捉えることができる。

洗練性とは、喫茶を特別な非日常的な体験へと変える、茶が本来持つ性質のことである。なお、洗練性は必ずしも味や香りの強さに結びつくものではなく、繊細さや控えめさの中に現れることもある。

香味の濃厚さを強めることや、加工技術によって茶の形状を変化させることは、商品やステータスとしての魅力、すなわち「高級性」を生み出す。したがって、高級性は洗練性と一致するものではないが、しばしば混同され、最高品質の証として認識されることも少なくない。

洗練された茶の例としては、早春に収穫された川根の山間部産の自園自製の農家の煎茶が挙げられる。

これに対し、例えば多量の肥料を投入し、針のように細く寄れた強されたエレガントな形状を実現した場合、それは「高級茶」となる。この移行の過程で洗練性は高級性へとシフトすることがある。これらの概念の境界は曖昧であり、実際には互いに入れ替わることが多い。

一方で、高級性は洗練性の延長ではなく、その模倣である場合もある。形状は高級であっても、収穫時期やテ産地の面で洗練性を欠く茶も存在する。高級性の無制限な追求は品質の低下を招き、同様に、日常性の極端な強調は、その貧弱な形態である「実用性(ユーティリティ)」へと行き着く。

茶の品質は、陰と陽の力の合理的な比率、すなわちバランスから生まれる。あらゆる高級茶には日常性の要素が含まれるべきであり、あらゆる日常茶には洗練性の基盤が不可欠である。日常性によって均衡が保たれていない無機質な高級茶は、洗練性を完全に欠いた日常茶と同じく良質なものとはいえない。

茶の洗練性と日常性は、品質が顕在化する二つの主要なモードであり、高級性と実用性はそれぞれの極端な形態である。

一方の極には、肥料を過剰に与えられた高級煎茶、玉露、抹茶があり、もう一方の極には、茶葉本来の形状を失ったペットボトル入りの茶飲料がある。安定的で「複合品質」は、これら両極の間の組み合わせの中に存在し、茶における一種の「中道」として説明できる。

ちなみに、粉末茶である抹茶は、その性質上、食品と飲料の中間的な存在であり、薬としての特性も強く現れているため、日常度は低い。抹茶は伝統的に高価な上級茶と見なされている。

しかし、抹茶の中にもスペクトルは存在する。特別な儀式のためのより高級な種類(濃茶)もあれば、日常的な抹茶(薄茶)もある。日常性と洗練性の無限の連続的な組み合わせにより、茶を固定化された二極の対立としてではなく、絶えず変化する多様性と統一性の中で捉えることが可能になる。

我々が提案する「日常性」というカテゴリーを「洗練性」と並んで用いることは、茶を格付けするだけでなく、多種多様な茶を意識的に生産することを可能にし、現在苦境にある社会と茶の関わりの体系である「茶文化」を豊かにし、強化することに繋がる。

長い間、高級茶の影に隠れ、独自の用語を持たなかった茶の根本的な価値が、ようやく日常性という公式な名称を得た。これにより、消費者も生産者もその価値を認識できるように望まれる。

「茶の日常性」という概念の導入により、日常的な日本茶が重要な文化的財産としてより客観的に評価され、一方的で差別的な品質評価から解放されることを期待する。それは、茶文化の基盤である日常茶のさらなる発展への大きな刺激となるはずである。

番茶類とその派生茶は、今日でも依然として低品質あるいは中品質のものとして軽視されており、それが生産と消費の大きな妨げとなっている。

番茶の劣等感は社会意識に未だに深く根付いている。生産者が番茶の長所を強調しようとする試みは、その「低品質」を言い訳しているように聞こえてしまう。

お茶のイベントに遅れて到着すると、農家から「すみません、番茶しか残っていません」と言われることがある。これは傍目には非常に卑屈に聞こえる。しかし今や、茶農家は品質の確かな指針を手にし、誇りを持って「皆様のために日常度の高い番茶を作らせて頂きました!」と言えるようになる日が一刻も早く来て欲しい。

6. 二つの茶、二つの味

茶の二面性は、その味の二面性に表れている。高級茶の味わいが深みと濃厚さを特徴とする一方で、日常茶に共通する特徴は、爽やかな後味と「喉ごし」の良さである。スッキリ爽快な香りは、爽やかな後味とも切り離せないものである。

実際には、これら二つの香味の対極は決して切り離されて存在するものではなく、個々の茶の統一された味の二部を成しており、茶の種類によってそれぞれの強度は異なっている。

伝統的に日本茶の品質評価は、その濃厚な味わいに偏っており、爽やかな後味は旨味に付随するものとして評価されるに過ぎず、独立した価値を持つものではない。

小川八重子は、日常茶とその軽やかな味わい、正当に評価されていない価値にいち早く着目した一人である。彼女は次のように述べている。

お茶のよしあしを決める基準として、“うまみ”と“こく”ということがいわれています。うまみとこくのあるお茶がいいお茶だというのです。うまみは、アミノ酸の含有量に左右されるといわれます。(…) もう一つ、甘くなくても、濃くなくても、さっぱりとして、さわやかな香りがあって、何杯も飲みたくなるようなおいしいお茶がある。それもいいお茶といっていいのではないでしょうか。 p. 218-219 小川八重子の常茶の世界

小川八重子は、茶の味の二重性を指摘しただけでなく、評価の問題をも提起したのである。

«おいしいお茶”とは、どんなお茶をいうのでしょうか。玉露のように、口中にもったりと甘く感じるのがおいしいのか、はっきりとおいいしいとは表現できないけれど何杯でも飲みたいと思うのがおいしいお茶なのか。この二つにわけて考えるとすれば、ばん茶は、どうも後者に属するお茶のようです。»p. 27-28 小川八重子の常茶の世界

小川八重子は、常茶の味において、味覚の享受以上に人間の生理的欲求の充足を見出したのである。彼女は「体が欲求するお茶」について記していた。

2001年、八重子の没後、彼女の夫は茶の味の生理学的側面を『月間茶』の連載記事「飲み手の言い分」の中で詳述した。以下に、その記事の一節を引用する。

おいしいということ

現代喫茶人の会・代表理事

小川誠二

「おいしいお茶が飲みたい」、一九九六年波多野公介さんが発表された著作のタイトルです。おいしい茶は、波多野さんだけでなく世の中の多くの人々の望みです。だからこそ、“おいしいお茶のいれ方教室”が、あちらこちらで開かれることになるのでしょう。

もともと、お茶は、1000年を越えて飲み続けられているのです。人はどうしてお茶を飲んできたのでしょうか。おいしい、からでしょうか。おいしいと思う、からでしょうか。体がほしいと要求したからでしょうか。そう簡単に行かないようです。

おいしいと思うか思わないか、その時の身体の調子や感情のありように大いに影響をうけることのあるのは事実です。その上、もともと個人的な好き嫌いが関係するところも大きいようです。「ぬるいのは嫌い」とか「さっぱりしたのが好き」「芳ばしい香りのあるのがよい」等々。

すっぱい、にがい、あまい、からい、しおからい、を五味といいます。これに、うまみ、渋味を加える考え方もあります。味覚を説明する言葉です。飲食の世界には、味の素に代表されるような調味料というものがあります。そして、この味が、応おいしいということの標準になっているようでもあります。茶業界では、「味の決め手は、ウマミとコク」といった説明もなされています。

品評会などの基準に立つと、アミノ酸の含有量の多いのが、おいしいとなっています。全窒素量といった物差で計ることで決着つけられるものであれば大層好都合な話ですが、現実は、そうはいきません。

野や山を歩いて少し汗ばんだ時、湧き水をみつけて口にすると、誰しも、おいしいと言います。そのおいしさは、五味とか七味とかで説明できる程のものではないようです。生理的欲求を充たされて、おいしいと感じたのでしょうか。喉ごしのよさも決め手の一つ。»

『月刊茶』2001年11月号

分析の目的として、我々は茶の味を2つのタイプに分けることを提案する。主に味覚受容体によって感知される「味覚的な味」と、身体全体で感知される「生理的な味」である。

我々の見解では、半世紀前に小川八重子が追い求めた茶の普遍的な性質は、まさにこの生理的な味の中に現れるのである。

«あちこちの玉露に挑戦しているうちに玉露の味は、どうも私の好みにぴったりしないと思うようになりました。私には、もう少し軽くてさっぱりした味の方が合うように思えたのです。» p. 7 くつろぎの茶、1982

«おいしいお茶”というのは、甘くて、まろやかで、コク、うまみのあるもの」というお茶屋さんのいう基準が、一般的な常識になっています。

 おいしいというのは、嗜好の問題ですから、人によって、場所によって、時代によって、変化して当然と思うのですが、物には、そのものの持ち味というものがあるはずですから、その点で、普遍的な基準というものがあってもいいのでは、という気もします。» p 6 くつろぎの茶、1982

味覚的な味が、まず第一に茶の相対的な性質を表し、茶とその愛好家を分かつものである(「十人十色」)とするならば、生理的な味は、すべての人に共通するものである。なぜなら、彼らは等しく人間であり、理想的な飲み物である水に近い存在としての、茶の普遍的な根源を表しているからである。

相対である「味覚的な味」が、茶を味覚的愉悦の嗜好品とし、味のニュアンスや好みによって茶とその愛好家を分別する一方で、日常における「生理的な味」は茶を統合し、国民飲料という地位へと押し上げるのである。

消費者の視点から見れば、日常茶は「主茶」である。この用語は「主食」と「副食」という対比論理に基づいて我々が作ったものであり、日常茶の根本的な重要性を反映している。

同じ論理により、高級茶は二次的な「副茶」という地位を与えられる。

この観点では、茶の日常性、すなわち茶を日常的なものたらしめている属性の集合こそが茶の根本的な性質となり、茶の生理的な味はその基本の味、つまり「主味」となる。

味の洗練性は、その重要性にもかかわらず、基本的の味の拡張および延長である味覚受容体を通じた味を介して現れる上部構造に過ぎない。

葉茶(リーフティー)における基本の味の欠如は、ペットボトル茶飲料の普及と伝統的な茶の消費の急激な減少の主な原因となった。この問題は、すでに数年前から業界内部で認識されている。

7. 問題は?

2022年、リーフティーの需要減退を危惧した白井満は、『日本茶の未来を考える』という本を出版した。その中で彼は「一番茶の消費をいかに創るか」という問いに答えようとしている。白井は次のように記している。

1章で説明したが、日本茶は急須で飲むリーフの緑茶が減少し、比較的価格の低い秋冬番茶や二番茶の利用が多い緑茶飲料が増加している。また日本茶が中元、歳暮などの贈答用に使われる機会が少なくなっていることも、一番茶の利用が減少している要因である。

そのため一番茶の消費拡大の対策が課題であるので、実際にお茶を購入する女性や、これまでお茶との接点の少ない世代に関心を持っていただく必要がある。また食料品ギフト市場の経済規模は約6兆円程度と推定されているが、この分野で高価格帯のお茶の利用が少ない状況にある。

ふじのくに茶の都ミュージアムでは、2019年6月、日本茶の未来に向けお茶の新たな消費につながるよう、パッケージの工夫やギフト市場への参入などの視点から、茶の販売などの第一線で取り組まれている二人の女性が「高価格帯のお茶の消費をいかに創るか」のテーマで検討を行った。” p. 27

パッケージの改良やギフト市場への復帰に加え、白井は高級茶のレストランでのシェア拡大や、菓子とのセット販売によるプロモーションを提案している。

これらの施策はいずれも重要であることは疑いようもないが、本質的には二次的なものである。それらはマーケティングに集約されるものであり、問題の根源、すなわち我々の見解として「お茶離れ」の主因となった茶そのものの変質には触れていない。

品質向上への取り組みと同様に、消費拡大は茶業界の古いスローガンであるが、その裏には、本来の対象である消費者自身の意見に耳を傾けようとしない姿勢がしばしば隠されている。

2000年10月号の『月刊茶』において、「消費者の意見」という連載記事の中で小川誠二は次のように指摘している。

«茶業振興のために何を為すべきかというテーマになると、幾つか挙げました例のように、異口同音先ず、(消費拡大»ということになっています。茶業の活性化にかける茶業界の皆さんのご熱意ご努力のほどにはほとほと感心させられていますが私には、皆さんが意識しておられるわけはないのだけれども、わざと本質的なことを避けておられるのではないかと勘ぐりたくなるようなこともあります。

馬に水を飲ませようと池のほとりにひっぱっていっても、馬自体が飲む気にならなければ飲んでくれるものではない。といった話があります。

生産されたものは、消費されてなくなってしまわなければならない。でなければ次の生産が始められないわけですから、生産増大のため産業振興のため消費せよ。という理屈はわかります。しかし、消費拡大・消費拡大と押しつけられても、私ども飲み手にも、飲み手なりの主体性があるのですと主張したいのです。私は、自分たちの飲むことを、産業(生産・消費のリンケージ)の中の一環であると捉えてもらいたくはありません。»

小川誠ニは、その著書『茶を貞く』において、茶業界のこうした古い病についても触れている。

«27年ばかり前になります。農林省に畑作振興課長を訪ねました。酒費者の茶ばなれということが話題になり始めて間もなくの時であったので、話は自然と茶はなれに関することになりました。

茶業中央会の高野質さんは、当時畑作振興課に勤務しておられて、同席しておられました。

話の中で、課長は「われわれが一生懸命優秀な茶を作っているのに、ご費者は飲んでくれない。けしからんことである。一つ予算をとって国民を教育してやらなければならない。」と、事もなげに日にされたのです。私は思い上がりも甚だしいとあきれたのですが、その発言の基本にある考え方は、今も、茶業界の中に根強く遺っているのを感じます。

自分たちは良い茶を供給しているのに、消費者は飲んでくれない。それは、われわれの茶の良さが分からないからだ。良さをわからせたら飲んでくれる筈だとお考えになっているようです。

茶は健康にいい。ガンの増殖を抑制する等の薬用効果があることが動物実験で証明されている、等々。懸命にPRされる。おいしいお茶のいれ方教室を開いて、と、何とかご自分の茶を敏ませよう、買わせようと、あくせくしておられる。(茶を変えようと思わない。) (…)

消費者が自ら飲みたくなるようなお茶を作ってくださいとお願いしたいのです。魅力あるお茶、おしゃれなお茶がほしい。»

魅力あるお茶とは、一体どのようなものであるべきだろうか。

谷本陽蔵は、現代の一般の人々には、湯を冷まし、時間や湯量、茶葉の重さを計るといった、いわゆる「正しい」淹れ方の技術を守る余裕などないことをよく理解していた。お茶とは、熱湯で、誰でも簡単に、そして美味しく淹れられるものであるべきである。

谷本陽蔵氏が、月刊「茶」二〇〇五年、三月号の中で、次のような現代流茶造り待望論を掲げておられる。

『十年一日の如く古き良き茶作りを伝承しているのも結構だが?茶の形や色にこだわることなく無造作に茶を淹れる。保温ポットでお茶っ葉に熱いお湯をぶっかけるだけで、おいしい茶が飲める。そんな革新的な茶も作って欲しい。

手間をかけないでおいしい茶が得られる茶の開発こそ焦眉の急であろう』と。

特定の「理想の形」への執着を捨てることは、あらゆる問題を解決する上で最も重要な原則である。これこそが禅である。

結局のところ、正しい茶器選びが全てなのだろうか。茶器の問題は二次的なものであり、熱湯に対してあまりに敏感すぎる茶という問題から派生したものに過ぎない。

茶業界の人間は、気難しい茶が「絶対的な高品質の味」として格付けされた「旨味」を最もよく引き出す急須に執着するのと同様に、高級茶というものに執着している。茶のビジネスの全体が、旨味と、それを抽出するのに最も適した茶器を売ることで成り立っているのである。

茶の販売者は、急須を日本茶を淹れるための不可欠な道具であると考え、今日多くの日本人が急須を持っていないことを嘆いている。またしても、茶や急須を買わなくなった消費者のせいにされているのだ。

小川誠ニは、悟った禅僧のように問題の本質を突いている。

«業界の皆さん、どうしてそんなに急須にこだわるのですか。お尋ねしたい。

大勢の日本茶インストラクターの面々が、日夜日本茶の販売促進にと勢を出しておられます。その方達も、「おいしいお茶のいれ方」と、盛んに急須を持出しています。

急須を使わなければ、日本茶を賞味することは出来ないものでしょうか。業者の皆さんが茶の質を審査する際、急須を使っておられますか。専門家の間で茶の質を格付けする権威ある検査でも急須を使っておられません。急須が不可父であるというわけでないとよくご存知であるに違いありません。

古くから、販売拡張を目的として、消費者の意向調査をしきりとなさっているが、「急須を使うのがめんどうくさい」というのが第一の苦情でした。急須がリーフ茶販促の大ネックになっていることは明明白白でした。

一番販売の障害になっている物を除外してみようとお考えにならないのでしようか。

急須を使わない方法は、従来から幾つもあります。例えば、啜り茶碗・中国茶の蓋盃・紅茶ポット・ティーバッグ等、どんな器でも工夫次第で、茶の風味を十分引き出すことができるのです。» p. 72

このリストには、どんなカップやマグカップにも簡単に収まる茶こしも加えるべきである。これは非常に便利であると同時に、あらゆる茶を淹れる道具として、未だ過小評価されている。

主な問題は、香りのない、雑味や苦味が出やすい、熱湯を恐れる茶そのものにある。小川誠ニは、問題は茶器にあるのではないという結論に至っている。

«飲み手は、魅力ある茶であれは高容な体を支出することも、飲用に際してめんどうな急須を使うといった特別な心遣いをすることも、いとわない筈である。» p. 73

現代の茶に欠けている魅力とは、その「日常性」である。基本の味を担う良質な日常茶は、およそ半世紀前から日本人の生活から姿を消し始めた。波多野公介は、「安い煎茶が店頭から姿を消している」(174頁)と強調していた。

前世紀の70年代から80年代にかけて、大量の肥料や被覆栽培によって人工的に強められた、旨味の強い高価な高級茶は、文字通り消費者の喉に突き刺さり、多くの人々を日本茶から遠ざけることとなった。

しかし、基本の味は消え去ったわけではなかった。姿を変え、大きな犠牲を払いながらもペットボトル茶飲料の中へと「突破口」を見出し、貧相で実用な形態ではあるものの、失われた日常性を茶に取り戻したのである。

しつこい旨味や「正しい淹れ方」のルールに疲れ果てていた何百万もの日本人は、ようやく「喉を潤す」ことができたのだ。

濃厚な旨味は特別な時には良いが、日常生活において普通の人が求めているのは、安価で簡素、そしてカラシニコフ突撃銃のように堅牢で、ごくごくと飲める茶―すなわち「飲用性(飲みやすさ)」を備えた茶なのである。

8. 飲用性

「飲用性(飲みやすさ, drinkability)」は、飲料としての根幹をなす性質でありながら、いまだ十分に解明されていない重要な特性である。際立った味の濃厚さとは対照的に、飲用性とは、飽きを感じさせることなく大量に人体へとスムーズに浸透し、より広い意味では、速やかに吸収・排出されるという飲料の「目立たない」性質を指す。

飲用性は、茶において不変かつ当然備わっている性質ではなく、茶の品種、栽培方法、および加工工程に左右される。飲用性を失った茶は、飲料としての本質を失い、人間から遠ざかり、日常生活との結びつきを欠くことになる。

飲用性は、茶の日常性における根本的な性質であり、大きく成長した成葉において最も顕著に現れる。小川八重子氏は、日常茶である「常茶」の最も重要な特性として飲用性を挙げ、次のように述べている。

「常茶はまず飲みやすいことが第一条件です完熟した茶の葉で作ります。利尿作用があり、排泄をうながすので、これさえ飲んでいれば便秘しません。» p. 31 小川八重子の常茶の世界

飲用性は、前章で述べた消費拡大の鍵を握るものである。結局のところ、それらすべての消費量は、飲み手の喉を通過しなければならないからである。ここで重要なのは、茶の総処理能力は、茶自体の飲用性だけでなく、飲み手側とその状態にも左右されるという点である。

飲用性という特性が初めて正式に定義されたのは、ビール醸造の分野であった。醸造家たちは、飲用性と売上増加の間に直接的な相関関係があることを見出した。

ブラジルの研究者らは、その論文「ビールの飲用性:レビュー」の中で次のように述べている。

可能な限り多くのビールを販売することは、国や規模、販売するビールの種類を問わず、あらゆる醸造所の主要な目標である。醸造工程を崇拝し、ビジネスの商業的側面を無視しがちな情熱的な醸造家にとっても、販売は極めて重要である。「最高のビール」の定義は個人的なものである。マスターブリュワー(醸造責任者)の選択は、醸造技術に全く関わったことのない者の選択とはおそらく異なるだろう。

したがって、マスターブリュワーが最も好むビールが、必ずしも大多数の消費者に好まれるビールであるとは限らず、それは自動的に、そのビールが最も売れるビールではないということを意味する。ビールは売れなければならず、消費者がそれを楽しみ、次の一杯を待ち遠しく思うものでなければならない。つまり、ビールには「飲用性(ドリンカビリティ)」が必要なのである。2005, Beer drinkability — a review. Rubens Mattos and Roberto H. Moretti

この一節は、茶の品評会に代表される茶業界が評価する価値と、最終消費者が好むものとの間にある大きな乖離について、深く考えさせるものである。飲用性全般、およびその最重要指標である「のどごし」は、茶の品評会やテイスティングの場において、適切な評価を受けていない。

「のどごし」は、茶がいかにスムーズかつ抵抗なく身体へと「入っていくか」を示すものである。日本人の間で番茶やほうじ茶といった日常の茶が話題に上る際、味覚的な風味とは無関係に、「のどごしが良い」「体にスッと入る」といった味覚の味と縁のない表現が頻繁に用いられる。

茶の品評会や審査において、審査員は通常、カフェインによる酔いを避けるために茶を飲み込まず、専用の容器に吐き出してしまう。これは、オフロード車の走行性能を密閉されたガレージの中で試験しているようなものである。いや、それどころか、飲用性の比類なき王者である番茶クラスの茶は、そもそも品評会への出品すら認められていないのである。

ワインのテイスティングにおいても、同様の慣行が存在する。ジュール・ショヴェは、その著書『ワインの美学』において次のように述べている。

正しくテイスティングするためには、ワインを飲み込んではならない。口の中で転がした後に吐き出すべきである。これにより、吸収に伴う疲労を感じることなく、最大限の感覚を得ることが可能となる。p. 86

茶の品評会では、飲みやすさの指標の一つである「清涼感(香りを含む生理学的な味)」のみが認められている。これは、優れた「喉越し」を保証することが多いが、常にそうであるとは限らず、飲用性に関する完全な情報を提供するものではない。

茶品評会は、茶を第一に「静的な感覚」として評価する。しかし、日常生活、つまり台所において、茶は主に「動的な機能」として作用する。それは、茶全体の機能性、特にその飲みやすさの程度によって大きく左右されるものである。

日常茶は、単に美味しいだけでなく、機能的でなければならない。食事、仕事、スポーツ、会話、休息といった場面で人に寄り添い、かつ注意を逸らさないことが求められる。

茶は日々、人に仕えるためのものである。この「仕える能力」としての機能性、そしてその重要な構成要素である飲みやすさは、茶の品評会では適切に評価されていない。そこでは、自宅や職場での着用には適さないエレガントな衣装のファッションショーのようなことが行われているのである。

いまだに濃厚な旨味に固執している茶業界とは対照的に、ビール業界は飲みやすさとその重要な評価基準である「喉越し」に対してより敏感であり、それが結果として望ましい売上水準の維持に寄与している。

渡辺順二は次のように指摘している。

”喉ごしとドリンカビリティ

他のお酒に比べてビールで最も重要視される項目として、コク・キレ同様に「喉ごし」があります。しかし、喉ごしといっても、意外と明確な定義は難しいものです。それは喉ごしの感覚は、舌で感じる基本五味(甘味・酸味・塩味・苦味・旨味)の味覚的なものだけでなく、また辛味や渋味のような痛覚や触覚だけでもなく、「すっと喉に通る」や「喉に引っ掛かりがない」など、かなり主観的な感覚だからでもあります。

近年の研究によると、喉にはビールや炭酸ガスで刺激される神経があり、これらは舌や口内にはなく、喉に刺激されると脳に信号が送られ、清涼感や爽快感が伝わり、また喉の渇きが癒されることにより快感を得るそうです。

喉ごしのよいビールは、喉に引っ掛かりがなくすっと喉を通り、喉を過ぎるとこの感覚がスパッと消えます。次の一杯も最初の一杯と同じようにおいしく感じ、何杯飲んでも「最初の喉ごしが持続」するのです。» p. 85

以上のことから、「のどごし」は味蕾の枠を超えた「超味覚的」な次元であるといえる。だからこそ、我々は飲用性を生理的な味という概念で比喩的に総括したのである。

最新の研究結果から判断すると、この味は「受容体的な味」「味覚的な味」とは対照的に、「喉の味」と呼ぶことができる。

«ドリンカビリティとは、「もう一杯飲みたい欲求の強さ」を示す言葉で、物理的に喉の渇きを潤すだけでなく、いかに飲み飽きず、飲み続けられるかを表しています。喉ごしは「飲んでいる時、あるいは飲んだすぐ後の感覚」を言っている感じであり、ドリンカビリティは「もっと飲みたい」というような心理的な感覚も含んでいると言えるでしょう。» p. 86

渡淳二は、飲用性(ドリンカビリティ)を単なる「のどごし」の良さだけではなく、例えば「飲み飽きないこと」のような他の相互に関連する特性を含む複雑な性質であると考えている。

高い飲用度は、「もう一杯飲みたい」という欲求を、数時間にわたって飲み続けることができる可能性へと変える。このような飲用性に対する拡張された理解は、長時間のビールの集まり、すなわち「セッション」に適したビールの種類に関する「セッショナビリティ」という用語の登場につながった。

著書『セッション・ビール』(2017年)の中で、ジェニファー・タリーは次のように述べている。

「セッションビール」(session beer)という用語は現代的な概念であり、現在のような形でアメリカの公の場に登場したのは1982年以降のことである。

しかし、セッションビールそのものは、何世紀にもわたって世界中で造り続けられてきた。この用語は多種多様なスタイルのビールに適用されるため、その定義を下すことは容易ではない。実際に、多くのセッションビールは味わいの面で劇的に異なっており、それがしばしばクラフトビールの消費者を混乱させ、味に対する統一されたイメージの形成を妨げる要因となっている。

明らかに、セッションビールにおいて重要なのは「特定の味」そのものではなく、味の強度の低さと、オフフレーバー(異臭)のなさがもたらす後味のキレ(clean finish)である。

著者のタリーは、2016年の「グレート・アメリカン・ビア・フェスティバル(GABF)」の公式ガイドブックにおける記述を引用している。

「ドリンカビリティ(飲みやすさ・ピトコスチ)は、これらのビール全体のバランスにおいて極めて重要な特性である。このカテゴリーのビールは、重量比アルコール度数が4.0%(容積比アルコール度数で5.0%に相当)を超えてはならない」。

また、BeerAdvocate(2005年10月12日号)の「Session Beers, Defined」では次のように定義されている。「セッションビールとは、アルコール度数(ABV)5%以下で、麦芽とホップのバランスが取れており、一般的に後味のキレが良いビールのことである。これらの要素の組み合わせが、高いドリンカビリティを生み出す。

その目的は、感覚を麻痺させたり過度に泥酔したりすることなく、適切な時間内、すなわち『セッション』の間、何杯も飲み続けられるようにすることにある」。

これらの記述をお茶に置き換えて考えるならば、「セッション・ティー」における「低強度」とは、カフェイン含有量の少なさに相当すると言える。

ビールにおけるホップと麦芽のバランスは、日本茶におけるカテキンとアミノ酸のバランスに類似している。セッション・ティーの主な役割は、強烈な有機的印象を与えることではなく、人々が心ゆくまでお茶を酌み交わし続けられるような、滑らかで心地よい「会話の背景」を提供することにあるのである。

飲用性は、生理学の枠を超えた複雑な現象である。渡淳二によると:

«ここでは、ドリンカビリティと喉ごしの厳密な定義はせずに、ドリンカビリティは喉ごしの少し広いくらいの意味で捉えておきます。ドリンカビリティはコク・キレに比べて、心理的な面の影響が大きく、味覚系の課題としてだけでは捉えきれない面があります。»

とはいえ、飲用性は第一に、生理的な現象であり、完全循環を含むものである。渡淳二は次のように指摘している。

«ドリンカビリティの生理学的な研究では、京都大学大学院農学研究科の伏木亨教授のグループが、超音波スキャンを用いて胃からのビールの輸送速度を計測し、ドリンカビリティの客観的な指標を見出しました。胃からの輸送速度は、銘柄によって異なり、胃からの排出が速いほど、体外への排泄が速く、たくさん飲めることがわかりました。ドリンカビリティを考える際、喉ごしばかり見がちですが、飲んだビールの体外への排泄速度がドリンカビリティに重要であるというデータは示唆的なことです。確かに、ドリンカビリティの高いビールは、体での代謝が速く感じられ、飲んでも胃が張らない感じがします。

すべてのアルコールは、尿を濃縮して少なくする作用を持つ抗利尿ホルモンの分泌を抑えるため、利尿作用があります。特にビールの利尿作用は強く、飲んだ量の約1.5倍の水分を排泄させると言われます。また、ビールに含まれているカリウムだけでなく、ホップ成分にも利尿作用があります。したがって、麦芽やホップの使用量が多いビールは、カリウムやホップ成分の含量が多く、利尿作用が強くドリンカビリティを高める可能性があります。»

お茶の利尿作用は、カフェイン、テアニン、カリウム、そして特定の種類の色素成分であるカテキンなどの複合的な成分によってもたらされる。番茶はカフェインやテアニンの含有量こそ少ないが、カリウムをはじめとするミネラルが豊富に含まれており、それが利尿効果を高めている。現在、諸国のビール醸造家たちは、このような飲料のドリンカビリティ(飲みやすさ)を向上させる手法について研究を重ねている。

«諸外国では昨今ドリンカビリティの研究が比較的注目を浴びていますが、研究例はまだわずかです。チェコの研究者は、一杯目以降と0.5ℓ、1ℓ、1.5ℓを飲んだ時点でのビールの香味の評価から、副原料を使用した方がビールの味は軽快になり、ドリンカビリティが増すのではないかという予想を裏切るものです。チェコの有名な銘柄ピルスナー・ウルケルは、麦芽100%でホップを効かせたしっかりした香味でコクのあるビールですが、同時にキレもあります。筆者らもチェコで試飲した経験では、確かにこのビールは飲み飽きないおいしさを持ち、非常にドリンカビリティの高いビールだと感じました。»

以上の議論をお茶の文脈に置き換えるならば、お茶への添加物は、短期的には一時的に飲用性(ピトコスチ)を高めることがあるものの、長期的にはその飲用性と日常性を損なうものであると言える。

例えば、レモンティーやハイビスカスティー(カルカデ)などは、1〜2杯の間は飲用欲求を強めることがあるが、その後は往々にして「飽き」の段階に至るのである。

多くの人々がレモンティーを時折楽しむ一方で、日々の日常的な飲用には、何も加えない「ストレート」か、あるいは砂糖のみを加えたお茶を好むのは、まさにこのためである。

砂糖は他の添加物とは異なりカロリーを有しており、体がそれを即効性のあるエネルギー源として「歓迎」するため、他の添加物とは受容のされ方が明らかに異なると考えられる。さらに、緑茶は紅茶に比べて、こうした添加物に対してより敏感であると思われる。

興味深いのは、1970年に行われた中川致之(なかがわ・むねゆき)による実験である。彼はアミノ酸を添加することで、苦味の強い二番茶(夏茶)の嗜好性を高めようと試みた。当時、このような手法は日本において広く普及しており、現在でも一部で行われている。

中川は、受容体(舌)が感じる「味要素としての味」(うま味や甘味)を人工的に強化することで、夏茶の嗜好性を向上させようとしたのである。

«そこで、中級感 茶の普通審査液にグルタミン酸ソーダとしょ糖の両成分 を茶に対してそれぞれ1%、2%、4%ずつの間合で添加 したところ、第5図に示すように添加量の増加に伴っ て、うま味、甘味の増加がみられ、苦味,渋味が抑えら れる傾向が認められたが、し好度は添加量が増加するほ ど低下した。この理由は、いわゆる、味要素としてのう ま味、甘味の増加と苦味,渋味の減少が緑茶の味と異質な感じを与えたためと考えられる。» p. 480 緑茶の呈味構造とし好性に関する研究

中川氏の実験は、味覚的な味(旨味や甘味等)は人工的に操作可能であるが、生理的な味を欺くことはできないということを証明している。添加物によって味のバランスが崩れると、脳はその乖離を察知して「異質な感じ」という信号を送り、その結果、飲用性が失われ、人はそれを飲む意欲を失うのである。

茶の品質操作は、外部からアミノ酸などの物質を添加するだけでなく、栽培段階で茶葉の内部にそれらを取り込ませることによっても可能となる。

お茶の味わいを向上させる(うま味化する)ための二つの主要な手法、すなわち窒素肥料の多量施用と茶樹の被覆栽培は、古くから宇治の地で実践されてきた。

石垣幸三は次のように指摘している。

«要するに,茶 樹が吸収する窒素と

茶樹をとりまく光線が茶の品質を左

右する要因となっている とい え よ

う.»

«すなわち、良質茶をつくる肥培法と しては、生育に必要な窒素の量以上に、生育には無関係 でもテアニンを増加させるためのNHA-Nをやや過剰に施用することが必要なのである。

茶栽培農家では一般作物では考えられないような多肥培を行なうのはこのためで、被覆栽培とともに、永年の生活の知恵から生まれたものと思われる。しかし、多肥にも限度があるはずであり、15N(窒素)を使って各種条件下で多肥の限界を検討している。

窒素肥料のみにかたよったが、リン酸、カリの適量は糖含量を増加させてタンニン含量を減少させるという報告もあり、室素ほど感ではないが、茶の甘味に影響することが考えられる。微量要素の効果についても不明な点が多く、今後に残された問題も多い。» お茶の化学成分,味 ・香 りと茶樹の栽培, 石垣幸三

«施用することが必要なのである茶 栽培農家では一般作 物では考えられないような多肥栽培を行なうのはこのた めで,被覆栽培とともに, 永年の生活の知恵から生まれ たものと思われる.しかし,多肥にも限度があるはずで あり,15Nを 使って各種条件下で多肥の限界を検討している.

窒素肥料のみにかたよったが,リ ン酸,カ リの適量は 糖含量を増加させてタンニン含量を減少させるという報 告もあり,窒素ほど敏感ではないが,茶 の甘味に影響す ることが考えられる.微 量要素の効果についても不明な 点が多く,今 後に残された問題も多い.» お茶の化学成分,味 ・香 りと茶樹の栽培, 石垣幸三

経験が示すように、高級性を高めることを目的とした人工的な操作は、飲用性の悪化を招き、最終的には茶の品質低下と消費量の減少をもたらす。

栽培や製造段階における過剰な人間の介入は、味と香りを損なう「ストップ・ファクター(阻害要因)」となる。これは茶業界のみならず、ワイン産業の歩みを見ても明らかである。

第二次世界大戦後、ワイン造りは急速に工業化が進んだ。除草剤や選抜酵母、そしていかなる条件下でも「安定した」ワインを造るための手法が登場したのである。

フランスのワイン造り手であり化学者でもあったジュール・ショヴェ(1907–1989)は、研究所の内側からこのプロセスを目の当たりにし、化学がテロワールの個性だけでなく、飲用性(フランス語でBuvabilité)をも殺していることに気づいた。

ショヴェは、自然という台所への介入を極限まで排除するという理念を推し進めた。彼は選抜酵母や二酸化硫黄、その他の人工的な操作を拒むことを提唱したのである。

また、ショヴェは労働者のための二級品と見なされていた、喉の渇きを癒やす日常ワイン(vin de soif)に対する評価を再考した。彼は、シンプルなワインこそが人間の技術の頂点となり得ることを証明したのである。

著書『L’Esthétique du vin(ワインの美学)』の中でショヴェは、質の高いワインとは化学添加物から解放され、飲用性が高く、生き生きとしたものであるべきだと主張した。

ワインの飲用性は「guillant(スイスイ飲める)」や「facile à boire」という言葉、あるいは日本語の「ガブガブ」に相当する「glou-glou(グルグル)」という表現で表される。

ショヴェの思想の多くは、弟子のマルセル・ラピエールによって実践された。ラピエールもまた、ワインとは単なる化学要素の総和ではなく、土壌の健康の結果であると考えていた。

彼の追求したのは、重苦しくすぐに酔いが回る「テイスティング用」のワインとは対照的に、最高の飲用性を備えた「生きたワイン」であった。それは、頭に響かず、受容体を麻痺させることもなく、その軽やかさと果実のエネルギーによって、次のひと口を誘うようなワインである。こうした低アルコールのワインは、喉が渇いていなくとも「勝手に喉を通っていく」と言われる。

このことは、人工的な高級化には限界があり、その限界を超えると茶はその本質とは正反対の「非・茶」へと変質してしまうことを改めて証明している。

茶原料の持つ最大限の自然さと、複雑すぎない伝統的な加工技術こそが、飲用性を担保するための最も重要な条件である。

高い飲用度は、茶が飽きられることを防ぎ、時間の壁を乗り越える一助となる。それは「セッション性」へと発展し、さらには「日常性」へ、そしておそらくは「永遠」へと繋がっていくのではないだろうか。

もし茶の飲用性がこれほどまでに重要であるならば、なぜその主要な担い手である日常茶の「番茶」は、今日まで低品質なものと見なされてきたのだろうか。

後述するように、番茶は資本主義の発達と日本茶のプレミアム化の過程で、段階的にその価値を貶められてきた。しかし、それは一つの要因に過ぎない。

飲用性が軽視されるようになった第二の理由は、番茶が空気や水と同じように、いわば「無料の公共財」へと変貌を遂げたことにある。この現象は「ハイパー日常性(超日常性)」と呼ぶことができる。あまりにも身近になりすぎた「価値(よさ)」は、もはや価値として認識されなくなってしまったのである。

淵上弘子は、お茶は«われわれの生活にあまりにも密着し過ぎた»と述べている。(33頁)

«しかし、今この万事カネ、カネと金銭に明け暮れるような世にあって、不思議や不思議、飲ませてもらうお茶の代金を表立って請求されることはない。もとより見も知らぬ人にタダで飲ませてくれるはずはないから、サービス料や料理代の中にきっと含まれているのだろうが、ただ表向きはタ

ダで飲ませてくれるのだから、文句の言えたものではないが、これらのお茶は、どこでも申し合わせたように、文字通りの粗茶である。

高名な料亭、旅館でも、一杯の緑茶にまで十分の心入れの感じられるところはきわめて少ない。日本の緑茶は、現代においては決して高い飲料ではないが、われわれはこのように、外では久しくタダにならされてきている。今の世に、どこでもタダでまかり通るのは空気と水と日本緑茶のみであろう。» Стр. 32-33

低落が限界に達したとき、価値の振り子は逆の方向へと大きく振れ始めたのである。ペットボトル飲料の普及を通じた飲用性の商品化は、このプロセスの明白な証左である。この流れは現在も勢いを増しており、日常的なリーフティーのよさを再評価、あるいは復権させるための前提条件を作り出している。

淵上弘子がその著書を記したのは、このプロセスが加速し始めたばかりの20世紀末から21世紀初頭にかけての時期であったといえよう。彼女は常茶の生産の衰微を嘆きをもって記している。実のところ、それは茶の飲用性が価値を失っていく過程の「底」であったと考えられる。そして、このプロセスは日本に始まったことではなく、数世紀にわたる歴史적背景を持つものなのである。

9 単なる飲みやすさ

茶文化において「飲みやすさ」は根本的な役割を果たしているにもかかわらず、社会はこの性質を、その主な担い手である日常的な茶と同様に、決して高く評価してこなかった。

茶で喉の渇きを癒やすことは、下層階級の人々の「動物的本能」の現れであると見なされてきた。この傾向は今日まで生き続けている。淵之上弘子著『日本茶. 百味百問』(2001年)の中に、次のような一節がある。

«またごく最近は、職場によっては絵茶機がセットされ、各人が自由に湯呑みを持参して茶を飲む仕組みも見られるし、各人が好みの茶や水の入ったペットボトルを持参して、身近において適宜渇きをいやしている例もあるどいう。いずれも合理的というか実質的と言うか、近代化の一面は理解出来るものの、われわれの動物的な「のど」の渇きをいやすだけの物にお来がなり下ってしまったような気がして、いきさかわびしい思いがする。» p. 30-31

ここで著者は、茶の世界を「急須と茶葉を用いた正しい飲用」と、簡略化された「動物的な飲用」という二項対立に分ける、典型的な「二元論的なスノビズム」に陥っている。

喉の渇きを癒やすという「動物的」な行為を蔑む中で、著者は、彼女自身がその衰退を嘆いていた「常茶」こそが、まさにこの根源的な「飲用性」の上に成り立っていたという事実を失念しているのである。

人間の生命活動にとって極めて重要であり、身体に有用な成分を継続的に補給する役割を担ってきたこの行為は、古くから「ただ喉を潤すためだけのもの」という軽蔑を込めた表現に矮小化されてきた。

しかし、喉の渇きを癒やすことすらままならない状況に置かれて初めて、人間はこうした誤解の深さを真に理解するのである。

古来、中国では茶を飲むという行為をめぐる観念の二面性は、言葉の中にも刻み込まれていった。中国の著者、林梅西と趙子涵の専著からは、こうした差別が単に茶の種類だけでなく、茶の飲み方そのものまで及んでいたことが見て取れる。

«以上の内容からして、古代中国では、「飲茶」やいわゆる「喝茶」として後世で使われて いる動詞に関して、習慣的に或いはとりわけ「啜」の字を好んで用いていたようである。そ の原因はおそらく、人々が茶を飲む目的と関係があったと思われる。

茶が飲料としてただ喉 の渇きをなくすだけであれば、「飲」や「喝」で問題はない。しかし、茶を飲むことは雅や かさを追求する飲食文化の営みであり、物質的な意味だけでなく、それを超えた精神的な追 求がある。まさに田芸蘅の『煮泉小品』には「之を飲む者は一吸いして尽き、味を辨じる暇 あらず、俗より甚だしきことなし」と述べている。

俗を脱し茶の本当の味を楽しみ、茶の 優劣を識別するのであれば、大口で牛のように飲むわけにはいかない。ゆっくり少しずつ啜 って味わう必要がある。「啜」は口をすぼめて微かに吸う動作である。口を大きくあける 「飲」や「喝」とは反対であり、この飲み方が「品茶」の「品」という範疇に入る。»

このような茶文化に対する見方は、典型的な「二項対立」の陥穑である。それは茶という一体の存在を精神的なものと物質的なもの、真実と虚偽へと分断し、茶文化の領域を高級茶の消費だけに限定することで、日常茶の重要性を無視している。

生理的な味覚や喉の渇きを癒やす能力、そして食事との相性に深く結びついた常茶の「飲用性」こそが、大衆的な茶文化の根幹をなしている。しかし、それは伝統的に「文化」とは見なされず、その生理的な味わいもまた、真の味とは認められてこなかった。

陸羽は『茶経』の「五之煮」の章において、茶の味が淡白で水っぽいことを絶対的な欠点として次のように評価している。

«茶の性は倹。広には宜しくない。広になると、茶の味は暗く淡い。さらに大服のときは、その半分を啜むだけで味は寡い(うすい)。まして広のときはいうまでもない。»p. 179, 布目潮渢、茶経、全訳注

注目すべきは、伝統的に中国の研究者が「広」(広がり/多すぎること)の中にまず「水の過剰」を見出すのに対し、多くの日本の研究者は「人数の過剰」を見出す点である。これは、日本人が客の人数を厳格に制限する自国の茶の湯の源流を『茶経』に求めようとしたためである。

両者は共に、茶の理解を「選ばれた少数のための濃厚な飲料」へと集約させており、庶民の日常的で飲み口の軽い味わいを茶文化の枠外へと追いやっている。明代において、これと同じ「二元的な洗練」のパラダイムに従ったのが、張源の『茶録』である。

«茶を飲む場合は客の少ないほうが貴い。客が多いと噂じく、喧しければ雅題に穴ける。独り茶を吸ることにこそ茶の真骨頂がある。客が二人ならばれた時となり、三四人ならば趣のある時を過ごせるが、五六人ならば雅趣が薄まり、七八人となると施しの茶となるという。(それは過きを癒やすばかりで雅趣のない茶である。)» p. 64、張源『茶録』許次紓『茶疏』全訳注 岩間眞知子訳注

谷端昭夫は、その「よくわかる茶道の歴史」 において、単なる渇きを止める行為という「非文化」から発展した、茶の湯という形での唯一無二の「茶文化」が存在するという公式の見解を次のように述べている。

«飲料としての茶には、さまざまな種類があり、その飲み方も多様だ。しかしながらその多くは湯きを止めるのに過ぎない。はっきりとした文化事象を伴っていないのだ。その点、扶茶は飲料である上に様式、儀礼などを形作ってきた。茶会・茶事と呼ばれるものが裏型である。

これらの抹茶は人を招いて「振舞」うことによってなるとは区別される。「振舞」の方法として料理を振舞い、茶を飲むという二部構成がとられはじめる。そこでは茶の湯の場(茶室・数寄敷)・茶(露地)・料理(懐石・食事法)・茶の種類(濃茶・薄茶)・器・点茶法などに工夫を凝らしてきた。飲料としての茶から、時代によってさまざまな事象を生み出し、文化を形成してきたのである。その経線を付けようとするのが本書である。»

このような茶文化を特定の規則や儀式の集まりとして捉える見方は、非常に狭義で一方的である。なぜなら、江戸時代に多様な発展を遂げた、数多くの地域的特性を持つ日常的な庶民の喫茶という極めて広大な層を、完全に見落としているからである。

以前にも述べた通り、まさにこの日常的な飲料としての茶文化の中から、茶の湯そのものが誕生したのである。

ちなみに、抹茶を飲料と呼ぶことにはある程度の語弊がある。抹茶は「茶の飲用性」が低く、どちらかと言えば飲料から食物への移行形態に近いからである。

「飲用性」が茶の品質の根幹をなす独立した価値として認められなかったことが、数世紀にわたる日常茶への低い社会的評価を決定づけたのであると思われる。

10. 茶と食べ物の相性

飲用性の高い茶は、それ自体がスムーズに「喉を通る」だけでなく、さながら礼儀正しい紳士のように食事に道を譲り、喉へと誘う。料理の食べやすさを高め、その味わいを引き立てることで、食事全体のプロセスを最適化し、調和させるのである。

茶と食事の相性の良さは、その茶の「日常性」を決定づける重要な資質の一つである。 日本の食文化において、茶と米が伝統的にその基盤をなしてきたのは、まさに両者の優れた相性ゆえである。 食事との相性という点において、茶はビールと通底するものがある。渡淳二はその著書『ビールの科学』の中で次のように述べている。

«少しビール贔屓かもしれませんが、他のお酒と比べて香味が出すぎていない点や味が比較的淡いという成分上の理由から、料理を楽しむのにふさわしい「口中調味」に適したお酒と言えるわけです。また、ビールは爽快感あふれる飲み物であり、違った料理へ移行する際に口中の洗浄やリフレッシュメント効果も期待できるため、料理の間にビールを挟むことで毎回料理の味を新鮮に感じさせる役割も果たしてくれます。» P. 235

強調しておかなければならないのは、すべての緑茶がご飯に合うわけではないという点である。食事との優れた相性を生む重要な条件こそが飲用性である。飲用性の高い緑茶には、比較的淡白な味わいと、軽やかな渋みという特徴がある。

淡白な味わいは、味覚の主役を茶へと奪い去ることなく、料理そのものの味を引き立てる。

また、飲用性の高い茶に含まれる軽やかな渋みは、米の澱粉由来の甘みを口内から効率よく洗い流し、後味を「リセット」してくれる。これにより、味覚の飽き(食べ疲れ)を防ぎ、次の一口を常に「新鮮」に感じさせるのである。

一方、高級緑茶は旨みが豊富であり、強いアミノ酸系の甘みを持っている。この甘みは米の澱粉の甘みと混ざり合うことで、いわば「味の渋滞」を引き起こしてしまう。その結果、米の味がすぐに重く感じられ、食べ飽きてしまうのである。

2023年4月、私は佐賀県の嬉野を訪れた。そこは古くから、極めて飲用性が高く和食に寄り添う「釜炒り茶」の産地として名高い場所である。

しかし残念なことに、今日では高級な旨味の追求と、鮮やかな緑色の水色を重視する傾向により、伝統的な釜炒り茶の生産は風前の灯火となっている。現在、現地で主に生産されているのは深蒸し煎茶と大差のない「蒸し製玉緑茶」である。

ある地元の居酒屋で和食を摂った際、供されたのはまさにその肥料の効いた旨みの強い、鮮やかな緑色の茶であった。私はその茶で米や魚を流し込もうと試みたが、茶は口内の脂や甘みを洗い流すどころか、食べ物と共に歯にまとわりつくようであった。そのお茶を薄めてもらったが、それでも結果は変わらなかった。ご飯とお茶が、まるで異なる方向を向いているかのようであった。

私が宿泊したのは、和食の朝食の付いた小さな宿であった。翌朝、並べられた食器の中に、黄金色の釜炒り茶を見つけた時の驚きは忘れられない。

それは驚くほど飲みやすく、爽やかな香りを持つお茶だった。前日の居酒屋で失われた調和の感覚が、一瞬にして取り戻された。この伝統的なお茶と伝統的な食の組み合わせは、まさに相乗効果(シナジー)を生み出し、食事の満足度を劇的に高めると言っても過言ではない。

宿主さんに、今でもこの立派な釜炒り茶を製造している工場の住所を尋ねた。しかし、現在の嬉野に溢れている緑色のお茶の中から、なぜ彼女はこの黄金色の釜炒り茶を選んだのだろうか。その謎は、宿主さんとの会話の中で解けた。彼女は静岡県の有名な茶産地である川根の出身だったのである。

川根のような歴史ある茶産地の人々こそ、茶と食事の相性の重要性を誰よりも理解しているのではないだろうか。なぜなら、その相性の良し悪しに、茶文化のみならず食文化全体の運命がかかっているからである。1991年、川根茶業協同組合の澤本幸彦理事長は次のように述べている。

«飲食物の嗜好と流行には、世相と共にめまぐるしいものがある。多種多様の飲料の中で占めるお茶の割合は、言うまでもなく下降線をたどっている。

こうした緑茶離れの原因は、食生活の変化が一番大きい。食事の前後に必ずお茶を飲む家庭が多かったのに、食事がご飯からパン食に変ってきて、緑茶よりもコーヒーを飲む家庭がふえていることも、その要因の一つである。このため緑茶を知らずに育つ子供たちが多く、緑茶離れはますます進みそうだ。» p. 8 1991年2月月刊茶

外部因子の無条件の重要性にもかかわらず、小川八重子は問題の根源を茶そのもの、そしてその結果としての茶文化の構造的歪みに見出したのである。

すなわち、伝統的に日本料理に適合していた番茶が遍く駆逐され、高品質な煎茶が押し付けられたことにより、緑茶と食事との間の著しい不整合が生じるに至った。小川八重子は次のように記している。

「例えばおスシ屋さん。今、大抵の店が煎茶の粉茶を使っていて緑色をしたお茶を出しますが、あれ飲むとザラッとして、ムカッとした味が口の中に残りませんか。生魚の生臭い味をお茶を飲むことによって切り、口の中をさっぱりさせるのがお茶の役目なのに、お代わりしたくもないようなお茶が多いです」

「うなぎとか天ぷらのように脂っこい料理にも、コクのある煎茶が出されますが、私は胃にもたれて気分が悪くなってしまいます。私の感じでは、日本茶のきれいな緑色をした煎茶は、甘いお菓子やご飯にはよく合いますが、しょうゆやミソ味には合わない。スシも天ぷらもうなぎも、カレーにも、水でなく、あっさりしたばん茶やほうじ茶の方が合うと思うのですが……。食べものとの関係にも、もっと気を使うと、いっそうお茶はおいしく飲めるはずと言っている……」

(平成元年五月十三・十四・十五日東京新聞「お茶をおいしく」)

この一節は、飲用性が比較的低い上煎茶が、本来不向きな役割を十分に果たせていないことを如実に示している。煎茶の品質を絶対視することは、茶と料理の不格好なミスマッチを生じさせる。この場合、原因は外部要因ではなく、茶そのもの、あるいは茶業界による「品質」に対する誤った認識にある。小川八重子は次のように強調していた。

「茶と人間のかかわりあいは、何千年も前からだといわれています。近頃“茶ばなれ”と騒がれ、それは生活様式が変わったからとか、食生活の内容が変化してきたからだろうとか、まるでお茶から見て相手が悪いといった云いようです。しかし私はそうは思いません。問題は、お茶そのものにあるのではないでしょうか。

食生活が変わったのなら、それに合うお茶があればいいわけです。煎茶は、甘いお菓子に合います。お菓子の味を引き立てます。それでも、その煎茶は、天ぷらやうなぎの蒲焼などの油脂の強いものには合いません。

食品の味には、砂糖(白・黒)、塩、醤油、味噌、酢、油、脂など、いろいろあります。魚、肉、野菜には、それぞれ特有の味があります。お茶には、それ等の味との間に相性といったものがあるのです。合う時は、両方ともおいしいと感じられ、体にもいいものですが、合わない時は、どちらも不味くなってしまいます。それこそ、お茶なんてない方がいいと、茶ばなれの原因となるのがおちです。「うちの子は、食事の時は水です」とか、「ミルクです」とおっしゃるのをよく聞きます。子供の好んで飲むようなお茶がないからではないでしょうか。

数年前のこと、幼稚園のお弁当の時間に、おばん茶を持って行ってテストをさせてもらったことがあります。最初の日はお茶に関心を示してくれなかったのが、二日目から手を出すようになり、一週間位すると、おかわりをする子が多くなりました。そしてほとんどの子が、お弁当を残さないで食べるようになったのです。

子供は、苦い味・渋い味は嫌いです。“どうしたら、子供が日本茶を飲むようになるか”ほんとうのおいしさとは何か。それが、これからの問題点であると考えます。

茶は、作り方次第で、毒にも薬にもなります。本当においしいと感じるのは、それが、体に自然に要求するところにぴったりであるからだと思います。病気が重くて何も食べられないような時に、「あのお茶が飲みたい」と望まれるようなお茶があってほしいのです。

お年寄りも、子供も、みんながおいしいと云って一緒に飲めるお茶があれば、家族団らんのときになります。食事の時に必ずお茶がある。スポーツの時の水分補給に、仕事の合間、やすらぎの場に、私は、茶にまさる飲みものはないと思っています」 pp. 67-69 小川八重子の常茶の世界

小川八重子は、人々のあらゆるニーズを満たすことのできる茶が持つ幅広い可能性を活用すべきであると提唱した。彼女は、質の高い茶とは美しい形状、色、そして「旨味」の甘みに集約されるという狭隘で教条的な見解に異を唱えた。この研究者は、古びたドグマの束縛から茶を解放しようとする意識的な試みを行ったのである。

11.二つの味、二つの成分

茶の味はその化学成分によって決定される。緑茶は、互いに作用し合う成分の複雑な複合体から構成されているが、ある程度の簡略化をすれば、甘みのある味覚的な味である旨味を司るアミノ酸と、特定の条件下で爽やかな後味へと変化する渋みのカテキン、すなわち生理的な味との「対立」に集約することができるのである。

簡略化は、研究者が複雑な現象を支配する主要な要因を抽出するのに役立つ。しかし、簡略化するにあたっては、現象の実際の性質ははるかに複雑であり、未だ研究の途上にある多層的な相互関係の織り成すものであることを忘れてはならないのである。

茶に関する文献では、通常、茶の主要な化学成分としてアミノ酸とカテキン(タンニン)が登場するが、より学術的に言えば、これらは二つのより大きな「茶のグループ」に関する話である。

一つは窒素画分であり、ここにはアミノ酸だけでなく、タンパク質、カフェイン、ヌクレオチド、その他の化合物が含まれる。もう一つはポリフェノール画分(カテキン、収斂性物質(タンニン)、フラボノール)である。

カフェインの苦味や多糖類の甘みなどが全体の味の構造に寄与していることは疑いようもなく重要であるが、その影響は比較的小さいため、理論的な簡略化を目的として、ここでは伝統的な「アミノ酸対カテキン(タンニン)」という枠組みにとどめることとするのである。

アミノ酸とカテキンは、茶文化において高級茶と日常茶として定着している「新茶ー番茶」という茶の二分法の化学的基礎を成している。ある程度の簡略化を許容すれば、これらの茶はそれぞれアミノ酸型、およびカテキン型と呼ぶことができるのである。

新茶がアミノ酸の高い含有量を特徴とするならば、番茶の「真骨頂」は豊富なカテキンにある。新茶と番茶はあくまで便宜的な両極であり、その間には摘採時期に応じて、アミノ酸とカテキンの組み合わせによる幅広いスペクトルが存在することを理解することが肝要である。

これら両グループの化学物質は、いずれも人体に対して好ましい影響を及ぼすものであり、以下にその概要を簡潔に記述する。

12. 茶の生化学

茶の品質とは何か。一般的な答えは「味と香り」である。しかし厳密に言えば、品質はそれらの中に存在するのではなく、それらを通じて「現れる」ものである。外的な現象の背後には、人間に必要な生命エネルギーが隠されている。

味と香りは、単に日々の生の喜びを与えるだけでなく、茶に含まれる生理活性物質(カテキン、アミノ酸、ビタミン、微量元素)の複合体によって、我々の生命を維持し、定期的な補給へと動機づけるものである。

紀元前2世紀から1世紀頃の『黄帝内経』に始まる古代中国の医学書は、食物から得られる生命と生命エネルギーという根本的な問いに焦点を当ててきた。『喫茶養生記』を著した栄西の功績は、茶を「養生の仙薬」として、予防医学の文脈で初めて日本人に提示したことにある。

生命エネルギーによって身体を養う複雑なメカニズムを研究する中で、現代科学は、8世紀以上前に栄西が記した「生理活性を持つ機能性飲料」としての茶の調節機能の理解に、徐々に近づきつつある。

人間の生命エネルギーは抽象的な概念ではなくなり、細胞の深部で進行する複雑な生化学的プロセスとして捉えられるようになった。

このプロセスの基盤となるのは、ミトコンドリアの働きであると考えられている。ミトコンドリアは微細なエネルギー発電所であり、身体のあらゆる機能を動かすユニバーサルな燃料であるATP(アデノシン三リン酸)分子を24時間体制で合成している。

ミトコンドリアは独特の構造を持ち、その内膜はクリステと呼ばれる襞を形成している。そこではコンベアのように栄養素の酸化とエネルギー分子の組み立てが行われる。

しかし、ATPの生産は原子力リアクターの稼働にも似た激しいプロセスであり、副産物として細胞構造を損傷させる酸化ストレスが不可避的に発生する。

この複雑なシステムにおいて、緑茶の成分は包括的な最適化メカニズムとして機能する。カテキンとアミノ酸は、我々の内部リソースの保護、稼働、回復の全サイクルを支えるのである。

エネルギー管理の活性相はカテキンによって担われる。中でも中心的な役割を果たすエピガロカテキンガレート(EGCG)は、1929年に日本の生化学者、辻村みちよによって初めて詳細に記述された。

特筆すべきは、同じ1929年に科学がATP分子そのものを発見したことである。あたかも人類に対し、エネルギー源の理解とその保護手段を同時に提示したかのようである。カテキンはいくつかのメカニズムを通じて機能する。

第一に、カテキンは自由ラジカル(遊離基)の「罠」として働き、ミトコンドリアDNAが損傷を受ける前に、膜上でそれらを中和する。

第二に、カテキンは特定のスイッチタンパク質「PGC-1α」を活性化し、古くなったミトコンドリアに代わって新しい健康なミトコンドリアを生み出す「バイオジェネシス(生物発生)」を開始させる。これにより、細胞内に毒性廃棄物を「充満」させることなく、心臓や脳の機能に不可欠なATP生産を安定して高いレベルで維持することが可能になる。

科学的に、ATP分子が細胞内で生存する時間は1分にも満たないことが判明している。身体はそれを「蓄える」ことができない。我々は絶えずATPを合成し、即座に消費している。体重70kgの人間は、一日に約40kgものATPを生産し、消費しているのである。

このエネルギー最適化の効果を実感するためには、カテキンを定期的に摂取する必要がある。ただし、空腹時に高濃度のサプリメントとして摂取するような過剰なカテキンは肝臓に毒性を示す可能性があるため、伝統的な喫茶習慣が最も安全で調和のとれた方法であるとされる。

栄西が説いた良質な緑茶の日常的な飲用は、ATPの絶え間ない生産のための理想的な環境を作り出す。カフェインが覚醒感を与えるならば、カテキンは細胞の深いレベルで生命力産生システムそのものを最適化するのである。

継続的なカテキンの供給は、ミトコンドリアを高機能な待機状態に保ち、それが身体全体の持久力向上、思考の明晰さ、そして生物学的な老化プロセスの抑制として現れる。

エネルギーサイクルの第二段階である回復相は、特有のアミノ酸であるL-テアニンに直接依存している。

緑茶は、L-テアニンを合成できる世界でも数少ない植物の一つである。このアミノ酸は血液脳関門を通過する驚くべき能力を持ち、我々の中枢神経系に直接影響を与える。

強力な刺激剤とは異なり、テアニンは精神を「加速」させるのではなく、脳をα波の状態へと導く。これは穏やかな覚醒モードであり、高い集中力を維持しながらも、背景にあるストレスや不安を取り除くことができる状態である。

生命のエネルギーは、質の高い「再充電」なしには成立しない。それは深い睡眠の間に起こるものであり、L-テアニンはその質を高めることができる。

休息期において、細胞は損傷した細胞小器官を再利用し、ATPの貯蔵を補充する「大掃除」であるマイトファジーを最も活発に行う。

テアニンは血液脳関門を越えて脳のα波を生成し、神経系を不安な覚醒モードから意識的な平穏の状態へと移行させる。

これにより、過剰になるとミトコンドリアの正常な働きを阻害するホルモンであるコルチゾールのレベルが低下し、深い休息相への移行のための理想的な条件が整う。

さらに、テアニンはカフェインの作用を調和させる。カフェインがアデノシン受容体をブロックして疲労感を防ぐ一方で、テアニンはその効果を和らげ、急激なアドレナリン放出とその後のエネルギー減退(コーヒー愛好家によく見られる現象)を防ぐ。この相乗効果により、システムを過熱させることなくミトコンドリアを高速回転させることが可能になる。

異なる種類の茶を使い分けることで、これらのプロセスを制御できる。例えば、カテキンが豊富な古典的な煎茶は能動的な保護とバイオジェネシスに理想的であり、熱処理によってカテキンとカフェインが減少したほうじ茶は、夜間の回復とATPの深い再生相への準備のための優れた道具となる。

このように、カテキンとアミノ酸の相互作用は健康と幸福の循環を形成している。一方の物質群が活動時間における「モーター」の出力と保護を担い、もう一方が夜間の回復の深さと質を司る。

適切な抽出は、このプロセスを微調整することを可能にする。80℃以上の湯で1分程度抽出することは、ミトコンドリアを支える十分な量のカテキンを引き出すのに役立ち、一方で70℃以下の低温で素早く抽出することは、リラックス効果のあるアミノ酸に焦点を当てることになる。

本質的に、これは緑茶の二つの連続した抽出(一煎目と二煎目)について述べている。少し冷ました湯で淹れる甘みのある一煎目と、より熱い湯で淹れる渋みのある二煎目。この二つの日常的な抽出には、単なる二つの異なる味だけでなく、我々の「生命のバッテリー」を活性化し、メンテナンスするという二つの異なる機能が隠されているのである。

今日、茶の品質はもっぱら味と香りのみで評価されている。しかし、茶の中にどれほどの味と香りがあるかだけでなく、どれほどの「生命」が宿っているかを科学者が特定できる日は、そう遠くない。

13. 奇跡のカテキン

緑茶の有用性において、カテキンとアミノ酸の役割は同等ではない。味の場合と同様に、ここでも主従の分化が続いている。それは茶葉におけるこれらの物質の含有率にも示されている。

番茶の乾物中にはカテキンが12〜20%、アミノ酸が1〜2%含まれている。煎茶はそれぞれ10〜18%である。アミノ酸が最も豊富な玉露でさえ、カテキンの方が比重が大きい(カテキン 5〜10%、アミノ酸 4〜7%)。

茶に含まれるすべての物質は相互に関連し、一つの全体として体に作用するが、カテキンの有用性に関する膨大な数の学術研究は、緑茶の健康効果における主導的な役割がカテキンにあることを認めている。

日常的なお茶である番茶は、主に成熟した葉から作られ、アミノ酸は少ないがカテキンは豊富である。旨味がないことは、これらのお茶の高い人気を妨げるものではなかったが、その人気は高級茶の普及とそれに伴う旨味崇拝によって衰退していった。

カテキンの実証的な研究が始まったのは1世紀足らず前、1929年に理化学研究所の女性科学者、辻村みちよが世界で初めて緑茶からカテキンを結晶状態で分離し、その化学式を決定した時である。その後、1930年にカテキンガレートを、1934年にはエピガロカテキンガレート(EGCG)を分離した。

カテキンへの関心の新たな波は、20世紀の80年代から90年代にかけて訪れた。20世紀と21世紀の変わり目には、まだ一般には広く知られていない「カテキン学」という独自の科学が創設された。その創設者である昭和大学名誉教授、島村忠勝(1942〜2025)の尽力により、今やカテキンという言葉はほとんどすべての日本人に知られている。

2004年、島村教授は「日本カテキン学会」の創設者兼会長となった。私は、2024年に行われた記念すべき、そして残念ながら最後となった会議に出席することができた。

著書『奇跡のカテキン』の中で島村教授は、抗生物質やワクチン、その他の医薬品に見られる副作用が全くない一方で、カテキンが驚くべき多機能性を持っていることについて記している。教授はカテキンを「多機能生体防御物質」と呼んでいるのである。

«さて、成長して、すでに私の手元を離れたカテキンではあるが、カテキンには素晴らしい性質がある。殺菌作用、抗毒素作用、抗ウイルス作用、抗がん作用、抗酸化作用など、ひとつの物質が多くの能力を持っている。つまり、カテキンは多機能性生体防御物質であると言える。あるときは抗生物質のごとく、あるときは抗体のごとく、あるときは抗ウイルス剤や抗がん剤のごとく働くのである。二役も三役も演ずることのできる»千両役者»である。

感染症の治療というと、すぐ「抗生物質を」、ということになる。確かに抗生物質はよく効き、多くの人命を救ってきた。抗生物質は微生物が産生する、細菌に対抗する抗菌物質である。それを人間が利用しているにすぎない。高等植物が産生する抗菌物質は抗生物質とは言わないが、抗生物質と同じ働きを持つカテキンのような抗菌物質が存在しても、当然であると私は思う。» p 170、奇跡のカテキン

残念ながら、近年カテキンの効能について多くの議論がなされているにもかかわらず、これらの物質は実質的に社会ののけ者となっている。肥料や農薬の過剰な使用、さらには過度な機械的・熱的加工によって、カテキン特有の渋みがしばしば苦味へと変わってしまうためである。茶業界はカテキンとの付き合い方を忘れてしまったようである。

今日、そこには二重基準が存在する。ファッション誌などで緑茶の効能が語られる際、誰もがカテキン(抗酸化物質)の高い価値を口にする。しかし、特定の茶の広告となると、通常は「このお茶は渋みが少ない(あるいは、ほとんどない)」と謳われるのである。

肥料によって作られたアミノ酸の甘い味に慣らされた消費者は、茶の不快な渋みや苦味の原因がカテキンそのものではなく、不適切な栽培・加工方法にあることを理解していない。結果として、甘く、高価で、淹れ方や保存に手間のかかる「アミノ酸」(テアニン)主体の茶は価格が高騰し、すぐに飽きられ、日常生活から遠ざかっていく。

重要なのは、番茶の伝統的な製造法が、カテキンを基にして苦味ではなく、日常生活に必要不可欠で手頃な価格の「生理的な味」を作り出すという点である。

松下智は、茶離れの主な原因は、伝統的な日常着としての適度な渋みを持つカテキン茶から、過度に甘いテアニン(アミノ酸)茶へと移行したことにあると考えている。同時に、無謀な旨味の追求がもたらす環境への影響についても指摘している。なお、同氏は「カテキン」という言葉の代わりに、同義語として「タンニン」という用語を用いている。

『茶畑からチャが見えなくなり、チャの林となっている。そして、街中からは茶店が消えていき、千年余りの歴史をもつお茶が、日本の社会から消えつつある。こうした現象は何処に帰因するのか、考えてみたい。

その最大の要因は、毎日飲むお茶の主要成分たる「タンニン」が少ない»甘いお茶»を»消費者がもとめているから”ではないか。

それにより、茶にテアニン(うま味成分)を加えることになった。乾燥した茶の葉の裏側に、テアニンの素がきらきらと光って見える程の茶を作っている茶産地もあり、茶畑に窒素肥料を多様することで、茶畑のなかを流れる小川には、生きものは消えていってしまった様である。茶の生産者はもちろんのこと、消費者にも、この辺りでテアニン重視の茶から、タンニンの茶に戻ることを真剣に考えてもらいたい。』p. 6、茶論、新茶号No. 86、2023。

松下氏は日本茶を自然と伝統の原点に立ち返らせるよう呼びかけているが、それは人間が道徳的な生活規範に立ち返ることなしには不可能である。技術だけでは何も解決できないのである。

14. 自然性と人間性

お茶のタニンやアミノ酸などの味のプロファイルは、栽培条件や加工技術によって決まるが、物質的な要因以上に、お茶造りにおいて決定的な役割を果たすのは精神的な要因である。お茶の品質は、主に「自然性」と「人間性」という2つの要素から成り立っている。

自然は素材を提供し、人間はそこに「品質のベクトル」を与える。その中心にあるのが、生産者の個人的な利益よりも消費者のニーズを優先する「善のベクトル」である。

お茶造りは、摘み取られた茶葉が工場に運ばれるずっと前、茶園から始まる。お茶の品質の根幹は、神秘的で計り知れない自然の力によって創り出されるものである。

近年、日本茶の品質低下が見受けられる。海外需要に後押しされた抹茶ブームを別にすれば、日本国内でのお茶の消費量は年々減少しているのが現状である。

伝統的なリーフ茶(葉茶)は、今や至る所で販売されているペットボトルや缶入りの茶系飲料に取って代わられつつある。

いわゆる「お茶離れ」は、前世紀の70年代初頭に始まったといわれる。しかし実のところ、この現象は日本伝統文化の構造的破壊の一端であり、食文化(米離れ)から精神文化(寺離れ)に至るまで、あらゆる分野に及んでいる。そしてそれは、明治維新という遥か以前の時期に端を発しているのである。まさにその時、急速な近代化の犠牲として、多くの精神的価値が捧げられたのである。

武者小路公秀「人間性の探求としての平和」(1999年)は、「社会史的な文脈の中で考えてみたいと思いますけれども、近代日本が形成された、明治、大正から昭和にかけて、日本が非常に近代化の遅れた状態から、これだけ経済成長することができたことは、決して卑下することはないと思います。それは、非常に立派なことでしたし、そのために、国としては富国強兵というような形の政策をとらざるを得なかった、ということは国際的な政治の厳しさの中で、それはやむを得なかったという考え方もできると思います。

けれども、日本の発展の中で、どれだけ多くの犠牲が払われたか、その犠牲というものを、やはり私たちは、もう一度、反省して振り返ってみる必要があると思います」(p.17)と述べている。

武者小路氏の言葉に対し、経済学者の滝川好夫氏は次のようにコメントしている。«モノはたしかに豊かになりましたが、モノが豊かになればなるほど、精神は貧しくなっていったような気がします。» p. 25, 資本主義はどこへいくのか、2009

お茶離れの原因としては、欧米食の普及やパン食への移行(パンにはコーヒーや紅茶が合うため)など、外部からの影響による物質的な要因が通常挙げられる。

これらの要因は客観的な重要性を持っているものの、お茶離れの主因は、あらゆる文化の基盤である「人間性」の衰退にあると考える。お茶離れとは、環境や消費者の健康、そして茶そのものを自己利益の犠牲にする過度な経済的エゴイズムがもたらした結果である。

明治時代に始まった伝統的価値の破壊プロセスは、20世紀に入っても継続した。高度経済成長の負の側面が日本で本格的に顕在化し始めた1974年、松下智氏は次のように指摘している。

«茶という一杯の飲みものを視ると、そこには『茶の心』、『人の心』、『和の心』といった心を飲むものであって単なる飲みものではないことがわかる。その『心』というのは、さらによく観ると東洋で生まれ、日本で育った『茶道文化』として成人していることである。そしてその真髄には、茶を通して『人の生きる道』、人間として歩む道』を日常茶飯事の飲み物として解いているわけである。

こんな嵩高な茶も近代産業の発達や、経済の著しい発展によって著しく害されてしまい、『物質文明の発達は、人を人でなくし。人間性を持たない、生きた道具と化してしまったのではないかと思う。極言すれば、人間性というものは、もはやこの世から影をひそめてしまった』といえるのではないだろうか?» 茶、副読本、1974, 松下智

茶の言葉に換言すれば、「人間性」の主な類義語は、おそらく簡素で素直なお茶であろう。それは、安価でありながらも環境に優しく、日常的に飲むための美味しい茶のことである。松下氏は、普段使いの茶の重要性を繰り返し強調しており、次のように述べている。

«長い間、茶と言えば「茶道」と言うほどに、茶道文化が強調され、その結果が、茶道を形骸化へと向かわせることになりかねない状況になって来た。

茶は、茶道文化を頂点とした、私達の日常生活における、物心両面に必須の飲み物であり、また日常茶飯の生活文化ともなっている。この様に広く活きている茶について、総合的な視野に立ってその良さを再認識し、より広く、日常生活に楽しく活かしたいものである。

そうした場に本書が、小著ながら活用されることを願って止まない。» 日本茶を究める

残念ながら、茶業はこれとはほぼ反対の方向へと発展を続けてきた。付加価値のさらなる向上を追求するあまり、価格が高騰しただけでなく、茶の本質的な価値は損なわれ、日常性の低い、複雑で不自然な産物へと変貌してしまったのである。

伝統的なリーフ茶への回帰は、農業の基本原則や食品の質についての再考なしにはあり得ない。その中心にあるのは自然性の原則に従うことである。

茶の自然性とは、何よりもまず茶の樹がその本性に適っていること(テロワール)であり、付加価値向上への流行や、攻撃的な「改良」というイデオロギーによる過度な介入がなされる以前に、伝統的に形成されていた姿を指す。茶、あるいはあらゆる農産物の質とは、人工的な改良の試みから生まれるものではなく、茶葉に元来備わっている価値を、いかに丁寧に維持するかによって決まるものである。

テロワールとは、茶の自然な成長にとって最も好ましい環境条件に適応していることを意味する。

茶は単なる抽象的な原材料ではなく、特定の土地の産物である。

古くから山間部の気候が良質な茶の栽培に最適とされてきたのは、決して偶然ではない。標高の高さは茶の樹の成長を緩やかにし、葉を緻密にし、栄養成分を豊かに蓄えさせる。

昼夜の寒暖差は、人工的な強化に頼ることなくアミノ酸や香気成分の蓄積を促し、味わいの深さを形成する。頻繁に発生する霧や雲は、直射日光を和らげることで葉が粗い苦味を帯びるのを防ぎ、水色に自然な柔らかさと透明感を与える。

これは、日照の強い平坦地で良質な茶が育たないという意味ではない。しかし、他の条件が同じであれば、香りの繊細さや味わいの深みにおいて、平地の茶は常に山間地の茶に一歩譲ることになる。これは特に高級な煎茶において顕著である。平地の茶は一般に安価であり、日常的な茶の原料や、山間地の茶とブレンドする際のベースとして用いられることが多い。

山間地の茶の代表的なテロワールとしては、静岡県にある天竜、川根、本山(ほんやま)といった地域が挙げられる。

自然性は栽培方法にも表れる。肥料や農薬の使用を抑えれば抑えるほど、香りはより素朴になり、味わいは豊かになり、その土地固有の色彩がより鮮明に伝わるようになる。

深く根を張る在来種は、収穫量や見栄えを重視して選別された品種よりも、テロワールの特性をはるかに正確に体現している。

茶の加工は必要不可欠な工程であるが、その役割は自然を代替したり「改良」したりすることではなく、自然を妨げないことにある。伝統的な製法が価値を持つのは、それが単に古めかしいからではなく、自然を支配しようとする試みではなく、自然条件の延長線上にあるものとして生み出されたからである。

最小限の介入、人工添加物の不在、そして茶葉の自然な性質への敬意こそが、茶の内面的な完全性を保ち、人間へと最も自然な形で届けることを可能にする。

高級茶にある程度の人工性が避けられないのだとすれば、日常の茶こそ最大限の自然性が求められる。その栽培と製造において、肥料の使用や熱的・機械的な加工は最小限に留められるべきである。

産地の特性を最大限に活かしつつ、加工の度合いを最小限に抑える(伝統的な製造原則に従う)という意味での「自然性」という用語は、現代の茶に関する文献ではほとんど見当たらない。

私はこの言葉に、約百年前の人物である好川海堂の著作の中で初めて出会った。彼は、日本茶には«茶本来の自然性»と言う表現を使っていた。

p. 42 好川海堂、日本茶の由来と特色 永谷翁創始の茶に就て

日本茶の「青い」自然性の中に、私たちはその「魂」を理解する鍵を見出す。それは、酸化という自然の営みに抗う魂である。死そのものに抗い、茶は文字通り火と水、そして幾多の試練(艱難辛苦)を潜り抜けることで、再び蘇り、人々に己を捧げるのである。

ここに、本質的に自然であると同時に人工的でもあるという、茶文化のパラドックスが存在する。すなわち、「自然性」とは「人工性」の自然な基盤なのである。言い換えれば、健全な茶文化というものは、自然への最大限の敬意に基づいた上にしか築き得ないものである。

松下智は『日本茶そのものが、自然性の強いものである』とを指摘する。『日本茶は、自然の変化を起さない様にするもので、茶のもつ自然の性質を可能な限り活かすことに特徴がある。』p. 12、松下智、日本茶、美味しさを究める、1992。

『煎茶は自然性の最も大きいものであり、特に香気については、自然のもつ日温較差の大きいこと、すなわち、山間地、それも川が流れる様な谷間の南向きの茶畑に育ったものが、香りが優れているていうことになる。』 松下智、日本茶、おいしさを究める、1992年、p. 29。

松下氏は、高品質と見なされることが一般的な、覆下栽培による高級茶(抹茶や玉露)の不自然さを指摘している。

«本来は被覆もしない自然に育った茶の木から、茶の葉を摘んだものと思われるが、現在の抹茶はこのような不自然な管理をしており、そのうえ抹茶畑には一般の茶畑の数倍もの肥料が施され、そうした茶畑で抹茶としての良質のものが生産されるのが現実の姿である。» p. 120, 緑茶の世界、日本茶と中国茶

松下氏は、その著書『日本茶:歴史と風俗』(1969年)において、定着したパラダイムを丁寧に覆し、茶の「自然性」に基づいたもう一つの、すなわち伝統的な品質観を思い起こさせるよう提唱している。そして、その自然性の最も重要な指標となるのが、茶の「自然な香り」である。

松下智は約60年も前、今日私たちが「茶の日常性」と呼ぶべき茶の特異な価値を、事実上描き出していたのである。

当時の煎茶は、現代の煎茶の大部分よりも、はるかに高い自然性と日常性を備えていたことを理解せねばならない。私たちは、何か大切なものを失って初めて、その真の価値を理解し始めるのである。松下氏は次のように記している。

«一般に、お茶のなかでは玉露が最高級品である。これは、抹茶にするのと同じチャの葉を蒸してから十分に揉んで、細く捻ったものであって、ふつうの煎茶とは形はおなじだが、内容成分が多く、とくに味がだいぶちがう。

しかし、これは一般的でなく、限られた人にしか親しみがない。もっとも多く親しまれ、飲まれているのは、いわゆる煎茶である。この煎茶は製品ばかりでなく、チャ園からしてちがう。肥料も少なく、おおいもしない。だから、味もおちることになる。そのお茶がもっとも多くの人に親しまれるのはもちろん値だんによるが、それよりもお茶の香気である。お茶の味とか色は人工的に変えることができることはすでに書いた通りであるが、この香気は全く自然そのものの力である。

したがって、味あるいは色の良否とはあまり関係なく、芳香をもっていることになる。お茶はこの三拍子そろってこそ本当の味といえるわけだが、何といっても、色とか香気は口に入る前に、判定できる性質であって、とくに新茶には、このことがいえる。口ともへもってきて、»まあいいにおい»と思わず声を出させるようなお茶はかならず味も色もよいことになる。そして、»ああおいしかった»とお礼のことばが自然にでることになる。»p. 83-84、日本茶、その歴史と風俗

適切な産地の選択、そして肥料や遮光の完全な廃止、あるいは最小限の使用は、自然性の本質を反映するだけでなく、茶の製造原価を抑えることにも繋がる。その結果、茶はより喉越しが良く香り高いものになるだけでなく、より手頃な価格なものとなるのである。

茶の日常性とは、その自然性の派生物に他ならない。すなわち、自然な茶を「自然な」価格で提供することである。

茶の自然性は、それを人間へと近づける。逆に、茶が自然から遠ざかることは、それをますます不自然で高価なものにし、消費者の日常生活から茶を遠ざけてしまう結果を招くのである。

15. 生物多様性 — 品質の根源

8世紀、すでに『茶経』の著者である陸羽は、茶の品質をその生育環境の自然力、すなわち「自然性」と結びつけていた。

彼は、山の陽当たりの良い斜面に自生し、木々の影に守られた野生の茶こそが最高品質であり、人工的な茶園で栽培された茶は、野生のものには決して及ばないと主張した。

陸羽にとって茶葉の「自然の力」とは、人間からの独立性の直接的な結果であった。植物が栽培化の影響をあまり受けず、野生の生態系に深く組み込まれていればいるほど、その味わい、香り、そして健康へのポテンシャルはより強力で多面的なものになるのである。

中国はこの自然品質という伝統を多く受け継いできた。その証拠の一つが、岩場に育つ野生の武夷岩茶であり、それは長らく茶の最高品質の代名詞となっている。

『茶経』が書かれてから12世紀を経た今日、科学は現代昆虫学の手法を用いて、この概念の妥当性を定量的に証明する方法を模索している。

自然力を評価するための最も効果的なツールの一つとなったのが、1934年にスウェーデンの昆虫学者ルネ・マレーズによって発明された「マレーズ・トラップ」である。

細かいメッシュで作られたテントのような構造のこのトラップは、ほぼすべての飛翔昆虫を自動的に採集し、生態系の住人を記録することを可能にする。現代のアグロエコロジー(農業生態学)において、マレーズ・トラップは生物多様性の測定に用いられており、これは茶園の生命力の主要な指標となっている。

今日、雲南省の古い茶の森で行われている調査(昆明植物研究所などの組織による)は、正の相関関係を示している。

マレーズ・トラップが設置された野生の茶園では、現代的な茶園に比べて数十倍もの種類の昆虫が記録されている。この生物多様性こそが「自然性」の直接的な証拠である。数百種もの捕食者や寄生者が存在することは、茶の木が周囲の環境と絶え間ないバイオケミカルな対話の中で生きていることを示している。

まさにこの対話が、細菌やウイルスとの継続的な接触が私たちの免疫を形成し強化するのと同じように、茶葉の品質を形成するのである。

マレーズ・トラップが高い生命密度を記録したとき、それは茶の木が防衛やコミュニケーションのために、カテキン、フィトチッド、精油といった極めて複雑な二次代謝産物のアルセナル(武器庫)を生成せざるを得ない状況にあることを意味している。

対照的に、農薬を使用した茶園の「空の」トラップは、環境の生物学的な死を告げている。野生の自然との対話の必要性から切り離されたそのような茶は、その生理活性を失い、死んだ産物へと変貌してしまう。『茶経』によれば、長く飲み続けることで人が羽化登仙するとされる、あの「生命力」を欠いたものになるのである。

マレーズ・テント内の種の数は、カップの中の品質のいわば数学的な等価物となる。茶の木の周囲の生命が豊かであればあるほど、その木はより多くのエネルギーを人間に伝えることができる。

本章は、完全に野生の茶に切り替えることを勧めているのではない。より重要なのは、茶の品質形成における自然のメカニズムを野生の茶から学ぶことである。

マレーズ・テントやその他の生物多様性測定手法を利用することは、栽培茶の「野生度」を高め、それを可能な限り自然や人間へと近づける助けとなるだろう。

生物多様性とは自然性の本質であり、茶を孤立したモノカルチャーとしてではなく、それが育った環境の産物として捉える視点である。これこそが茶の原料の健全な基礎であり、その品質は加工の過程で消費者の嗜好に合わせて適応されていくのである。

16. 二つの茶 ― 二つの製法

緑茶の製法は多岐にわたる。これらの手法は、酸化を止めるプロセス(いわゆる「殺青」、フィクセーション)や、その後の工程が茶葉にどのような影響を与えるかによって区別されるのが一般的である。

摘みたての生葉は、高温の蒸気で蒸す、熱い釜で炒る、熱湯にくぐらせる(湯引き)、あるいは電子レンジで加熱するといった方法で素早く処理することができる。

現代では主に前者の二つの方法が用いられている。蒸気によるフィクション(蒸製)はほぼ日本のみに残っている一方で、釜炒り製法は中国をはじめとする他の緑茶生産国で広く普及している。

蒸製と釜炒り製法は根本的に異なり、しばしば対立するものと見なされがちだが、どちらの場合も生葉の殺青は熱い蒸気によって達成されているという点では共通している。

違いは、蒸製煎茶の場合はボイラーの沸騰したお湯から外部の蒸気が供給されるのに対し、釜炒り製法では茶葉自体に含まれる水分が蒸気に変わるという点にある。

煎茶の製造工程を見てみよう。茶葉は蒸気によって急速に加熱され、酸化を司る酵素が瞬時に活動を停止する。これにより、煎茶は鮮やかな緑色と爽やかな風味を保つことができるのである。

若芽を用いた場合、侍の刀のように鋭く素早い熱処理は、お茶の豊かな味わいを「爽やかな渋み」と「旨味甘味」へと鮮やかに断ち切る。その味わいはバランスが取れていながらも、明確に分断されたものとなる。

高級煎茶を異なる温度の湯で淹れる作法は、このお茶の味の「分断」をさらに強調し、お茶を美食的な愉悦の対象とするためのものである。

一煎目は70〜60度まで冷ました湯で1〜1.5分かけて淹れる。これは刺身包丁が旨味を「切り出す」かのようである。対して二煎目は、より高温で短時間に淹れることで、甘みの減少とともに渋みを際立たせる。

このような淹れ方は原葉の特徴を実によく伝え、味と香りの繊細なニュアンスを引き出し、明確に表現された「味覚的な味」で茶のグルメたちを喜ばせる。

蒸製法が日本の国民的な風味を形成し、いわば日本茶の「名刺(アイデンティティ)」になったと言っても過言ではない。中国の研究者、李開周は次のように指摘している。

「同じ原料を用いたとしても、殺青方法が違えば味には非常に大きな差が生じる。

例えば、釜炒り緑茶は爽やかで軽い味わいが特徴だが、香りはそれほど濃厚ではない。対照的に、蒸製緑茶はより重厚で濃厚な味わいを持つが、同時に顕著な渋みもある。信じられないのであれば、(中国のリーフティーである)西湖龍井と日本の煎茶を比較してみればよい」(15頁)

蒸熱の後、煎茶の葉は加熱されながら乾燥を伴う数段階の「揉捻」工程を経る。乾燥はお茶の保存性を高めるために必要である。

茶葉を揉むことは、葉の中に残っている水分を表面に押し出すだけでなく、細胞構造をわずかに破壊することにも繋がる。これにより、抽出時の成分の溶出が大幅に加速されるのである。

古くは、丸ごとの茶葉を煮出す必要があった。今日でも、炙り茶や他の大葉の番茶類(いわゆる平番茶)はそのようにして飲まれている。

唐代には、蒸した葉を臼でついた。これにより抽出が容易になり、陸羽の『茶経』には、お茶を煮出す方法と並んで、瓶の中で熱湯を用いて淹れる方法が既に記されている。

葉を臼で挽くことは構造を激しく破壊し、最大限の抽出を可能にする。これは薬の製造に特徴的な手法であった。

一方で、粉砕は酸素との接触面積を増やし、酸化と苦味を招く。民間において、塩だけでなく、柑橘類の皮や生姜など味を和らげる添加物を入れる習慣があったのはこれが理由の一つであり、陸羽はそれを批判したのである。

薬草に特有の「粉砕」とは異なり、「揉捻」は茶葉へのダメージがはるかに少なく、嗜好品としての飲料にふさわしい平易な味わいと苦味のなさを実現する。揉捻の技術は明代に中国で広まり、お茶が薬から美味しい飲み物へと進化する過程で重要な一歩となった。

布目潮渢は、茶葉を「挽くこと」と「揉むこと」に共通する一つの意味を指摘していた。それは抽出の加速である。

今日、標準的な煎茶は4段階の揉捻工程を経ており、これは中国のものよりもはるかに強力である。この工程を経て、茶の芽は煎茶の象徴である優雅な針状へと形を変える。

しかし、強い揉捻による微細な損傷は、煎茶を熱湯に対して敏感にさせる。高級、あるいは中級の煎茶でさえ、沸騰したお湯で淹れると容易に苦味が出てしまうのは、まさにこのためである。

このような煎茶の「気難しさ」は、淹れる者に時間だけでなく、一定の抽出技術を要求する。

高級煎茶はタンパク質やアミノ酸が豊富だが、これらは熱に弱く、冷蔵保存が必要となる。また、揉捻による微細な傷のために、カテキンが空気と触れて急速に酸化するため、密閉容器での保管が不可欠である。

これらの要因は、煎茶(特に高級品)を日常生活において扱いにくい「深窓の令嬢(箱入り娘)」のような存在にしてしまう。高い価格設定と相まって、煎茶は一般消費者の日常生活から遠ざかっているのである。

蒸製煎茶は、注意深く、思索を巡らせる茶のひとときには素晴らしいお茶であるが、日常使いとしては最適な選択肢とは言い難い。

このお茶は注意力を必要とする。その抽出は、例えば友人たちとの気楽な会話をしばしば妨げる(彼らが熱心な茶の愛好家でない場合は特に)。会話に少し夢中になっただけで、数秒長く抽出された煎茶は、すぐさま苦味という脅威を突きつけてくるのである。

煎茶がエリート化すればするほど、その「日常性」――普通の人々の生活に溶け込む能力――は低下していく。

対照的に、釜炒り茶は意識に負荷をかけない,「淹れ方の失敗」を許し、多様な生活シーンに難なく適応する。

釜炒り製法では、加熱された釜との接触によって茶葉が温められる。葉の内部に含まれる水分が蒸発し始め、その内部蒸気が細胞に熱を伝え、酸化を止める。

本質的にはこれも蒸気による処理(蒸熱)であるが、より穏やかで緩やかなものである。熱はすぐには葉の中に浸透しないため、味わいはより一体感があり、安定したものとなる。このようなお茶は、熱湯で淹れても苦味に走ることはなく、特別な技術も必要としない。

釜炒り製法は、雑な淹れ方だけでなく、原料の質の多少の欠点をも許容する。上級煎茶の「分別された味」に対し、より包括的で一体感のある味わいへと整え、ぼかしてくれるのである。

焦げ付きを防ぐために、釜炒り製法では若すぎる芽よりも、ある程度成熟した茶葉が好まれる。これがコストを下げ、日常性を高める需要な要因となっている。

より成熟し、食物繊維が豊富な原料で作られた釜炒り茶は、保存が容易で、淹れるのも簡単で、日常の食事にも合わせやすい。喉の渇きを癒し、食事に寄り添うその味は、「味覚的な味」というよりは「生理的な味」に近い。

この実用性、すなわち高い日常性こそが、中国や他の国々で釜炒り製法が緑茶の主流となった理由であることは明らかである。

ここで重要なのは、どちらの製法が「優れている」か「劣っている」かということではない。どちらの方法も、完成度の高い多様な緑茶を生み出すことができる。

しかし、お茶を「毎日の飲み物」―安定した味わい、爽やかな後味、持続する香りの源泉―として捉えるならば、釜炒り技術の方がより適していると言えるだろう。

一方で、蒸製煎茶の製法は、繊細で自然な緑の香りと、浮き彫りになったような輪郭を持つ高級茶の製造に適しているのである。

17. 目に見える品質、目に見えない品質

外側から眺めれば、文化とは人間と周囲の自然との複雑な関わりの体系として現れる。

しかし、その内側に目を向けると、そこにはまた二つの原理、すなわち純粋に実用的な原理と、功利的な必要性を超えようとする原理との間の、劣らず複雑な相克と協力のプロセスが見て取れる。

これは、絶え間なく互いに流れ込み、一つの不可分な全体を形成する、陰と陽という対立する二つの原理にほかならない。一つがどこで終わり、もう一つがどこから始まるのかを正確に特定できないのは、まさにこのためである。

茶文化において、これらの力は「自然」と「作為(人工)」として現れ、日常茶と高級茶という形で具現化される。両者は同じ茶の木の葉から作られるが、摘採時期、栽培方法、そして加工方法が異なるのである。

既に述べたように、茶の味の根底には、分析的な目的で区別される二つの統合された原理が存在する。

「味覚的な味」 — 味覚受容体によって感知されるもの(甘味、苦味、渋味、酸味など)。これは、旨味が「主役」とされる高級茶において最も顕著に現れる。

「生理的な味」 — 清涼感のある味と香り、すなわち「感覚としての味」であり、生理的レベルでの身体による茶の受容を反映するものである。これは日常茶においてより明確に現れ、我々はこれを「基盤的な味」と呼んでいる。

旨味は茶の建前、晴れの顔を形作る。それは目立ち、華やかで、注意を引き、嗜好飲料としてのイメージを創り出す。

対照的に、生理的な味は、主にスッキリとした後口、清涼感と自然な香りに現れる。これは茶の素顔、茶の本音である。目立たず、化粧を施されていないが、人がその茶を飲み続けたいと思うか、そして茶文化が今後も存続するかどうかを決定するのは、まさにこの力である。生理的な味こそが、最終的な品質の判定者である。

味覚的な味は、鮮やかで識別しやすい性質を持つ。旨味は味覚受容体を刺激し、素早く注意を引く。

それに対して、生理的な味は「控えめ」であることを志向する。それは、陸羽が茶の本質の中に見たあの倹であろう。そこには、日常飲料としての茶の本質が顕現している。

味覚的な味は人工的な性質を持つ。それは比較的容易に作れるものである。旨味は肥料、被覆、品種選定によって強化することができる。

清涼感や自然の香りは自然条件によって創り出されるものであり、人工的な味の強化手法を乱用すれば、容易に損なわれてしまう。

味覚的な味の顕著さと魅力は、それを味覚操作と市場における収益化の便利な道具へと変える。

茶商は好んで上級茶の試飲を勧める。玉露や最高級の煎茶の鮮烈な味に圧倒され、人々はその印象に打たれて購入に至る。

しかし、自宅に戻ると、その高級茶を同じように美味しく淹れられないことが多い。さらに、高級茶は日常の食事との相性が悪く、喉の渇きを癒やすこともない。

多くの人々が必要としているのは、何よりも「生活のための茶」である。安価で、飲み口(喉越し)が良く、基盤的な生理的味が勝った質の高い日常茶である。

しかし、その自然な控えめさゆえに、この味は目立ちにくく、ペットボトル飲料のように極端に簡略化されない限り、市場条件下では収益化が困難である。

茶の歴史を振り返れば、品質向上は多くの場合「目に見える品質」の創造、すなわち高級化や、味と商品特性の人工的な強化という道筋を辿ってきた。

その一方で、日常茶の品質の根幹にある基本の味は、慢性的に「目に見えない」ままであり、それゆえに過小評価されている。かつてこの味は、番茶文化とともに世代から世代へと受け継がれてきたが、今日では子供、孫、老人が離れて暮らし、世代間の繋がりと茶文化の潮流は断絶している。

茶の品質評価基準を見直す必要性は、以前から熟していた。茶の世界でも時折、改革を訴える声が上がる。その中の一つは、眞鍋尚美の声である。著書『日本茶のなぜ・なぜ・なぜ?』の中で、彼女は次のように記している。

これまでは、緑茶の味の価値基準というものが非常に単一化されていました。旨味、甘味、まろやかさというものが中心となり、それを良いお茶の価値観としてきたのは、緑茶を単品で飲むという、常に緑茶を「主役」とする考え方になっていたからだと思います。

しかし緑茶の味を別の視点で見ると、ペットボトルの普及が証明するように、他の食品とケンカせずどんな状況・環境でも美味しく飲めるという特徴があります。言い換えると、インパクトの無さがインパクトと言えます。どんな食品に対しても相手の食べ物の味を損なわず、逆にすべての食品にフィットできる性質を中心に考えると、緑茶の味の価値基準を一つにしているのは、緑茶の可能性を小さくしてしまっている、もったいない状態と言えます。

「のどを潤す飲み物」「単一で味わう飲み物」という捉え方から、「食事や生活をもっと楽しくする飲み物」へと発想を転換することで緑茶の長所を今以上に広げることができます。緑茶のスキルアップのためには、緑茶をあらゆる食生活のバックアップができる「名脇役」という発想をすべきだと思うのです。» p. 49 真鍋尚美、緑茶業界、なぜ、なぜ、なーぜ?

真鍋氏は、偏った評価を避けようとする試みにもかかわらず、お茶と味をタイプ別に分けることなく、すべてを一つのカテゴリーに混同してしまっているのである。その結果、本来は一体であるはずの性質——飲みやすさと食事との相性——が、「視覚的なバリケード」の両側に分かれてしまっている。

著者は、両方のグループのお茶の利点を認める二重の視点を維持する代わりに、重心を反対の極端な方向へと移し、高級茶の価値を貶めてしまっているのである。

続いて真鍋氏は「意識改革」を提案し、自らの論理を修正することで、事実上両方の尺度を認めているのである。

«ブレンドにおいても、従来のように緑茶単独で考えるだけではなく、他の食材との組み合わせも考えた上で技術のスキルアップをさせることが不可欠となります。» p. 50

«緑茶の奥深さ、緑茶の伝統、新しい緑茶の使い方など様々な価値を追究する事は大切だと思いますが、やはり日常の中での「飲み物として生活を豊かにする価値」を中心に、一番力を入れるべきではないでしょうか。» P. 44

真鍋氏の直感は的確であるが、それにもかかわらず、彼女は緑茶の奥深さがどこか程遠い深淵に隠されていると信じ続けている。彼女自身がそれを定式化したばかりであることに気づかずに、である。

真鍋氏は、単なる「味覚的な味」による品質評価の枠組みを超え、中間的な「複雑な味」を経て、「純粋な」生理学的な味の方向へと進んでいる。

«緑茶の味の価値基準は、旨味と苦味のバランスで判断されています。ですから、その範囲内で専門家は差をつけようとしてきました。しかしそれでは、緑茶のことを知らない消費者がお茶を楽しもうとしても、味の幅を狭く感じ味の違いがよく分からず選択に迷ってしまいます。新しい消費者の開拓を考えた時、お茶に初めて親しむ人でも味の違い・分類が分かりやすい価値基準を設けることが必要ではないでしょうか。

旨味と苦味以外にも、「渋くて美味しい」「さっぱりとして美味しい」などといった新しい味の付加価値を付けることで、緑茶のさらなる味わいを発見し、可能性を広げていくべきだと思うのです。

そう考えれば、例えば一番茶のまろやかさがすばらしくて二番茶・三番茶は格下というような差別が無くなり、それぞれの美味しさを発見することができます。さらに一煎目・二煎目・三煎目それぞれの価値を分かりやすくすることで、より緑茶全体の価値を高めることができます。» p. 52

研究者は、味の新しい評価基準、すなわち「品質の外見的現れ」について述べている。我々は、茶園や製茶工場で作り出される茶の品質評価システムそのものを根本から見直すことを提案する。そこにこそ「お茶の意識改革」があると確信しているのである。

しかし、ドグマ(教条)という一本の塔がそびそびえ立つ城塞を解体し、品質という新たな城の建設に着手する前に、その城塞がいかなる土台の上に、どのような手法で築かれたのか、つまり日本茶の高級化がいかに進められたのかを、少なくとも概略的に辿ってみることには意味がある。

以下に、差別化を目的として茶の洗練度を人工的に高める方法である「差別化」の主な方式について考察していきたい。

19 肥料と緑茶の品質

今日、肥料の施用と日本茶の品質評価の間には、事実上切り離せない関係が存在している。その根源は歴史に深く根ざしており、高級日本茶の生産拠点としての宇治の成立と密接に関連している。

小西茂毅は著書『日本茶の魅力を求めて』(2005年)の中で、この関係性の本質を明らかにしている。

«作物を作る場合、古くは、一つに焼畑によって養分を与える、二つに敷き草や動物の排泄物を与える、三つに輪作といって種類の違った作物を順次植える、などでより多くの収量を得る手立てが行われてきた。

チャの栽培の場合、古くから九州や四国などで見られる山茶に焼畑の跡が見られるが、平地ではやはり身近な敷き草や植物材料を、また動物の排泄物を投入したりしていたのだろう。特に人糞尿は茶づくりにおいて貴重な肥料として良質な茶生産に欠かせないものであった。このことは十四世紀中頃に人糞尿・下肥が利用されていたこと、特に都市を中心に盛んに利用されていた事実〔36〕から十分推察される。

それに加えて、当時、人々の暮らしの中で夜の明かりは灯明であり、菜種油や胡麻油がその油として使われていた。それに加えて、当時、菜種油の絞り粕は菜種粕といって極めて良い有機質肥料で、ゆっくりと植物に効き、収量、品質とも向上させ、貴重な販売肥料であった。これがまた都から京都を取りまく農業地に運ばれ、大いに利用されることになる。

チャの樹は、本来多くの窒素成分を吸収する能力をもち、また窒素を蓄える容量が極めて大きい〔37〕。それが生産量を増加させ、品質の向上、特にアミノ酸の生成に強く関わる。それゆえに宇治では茶づくりに大いに使われていたと推定される。その上に被覆が茶の品質向上を倍加させ、色、味、香り、風味ともにゆるぎない優れた茶・碾茶を産出させたに違いない。

当時、宇治の地は、水運、陸運〔図2―1〕とも発達し、特に水運は盛んで、これが輸送の速度を速め、また大量輸送を促したので茶の生産と流通が相まって拡大し、それに伴い下肥や、菜種粕などの肥料の流通も盛んになり、それらの投入がより良質な茶の生産を高めさせるようになる。

このことを受けてお茶の品質と肥料の施用との関係を示した珍しい記述がある。それは江戸時代の一六九五(元禄八)年に書かれた『本朝食鑑』〔38〕である。それによれば、茶の品質の良さの順位が肥料(下肥に菜種油粕や干鰯を加えたもの、今でいう“ぼかし肥料”)を春になるまでに与える回数で決まっており、上位から「極上の白(七~八回)極詰と別儀結(四~五回)、極揃と別儀揃(二~三回)、下品の部類の上揃と最も下品な煎茶(一回)」というグレードづけがなされ、肥料の重要性が書かれている。この書物に出てくる他の作物にはこのような記述はない。

ちなみに今日でも菜種粕は宇治茶生産に使われる最も主要な有機質肥料であり、茶の生産において量的にも品質的にも肥効は優れ、その評価は極めて高い。一方、下肥・人糞尿も窒素成分が豊富で肥効は高いが、多施用による土壌の物理性の悪化・荒廃をもたらしたこと、使用上特に臭気や衛生上の問題などから昭和三十年代後半頃から姿を消した。» p. 62-63

宇治から始まった日本茶の歴史は、品質向上への志向が利益追求へとすり替わるにつれ、施肥と品質評価との関係が、合理性から次第に悪循環へと転じていったことを示している。

20 悪循環

肥料と日本茶の品質に対する「公式」な見解との関係は、今日に至るまで密接なままである。

化学合成された窒素肥料の登場により、利益の最大化への追求に拍車がかかったこの結びつきは、悪循環へと変貌した。それは環境や茶文化そのものだけでなく、人間の健康までも脅かす事態となっている。

化学窒素肥料は20世紀初頭にドイツで発明された。1909年、ドイツの化学者フリッツ・ハーバーが、窒素と水素からアンモニアを合成する「ハーバー法」として知られる手法を開発した。この方法によりアンモニアの工業的規模での生産が可能となり、窒素肥料製造の基礎が築かれたのである。

その後、1913年にBASF社の技術者であるカール・ボッシュが、このプロセスの工業化を実現した。この共同研究は「ハーバー・ボッシュ法」と呼ばれ、安価な窒素肥料の提供を通じて収穫量を大幅に増加させることを可能にし、農業の発展において極めて重要な役割を果たした。

1920年代から30年代にかけて、日本の農学者は窒素がお茶の味や化学組成に与える影響について研究を始めた。その結果、窒素は茶に旨味を与えるアミノ酸の一種であるテアニンの生成を促進することが確認された。

1920年代に日本を訪れたアメリカの調査官ウーカーズは、その著書『All About Tea(お茶のすべて)』の中で、伝統的な有機肥料と即効性のある化学肥料の両方が使用されていることに言及している。

«豆かす,干鰯,菜種油のかす,油かす,干し魚,硫酸アンモニウム,硝酸ナトリウム,大豆かす,過リン酸塩石灰,硫酸カリウム,人工肥料,米ぬか,牧草地の肥沃な黒土,下肥,緑肥といったものが日本で茶に使われる主な肥料である。硫酸アンモニウム,硝酸ナトリウムは即効性の肥料として使われている。一般的に肥料として使われるのは窒素分を主成分とするものである。宇治周辺では,1エーカーあたり230ポンド〔4,000m^2あたり100kg〕もの窒素と,リン酸肥料,炭酸カリウムがよく使われる。インドでは,1エーカーに対し30ポンド〔4,000m^2あたり14kg〕の窒素が,即効性の肥料として使われている。

新芽の成長には発酵した菜種油のかす,挽いて粉にした干鰯,米ぬか,即効性の肥料が使われる。これは追肥,または芽だし肥料と呼ばれており,年に3回,茂みの縁に浅く撒かれる。本肥料(秋肥)やりは9月中旬から10月中旬にかけての深く耕す時期に行われる。そして,遅効性の肥料が地面から3~4インチ〔8~10cm〕の深さに施される。

緑肥は普及していないが,日本人はある程度使用している。エンドウ,黒豆,セラデラ豆がよく使われる。が,アカツメクサも時には青物として育てられている。緑肥は夏と秋に地表に撒かれる。» p. 48

米国のアーカーから今日使用されているアール(10アールは1000平方メートル)に換算すると、ユーカーズは伝統的な日本の肥料に含まれる窒素レベルを10アール(1反)あたり約25kgと推定していたのである。

1970年代までに、この数値は4倍以上に増加したのである。

戦後、米国から日本に「緑の革命」が到来したのである。これは、農作物の収穫量を大幅に向上させた新しい農業技術の導入に伴う、農業の急成長期であったのである。

日本の茶産業は、緑の革命の主要なツールの1つである化学合成窒素肥料を、殺虫剤とともに積極的に利用するようになったのである。

今日、化学肥料(有機肥料との併用も許容される)と殺虫剤の使用に基づく、いわゆる「慣行農法」が日本茶の約94%を占めているのである。

前述の通り、肥料の集中的な投入は必然的に殺虫剤の使用の必要性を引き起こし、「肥料ー殺虫剤」という悪循環を形成するのである。日本は1990年以来、単位面積あたりの殺虫剤使用量において世界的なリーダーの1つであり、現在までその地位を維持し続けているのである。

1999年に研究者の中川致之は次のように記しているのである。

«従来、日本における緑茶生産の目標でもあったアミノ酸類の含有量が多く、旨味の強い茶を得るには、一番茶のみる芽摘み、窒素肥料の大量施肥が基本であった。また、玉露のように被覆栽培することによって、鮮やかな緑色になり、アミノ酸類が増加することが知られていた。

全国品評会で入賞するためには、一芯二葉芽の摘採という極端なみる芽摘みや、採算を全く度外視した多肥栽培が行われ、これによって初めてアミノ酸類の含有量が七%以上もある最優秀品が得られる事実もあった。表14-2に、窒素の施肥基準と、茶芽中のテアニン等アミノ酸類とタンニン(カテキン)含有量との関係の一例を示したが、窒素肥料の施用量を増やすほどアミノ酸類が多くなることが認められ、他の事例でも、だいたい同様な傾向が示されている。

一方、習慣的な多肥栽培地域では、茶の根が痛んで、畝間の吸収根が著しく少なくなり、そのため一層の多量の施肥が必要になる悪循環が指摘され、肥培管理を見直すべきであるという警告が発せられていた。

また、過剰の肥料を投与しても、茶樹への吸収量は、ほとんど増加せず、流出量が増加するだけの無駄で能率の悪い肥培管理になることも指摘されていた。

茶は、嗜好飲料であるため、品質による価格差は、極めて大きい。したがって、日本の茶業においては、価格の高い、要するに、アミノ酸類を多く含む旨味の強い茶を生産することが農家の所得向上と直結してきた。

そして、ごく単純に、多肥(特に窒素)、即、高品質、即、高収入という発想から、試験場等が収量調査や品質調査の試験結果から示している施肥基準を、はるかに上回る多肥栽培が行われてきた。

その結果、近年、茶園地帯周辺における河川水や地下水中の硝酸濃度の増大、ため池の魚の弊死等の環境汚染が現実の問題として浮上し、今まで農家が慣行的に行ってきた多肥栽培を一定水準以下に抑えることが急務になってきた。» p. 187-188、中川致之、お茶の香味と嗜好、緑茶文化と日本人、1999年

21 覆下栽培

日本は、抹茶、玉露、かぶせ茶といった、鮮やかな緑色と深い旨味が特徴の覆下栽培茶(被覆栽培茶)で有名である。

茶樹の遮光は、大量の施肥とともに、15世紀頃に宇治で始まった基本的な高級化の手法である。

インドの熱帯および亜熱帯地域では、茶園にいわゆる「シェードツリー」を植え、強い日差しから茶樹を守っているが、日本では専用の覆い(棚)を用いて日陰が作られる。

この事実について、ウィリアム・ユーカーズはその著書『All About Tea』の中で次のように指摘している。

«日よけ

茶畑で陰用の木を使うことは、日本ではほとんど知られていない。一方、より良質な茶を作るための茶畑では、人工的な陰を作るのに細心の注意が払われている。玉露は完全に陰で覆い、かぶせ茶は部分的に陰にする。

一般的に、人工的な陰を作るやり方として一列ずつ陰にする方法と、茶畑全体または部分的に陰にする方法の二つがある。前者の場合、干し草の山を作る時のような要領で列ごとに藁をかぶせる。この覆いは茶の木にそのまま乗せるため、木の成長を遅らせ、茶の色を良くする。この茶はかぶせ茶と呼ばれている。

玉露茶園では茶摘みの時期の直前に、特製の日除けで完全に覆う。日本人は、玉露特有の香りと味わいはこの方法がもたらしていると考えている。この方法だと、淹れた時の茶の甘みが増し、葉に濃い緑の色合いを与えるということだ。4月、芽が生え始めるころ、茶畑の上に6フィート(1.8m)ほどの高さの格子垣が建てられる。芽が葉になるころ、格子垣に覆いをかける。10日ほど経ったら覆いの上に藁をかける。茶摘みが終わると、格子垣は取り払われる。» p. 49

天然遮光は、野生の環境でも見られる。野生茶は日陰を「好み」、周囲の木々の樹冠の下、つまり森の中でよく育つ。それによって、太陽の紫外線から身を守っているのである。

紫外線から自らを保護するために、茶樹はカテキンやビタミンなどの抗酸化物質を生成する。日陰にある茶樹は、それほど強い紫外線にさらされないため、いわば少し「手抜き」をした状態になり、抗酸化物質の生成を抑えることができる。

そのため、日陰で育った茶は渋味成分であるカテキンが少なく、心地よく甘い旨味を持つようになる。渋味のあるカテキンについては概ね理解できるが、では、この甘みはどこから来るのだろうか。

実は、冬眠中の茶樹の根では約15種類のアミノ酸が合成されており、その大部分を占めるのが、甘く「コクのある」旨味の成分であるテアニンである。

春になると茶樹は目覚め、根から茎を通って新芽へとテアニンが運ばれる。太陽の光を浴びると、旨味成分であるテアニンは徐々に渋味成分のカテキンへと変化するが、日陰ではこの変化が大幅に阻害され、テアニンは新芽や開いたばかりの若葉の中に留まるのである。

魔法のような変身は、味だけでなく茶の色にも起こる。森の中で育つ茶樹の葉は、直射日光の下で育つ茶の葉に比べて、より深い濃緑色をしていることに気づくだろう。

光の量が減少すると、葉に含まれるクロロフィル(葉緑素)の含有量は約2倍に増加する。日陰に入ると、茶の葉は植物の生命維持に不可欠な光合成を行うために、約2倍のクロロフィルを合成するのである。

光合成とは、クロロフィルを含む細胞の中で、光エネルギーの働きにより無機物から有機物が生成される過程である。光合成において、植物は二酸化炭素と水を取り込み、有機物を合成し、副産物として酸素を排出する。

光合成は、まさに自然の驚異であり、生命誕生の魔法である。「無」から突如として「有」が生まれる、つまり、形のない太陽エネルギーから形ある物質が生み出されるのである。

茶樹を人工的に遮光することで、日本人は光合成を抑制し、その結果として旨味と深い緑色の茶葉を手に入れる術を編み出した。

次に、上品な味いと色合いの二大象徴である、最高級茶の抹茶と玉露について述べる。

22 抹茶――光と影、生と死

今はもう数世紀にわたる進化を経て、江戸時代であると仮定する。あなたはもはや未開人ではなく、京都に近い日本茶の聖地、宇治市に住む茶農家である。

鎌倉時代に禅僧の栄西が宋から茶の種を持ち帰り、明恵上人に伝えて以来、茶園はまず栂尾に、次いで高級茶生産の中心地となる宇治に整備された。

やがて宇治の農民たちは、高級緑茶を作るための2つの主要な技術を習得した。

1. 肥料(油粕、下肥等)の大量投入

2. 覆下栽培(遮光栽培)

栄西によって日本に伝えられた中国の抹茶(石臼で挽いた粉末緑茶)がプレミアムなアップグレードを遂げたのは、まさにこれら2つの手法のおかげである。唐の時代に生まれた苦味のある禅の飲み物から、濃厚な旨味と鮮やかなエメラルド色を持つ「儀式用」の日本抹茶へと変貌したのである。

ここで「日本式の遮光抹茶」の製造工程を簡潔に考察する(より古い中国式の粉末緑茶は「非遮光抹茶」と呼び、両者にそれぞれの価値があると考える)。

さて、収穫の約1ヶ月前、つまり4月の初め頃、農家は茶園の上に梁や垂木で木枠を組み、そこに藁編みの筵を掛けて茶園を影に沈める。

露地(例えば煎茶など)で日光を浴びて栽培する場合、茶芽に含まれるアミノ酸(甘味や旨味の成分)は、日光の作用によって次第に渋味成分であるカテキンへと変化していく。

これは旨味の強度を低下させるため、茶の品質低下を招くと考えられている。日本で一般的であるように、旨味を茶の品質の重要な指標とするならば、確かに品質は下がることになる。そこで機転の利く日本人は、遮光によって「品質を維持する」方法を見出したのである。

前述の通り、光合成はあらゆる植物の成長に不可欠な生命維持のための生化学的プロセスである。日光を遮ることはこのプロセスを妨げ、その結果、アミノ酸はカテキンに変化することなく茶葉に蓄積される。これにより旨味が劇的に強まり、また、茶葉に含まれるクロロフィルの含有量が増加するため、抹茶に深い緑色をもたらす。

松下智が指摘するように、「これは、茶の木にとってはきわめて不合理なことではあるが、香味の強い抹茶をつくるには不可欠な作業である。」p. 126, 緑茶の世界

松下智は、被覆栽培茶の不自然性を強調しており、それによってそれらの「良質」さの不自然な性質を指摘しているのである。「本来被覆もしない自然に育った茶の木から、茶の葉を摘んだものと思われるが、現在の抹茶はこのような不自然な管理しており、そのうえ抹茶畑には一般の茶畑の数倍もの肥料が施され、そうした茶畑で抹茶として良質のものが生産されるのが現実の姿である。」(緑茶の世界, 2002, p.120) 松下氏は、現代の抹茶が延命の仙薬とされた栄西の時代の抹茶とは別物であることを暗示しているのである。

しかし、現代の抹茶の栽培技術についての記述を続けよう。約10日後、筵の上に藁の束を振りまくことで遮光の度合いをさらに高める。光を奪われた茶樹は、実存的なショックを経験する。ある宇治の農家の言葉によれば、一部の樹は耐えられず、若い芽が死に始めるという。しかし、このとき急いで遮光を解かないことが重要である。なぜなら、その農家が語ったように、生と死の境界線においてこそ、茶は最も甘くなると信じられているからである。

ショック状態にある茶樹は、生き残ろうとして、いかなる量の肥料でも吸収しようとする。この時期、茶樹には文字通り肥料が詰め込まれる。それは例えば、フォアグラを作るためにおりに閉じ込められ、餌を詰め込まれるガチョウのようである。

以下に、数々の茶品評会で優勝している宇治のトップクラスの抹茶生産者、辻喜代治氏のウェブサイトからの引用を記す。

«お茶は『畑のフォアグラ』といえるでしょう。肥料を与えれば与えるほど吸収するんです。どんどん食べさせては胃薬を飲ませるという連続です。木としては耐えがたい苦痛ですが、それがうま味に変わります。肥料を吸えば吸うほどお茶の味はよくなるんです」と辻さんは言う。まろやかなお茶を作るためには、渋みの成分であるカテキンを抑制する必要がある。カテキンは、お茶の中にあるアミノ酸が日光に当たることで発生する。「宇治茶は雑味や渋みがないまろやかな味が特徴ですから、どんどん菜種油を肥料として与え、遮光して栽培します」と。

宇治のお茶農家では遮光は通常80%程度だ。しかし、辻さんの農園では、他の農家の2倍の肥料を与え、95%の遮光を行う。遮光は味や栄養分の濃度を高めるための育成抑制でもあるので、おのずと収穫量は減る。だから収穫量は、一般的なお茶農家の6割くらいにまで減る。この「多肥高遮光」という方法は「究極のお茶」を作るための辻さん独自の方法なのだが、一つ間違えると大損害をもたらしてしまう。

探求心と野心に満ちた就農3年目の当時、辻さんはおいしいお茶を作りたくて多肥高遮光をぎりぎりまで試してみた。ところが、限界を超えてしまい、10aすべての木を枯らしてしまった。新芽は幸いにも収穫できたが、おおもとの木をすべて枯らしてしまったのだ。お茶は木を植えてから5年目でやっと新芽が取れる。5年間その10aからは何も収穫できなかった。

「しかし、枯らしてしまったおかげで限界がわかったんです。若いころにこの痛い経験をさせてもらったことがとてもよかったんです」と辻さんは言う。

木がフォアグラみたいに栄養を詰め込まれて疲れて、生き残れるぎりぎりのところまで追いつめて、「もう枯れる」という直前に摘んだ新芽が究極の碾茶となる。それが今年日本一になった作品だった。»

このような茶樹やガチョウに対する扱いの倫理についての議論は、本書の範囲を超えるものである。読者に示すべきより重要な点は、プレミアムな旨味という対価として、どのような代償を払う必要があるかということである。

高濃度の窒素は茶の植物にとって毒性があり、根を焼き、茶樹の成長を阻害する。そして、上記の例が示すように、枯死に至らせることもあるのである。

茶樹は与えられた窒素肥料の全量を吸収することはできず、その大部分が地下水へと流出する。それが河川や湖沼に流入することで魚類を死滅させ、環境災害の原因となるのである。

化学合成肥料のみが危険であるという誤った認識が存在するが、実際には有機肥料の過剰投与も同様に危険であり、土壌構造を破壊して使用不能にする恐れがある。

1950年代に宇治を襲った環境災害について、松下智は次のように記している。

«数百年続いて来た宇治の抹茶に異変が生じたのは、昭和三〇年代になってからである。茶の木が年々衰弱して、茶の新芽が伸びなくなり、毎年の新茶も不作続きとなって、見るからに茶畑が、疲弊しきってしまったのである。

茶業研究所をはじめ、研究機関、行政等関係者総動員で調査研究の結果、長年にわたる有機肥料、それも、京都からの下肥によるアンモニアとアルミニウムや鉄分が茶畑の地下二~三メートル辺りに沈澱して、大変硬い層を作ってしまっていたことが分かった。

京都の宇治にとってこの状況は、死活問題であり、早速あれこれと対策が講じられた。

最後には、ダイナマイトで爆破することになったが、一部分に穴があく程度で、とても茶畑全域には及ばない。万策尽きたのだが、時あたかも、田中内閣の列島改造論が動き出し、大阪の経済界が大変活発になり、周辺各地に住宅ブームが起きたのである。

宇治の茶畑がある所は、南向きの緩やかな傾斜地で、住宅には最適地であり、大阪経済発展の余波で、急激に住宅化したのである。

斯くして、宇治の抹茶生産は、全国一の座を愛知県の西尾市に譲ることになる。» p. 39-40、日本茶、美味しさを究める

多肥栽培による破壊的な影響については、小西茂毅もまた記している。

«一方、下肥・人糞尿も窒素成分が豊富で肥効は高いが、多施用による土壌の物理性の悪化・荒廃をもたらしたこと、使用上特に臭気や衛生上の問題などから昭和三十年代後半頃から姿を消した。» p. 63 日本茶の魅力を求めて

23 茶葉形状の高級化

茶葉の形状は、歴史を通じて様々な機械的変化を遂げてきた。それは純粋に実用的な理由(抽出の改善、保管や輸送のためのコンパクト化)だけでなく、美的価値や商品としての魅力を高めるためでもある。

実用上の必要不可欠な改善と、機能的な意味を持たない形式的な外観の装飾。この両者の間にある細い境界線は、門外漢の目には必ずしも明らかではない。

茶葉の形状の完全性は、一般的に、茶の飲みやすさ、そして自然な香味の完全性を保証するものである。これらは、過度な熱処理や機械的な加工によって損なわれる。特に繊細な若芽は、強い加工の影響を最も受けやすい。

古代中国において、茶は薬として見なされていた。有効成分を最大限に抽出するため、茶は比較的粗い粒状に砕いて煮出す(主に唐代)か、あるいは現代の抹茶のように茶碗の中で泡立てる微粉末(主に宋代)に加工されていた。

前者の場合は煎じ汁を飲み、後者の場合は茶の懸濁液を飲むことで、実質的に茶を丸ごと摂取していたのである。

そうすると茶葉の変形は味の変形を招き、味は「滑らか」で「まろやか」なものではなくなる。唐代において、粗い粉砕によって「損なわれた」味を和らげるために、塩、生姜、ネギ、柑橘類の皮などが加えられ、茶がスープのようになったのは明白である。中国で今でも茶の液を「茶湯(ちゃとう)」、つまり茶のスープと呼ぶのはその名残である。

宋代において、粉末にするための団茶は、格別の細心の注意を払って加工された。摘み取られた芽は水に浸され、何度も圧搾機にかけられ、水で洗浄された。これにより苦味は取れたが、同時に多くの有効成分が失われる結果となった。

注目すべきは、陸羽がその著書『茶経』の中で、茶の精髄、あるいは彼が言うところの「膏(あぶら)」が失われることに反対していた点である。この「膏」が表面に浮き出ることで、茶に美しい光沢が与えられるのである。

その一方で、陸羽は、特定の外見上の特徴がそれ単体で必ずしも品質の良し悪しを決定する指標にはならないと警告している。

仏教的観点から見れば、茶の品質とは「空」であり、すなわち無数の因縁によって成立する相対的存在である。形は空であり、いかなる内容をも宿しうる器にすぎず、単なる形状のみをもって茶品質という複雑な現象を判断することはできない。品質とは絶対的なものではなく、あくまで相対的なものである。

陸羽は次のように記している。

«餅茶は光黒平正(表面につやがあって黒く、形がきちんとしたもの)がよいと判断する人もいる。これは茶の鑑別(かんべつ)の見識(けんしき)としては下等である。逆に、皺黄坳垤(しゅうこうおうてつ)(表面に皺(しわ)があり黄色(茶色)で、でこぼこがあるもの)がよいと判断する人もいる。これは茶の鑑別の見識としては中等である。

そのような外形にとらわれず、いいものであれば全てよいと判断し、よくないものであれば全てよくないと判断する人がいたとすれば、それこそ茶の鑑別の見識としては最上である【あるいは光黒平正をもって嘉(よ)しと言うは、これ鑑の下なり。皺黄坳垤をもって佳(か)と言うは、鑑の次なり。もし皆嘉しと言い、および皆嘉からずと言うは、鑑の上なり】。» p. 37-38、高橋忠彦、茶経、喫茶養生記、茶録、茶具図賛, 2013

明代に中国全土へ広まった揉捻の製法は、茶葉への損傷を必要最小限に抑えつつ、茶を味わい深く芳香豊かなものとし、さらに淹れやすい実用的な飲料へと発展させた最適な折衷であった。

16世紀末に著された張源の『茶録』において、彼は茶の品質そのものを「茶の妙」と呼び、その優劣を決定する原因と条件について考察している。

張源は、あらゆる工程において節度を守ることを説き、とりわけ茶葉の熱処理と機械的加工における適切な加減の重要性を強調している。

品質評価(辨茶べんちゃ)の章で彼はこう記している:

«順当にうまく揉捻(じゅうねん)すると甘くなり、理に逆って揉捻すると渋くなる。» p. 47、明代二大茶書 張源『茶録』 許次紓『茶疏』 全訳注 岩間眞知子 訳注、2023

『茶録』の「造茶」の章において、張源は「((茶葉を)軽く団子状に揉捻する」と述べている。p. 44

現代の中国茶を見れば、その撚りの強さにはさまざまな段階があることがわかる。しかし、最も強く撚られた場合でさえ、茶葉そのものの損傷や組織破壊は極力抑えられており、葉の形状は比較的自然なまま保たれている。

そのため、日本の煎茶のように強い苦味を生じることをほとんど心配せず、熱湯で淹れることが可能である。全体として見れば、中国茶は熱湯耐性において日本茶を凌駕していると言える。

日本の葉茶は長らく揉捻されず、さまざまな番茶の形で存在していた。しかし、1738年に高級煎茶が考案されて以降、撚りを強化する方向性が明確になっていった。

煎茶の進化は、葉茶の形態における高級化を示す典型的な例である。撚られていない平番茶の葉から、表面に滲み出た脂によって艶を帯びた、細く針のような高級煎茶へと至るその変遷は、そのことを如実に物語っている。

24中世における日本茶の高級化

15世紀、室町時代に入ると、京都やその他の都市の街頭には、廉価な番茶を売る商人たちが姿を現し始めた。自家用の茶として生まれた葉茶は、徐々に商品へと変わっていく。

商人の中には、寺院の近くに設けた粗末な仮小屋で番茶を煮出して売る者もいた。彼らはしばしば、今日でも富山県のバタバタ茶愛好者が行うように、抹茶風に番茶を泡立てて供した。

当時、番茶はまだ煎茶から明確に分化しておらず、葉茶全般は「煎茶」と呼ばれていた。これは「煎じ茶」、すなわち煮出し茶を意味する。安価で大衆向けの煎ぢ茶こそ、今日われわれが番茶と呼ぶものに相当すると考えられる。

また別の商人たちは、煮立てた煎ぢ茶の入った釜と茶碗を天秤棒で担ぎ、「一服一銭」で人々に売り歩いた。

さらに、「煎じ物」と呼ばれる茶の煎じ液には、古き『茶経』の伝統に従い、塩、生姜、各種薬草などが加えられることも少なくなかった。こうした煎じ物やその売り手たちは、中世能楽の作品にもたびたび登場する。

長崎のオランダ商館に勤務していたドイツ人医師・博物学者エンゲルベルト・ケンプフェルは、1691年および1692年に商館長の江戸参府に随行した。彼は『江戸参府旅行日記』の中で、庶民が番茶をどのように飲用していたかを記している。

「女たちは,茶の支度にとりかかったり,また暖かい飲み物を茶碗の中でかき混ぜ,おいしく泡立て,また冷たくして,旅人の需に応じて出す。…(中略)…人々は若葉(これは大抵高貴な人々の食卓に出される)を摘んだ後の,あるいは前年から残っているこわい葉を使う。

これらの古い葉は摘み取るとすぐに葉を巻くことをしないで,平らな鍋の中で絶えずかき混ぜながら強く炒り,藁で作った大きな袋に入れて,屋根の下の煙の当たる所に貯えておく。徒歩の旅行者に出すこの手の茶の入れ方は大へん簡単である。ひと握りか,もう少し多量の茶の葉を小さい袋に入れるか,あるいはそのまま鉄の薬罐の中に入れ,水を加えて煮るのだが,同時にその中に小さい籠が入っていて,それで葉を下におさえておき,いつでもきれいな茶を汲むことができるようになっている。

それから柄杓で茶碗に半分ほどつぎ,冷たい水を足して温度を下げて客に出す。古いのや去年とった葉を使って出した褐色の茶はかなり渋く灰汁の味がするが,日本人はこういう茶を,中国風に若葉を撚って作ったものよりも,毎日使うには都合が良いと思っている。」 p. 143、桃山~江戸中期,庶民のお茶、西村俊範

西村俊範は、番茶には褐色が典型的であったと指摘している。

«そして庶民が用いる茶葉は,そのような高級茶を作った残りの柔らかい葉ばかりか,前年からの古い葉・こわい葉を鉄鍋で釜炒りにして殺青している。これは製法としては中国で明代以降に主流となった釜炒り茶の製法であり,また茶葉のランクでいえば,日本では最下級の番茶クラスの茶の製法にあたるものである。ケンプフェルが茶の色を「褐色」と述べていることからもこれは間違いない。

当時の下級茶が「褐色」という言葉で表現される色合いであったことは,慶長年間後半期の1610年ごろの制作とされる「賀茂競馬図」(図6)に見える振り売りの茶の色が,かなりの濃褐色に塗られていることからも確かめられる。ちなみにこの賀茂の茶もまたかなり長いほうきのような茶筅で点てられていた。» p. 144、桃山~江戸中期,庶民のお茶、西村俊範

西村俊範は次の興味深い注釈を付けている。

«ケンペルは実際にこの茶を飲んだようで,「かなり渋く灰汁の味がする」と感想を述べている。この庶民の飲む下級茶はのちに「渋茶」と呼ばれることもあり,まさにその通りの味わいの茶であったろう。さらに,「灰汁の味がする」というのも決して奇妙な表現ではない。

当時の茶では,摘み取った茶葉の新鮮な緑色を残すために灰汁水で湯引きすることも行われていた。ケンペルが飲んだ茶もそのような茶であった可能性があり,大変貴重な証言と言える。江戸期には最上等の茶は灰汁水に漬けずに蒸して焙炉で焙って仕上げるものであった。そのため上等の茶は緑色が薄く,「白茶」とも呼ばれていた。» p. 145 桃山~江戸中期,庶民のお茶、西村俊範

西村氏は、番茶を点てるために茶筅を用いることは、単に高級な抹茶の模倣というよりも、何らかのより実利的な意味があったと考えている。

«茶筅を使う目的は,灰汁の味がするようなとても美味とは言い難いお茶の味を,空気の中に攪拌することで幾分なりともまろやかにして和らげる工夫だったのではなかろうか。当然加えた塩の攪拌という意味合いもそこには含まれていたであろう。» p. 146、桃山~江戸中期,庶民のお茶、西村俊範

西村俊範は、発掘調査の成果から判断する限り、17世紀末頃までは、煎じ茶を商う人々が番茶の飲用に、大型で茶筅の擦過痕が確認された茶碗を使用していたことを指摘している。

17世紀末以降、とりわけ18世紀半ばにかけて、発掘資料には茶筅の使用に適さない小型の茶碗が次第に増加していった。

西村俊範は、この変化の背景を、茶葉を熱い灰汁で湯通しする工程が徐々に廃れたことに求めている。この工程の廃止によって茶の品質が向上し、泡立てる必要性が失われたのである。煎じ茶の品質向上は、17〜18世紀にかけて釜炒り茶への大規模な移行とも深く関わっていた。中国から伝来した釜による加熱製法は急速に日本各地へ広まり、自家用茶の主要な製法となった。

庶民は家の周囲を囲う垣根や田の畦などに茶樹を植え、鉄釜で茶葉を炒りつつ、適宜それを藁筵に広げて揉捻し、抽出性を高めた。その後、同じ釜または日光によって乾燥させた。

釜の使用に加え、技術的革新として重要であったのが、筵や板の上で行われる茶葉の揉捻、すなわち「揉み」の工程である。場合によっては足で揉むこともあった。このようにして生産された釜炒り煎じ茶(番茶)は、素朴な風味と黒褐色を特徴とし、そのためこの製法は「黒製」と呼ばれた。

この「黒製」は家庭用としては十分であったが、江戸時代における経済、流通網、そして購買力ある市場の発展は、より高級な茶商品の創出を求めることとなった。

西村豊紀は、社会の階層分化が進む中で、その影響は日本茶にも及び、茶もまた階層に応じてさらなる等級分化を遂げていったと指摘している。

«江戸時代は厳しい身分制度の時代であり,経済の繁栄と共にそれぞれの身分内で貧富の差が重層的に拡大した時代でもあった。お茶もまたその影

響を免れていない。» p. 70、江戸時代の上茶、

西村俊範

1738年、宇治田原の茶農・永谷宗円によって高級リーフ茶の製法が開発されたといわれ、「青製煎茶製法」と名付けられた。

25 煎じ茶から煎茶へ

多くの人は、煎茶は1738年に永谷宗円によって発明されたと考えている。しかし、実際にはそれは必ずしも正確ではない。煎茶はそれ以前から「煎じ茶」として存在しており、番茶を含むあらゆる葉茶を指す言葉だったのである。

史料を研究した桑原秀樹は、永谷自身は書き置きを残しておらず、永谷宗円の子孫が1852年(嘉永5年)に著した「嘉木歴覧」には、次のように記している。

「私たちの先祖は当地に古くから住み、茶園を開発して、上煎茶を始めて作りだしました。上煎茶の始祖といわれている家柄です。p. 318-319, 製茶の研究、桑原秀樹、2025

桑原は、永谷が煎茶そのものの創始者であるとはどこにも記されていないことを強調し、永谷宗円の戒名には「和漢上煎茶梨蒸元祖」と書かれていると指摘する。

桑原氏は、明らかに後世の誰かが永谷を高級煎茶の祖から煎茶全体の発明者へと変貌させたのだと結論づけ、その背後には、永谷が自らの煎茶の販売を託した茶商「山本山」が存在した可能性が高いと推測している。

永谷宗円は、煎茶の発明者ではなく、その高級化者であったことは明らかである。

新たな煎茶の製法を解明するために、桑原は『宇治市史』の一節を引用している。

「煎茶は、元文3年(1738)綴喜郡宇治田原村湯屋谷の人、永谷宗円の創始した現在日本の代表的な茶である。従来煎茶と称されていた茶は、摘採も製造も甚だしく粗雑なもので、今日の番茶にも劣るものであったが、この煎茶は、当時すでに精妙を極めていた抹茶の製法に則って作られたものである。

すなわち、①古葉を混ぜず若芽だけを摘み、②これを蒸籠で蒸し、③日乾や風乾することなく終始焙炉の上で揉みながら乾かしたもので、色青く、香味共によく、従来の煎茶とは雲泥のちがいであった。この製法を『青製』とも『宇治製』とも言っている。」 p. 318

桑原氏の考えでは、従来の煎茶と永谷宗円が創始した上煎茶の違いは、以下の三つの条件を組み合わせた点にある。

«①新芽だけを摘む②蒸製③終始焙炉の上で揉むの三つを合わせたものと書いています。永谷宗円の三条件の内①新芽だけを摘むと②蒸製は近隣の宇治では古より行われてきた碾茶の製茶方法と同じで永谷宗円の発明ではありません。

宇治田原湯屋谷は宇治から2里ほどしか離れていないので、永谷宗円は宇治の碾茶栽培、碾茶製造を充分知っていたと考えられます。③の終始焙炉の上で揉むの内、日干せずに焙炉で乾燥するのは碾茶製造で行われていたので、永谷宗円の創始は「焙炉の上の空中において両手で茶を揉む」という一点です。

「従来煎茶と称されていた茶」の揉み方は、床に蓆(むしろ)を敷いてその上で揉む床揉み(とこもみ)や板や竹に縄を巻いてその上で揉む盤揉み(いたもみ)や足で揉む足揉み(あしもみ)や永谷宗円が行なった手で揉む手揉み(てもみ)を行っていたのですが、永谷宗円は、床揉み、盤揉み、足揉みをしないで、空中での手揉みだけにしたという事です。» p. 318

なぜ桑原は、永谷が今日行われているような強い揉捻のために全身を乗せるのではなく、茶葉を両掌に挟み、空中でやさしく揉みながら撚っていたと考えるのだろうか。

«永谷宗円が使用したであろう焙炉は、宇治の碾茶焙炉かそれを真似て造られた焙炉です。この当時の焙炉は茶を揉み乾かす道具では無くて、茶を乾かす道具でした。焙炉が揉み乾かす道具になるのは、焙炉に使われる助炭が紙助炭から木枠の助炭に変わり、竹の渡し棒が鉄の渡し棒に変わってからです。永谷宗円の時代の焙炉は竹の渡し棒の上に竹の網代を置き、其の上に和紙の焙炉紙を載せただけですから、焙炉は完全に乾燥する道具で茶を揉む為の道具ではありません。

永谷宗円の手揉手法は、露切(つゆきり)、葉干し、茶切)と空中での揉切だけだったと考えられます。両手を空中で合わせて揉むだけですから、茶葉に強い力を掛けることが出来ず、非常に長い時間がかかったものと思われます。また、仕上げ揉みの工程も揉切だったので、今のような真直ぐな針のような形にはならず、やや太めで曲がった形の茶になったものと考えられます。強い力で揉むことが出来ないので茶の細胞壁を壊すことが少ないことから、渋みの出にくい穏やかな味の茶になったものと考えられます。また、強く締め過ぎないので香りは引き出しやすかったものと思われます。»p. 319

なぜ桑原氏は、永谷が今日行われているような強い揉捻のために全身を乗せるのではなく、茶葉を両掌に挟み、空中でやさしく揉みながら撚っていたと考えるのだろうか。桑原氏は次のような推測を述べている。

永谷宗円が使用したであろう焙炉は、宇治の碾茶焙炉かそれを真似て造られた焙炉です。この当時の焙炉は茶を揉み乾かす道具では無くて、茶を乾かす道具でした。焙炉が揉み乾かす道具になるのは、焙炉に使われる助炭が紙助炭から木枠の助炭に変わり、竹の渡し棒が鉄の渡し棒に変わってからです。

永谷宗円の時代の焙炉は竹の渡し棒の上に竹の網代を置き、其の上に和紙の焙炉紙を載せただけですから、焙炉は完全に乾燥する道具で茶を揉む為の道具ではありません。

永谷宗円の手揉手法は、露切(つゆきり)、葉干し、茶切)と空中での揉切だけだったと考えられます。両手を空中で合わせて揉むだけですから、茶葉に強い力を掛けることが出来ず、非常に長い時間がかかったものと思われます。また、仕上げ揉みの工程も揉切だったので、今のような真直ぐな針のような形にはならず、やや太めで曲がった形の茶になったものと考えられます。

強い力で揉むことが出来ないので茶の細胞壁を壊すことが少ないことから、渋みの出にくい穏やかな味の茶になったものと考えられます。また、強く締め過ぎないので香りは引き出しやすかったものと思われます。» p. 319

焙炉の構造上のこうした特徴について、桑原に示唆を与えたのは、彼の師である若原英弌教授であった。

若原氏は著書『日本茶の歴史と文化』の中で、«事実、碾茶の製造の場合は絶対に茶を揉まないから枠のついた丈夫な助炭は使わない。宗円以後この助炭が用いられるようになったのである。»と述べている。p. 208

1837年の坂本富吉(1798–1839)の記録を調べた大石貞男は、焙炉には簡素な渡し棒の枠しかなく、強い揉捻は不可能であったと指摘している。

中村羊一朗の著『茶の民族学』には、次のように記されている。

«従来の焙炉は、土で築いたかまどに炭をおこして割り竹を渡した上に和紙を張った枠を載せるだけであるから、茶葉の水分を蒸発させることはできても、その上に力をかけて茶葉を動かすことはできなかった。しかし、明治初年にいたり、助炭の下に鉄棒などを渡すことが始まり、これによって助炭に体重をかけて茶を揉捻することができるようになった。» p. 277

永谷宗円が当初、茶葉の乾燥と空中の軽やかな揉捻のために用いていた焙炉は、やがて乾燥や強揉捻を目的とする「近代煎茶」の焙炉へと変貌した。

ここで当然生じるのは、なぜ茶葉に強い揉捻が必要とされたのか、という問いである。中村羊一郎は、「輸出を前提とする品質向上を目的にざまざまな改良がこらされた製茶の技法」 と記している。p. 277

言い換えれば、これらの変化は第一義的には美観のため、すなわち煎茶の商品的魅力を高め、その高級化を推進するためになされたのである。

若原英弌は、«宗円以後この助炭が用いられるようになったのである。また揉む技術も従来の焙煎茶のそれとは大いに異なり、飛躍的に進歩、改良されていった。製品の形状を重視するようになったためである。» p. 208-209

日本に迫り来る資本主義は、日本茶に、まず魅力的な商品であることを要求し、飲料としての本質的価値は二の次とされた。

煎茶の高級化の特徴を考察する前に、まずこの茶種が本来持つ実用的な使用価値について確認しておきたい。

26. 煎茶 ― 日本茶における黄金の中庸

1738年、永谷宗円は、日本茶の象徴となる緑茶・煎茶の製法を生み出した。今日、日本で生産される茶の80%以上を煎茶が占めている。煎茶製法の成立にあたり、永谷は抹茶と番茶、それぞれの技術的要素を取り入れたと考えられている。

煎茶の誕生をもたらした質的変化は、「上」からの抹茶の視点と、「下」からの番茶の視点、その両方から捉えることができる。一見すると、煎茶は抹茶の位置から「下降」しつつ、同時に番茶の位置から「上昇」したようにも見える。ある意味ではそうであり、またある意味ではそうではない。

実際には、その過程は見た目ほど単純でも直線的でもない。なぜなら、「抹茶」であることが必ずしも「優れている」ことを意味せず、「番茶」であることが必ずしも「劣っている」ことを意味しないからである。

これまで繰り返し述べてきたように、茶の品質を直線的に捉える見方は、日本に長く存在してきた二元的評価体系によって支えられている。この体系では、抹茶は最高級茶、番茶は低級茶と位置づけられる。そして、この価値観に基づいて品評会の評価基準も形成されてきた。しかし、人生は品評会ではない。人生には人生独自の法則がある。

茶の世界も人間社会と同様に、優劣という階層的区分は人工的なものである。それぞれの茶にはそれぞれ固有の良さがあり、その理解こそが、本書が追求する茶の品質評価の本質である。

では、番茶の視点から煎茶の誕生を見てみると、次のような変化があった。

・茶はより便利になった(煮出す必要がなくなった)。

・味と香りはより濃厚になったが、その一方で飲みやすさはやや低下した。煎茶は、明確なアミノ酸由来の「うま味」によって、渇きを癒やす力や日常の食事との親和性において、番茶より劣る側面を持つようになった。

・茶はより洗練され、流通によって広く入手可能になった一方、価格面では以前より手の届きにくいものとなった(かつて多くの日本人は、自家栽培の茶樹から番茶を作るか、近隣で安価な大葉番茶を購入していた)。

・商品としての性格を持った煎茶は、茶の生産地でない都市部でも購入可能となり、日本茶普及に大きく貢献した。資金さえあれば都市で手に入る煎茶は、都市化の潮流に合致し、まず第一に都市の茶として発展した。

・煎茶は本質的に、都市の上流階級やその他の購買力ある層を主要な対象とするプレミアム商品として成立した。

それでもなお、大石貞男が指摘するように、明治期の手揉み煎茶の標準は「一芯三葉」であり、これは中国高級茶に見られる雀舌よりも粗く、廉価で、実用的なものであった。

より大衆的な煎茶は、番茶性を保持し続けた。すなわち、番茶由来の価格的民主性と、基礎的な生理的味覚に支えられた汎用的な飲みやすさである。

好川海堂は、抹茶と煎茶が相互に補完し合いながら、日本の茶文化形成に大きく寄与したことを強調している。

«大成した茶の湯茶道なるものは、誠に日本文化の特色を發揚して近代文化の基礎となつてゐる。今日では其精神が枯れはてて閑人の閑戲となつて了つたやうであるが、それでも其趣味精神は、我國民の日常生活の間に現在も尙生きてゐるものの存することは何人も否定できないであらう。

この抹茶を中心として養はれた茶道の趣味精神が廣く社會の高下を問はず、一般民衆の間に流行普及したことに就て、大きな實際的の力となつたものは、何と云つても、抹茶よりは簡單で經濟的で實用的で 然も抹茶に似た高雅な趣味性を有した煎茶が出来て、殆んど嗜好の有無に拘らず、如何なる家庭にも儀禮的に使用さるるに至つたことが有力な原因と思はれる。» p. 51 日本茶の由来と特色、1936

注目すべきは、煎茶がその「番茶性」のお陰で、日本茶に社会的・嗜好的な境界を超えさせ、日本茶を全国に広める役割を果たした。その番茶性は、その後のさらなる高級化の過程において、徐々に駆逐されていった。

・抹茶の立場から煎茶を見るならば、次のように言える。

・茶はより便利になった(竹製の茶筅で点てる必要がなくなった)。

・茶ははるかに軽やかで淡泊となり、その結果、より飲みやすく、日常的な飲用に適したものとなった。

今日、抹茶は健康に極めて有益な「スーパーフード」として広く認識されている。では、それは煎茶が抹茶より健康効果の低い茶となったことを意味するのだろうか。全体として見れば、必ずしもそうではない。むしろ、飲用頻度の増加を考慮すれば、総合的な健康効果はさらに高まったと言える。

煎茶は、その煮出し茶としての「父」である煎じ茶(番茶)から、生理活性物質――とりわけカテキン類――の大部分を湯に移行させるという最も重要な特性を受け継いだ。

日本茶とその効能について詳細な記述を残した最初のヨーロッパ人は、宣教師ジョアン・ロドリゲス(1561頃–1633)であった。

彼はその著書『日本教会史』の中で、次のように記している。

«それを用いている人の経験によれば、実際に多くの効能があり健康にも甚だ有効である。

第一の、しかも主要なことは、食物の消化を大いに助け、食べ過ぎによってつかえた胸を楽にし、食べた物を消化させて下に下りるようにし、胃を大いに丈夫にすることである。もちろんかかる理由からして、それを用いることによって胃を強壮にするので、強くて堅い物を食べた後に茶を飲むことは、軟らかであまり強くない物を食べた後に飲むよりもいっそう適している。それは、食物の消化を早めるからである。従って、一般にいって、エウロッパ人にはきわめてよく適合している。» p. 578

ロドリゲスが述べているのは、どうやら葉茶としての煎じ茶/番茶であると考えられる。食後に番茶を飲む習慣は、今日に至るまで日本に受け継がれている。

またロドリゲスは、茶の利尿作用のみならず抗菌作用についても記しているが、それらは近代科学によって実証されるまで、さらに四世紀を要した。

«体内の余分なものを尿によって大量に排出させる。多量に飲む者は、苦しまずに、楽にしばしば多量に放尿する。その他いろいろな効果がある。こういうわけで、シナと日本は人口が稠密であり、特にシナには人間があふれているが、彼らは昼も夜も絶えず茶 cha を飲み、決して冷水を飲まない。なぜなら茶 cha は彼らの日常の〔原文空白、「飲物」に当る語欠脱か〕で夏も冬も常に沸かして飲むからである。

彼らは自国にたくさん茶があるので、これら二つの王国には、エウロッパやその他の地方に見られるような疫病が普通にはなく、ここではきわめて稀であって、それは、悪い液体を生じさせる余剰物を排泄するこの茶 cha のおかげである。

通常、食事の終りには必ず茶 cha を飲んで、水を飲む時のように胃の調子を狂わすことなく、むしろ、その調子を整える。» p. 580

以下に、抹茶と煎じ茶(番茶)の共存と競合についてロドリゲスが記した、きわめて興味深い一節を紹介しよう。

日本人は、茶の用法を学んだシナにおけると同じように、昔は茶 cha を煮出して飲んでいた。今でも日本のある地方では下層の人々や農民の間でそれを飲んでいる。それを煎じ茶 xenzicha [xenjicha] というが、煮た茶 cha の意である。

しかしながら、その後、時がたつにつれて、茶そのものを飲むようになった。それはまず干すか焙るかした葉を、小さくてすこぶるよく出来た黒い石の臼で、細かい穀粉のように緑色の粉末に碾く [碾き茶、抹茶]。臼はそのためにのみ使われるもので、茶臼 chausu と呼ばれ、茶 cha の臼の意である。

である。このようにして碾かれた緑色の粉末は、上質の漆の小筥[棗]、または同じ用途を持った陶土の小さな一種の壺 [茶入れ] に入れる。

そして、それ専用の竹製の小匙[茶杓] で、これらの粉末を取って一匙か二匙磁器 [茶碗] に入れ、この場合のためにいつも用意してある沸騰した湯をすぐその上に注ぎ、かねてこのために調えてある竹製の小さな刷毛[茶筌] で、優雅に、かつ器用にそれを攪きまぜる。

そうすると、緑色の茶 cha の粉末が溶けて粒がなくなり、同じ色をした湯のようになる。このようにして茶そのものを飲む。このような飲み方で、前に述べたその本来の効果を煮出して飲むよりもいっそう強め、効能があるようにする。

しかし、日常しかもたびたび飲むのには、シナ風に煮た方が、いっそう健康によく、自然に適しているように思われる。なぜならば、あの熱湯で軽く煮出したものには、茶 cha の有益で本質的なものが出て、澱(おり)や滓(かす)のような効能のない余分なものが後に残るからである。

こんな風にして、茶をそのまま飲むよりは、数多く何度も飲むことができる。そこで、日本人の間で日常しばしば飲むためには、碾いた茶 cha の粉末をほんのわずか入れる習慣なので、その粉末で熱湯がちょっと濁った水とほとんど変わらないくらいにきわめて明るい緑色に少し染まる [薄茶か]。» p. 585-586

以上の引用から明らかなように、抹茶は日常生活において極めて薄い形で用いられており、その実態は記述を見る限り、現代の「薄茶(うすちゃ)」よりもさらに希薄なものであったと考えられる。

抹茶は高い薬効を有していたにもかかわらず、歴史の流れの中で、より穏やかに身体へ作用する葉茶である番茶や煎茶に、日常茶飲の領域を徐々に譲っていった。

この点について、貝原益軒も1712年の『養生訓』において次のように記している。

«抹茶は、煎ったり煮たりしないので淹れるので成分が強く、煎茶は使うときに茶の葉を煎ったり煮たりするので穏やかです。日ごろは煎茶を勧めます。食後は、熱い茶を少し飲んで消化をはかり、渇きを癒します。塩を入れてはいけません。腎臓を悪くしてしまします。濃い茶を多くのむと気の発生を損ないます。» p. 126、貝原益軒、養生訓、やずや編集部、2002。

このような茶の飲用に対する見方は、中国古来の医学的伝統に基づく貝原の健康的な食生活全般に対する思想と一致している。

”すべての食事は、あっさりした薄味がいいのです。濃い味や脂っこい物をたくさん食べてはいけません。” p. 72、貝原益軒、養生訓、やずや編集部、2002。

しかし、抹茶という視点から煎茶の登場をさらに考察してみよう。

煎茶の出現によって、茶はより簡便となり、それゆえに安価になった。茶樹を被覆する必要も、多量の肥料を施す必要も、さらに茶葉を石臼で挽く必要もなくなったのである。

注目すべきは、茶文化には茶の強さ、すなわちその「攻撃性」を、飲用量や茶器の大きさによって調整する仕組みが存在することである。最も強く「薬的」な抹茶は少量で飲まれ、玉露や高級煎茶は極めて小さな茶器で淹れられ、一般的な煎茶は中程度の茶器で、そして最も穏やかな番茶は大ぶりの器で飲まれる。

茶は光に出て解放された。人工的な被覆をやめたことは、単にコストを下げただけでなく、茶樹に再び太陽光を取り戻させ、その生命状態をより健全なものにした。光合成によって、被覆されない煎茶の茶葉は、被覆栽培された抹茶用茶葉よりも多くの抗酸化物質を含有するようになった。

肥料使用量の削減もまた、環境と茶そのものを健全化させ、植物の生命力の重要な指標であり、高品質な煎茶の誇りでもある自然な香気を茶に取り戻させた。

煎茶は、過度に高級化された抹茶と、過度に素朴な番茶との中間に位置する存在となった。吉川海渡は『日本茶の起源と特色』の中で、少なくとも三箇所にわたり、葉茶としての煎茶は抹茶に比べてはるかに「便利で、実用的で、廉価」であると論じている。

20世紀初頭、好川海堂は煎茶誕生の現象を精緻に研究した。彼は次のように記している。

«従来の煎茶の如く実用的な所もあつて実生活上の要求を満足させ、其上に抹茶の如く洗練された高雅な趣味もあると云ふ具合で、二者の長所を収め得た茶ともいへる。言葉を換へて言へば、番茶の如く粗雑ならず、抹茶の如く非実用的でなく、趣味の花もあり実用の実もあると云ふわけである。分り易く譬諭を以てすれば、抹茶が大禮服で番茶が仕事服だとするならば、翁の新煎茶は通常禮服或は美しい日常服とも云へる。» p. 45

煎茶には多くの長所があった一方で、いくつかの短所も存在した。その最大のものは、比較的高価であったこと、そして最上級品においては比較的飲みやすさ(ピット性)が劣っていたことである。

しかし、これらの欠点は致命的ではなかった。十分に「番茶性」を活性化し、より大ぶりな葉を原料として用いれば、一挙に二つの問題を解決できたのである。すなわち、煎茶は数段階番茶に近づき、同時により安価で、より飲みやすいものとなった。「番茶性」の度合いは、栽培・摘採・加工の各段階において容易に調整可能であった。

好川海堂はこの性質を茶の「大きな実際的な力」と呼び、この力によって煎茶は貧富の隔たりを超え、日本社会の広範な大衆層へと普及することができたと述べている。p. 51

では、たとえ最も素朴な茶であっても、堂々と最上級の茶的プレミアムと対峙しうるこの性質とは何であろうか。好川海堂は、「古代の煎茶系の茶は一般向き大衆的の性質」を指摘している。p. 33

約一世紀前、好川氏は独自の用語こそ作らなかったものの、茶が一般庶民の日常生活へ自然に溶け込む普遍的性質にほぼ到達していた。この性質こそ、我々が「茶の日常性」と呼ぶものである。

煎茶においては、茶の二大本質――非日常的価値としての洗練性と、日常的価値としての日常性――がほぼ対等に出会い、融合した。そこに誕生したのは、普遍的な「日常的高級茶」というべき黄金の中庸であった。そして煎茶は、揉捻度を進めて、その均衡点を越えて、さらに高級化の道へと歩みを進めていった。

プレミアム性、すなわち機能性に裏打ちされない外面的・儀礼的な品質が、日常性を次第に圧迫するにつれ、日本の消費者にとっての煎茶の総合的品質は徐々に低下し始めた。

この流れにおける決定的転換点は、永谷宗円が当初実践していた、空中で手により軽く揉む「揉み切り」から、より強い揉捻への移行であった。そしてそれは機械化以後、「精揉」あるいは「細揉」と呼ばれる工程へと発展していった。

しかし、これらの詳細に入る前に、まず自家用の煎じ茶(番茶)から、嗜好飲料や商品としての上煎茶が誕生した社会経済的背景を簡潔に確認しておこう。

27. 影から光へ ― 碾茶から煎茶へ

幕府は、当時次第に流行しつつあった茶飲みを労働時間の無駄遣いと見なし、農民による茶や酒の購入を禁じ始めた。これが17世紀前半から中頃にかけての、いわゆる茶禁令として現れた。

政治経済学の言葉で言えば、本質的に保守的な封建制度は、生産性の向上によって労働生産性が高まり、人々に余暇や娯楽のための時間と資金を与えつつあった生産力の発展を抑え込もうとしたのである。

しかし結果として、こうした禁令はむしろ逆効果をもたらした。やがて人々は自宅の周囲で茶樹を積極的に栽培し、自ら日常茶である番茶を製造するようになった。この番茶は間もなく日本各地へ広まり、主として釜炒りした後に天日または室内で乾燥させ、さらに釜や茶瓶で煮出して飲む「釜番茶」の形態を取った。

封建的生産関係の体系は、生産力の発展を阻害していた。そしてそれは庶民だけでなく、将軍家に抹茶を供給していた茶農民にも及んでいた。武家支配層は宇治産の抹茶を茶の湯に用い、それを重要な身分的象徴としていた。

幕府は宇治の茶農民を搾取し、彼らが生産する乾燥茶葉である碾茶に対し、実際の生産原価を下回る固定買上価格を設定していた。

1642年、宇治の茶農民たちは政府に対し、買上価格を三割引き上げるよう請願した。この要求は認められた。

しかし、研究者・若原英弌が記すところによれば、«問題はその後の経緯にある。すなわち、この時決定された新価格が、その後の諸物価、人件費などの高騰や上昇の為に、またまた採算が合わなくなって、再三再四の改定出願を行ったにもかかわらず、幕末に至るまで改められなかったということである。

前例を尊重する封建社会のなかとはいえ、宇治の碾茶は江戸幕府をはじめ全国の武家や公家などへ毎年納めつづけられたが、実は売れば売る程損をする、つまり生産価格以下で納品、販売するという矛盾を重ねたのであった。そのために宇治茶師各家は、たちまち経済的破たんを来たすことになったのである。» p. 92、煎茶の起源と発展、シンポジウム発表論文集、2000年

完全な破産を避けるため、農民たちは茶代金の五年先、七年先、さらには十年先払いまで求めざるを得なかった。多くは借金を重ね、その担保として自らの茶園を差し出し、返済不能となれば土地を失った。

一見すると、宇治の茶農民は将軍権力の庇護のもとにあり、被覆茶の生産を独占的に許された特権的存在であるかのように見えた。だが実際には、彼らは「保護者」であるはずの幕府によって苛烈に搾取されていたのである。

若原英弌は、このような宇治茶業における外面的形態と内実との著しい対比は、一見矛盾しているように思われるかもしれないが、まさにその矛盾こそが、すでに歴史的使命を終えつつあった封建制度の本質そのものであったと指摘している。

この状況には早急な打開策が必要であった。唯物弁証法が示すように、ある社会体制の内部に生じた矛盾は、生産力の成長を通じて、より高次の質的段階――すなわち新たな体制の形成――によって解決される。

必要とされたのは、国家による被覆茶の生産・買上独占に縛られない新たな商品であった。いまこそ影から光へと脱し、覆下ではなく陽光の下で育てられる茶を創出すべき時であった。ただし、それは既存の素朴な庶民茶である番茶ではなく、より洗練され、高付加価値を持つ、利益を生み出しうる高級茶でなければならなかった。

このような恵まれない製茶環境にあって、宇治の茶業家は売れば売る程赤字が増加する碾茶づくりを継続していたのである。先に述べたように、再三の茶価改定の申請、懇願は全く認められない状態で、苦悩の末に考案され、世に出されたのが「宇治製法」といわれる蒸製煎茶と、それにつづく玉露の技法ではなかったかー。

宇治の主力商品である碾茶は、先述のように不当な価格統制下にあって量産しても利益にならない。需要と供給のバランスもあることだから前途に明るさを見出すことは不可能である。それなら利益の出ない製品を生み出して、それなりの利潤が得られれば、それにまさる仕合わせはない。このような価格統制のもとに生産され、当時の喫茶指向の広がりに受け入れられて普及ー消費者の増加のみならず生産者や生産地域の拡大も意味する普及ーをしたのが、永谷宗円(?ー一七七八)の業績を頂点として伝承されている「煎茶」であった。p. 94-95 、煎茶の起源と発展、シンポジウム発表論文集、2000年

28. 日本における煎茶の普及

最高級の原料を用い、細心の注意を払って製造された高級品は高価であり、それゆえ十分な購買力を備えた市場を必要とした。そのような市場は、まさに当時急速に発展していた都市部において成熟しつつあった。都市の知識層や上流市民たちは、保守的な封建体制に倦み、より自由主義的な改革を求めていた。そしてその封建的秩序の象徴と見なされていたのが、すでに時代遅れとなりつつあった抹茶を用いる茶道であった。

社会は変革の風を待ち望んでいた。十八世紀の日本では、葉茶を称揚し、自由への希求と自然への回帰を詠い上げた唐代中国の詩人・盧仝の詩が広く親しまれるようになった。彼の有名な「七碗茶詩」では、七杯目の茶を飲み終えた後、身を包む清風に乗って彼方へと運ばれていく心境が描かれている。

この「清風」は、新たな時代の到来を象徴する存在となった。そして爽やかな緑茶である煎茶は、まさにその時代精神を体現する「清風の茶」となったのである。

1738年に煎茶製法が確立される頃には、新たな茶に対する需要はすでに複数の経済的条件によって支えられていた。

煎茶の販路を構想するにあたり、永谷宗円が注目したのは、急速な経済成長に沸く「新都」江戸であった。十八世紀中頃、関西地方(旧都京都周辺)で生産された商品は、なお発展途上にあった関東地方(江戸周辺)の商品よりも高く評価されていた。

関西は品質階層の頂点に位置していたため、関西から関東へ送られる商品は「下り物(くだりもの)」と呼ばれた。つまり、煎茶が関西産であるという事実そのものが、すでに商品に高級感と権威を付与していたのである。

永谷宗円は煎茶の見本を携えて江戸へ赴き、複数の商人に売り込みを試みたが、その価値を認めて販売を引き受けたのはただ一人であった。それが山本嘉兵衛嘉道率いる「山本」商家である。煎茶は次第に需要を獲得し、その売上は年々増加していった。

山本家は数世代にわたり煎茶普及の中心的存在として活躍し、優れた茶農家と直接連携しながら、新製法を全国へ広めていった。その活動は、宇治から技術者を遠隔地へ派遣するほど広範なものであった。今日、この山本家は山本山として存続し、その本店は現在も東京・日本橋(銀座通り)に位置している。

江戸では商業活動が活況を呈し、一部の茶屋は単なる茶の販売から発展し、若い女性店員による接客をも提供するようになった。

十八世紀中頃には、八百善を筆頭とする高級料亭も登場した。これらは素朴な郷土料理を出発点としつつ、互いに競争しながら日本屈指の洗練された美食文化へと発展していった。すなわち、日本茶のプレミアム化は、日本料理そのもののプレミアム化と歩調を合わせて進行していたのである。

高宇政光は、こうした一連の動向について、さらに次のような可能性を指摘している。

«最初にこの初めてみる緑色のお茶を出したのは、勃興し始めた高級料理屋ではなかったのかという気がしています。というのはこの頃のお茶の値段のことがあるからです。かなり高いのです。» p. 95、お茶は世界をかけめぐる

まもなく煎茶は、その発祥の地である関西地方にも広く普及した。例えば、1801年の曲亭馬琴の随筆には、京都の五つの愛好すべき名物の一つとして「良き煎茶」が挙げられている。

煎茶は着実に人気を高めていった。新しいものの普及は、新宗教の布教にもたとえられる。そしてその「布教」、すなわち煎茶の普及において特に大きな役割を果たしたのが、柴山元昭という僧侶であり、世に売茶翁(ばいさおう)――「茶売り老人」として知られる人物であった。己について、彼は次のように記している。

«わしは僧籍でも、道士でも、儒者でもないわ

浅黒い顔、白いひげの貧しい禿げおやじにすぎぬ

人々はわしが都中に売り歩いていると噂しておるがなんの、この世界はみなひとつの茶壷にすぎぬのじゃ»

柴山は、陸羽のような中国古代の賢人たちの精神を復興しようとする中で、茶の道へと至った。

彼が京都・鴨川東岸の伏見橋のたもとで茶の行商を始めたのは、すでに六十歳近くになった1735年頃であり、ちょうど永谷宗円が煎茶製法を確立した時期とほぼ重なっている。

明らかに、売茶翁が当初扱っていたのは、隠元禅師によって宇治にもたらされた中国系の釜炒り茶のみであった。

1742年、売茶翁は宇治田原の永谷宗円を訪ね、そのもとで丸一日を過ごした。永谷家の家蔵には、売茶翁自身によって記されたと見られる「評」が今日まで伝えられている。

«永谷氏延予入一室、煎其自園新茶。 奇なるかな、妙なるかな。 生平未だ嘗て此の美艶清香の極品を試みず、 何ぞ天下に比するものあらんや。 未だ一椀を挙げざるに、 即ち彼の大福茶園の名葉なることを知る。 且つ主人、復た古雅の清談を敷演す。 予、唯だ恨むらくは、 此の佳味を今日に至るまで知らざりしことを。 談論移時、情興尽きず、 茶甌茶銚、相継いで巡り、 東嶺に月上り、西山に日没するに至る。 今日の真楽、真に茶界の中の一仙人たるに足る。»

日本の緑茶に精通した者であれば、老茶売りがその時いかなる感覚を味わったかを想像することは難しくない。春の若草を思わせる繊細で青々しい香り、濃厚な旨味、そしてほのかな心地よい渋味によって均衡を保つ味わい。一口ごとに、軽やかで爽やかな余韻が続く。その意味で、煎茶の風味はほぼ理想的な均衡を備え、飲む者に肉体的・精神的調和の境地をもたらしたと言えよう。

なぜ「ほぼ理想的」と記すのか。それは、永谷宗円が貴客たる売茶翁のために、おそらく日本的もてなしの慣習に従い、最上級の若芽を用いた、旨味の際立つ最高級煎茶を供したと考えられるからである。

その旨味を最大限に引き出すため、この茶の栽培には宇治特有の有機肥料が相応に用いられていた可能性が高い。これもまた、宗円が高級碾茶栽培から学び取った技術的蓄積であったはずである。

その結果、この煎茶の味覚においては、豊潤で厚みのある旨味が渋味をやや凌駕していたと考えられる。そしてまさにその濃密な旨味こそが、より簡素で淡泊な釜炒り茶に慣れていた売茶翁に、強烈な驚嘆を与えたのであろう。

すでにこの煎茶黎明期において、味覚の均衡は旨味の側へと大きく傾き始めていた。というのも、この濃厚な旨味こそ、日本人が今日に至るまで緑茶品質の重要な指標として重視してきた要素だからである。

売茶翁や他の茶人たちが都市上層階級に高級煎茶を広めていた一方で、煎茶はさらに社会の深層へと浸透し、より広範な民衆層へと根を下ろしていった。

煎茶の高級化の裏面とは、その「民衆化」、すなわち大衆的普及であった。

宇治における高品質化と並行して、地方社会における茶の「日常化」の過程もまた、極めて重要な研究対象である。いかなる種類の茶が庶民家庭の日常生活へと浸透し、日本の茶文化を「日常茶飯事」という水準にまで押し上げたのかを解明することは、現代日本における「茶離れ」という正反対の現象を構造的に理解するための重要な手がかりとなる。

茶が広範な民衆の日常生活の中へと統合されることこそ、茶文化発展の最高段階である。橋本素子は次のように指摘している。

«茶の一般化の指標は、庶民が家で日常的に茶を飲むことである。つまり、「日常茶飯事」という言葉は、中世を通じて茶が一般化される過程で生み出された言葉であった。»p. 126、中世の喫茶文化、儀礼の茶から茶の湯へ、橋本素子

1980年代初頭、茶が庶民の日常的産品へと転化していく過程は、守屋毅によって研究された。

«日常茶飯事という言葉まであって、われわれは茶を日常生活の象徴と考えているにもかかわらず、その常用化が達成された過程について、これまで、余りに無関心であったといえよう。既存の茶の湯研究もしくは茶業史研究とは別の、常民生活史、常民文化史とでもいうべき観点から、日本人の暮らしの端々に茶がかかわりをもっていくプロセスを明らかにしたいというのが、小稿の目的にほかならない。» p. 62

守屋氏の遺した資料を検討すると、そこには二つの力の拮抗を見ることができる。すなわち、一方には高級茶を高価な商品として特化させた宇治地域があり、他方には自給自足を志向し、日常生活のために番茶系統の茶を生産した諸地域が存在していたのである。

守屋は次のように指摘している。

«ところで、茶の生産の増大を促したもう一つの力は、民間の農政家あるいは農学者たちの啓蒙にあった。彼らの著述である農書には、しばしば茶に言及する箇所がある。藩指導の茶業奨励が、領内から茶という名の商品を生み出すことに力点がおかれていたのに対して、これら農書の説くところは、すこしく趣を異にしている。宮崎安貞の『農業全書』巻之九は、茶の栽培と加工について体系的に叙述した最初の農書であったが、茶の商品価値の強調よりは、むしろ自給を目的とする茶の栽培を勧めているのである。(中略)

これらは、常民の茶の常用を容認した上で、それによる出費を抑え、自給を勧めるものであった。従って茶の加工法についても、必ずしも高級茶を志向する宇治のそれを唯一のモデルとはしていない。『農業全書』では、「上茶をしらゆる法(蒸製法)」のほかに、より簡便な「湯びく茶(煮製法)」「煎じ茶」「番茶」「唐茶(釜炒茶)」の製法を詳しく紹介しているのであり、むしろ技術指導の力点は家庭での製茶に傾いていたといってよい。さらに『広益国産考』六之巻「茶并に心得の弁」にいたっては、宇治製の技法をまったく無視して「刈茶」(釜炒茶の一種)のみを記述している。茶の飲用が常民社会で一般化していく上で、こうした農政家たちの自家茶生産にかかわる指導・啓蒙が、あずかって大きかったこと、推察にかたくない。»p. 74-76

守屋氏は、私的消費のために生産された各地の番茶が、宇治の高級茶よりも早く民衆の間に普及し、日本の茶文化の形成により大きく寄与したとの結論に至っている。

«茶の常民社会への普及は、近世初頭にはすでに禁制の対象となる程度の段階に達していたが、それが奢侈(嗜好品)のレベルから常用品へ展開するのは、おおよそ十八世紀以降であろうと考えられる。その展開の基礎には、茶の生産の増大があったが、茶産地の形成と流通の活発化とともに、自家用茶の栽培・加工の拡大が、より重視されてよい。これらによって、高級茶をめざす宇治とは別に、大衆茶普及の条件がかたちづくられたとみられるからである。従って加工法においても、今日より多様な様相がみられた。

茶の飲み方においても、多様な型態がみられ、純粋な飲料としてでなく、ことに食生活との関連での展開が著しい。» p. 104

このように、日常的喫茶と高級喫茶という二つの根本的柱は、あたかも一台の車を支える両輪のごとく並行して進展し、日本茶文化の発展を支えていたのである。松下智は次のように述べる:

『日本茶の基礎日本茶の製造は、茶の葉を蒸すことから始まる。これは、前述のように栄西禅師により中国から招来されたもので、それが基本となって現在に至っている。この基本となった粉末の茶すなわち抹茶の製造は宇治の茶産地が独占的に造ってきたものである。そのころ抹茶を飲まない人たちにはお茶がなかったかというと、そうではなく晩茶というお茶が飲まれていた。

晩茶は、主として抹茶以外の産地、あるいは農民が自分の畑の隅や畦に植えていたものが多い。

夏ごろまで生長した茶の葉を取って、もち米などを蒸すセイロで蒸すか、鉄釜のハソリで煮る。こうした茶の葉を太陽光線下に晒して、日干しする。これが日干し晩茶である。これを鉄ビンなどで煮沸して飲む。抹茶と日干し晩茶の二種が長い間日本各地で飲まれていたのである。それが、幕末になると抹茶が宇治以外の地でも造られるようになり、抹茶製法と晩茶製法が組み合わされて日本的な現在みることのできる煎茶となったのである。』pp. 215-216、ティーロード―日本茶の来た道、 1993、 松下 智。

『揉捻法の伝来日本茶のスタートは晩茶であり、抹茶であったことは明らかだが、その抹茶法から煎茶に変わったことは、日本茶にとって一大革命であった。抹茶法は、茶の葉を揉捻してないわけで、抹茶のもとになっている碾茶、さらにそれ以前の広葉では、お湯を注いで二〇〜三〇分おかないと、美味しく飲むことができない。

揉捻することによって、茶の葉の組織や細胞膜がほぐれて細胞内に含まれる各種成分がお湯に浸出しやすくなる。したがって揉捻してない茶では、成分の浸出が容易でなく長時間を要することになるのである。お茶の葉にお湯を注ぐだけで、美味しく飲めるということは、お茶の普及にたいへん役立った。しかも、庶民の口には簡単に入らなかったお茶であってみれば、なおさらのことである。』p. 215-216、ティーロード―日本茶の来た道、 1993、 松下 智。

守屋毅・松下智・中村羊一郎らの研究は、各地の番茶が日本茶文化の成立と発展において極めて重要な役割を果たしたことを説得力をもって示している。にもかかわらず、今日に至るまで日本茶文化の根幹は、なお抹茶を用いる茶道にあると見なされがちである。

中村羊一郎は、この根強い固定観念がなおも存続していることを繰り返し指摘している。

«茶文化の研究といえば、その対象は茶の湯の文化と歴史、とみなされた時代が長く続いてきた。一般的な理解でいえば、日本における茶の歴史は、鎌倉時代の栄西以降、日本に抹茶法が導入されたことで本格的な普及の時代を迎え、この抹茶法にさまざまな文化要素が付与されることで、茶の湯というものが成立した。そして武家・貴族・寺院など上流階級に普及していった茶が、やがて庶民社会にも拡大していき茶は日常の飲料として不可欠なものになったとされている。

そして茶は飯と同じようにごく当たり前であることを前提に日常茶飯という言葉も広く使われるようになっている。しかし、茶が毎日の暮らしにとって当たり前の存在であるとするなら、この茶が、茶の湯で使われる抹茶でないことは明らかであり、急須で淹れる煎茶でもありえない。なぜなら煎茶は江戸時代の中頃以降、商品として開発された茶である。つまり日常の茶とはいいながら、具体的な様相は曖昧なままに、茶は日常の暮らしの中にあって当たり前とされて語句だけが独り歩きをしてきたのである。

では、日常の茶とは、どのような製茶法によって作られ、どのように利用されていたのであろうか。このような茶の本質に関わる疑問に対して明確な解答がなされてこなかったのには理由がある。庶民の日常の茶のありようは、いわゆる茶文化研究の埒外に置かれており、それがたまたま注目された場合にも、茶の湯文化周縁の話題ないし抹茶文化の派生的なものという扱いを受けてきたからである。» p. 1-2 番茶と常民喫茶, 2015

1992年の時点ですでに中村羊一郎は、抹茶の社会的地位と、抹茶が事実上に日常的茶飲文化へ統合されている度合い(我々の用語で言えば、抹茶の日常度)との著しい乖離との深刻な不一致を鋭く指摘していた。

«現在において、抹茶と、一般に消費されている煎茶とを比較した場合、日常の生活において抹茶の占める地位は微々たるものであり、茶といえば、圧倒的に煎茶(地方によっては番茶)を意味している。» p. 10、茶の民俗学、1992

著者は、番茶に対して伝統的に存在してきた劣等感を指摘している。すなわち、客に番茶を出す時にも「番茶で恐縮ですが」と述べるのが慣習となってきたこと、さらに日常茶文化に関する研究が慢性的に不足している現状についても論及している。

«ところで、抹茶にしろ、煎茶にしろ、そのもとになる茶樹は同じものであり、両者をわけるのは、それぞれの製法と飲み方である。ところが隆盛を極める抹茶の世界への関心や研究に比較すると、日常茶飯事という言葉そのものからうかがわれるように、あまりにも日常的な煎茶とか番茶の世界に関しては、その歴史や民俗を始めとして茶をとりまくさまざまな問題に関する体系的な研究は、きわめて少ない。» p. 10、茶の民俗学、1992

上述した研究上の不均衡は、同一の茶樹から生まれる茶を「優れた茶」と「劣った茶」、「重要な茶」と「重要でない茶」とに分断してきた、日本文化全体に内在する深い亀裂の帰結である。この分断は茶文化そのものを損なうだけでなく、各種の茶のあいだに存在する密接な連関性と相互依存性を見えにくくしている。

煎茶の盛衰の背景に働くメカニズムは、番茶の機能と特質を理解せずして説明することはできない。歴史が示しているのは、煎茶の普及を支えたのがその「番茶性」であり、一方で煎茶が自らの祖先たる番茶との連続性を断ち切り、過度に超高級化を志向したことこそが、現代に見られる茶離れの主要因となったという事実である。

29 最高品質の中級茶

煎茶の品質はどのように判断されるのだろうか。

日本の公式な茶品評会(例えば全国茶品評会)において、普通煎茶は200点満点の減点方式で審査され、その配点は以下の通りである。

• 外観:20点

• 香気:75点

• 水色:30点

• 滋味:75点

大石貞男は、煎茶の品質の幅広さを指摘している:

«煎茶は来客用にも家庭用にも飲まれているものであるが、これにも上級から中、下級までかなりの差がある。信用ある店なら、その物の値段に従って求めればほぼ間違いはないが、できたら消費者が自分で見分けて良い物を安い値段で求めるにこしたことはない。» p. 102、健康食お茶、1999

大石貞男(1921–1997)は、20世紀における日本の茶業研究の第一人者の一人であり、農学者、茶の歴史家、そして静岡県茶業試験場の元場長である。

茶に関する豊富な知識を持ちながらも、大石氏は品質に対して階層的な視点を持つ組織の典型的な代表者である。一方で彼は、茶の飲用における二つの主要な様式(来客用の「得意性」と、自家用の「日常性」)を認めつつも、それらに優劣を付して慣例的な階層の垂直線上に位置づけ、茶の品質を価格や形状に結びつけている。

すでに述べたように、このよう品質の見方は根本的に誤りである。なぜなら、それは唯一の「絶対的な」洗練性(高級性)という品質のみが存在するという信念に基づいており、それとは異なる「非高級的な」形で現れる「第二の質」である日常性の存在を見落としているからである。

著者は、高品質な煎茶の説明を、茶の品評会での評価が始まるのと同様に、その外観から始める。

«良い物は製品の形がそろっており、細く丸みのあるよれ方をし、色は濃緑色で光沢がある。拝見盆にとった茶の香りは煎茶特有のさわやかな香りが強い。飲んでみれば、味は旨味と渋味の調和のとれたさっぱりした味で、しかもこくがある。この新鮮な香気と芳じゅんな滋味は煎茶特有で、これを味わうとき、人は一種の清涼感におそわれる。» p. 102、健康食お茶、1999

飲み物としての茶ではなく、追加の加工によって作られた「商品としての茶」が最前面に押し出されている。

このようなアプローチは、消費者の関心を茶葉本来の価値から、その市場的な外観 (付加価値)へとそらしてしまう。その結果、日常飲用に十分適している加工度の低い「荒茶」は、品質の劣る製品と見なされ始める。しかし、荒茶が完成品の煎茶に劣っている点の多くは、根本的な茶としての価値ではなく、あくまで商業的な仕上げの度合いにすぎない。

このことは、荒茶が一般の市場に出回ることは極めて稀であり、主に茶商(問屋)が仕入れ、その後の「仕上げ」(選別、合組、火入れ)を経て「完成させる」ための原料として扱われているという事実も説明している。

言うまでもなく、茶商は流通において重要な役割を果たしている。しかし、品質評価の制度自体が、生産者である茶農家ではなく仲介者である茶商が、茶の最終的な市場価値を大きく決定するように構築されているのである。

良質な荒茶は、それ自体で既に素晴らしい茶であり、望めば問屋の手を借りずとも、農家の工場で追加の乾燥や形状の調整を行うことができる。

消費者は、資本主義の市場論理が、往々にして基礎的な使用価値よりも商品的な付加価値を優先させ、それによって独立した市場の主体としての茶農家の自律性を低下させていることを理解する必要がある。

煎茶とは、荒茶に仕上げ加工を施したものである。両者にはそれぞれ特有の価値があり、一方が他方より劣っていると考えるのは誤りである。

続いて大石氏は、若芽と若葉のみから作られた最高級煎茶の味と香りの評価へと移る。

皮肉なことに、荒茶の価値の過小評価を指摘したのは、茶商である谷本陽蔵自身であった。自著『お茶のある暮らし』(1994年)の中で、彼は次のように述べている。

荒茶とは、農家で製造した加工されない前の粗製茶をいう。つまり製品になる前の原料茶のことを玄人筋は荒茶と呼んでいる。そんな荒茶から粉を取り除いたり、お茶に混じっている白い茎や葉軸を選別して、見た目に美しくしたお茶が煎茶と呼ばれる仕上げ茶なのである。

ついでに玉露製の荒茶から出た白い茎や軸は、俗に雁ケ音(白折れともいう)と呼んでいる。純玉露の雁ケ音は量的にも少なく、お茶通のあいだで珍重されるほど価値のあるものだ。荒茶を加工して見た目に美しく付加価値を高めても、お茶そのものにちがいがわかるほどおいしくなるというものでもない。むしろ白い軸や多少の粉が混じった新鮮なままの、作り立てのような荒茶のほうが山の香りがして渋味が少なく、マイルドな味わいがあって現代向きかもしれない。

いまの人は、苦渋味のない喉ごしのさらっとした煎茶を好む傾向があるからだ。それに加工した煎茶より手間のいらないだけコストが安くなるわけだ。結局百グラム千三百円ぐらいの煎茶と千円の荒茶が釣り合うことになる。

茎茶はお茶の出はよくないが苦くない。むしろ甘味があっておいしいものだ。茎茶の味をよく知っているお客は茎茶を好んでお買いになる。そんな茎や葉軸が入っている荒茶なのだから、飲むことだけに限っていえば、わざわざ選別する必要もないわけである。茎や軸の入ったこの荒茶を、強火でさっと焙炉(火入れ乾燥)したものを私はおすすめする。» p. 72-73、お茶のある暮らし、1994

興味深いことに、荒茶の品質に対して健全な視点を示しているにもかかわらず、谷本もなお階層的な品質観の枠組みにとどまり、安価な煎茶や番茶という「下級茶」を「おいしくない」と断じている点である。

このような見方は、これらの茶に備わる「飲用性/飲みやすさ」という独自の「おいしさ」を見落としている。その飲用性/飲みやすさは、手頃な価格とともに、日常性というより高次の総合的価値を成立させているのである。

続いて大石は、若芽のみを用いて作られた上級煎茶の品質評価へと移る。

«拝見盆にとった茶の香りは煎茶特有のさわやかな香りが強い。飲んでみれば、甘み旨味の調和のとれたさっぱりした味で、しかもこくがある。

この新鮮な香気と芳じゅんな滋味は煎茶特有で、これを味わうとき、人は一種の清涼感におそわれる。» p. 102-103, 健康食お茶、1999

この例における煎茶は、高級性の重要な指標である「旨味」だけでなく、日常のお茶に不可欠な「清涼感」も兼ね備えていることがわかる。新芽の爽やかな香りを含むこれらの特性は、永谷宗円が創り出した煎茶にも備わっていたはずである。その後、煎茶とその品質はどのような道をたどって発展したのだろうか。

永谷宗円は煎茶の製法の秘密を隠そうとはせず、一部の外国人を含め、希望する者には誰にでも快く教えた。やがて近隣の村々の農家も永谷の技術を模倣し、煎茶を生産し始めた。

瑞々しいがサイズが小さすぎる若芽の原料は、煎茶の原価と最終価格を著しく押し上げた。肥料にも費用がかかった。さらに、日本の農家は経験から、肥料の過剰な使用がお茶本来の香りに悪影響を及ぼすことを知っていたはずである。

したがって、多くの農家は若葉が少し成長するのを意識的に待ったと確実に推測できる。これにより、お茶に含まれるアミノ酸(主にテアニン)の含有量がいくらか低下し、濃厚な旨味は多少「薄まる」こととなったが、収穫量を増やし、同時に原価を抑えるのに役立った。

煎茶は高級性が低くなる一方で、より日常的なものとなり、調和の天秤の針をいわば黄金律の方へと戻していった。興味深い現象が起きた。高級性がいくらか低下したにもかかわらず、お茶の総合的な品質は下がるどころか、むしろ向上したと我々は考える。

このような煎茶は、高級なものよりも飲みやすく、価格も手頃でありながら、粗雑で時に焦げたような番茶よりも遥かに「気品」を保っていた。

伝統的な品質評価制度の観点からは、このような煎茶は中級品に分類される。大石貞男はそれを次のように記述している。

«これが中級品以下になると芽をみても若芽が少なく、硬葉が多く、切葉や青茎なども混じり、形も大きめとなり、色は浅い青緑色となり上級品とくらべてお茶が軽い感じ、つまりこくの少ないものとなる。味は旨味がうすく、渋味が少し強めに感じられるが煎茶のさわやかな感じがあり、やはり飲んだあと、さっぱりする。» p. 103

言い換えれば、茶の「高級性」が適度に抑えられることは、品質の低下を意味するのではなく、むしろ高級性と日常性が最適なバランスで保たれることで、茶の総合的な価値を高めることにつながるのである。

このような品質に対する見方は、真の発展のためには一歩退くことが、一歩進むことと同じくらい重要であるという、禅的な発展の捉え方とも完全に一致している。

このことは、煎茶技術の導入が、«庶民•日常の茶文化の一大進展であったといってよい»と指摘する若原英弌の言葉によっても裏付けられている。p. 217、日本の茶、歴史と文化

煎茶が広く大衆に普及した最大の功績は、より手頃な価格で、より日常的な、中級から下級の煎茶にあることは明らかである。

中級品でありながら高い自然性と産地性を兼ね備えた歴史的な例として、京都の南東、宇治川の一方の岸(対岸は現在の滋賀県)に位置する山間の池尾村、池尾産の煎茶を挙げることができる。

若原英弌は次のように記している。

«とにかく、山間にあって昼夜の間にしばしば気温の逆転現象が起こる池尾あたりでは、意外にすぐれた自然条件が備わっていた。その山腹に育った茶は香気に充ちた良質のものだったのである。» p. 221、日本の茶 歴史と文化

池尾村は、永谷式の製法による煎茶をいち早く取り入れた村の一つであった。彼らは村全体で結束して、日本史上初ともいえる茶業組合を結成し、やがてその茶は近隣一帯に広まっていったのである。

池尾産の煎茶は、地元の山の洞窟で禅の修行に励んだ伝説的な六歌仙の一人、喜撰法師の名にちなんで「喜撰」と呼ばれた。同様の品質の煎茶は、隣接する信楽の地でも栽培されていた。それは、次のようなものであった。

1802年に序が記された自著『煎茶早指南』において、柳下亭嵐翠は

«つねに煎する茶、宇治にては「喜撰」、信楽にては「信楽」といふ銘の茶よろし、飲む事は一等も上の茶よけれども、まずこれらこそ中品のよきものなり»と述べている。p. 221、日本の茶 歴史と文化

「喜撰」茶の驚異的な商業的成功は、この商標の数多くの類似品や偽物を生み出すこととなった。この状況は、やがて「本物の喜撰」を意味する「正喜撰(しょうきせん)」という銘の誕生へとつながり、それはまもなく良質な日常茶の国民的スタンダードとなった。

この煎茶の銘柄は、高品質の中級日本茶であると呼ぶにふさわしい。

30.日本茶の黄金時代

煎茶が誕生してからおよそ一世紀の間に、それは高品質な日本茶の代名詞としての地位を確立した。

高級煎茶は富裕な日本人たちの嗜好品となり、その多くは流行しつつあった煎茶道に余暇を捧げた。一方、より低価格で日常的な煎茶は庶民の間へと広がり、次第に全国へ普及していった。

しかし、すべての日本人が突如として新しい茶へ一斉に切り替えたわけではない。各地で何世紀にもわたり形成され、深く根付いてきた嗜好は、新興の煎茶が日本各地へ急速に広がったほど革命的な速度では変化しえず、また変わろうともしなかった。

多くの農民にとって、煎茶は生活に不可欠な望ましい飲料というよりも、むしろ収益を得るための有望な商品であった。

新たな蒸製法が広がる一方で、日本各地、とりわけ九州では、釜炒り製法も引き続き用いられていた。

ドイツの医師・博物学者フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796–1866)は1823年に来日し、まもなく出島のオランダ商館付医師として赴任した。その後シーボルトは多種多様な日本の物品をヨーロッパへ持ち帰り、その大規模なコレクションは今日まで保存されている。

その収蔵品の中には複数の紙包みの茶が含まれており、20世紀末に日本の国立民族学博物館で展示された際、所有者の許可のもと開封調査が行われた。保存状態の良好な細かな茶葉から判断するに、いずれも上質な茶であり、その約半数は煎茶であった。残る半数からは釜炒り茶が確認された。これは当時の富裕層が主としてどのような茶を飲んでいたかを示している。

一方、農村部の庶民の大多数は、依然として自家製の伝統的な番茶を飲み続けていた。江戸時代末期は、日本茶の黄金時代、すなわち地域ごとの多様な茶が新しい茶と並行して共存した最大の多様性の時代と呼ぶことができる。

この時代、日本はまだ茶輸出の大波に呑み込まれておらず、それに伴う全国的な標準化や工業的大量生産も始まっていなかった。

去りゆく時代の最後の申し子となったのが、今日なお日本茶の王と称される洗練された玉露であった。

31. 天への道、あるいは翡翠の玉

以上に挙げた幾多の障壁にもかかわらず、煎茶は次第に日本人の生活と意識の中に、高品質で権威ある茶として根を下ろしていった。

その一方で、この高級性のイメージは、一般庶民にも手の届く中級・低級煎茶の存在によって、ある種揺さぶられてもいた。

若原英弌は次のように記している。

«大来の中に煎茶の暗好化が進むと、より一層優秀な茶、つまりうまい煎茶を要求するに至るのは、当然のなりゆきであった。»p. 222、日本の茶、歴史と文化

新たなものの出現は、しばしば偶然の産物のように見える。しかし実際には、それは目には見えぬ深層的な過程の発現であることが少なくない。

天保期(一八三一―一八四五年)、深刻な自然災害(凶作、飢饉、一揆、疫病)と財政難に直面した幕府は、碾茶の発注を大幅に削減し、その結果、宇治の茶師たちは収入の重要な部分を失った。

宇治の茶生産者および茶商人たちは、急減した官需に依存しない自由市場向けの新たな高級茶を必要としていた。

その役割を担ったのが玉露である。

玉露誕生の一説によれば、天保六年(一八三五年)春、茶商「山本山」六代目山本徳翁は、後に石臼で抹茶へと挽かれる碾茶葉の製法を詳しく学ぶため宇治を訪れた。

当時、蒸した葉は焙炉(ほいろ)に広げられ、乾燥工程へと進んでいた。焙炉の前に立つ作業者たちは、温かな紙上に置かれた葉を「さらえ」と呼ばれる細い竹べらで時折かき混ぜていた。

山本も焙炉の前に立ち、竹べらで葉を動かし始めたが、ほどなくそれに飽き、竹べらを置いて素手で作業を始めた。

湿った葉は手にまとわりつき、自然と玉状に丸まった。失態を悟られぬよう、山本は何事もないかのように葉を丸め続け、それを新製品であると称した。そして同様の方法で少量を製造し、江戸へ持ち帰った。

この新商品は顧客から極めて高い評価を受け、「玉露」と名づけられた。

この名称の語源は興味深い。日本語では「玉」「露」「玉石(翡翠)」がいずれも「玉」の観念と重なり合うため、玉露は単なる「翡翠の露」だけでなく、「露の滴」「露の玉」とも解釈できる。

この名は、玉露が本来持っていた球状あるいは滴状の形態を想起させる。それは後世になって、現代煎茶に見られるような細く真っ直ぐな針状へと整形されていった。

製法上、玉露は「揉まれた碾茶」とも、「被覆栽培された煎茶」とも見なし得る。

玉露は当時知られていた高級化技術を総合的に取り入れた存在であり、日本茶の中でも最も複雑かつ最高級の茶と評するにふさわしい。

玉露は、美食を追い求める都市貴族の嗜好にも財力にも適合し、日本茶の王座を確固たるものとした。

夏目漱石は『草枕』(1906)の中で、玉露を真の美食家のための精妙な霊液として描写している。

«…濃くもなし、淡くもなし、お湯のようでいて、お湯でなし、舌のさきへちょっと載せて、ころがしてみると、甘いような、渋いような、名状しがたい風味が、口いっぱいに広がる。それをゆっくりと咽喉へ流し込む。

 一口飲んで、ああ、いいな、と思う。二口飲んで、これは天下の絶品だ、と思う。三口飲んで、この一杯のために、はるばるここまで来た甲斐があった、と思う。

 玉露の味は、ただの茶の味ではない。それは一種の哲学である。…»

引用から明らかなように、玉露は、その覆下栽培の兄である抹茶と同様、日常飲料としての本質をほぼ完全に失い、茶の出汁、茶の珍味、味覚的・儀礼的享受の対象へと変貌し、その周囲には数多くの伝説が生まれた。

強い遮光条件下で育てられた玉露は、本来茶が備えていた健康促進作用の一部も失い、露天栽培の煎茶と比較すると、カテキン(抗酸化物質)の含有量はおよそ半分にとどまる。

一方、遮光栽培に大量の施肥を組み合わせることで、グルタミン酸やテアニンなど、うま味形成に寄与するアミノ酸含有量は最大化された(玉露には煎茶の1.5〜2倍含まれる)。

夏目漱石の伝記を読んでいて知ったのは、彼が玉露をこよなく愛していたのみならず、1900年の英国留学中、約二か月間にわたり東京帝国大学教授・池田菊苗――うま味発見者――と同居していたことである。

池田はグルタミン酸を発見し、さらに食品添加物であるグルタミン酸ナトリウムを合成したことで知られる。その成果を基に、今日なお広く用いられる調味料「味の素」が誕生した。

1900年当時の夏目漱石は、自らが記した玉露の味に近づけるため、20世紀に日本の緑茶へグルタミン酸ナトリウムが添加されるようになるとは、想像すらし得なかったであろう。

1950年、京都府茶業研究所において坂田弥二郎教授により、玉露からうま味形成に関与するアミノ酸が初めて分離され、これがテアニンと命名された。

玉露とは、味覚の重心が極端にうま味へ傾斜した緑茶である。それは「非日常性」を体感させる特殊な茶であり、しばしば煎茶と対比され、「人が作った茶」とされる玉露に対し、煎茶は「自然が作った茶」と呼ばれる。

玉露は、その低い飲みやすさと高価格に加え、生産コストが非常に高く、生産性も低い。

2020年2月、私は宇治において、日本国天皇より高位の褒章を受けた先進的茶農家・寺川俊夫(1931–2024)氏を訪問する幸運に恵まれた。

個人的な対話の中で知ったのは、寺川家が元来玉露生産を営んでいたものの、戦後に学校を卒業した若き俊夫氏が、玉露から碾茶への転換を決断したことであった。

この判断は、時代が求めた健全な合理主義に基づくものであった。

その計算は単純明快である。第一に、碾茶は玉露より約一週間遅く収穫され、その間に葉が成長することで、0.1ヘクタール当たり約100kgの増収が見込めた。

さらに製造工程において、玉露は丁寧な揉捻を必要とし、全工程に約4時間を要するのに対し、碾茶は揉捻を行わず、約1時間の乾燥のみで済む。すなわち4倍の速度である。

碾茶は複雑な茶に見えるかもしれないが、技術的には極めて単純である。このため中村羊一郎は、それを最も素朴な番茶と同列に位置づける。いずれも殺青と乾燥という二工程しか経ないからである。

かくして若き寺川は、「退歩」―より原始的な技術段階への回帰―によって先行したのである。

寺川俊夫は典型的な茶業合理化者であった。著書『碾茶に生きる』において、玉露から碾茶への転換理由を次のように述べている。

«労働力の点で『多量生産、省力化』というのが、その理由でした。» p. 21、てん茶に生きる、2004

対話の中で寺川氏は、時代が「良質多収のお茶」を要求していたと繰り返し語った。そして茶は迅速に生産されねばならなかった。彼はその時代精神を体現し、自らの名を冠した早生品種までも育成した。

ちなみに、今日の抹茶およびペットボトル茶ブームとは、より高度な葉茶加工技術から、より単純な形態への必然的な回帰にほかならない。現在、多くの玉露農家がより需要の高い抹茶生産へ転換しており、玉露は消滅の危機に瀕している。

高品質玉露は、今や「幻の茶」と化し、日本茶総生産量のわずか約0.3%を占めるに過ぎない(主要産地は福岡〔八女・星野〕、宇治、静岡〔朝比奈〕)。

需要の波と経済合理性は、常に茶文化の発展に影響を与え、ときにそれを高級化の頂点へ押し上げ、ときに再び日常性の地平へ引き戻してきた。

だが、再び19世紀日本へ立ち返ろう。明治維新が迫っていた。

数百年に及ぶ鎖国を経て、国際貿易の時代が到来した。その要請は、グローバルな抹茶ブームの渦中にある今日と全く同じであった。すなわち、日本人自身が求める茶ではなく、外国人が外貨を支払う茶を生産することになったのである。

  1. 煎茶―軽い揉み方から強い揉み方へ、内容から形態へ

    1880年代初頭に至るまで、永谷宗円によって考案された「揉み切り」という軽い揉み方が広く用いられていた。茶葉は焙炉の上で両手のひらの間に挟まれながら揉まれ、下方から熱せられた紙の上に落ちることで少し乾燥し、再び手によって持ち上げられてさらに揉まれる。この工程が数時間にわたり繰り返された。

    この揉捻と乾燥の過程は、一方で茶葉に対して非常に穏やかでありながら、他方で極めて労力を要するものであった。揉捻の全工程は空中で行われていたのである。

    この空中での垂直的な揉捻を、焙炉上での水平的な作業へと合理化し始めた最初の人物として知られるのが、1875年から1883年にかけて牧之原の茶工場長を務めた田村宇之吉である。

    伝承によれば、ある時田村は、空中揉み切りに疲れた弟子たちが、熱い紙の上で茶葉を転がしている様子に気づいた。これが契機となり、田村は転がしながら揉む「回転揉み」の工程を考案し、やがて多くの茶師たちに取り入れられていった。

    1869年生まれの橋山倉吉は、11歳から茶工場で働き始め、18歳にして「転繰(でんぐり)揉み」と呼ばれる回転揉捻法の発明者となった。この技術は、今日に至るまで煎茶製造の発展方向を決定づけるものとなった。

    揉捻工程の最終段階では、強い仕上げ揉みが施され、そして機械化された後「精揉」と呼ばれるようになった。

    焙炉上での揉捻は、茶葉内部の水分をより効果的に表面へ押し出すことを可能にし、煎茶製造全体の時間をおよそ2時間半にまで短縮した。

    大石貞男は、この時代に二つの対立する極が生まれたと指摘している。すなわち、茶の香味といった内容を重視する伝統的な揉み切り製法と、まっすぐに整った茶針状の美しい外観という形態を重視する強揉み製法である。

    «このような多数の流派のなかで宇治製法の流れをひくもみ切り法は、どちらかといえば内容本位で香味にすぐれたが、仕上げまでに腕力を要し、かつ、能率においてやや劣った。これに対し転法は針のような外観をつくるに適し、また光沢に富むいわば外観美麗な茶ができ、かつ能率もややよかった。もみ切り製法の宇治型に対して、回転もみと転線もみを組みあわせた製法は静岡型とよばれた。しかし、相互にこの長短をおぎないあって多数の流派が生まれたわけである。» p. 427, 第三、大石貞男

    大石は、手揉み製茶の主要な流派における発展の方向性を示しているのである。

    «いままで述べたことからも分かるように、宇治製法はもみ切り製法であり、明治十年に回転もみが現れて急速に普及し、この間、赤堀玉三郎の天下一や、漢人恵助の茎裂毛引の法(製品の両端がするどくとがり、障子につきささる程度だったという)が現れて、色沢・形状はすばらしいものになった反面、時としては香味にすぐれぬものも現れたので、その反動として再びもみ切り法が再登場したのである。とくに香味本位をとなえた川根では、中村光四郎の川根揉切流なども現れ、もみ切り仕上に終始した。川根では大正時代に入るまでは転線揉みはやらなかったという。

    茶の品質における、外観か内容かは、古くて新しい問題であるが、紅茶のように品質評価のみで外観を問わないのに比較すれば、日本緑茶の著しいちがいであろう。

     これは、他の食品について色や形を重んじ見て楽しむという世界のある日本人の考え方と、食味に対する感覚の相違なのではないか。» 大石貞男、手もみ技術の発達

    形の美というものは、変遷しやすく相対的な概念である。どうやら百数十年もの間、日本人は煎茶の真っ直ぐではない、丸みを帯びた形状に十分満足していたようである。前述の大石貞男の発言において、明治時代における形状の変化が、その大部分において西洋の買い手から強要されたものであるという事実に触れられていない。

    大石貞男は茶の形状の美しさを高く評価し、形式と内容の調和を追求していた。彼は別の箇所で次のように記している。

    «茶は、本来口に含んで味わって飲むものであるが、日本緑茶は外観を非常に重んじた。とくに手もみのころは、製品が針のようにとがり形がそろっており、しかも緑が深くさえた色でなければならなかった。機械製茶になってからも、その考え方は衰えず、外観内容ともにすぐれる茶ができるようになったが、なかにはコワ葉でむりに外観を作るような傾向があった。むりに外観を作ると内容は相対的に低下する。それは明らかに堕落である。

    そして、逆に、外観はどんなでも飲むものだから、内容さえよければよいという考え方が指頭してきた。しかし、必需品的な飲み方は別として、本当によい茶は、内容がうまいのはもちろん、外観も見事でなければならぬであろう。茶は内容を味わい外観を楽しむという面があることを忘れてはならない。(昭47・5)» p. 418、大石貞男、著作集、5、茶随想集成

    桑原秀樹が公表した史料は、現実がそれほど理想化されたものではなかったことを示している。1911年、静岡商工会議所副会頭・北村米太郎は次のように記している。

    『”外人は粉末を嫌い、形状をやかましく云い、其上価格は下値を唄える”、“茶葉を細末にせずして、仕上げること”。要するに香味に頓着なく、余りにやかましく形状を云々せば、価格は上進して却って茶の品位を傷つけるに至らんとを恐る。余は形状を頼みざれとは云わざるも、外商、再製家相共に品質を本位として製造取引を行う方が相互の利益なりと思うものなり。»
    茶業界 第6巻第8号(明治44年、1911年)、再製法の改良 静岡県総合会議所副会頭 北村米太郎 製茶の研究、手揉みから機械へ、桑原秀樹、月刊茶、2019、7号、49.

    1921年、川崎正一は、茶を飲料としての機能的価値、いわゆる香味本位の茶において重視していた。

    『茶は飲料で美術品ではありません。香味の良い茶が売手にも買手にも真に利益であります。』川崎正一、『今年の製茶方針』『京都茶業界』第三巻第二号、大正10年、1921年)精揉機の魅力、桑原秀樹、月刊茶、2023、8号、p. 20.

    1911年の『茶業界』誌では、形状への盲目的な崇拝のみならず、色沢への過剰な執着も批判されており、それが多くの生産者を着色料による茶の色付けへと駆り立てていた。

    『云うまでもなく茶は非アルコール飲料品中の有効飲料にして、観るものに非ずして、口を喜ばしむるものなり。形状、色沢に多少欠ける処ありとしても、香味優良なれば茶本来の目的を達せられたるなり。 着色は廃止な以上の如く寧ろ歓迎すべきものなり。』茶業界 第5巻第8号(明治44年、1911年)、再製着色全廃、製茶の研究、手揉みから機械へ、桑原秀樹、月刊茶、2019、7号、48.

    1世紀以上前の批判を今日の視点から振り返ると、その正当性を認めるだけでなく、日本の茶業が再び海外、すなわち当時と同様に形態や色を重視する「未成熟な」茶文化を持つ地域へ茶を供給せざるを得なくなっているという事実を認識することが重要である。

    力強い揉捻が主流となる中で、川根の山間部には、茶葉を丁寧に扱うことを説く「揉み切り」の流派が唯一残された。彼らは「蒸しすぎず、揉みすぎず」という教えを守り、過度な物理的圧力や加熱処理が茶葉本来の味わい、特にその香りを損なうことを深く理解していたのである。

    さらに、強い揉捻は茶葉を過剰に傷つけ、熱湯に対して極めて敏感な状態にしてしまう。このように傷ついた茶葉は、熱湯で手早く淹れることが不可能となり、必ず70度から80度まで湯を冷まさなければならない。しかし、一般的な消費者には、そうした手間をかける時間も意欲も乏しいのが実情である。

    特徴的なのは、明治初期に訪日した英国人バジル・ホール・チェンバレンが、すでに完全に「近代化」された煎茶に接していたことである。これは、茶の品質評価に対する当時の日本人の見解を反映したものであった。彼はその著書『日本事物誌』において、次のように記している。

    «日本茶は、中国茶とは異なり、沸騰した湯で淹れてはならない。さもなくば、耐え難いほど苦い煎出液となってしまうからである。茶の品質が良ければ良いほど、用いる湯の温度は低くなければならない。

    日本の茶器には、実際「湯冷まし」(yu-zamashi)と呼ばれる小さな開口の器が含まれており、必要に応じて、茶葉に注ぐ前に熱湯をそこに移して冷ますのである。そうして淹れたものでさえ、最初の抽出液は飲むには苦すぎるとして、しばしば捨てられることがある。

    その結果、日本の奉公人が初めて英国人の家庭に入った際、我々の中国茶やインド茶の扱い方を一から教え直さねばならず、彼らは往々にして、沸騰した湯が不可欠であるという点に対し、疑念を抱いていることを実践的に証明してしまうのである。»

    この一節は、茶の形状の美しさへの追求が、煎茶を多くの日本人の日常生活から遠ざけただけでなく、熱湯で淹れるという国際的な基準からも乖離させてしまったことを如実に示している。

    このような状況は、煎茶を外見の美しさを追求するあまり、緑茶の本質を犠牲にして作られる高級品とする見方を取り返しのつかないほど定着させた。これにより、煎茶が本来持っていた「番茶性」、すなわち日本茶の伝統的な日常性が失われる過程に拍車がかかったのである。

    茶品質の根幹である「日常性」を軽視するこうした姿勢は、今日に至るまで全国茶品評会の審査基準に深く根付いている。そこでは外見が第一とされ、見た目が十分に「美しく」ない茶には、勝ち目がないのが現状である。

34 品質は相対的である

茶の品質は絶対的なものであり、すなわち製品そのものに本来的かつ不可分の属性として備わっていると考えられがちである。しかし、それは一面の真理に過ぎない。

品質は客観的な特性を有する一方で、消費者集団ごとの嗜好、習慣、文化的背景、さらには経済的条件によって規定される相対的な側面も持つ。

品質は、茶が特定の消費者層の期待――その味覚、美意識、生活様式、予算――に適合したとき、初めて最終的に実現される。

消費者層ごとに、品質が実現される地点は、日常性と洗練性のあいだに広がる尺度上の異なる位置に存在する。それぞれの層は独自の望ましい品質像を形成し、その形成と定着を担う歴史的機構こそが茶文化である。

たとえば、関西の多くの人々にとっては焙じ茶が日常茶として親しまれている一方、関東では未焙煎の番茶や煎茶のほうがより日常的な存在である場合が多い。

もし関西において、伝統的な日常茶である焙じ茶を、技術的にはより高度とされる玉露へ置き換えようとすれば、それは地域固有の茶文化に深刻な打撃を与える可能性がある。

したがって、品質とは絶対的かつ固定的な一点ではなく、その向上が常に実質的改善を意味するわけでもない。

品質改善は、単純に上昇や前進のみを意味するものではない。地域文化の特性や消費者の実際の需要を無視した「進歩」は、しばしば消費者そのものからの一方的離脱、«消費者離れ»となりうる。それがあたかも«お茶離れ»であるかのように語られる場合さえある。

何世紀にもわたって存在してきた地方番茶が、国家レベルで粗悪品や贋茶であると宣言され、さらにそれぞれの地域に密着していた在来種の茶園のほぼすべてがやぶきたという改品種のクローンへと植え替えられたのであれば、事実上その人々から奪われた茶から消費者が離れたことを彼ら自身の責任とするのは、これ以上ないほどの偽善行為にほかならない。

何千年にもわたり自然的・有機的手法に基づく農業が営まれてきたにもかかわらず、20世紀後半になって導入された化学肥料・農薬・除草剤依存型の農法を「慣行農法」と呼ぶこともまた、少なからず奇妙に映る。

このような品質観は、人工的な自然改良の限界を示すと同時に、付加価値を価値向上とみなす根強い認識にも疑問を投げかける。

新たな技術が地域条件、嗜好、あるいは経済的現実に適合しないならば、その文脈においてそれを真の改善と見なすことは難しい。そのような場合、むしろ「進歩」よりも「退歩」、その社会の具体的需要により適した生産形態へ回帰することのほうが合理的である場合もある。

ゆえに、品質とは単に高めたり低めたりするものではなく、特定の文化環境の要請に応じて変化・適応させるべきものである。

日本各地における煎茶技術の普及史が、必ずしも一様かつ円滑ではなかった事実は、品質の相対性を雄弁に物語っている。

中村羊一郎は著書『番茶と日本人』の中で、「技術の後戻り」という現象を論じ、いくつかの歴史的事例を紹介している。以下はその一例であり、1757年の若狭国(現在の福井県)の古文書に基づくものである。

«若狭の国はもともと茶の産地であった。田舎でとれた生葉を町家が買い取り、それぞれ焙炉にかけて製茶をしていた。これを「手茶」といい、煎じた時には香り・風味ともによろしく、出した時の色も濃くて、小浜の産物とされていた。しかし、最近は手間がかかるのを嫌い天日干しにするようになって、焙炉にかけなくなり、香りもよくない。じつは、六、七十年前までは、「たて茶」といって、この自家製の茶を濃くだして茶筅で泡だてて呑むのが普通だったのだが、その風習がなくなり、みんな濃いお茶を好まなくなったからである(つまり、このお茶はサラッとした淡泊な味だということだろう)。» p. 157、番茶と日本人、1998

続いて著者が次のように述べる。

«若狭におけるこのような製茶法の変化はきわめて興味深い。すなわち、元来は、茶葉を蒸して焙炉にかけて作っていたのを、近年では焙炉にかけるのをやめて、天日乾燥ですますことになったというのである。二つの資料ともに「揉んだ」という記載がないので、おそらくきわめて単純な蒸して干すだけの粗放な番茶になってしまったということだろう。ここには、製茶技術の発展ではなく、後退が述べられているのである。» p. 159、番茶と日本人

中村は、新しい技術の優位性を絶対的な善とみなす一般的な見方に疑問を投げかけている。

«今まで見てきたのは、番茶という粗放な製茶技術が、いかにして精緻な煎茶生産にまで高められていったか、という問題であった。そこでは、より高い付加価値を求めての技術向上に大変な努力が払われていた。その向上の図式を単純化すれば、地方ごとに適当に作られていた釜炒り・筵揉み製法の茶が、宇治などの先進地域の技術を学んで、蒸し・焙炉揉みへと切り換えられていく、というものである。結果としては、品質の向上と均質化をはかることができ、売値も高くなる。しかし、逆に全国統一の規準で評価されることから、地域的な個性は大幅に減少する。» P. 156

中村の分析は、品質が地方消費者の嗜好と密接に結びついていることを示している。すでに述べたように、茶の品質とは、茶そのものの性質が、茶を飲む人々の嗜好を通じて実現されたものである。

茶の地域的個性とは、まさに茶の品質の地域的実現にほかならず、国民茶文化を構成する「品質点」の一つである。

市場経済の発展は品質の標準化を要請するが、それ自体が絶対悪というわけではない。最も一般的な地域的嗜好に基づく茶の標準化は、大量生産を可能にし、コスト削減、品質の安定化、さらには茶文化の拡大にも寄与する。

しかし、利益拡大を志向する高級化は、通常、さらなる標準化を伴う。これらの過程が進行するにつれて、茶の市場が広がる一方で、茶の日常性は低下し、地域的個性は弱体化していく。

こうした過程は、多様性の縮小と茶文化の漸進的な貧困化をもたらし得るものであり、それは今日、標準化されたペットボトル茶飲料の普及を背景とする、いわゆる「リーフ茶離れ」として顕在化している。

茶が広範な市場に対して最大限に受け入れやすくあろうとする性質(陽の力)は、その本来的特質である「他と異なること」、すなわち独自性を保持し続ける能力(陰の力)と構造的な矛盾関係にある。

ここにはまた、茶が人々の日常生活へ深く統合される性質と、特別で高位な嗜好品として存在する性質との間の矛盾も見出される。

一方では、標準化を通じた無制限な日常性の拡大が、茶を過度に単純化させる。他方では、施肥や被覆栽培など、あらゆる高級化の手段を講じたとしても、標準化された高級茶は真に高級な存在にはなり得ない。標準化された高級茶は疑似的な高級性にとどまり、「品質の標準化」という表現自体も、本質的な矛盾が感じられる。

過度な標準化は、茶の洗練性のみならず、その日常性すらも破壊する。すなわち、標準化への過剰な追求は、品質の複雑な構造そのものを破壊し、それを均質化された、より貧しいものへと変質させるのである。この事実は、現代日本茶の現状も、その歴史もまた雄弁に物語っている。

中村は、高級化と標準化の波の中で生じた茶文化の貧困化の具体例を指摘している。しかも状況をさらに深刻化させたのは、日本茶が地方消費者ではなく、外国市場の嗜好に適応させられたことであった。著者は次のように述べている。

「幕末開港後、輸出品としていかに評価を高めるかというのが、茶業界の課題であり、それに沿って一挙に品質の向上と均質化が図られた。その過程で伝統的な番茶は商品としての規格外に追いやられ、急速に廃れていく。それに合わせて、ただ飲むことだけを目的にした高級な蒸し製煎茶の生産が進んだ。」 p. 162 番茶と日本人

中村は、家庭で晩茶を飲んでいた多くの日本人にとって、煎茶は来客用の茶、いわゆるよそゆきの茶へと変化したと指摘する。蒸製煎茶はまた、「本音の茶」であった番茶に比べて「建前の茶」とも呼べる。

ここから興味深い結論が導かれる。すなわち、工業的な大量消費財にとって標準化が一般に有益に作用するのに対し、農産物、とりわけ茶やワインのように味覚的多様性の高い産品は、全体としてより低い標準化の限界点を有しており、その閾値を超えると品質は急速に劣化し始めるのである。

この結論は、「標準化限界の原則」として定式化できる。すなわち、製品の文化的・味覚的・地域的複雑性が高いほど、品質劣化を伴わずに許容される標準化の水準は低くなる。

さらに中村は、昔の茶産地・足久保(静岡)において実際に起こった技術の後戻りの一例を挙げている。

史料によれば、江戸初期の足久保では、徳川将軍家御用として「青製法」による蒸し煎じ茶が生産されていた。これは、おそらく碾茶製法に近い形で焙炉乾燥されながらも、揉捻を伴わない茶であったと考えられる。

幕府は享保期(1716-1736)までこの茶を買い上げ続けたが、その後、購入は突如として停止された。

これにより、村人は晩茶の黒製の番茶へと回帰し、青製の技術は失われた。足久保における高級茶生産が再興するのは、永谷宗円による煎茶製法の確立以後、都市部の上流階層の需要に支えられてからであった。

この事例は、高級茶が本質的に不安定な性格を持ち、その存立が全面的に購買力ある需要層の市場動向に依存していることを示している。

ここに、外部需要の縮小や競争力の低下が生じた場合、高級抹茶生産への投資が現代の「抹茶バブル」の崩壊へとつながり得るという潜在的脆弱性を見ることができる。

若原英弌は、これと類似した技術の後戻りの歴史的事例にも言及している。

«このように、宇治製法の技術伝播には、めざましいものがあった。だが、その技術を習得した各地の茶業家が、ただちに宇治製煎茶の大量生産に入ったわけではない。

宇治以外の茶業地の場合、従来はまったく使ったこともない蒸釜や焙炉・助炭などの道具を、新しく用意しなければならなかった。また長方形の枠に和紙をかさねて貼り込んだ助炭の上で、茶を揉むこと一つをみても、その力の入れ具合、火加減など、すべてがなかなかむつかしいもので、技術を習得して製造をはじめるのは、簡単に会得できるものではなかったからである。たとえば土佐茶の場合、安政六年(一八五九)の茶貿易の開始とほぼ同時期に、宇治製法を導入しての製造がはじめられたというが、問題はその地の茶の葉そのものにあった。

例えばの製品には遠くおよばない品質であったために、せっかくつくった煎茶も、本場宇治方の導入されるまで、その製造はほとんど途絶えてしまい、近代に至って製茶機械導入されるまで、その製造はほとんど途絶えていたという。» p. 216-217, 日本茶 歴史と文化、1984

このような新技術の「不適応」現象を、むしろ一時的な量的欠陥として捉えた上で、若原英弌は宇治製法の勝利という結論を導いている。しかし、その帰結は著者が望むほど単純明快なものではなく、我々の見解では、はるかに多義的かつ再考を要するものである。

«生産量の多寡はとにかく、その製造技術がひろく全国に伝えられ、それぞれの地域の茶の品質を大きく向上させたことは、日本茶の生産形態に一つの革命を喚んだことになる。ひいては、おおかたの日本人の茶に対する嗜好の変化をうながす端緒ともなっている。それは庶民・日常の茶の文化の一大進展であったといってよい。» p. 217, 日本茶 歴史と文化、1984

新技術の導入は農家に収益機会を与えた一方で、実際には伝統的な日常茶文化―すなわち茶文化の根幹そのもの――を貧困化させ、破壊する側面を持っていた。

そして本質的には、同じ構図が現代にも繰り返されている。海外市場の需要に応えようとして、日本の農家は煎茶生産から抹茶生産へと急速に転換しつつあり、それによって収入は増加するものの、同時に、千二百年以上にわたり葉茶を中心として築かれてきた国民的日常茶習慣の基盤をさらに掘り崩し続けている。

次章では、古来より釜炒り茶の伝統で知られる佐賀県における煎茶技術導入の、もう一つの典型的事例を取り上げたい。『石上茶伝話』の中心となる脊振山は、伝承によれば、1191年に宋より帰国した栄西禅師が中国から持ち帰った茶を植えた地とされている。

36 石上茶話

『石上茶話』(1897年)は、市場の流行がいかにして、新時代の高級茶によって長い年月をかけて培われた伝統的茶文化を瞬時に価値なきものへと追いやり得るかを示す歴史の教訓である。

著者の鷲谷順信は脊振山の園主として、茶輸出景気の時代に、土地本来の釜炒り茶文化に背いて、宇治煎茶を範とする高級煎茶生産へ転換しようとした試みが、結果として挫折した過程を描いている。

また彼は、古老たちに伝わる釜炒り番茶製造の記憶をもとに、この庶民的製茶法が極めて古い起源を有する可能性についても考察を加えている。

«茶摘みの時期になると、藪茶(やぶちゃ)なので草を押し分けて山の中にはいり、茶の芽を探しだし、古葉も新葉も区分けなく一緒にこさぎ採って、これを釜で炒り、荒筵(あらむしろ)の上で揉みこみ、日向(ひなた)で乾かし、これを升(ます)で量って、一升を五文、三文で販売していた」と云うこと、これが当地での云い伝え、今から遡ること百年前[一七九七年]頃の製茶、販売の話であります。こうしてみますと、釜炒法(かまいりほう)が昔からの製法と思われます。 p. 84 石上茶話を読む、村岡実、2013

ここ背振山のようなところでも、前に話しておきましたとおり、番茶の製造以外は知った者はおりませんでした。

しかし、安政年間になって日本茶が外国への輸出物の一つとなってから、次第に製茶に関心が高まりまして、明治の初年頃「明治元年、一八六八年」の春から、当時の「神埼郡」郡令、吉村謙助という方が急遽背振山において製茶法を奨励されました。

宇治から教師を三人雇い入れ、修学院は以前はその造りが広大であったので、外にある台所を製造場所にして、茶の製造を試みられたところ、かなり優れた形状で、宇治茶に似ていたために、地元の人たちはこれまで見たこともなかった焙炉製の茶の色で、その評判は「宇治茶に優る背振の上茶」であると云って、この自慢は面白いことでございました。

そこで、宇治茶をわざわざ久留米の通り町若松屋から買い求め、飲み競べることになりました。

その座に列席した人には、神埼郡郡令下級役人の田代与一、当修学院前住職の清水義俊、中谷坊前住職の野田普照、その他一般の客二人ばかり、私もその座に列席しておりました。

飲み比べてみましたところが、その香味に至っては、宇治茶の足下にも及ぶものではありませんでした。

そのはずでございます。宇治の茶園の栽培、肥培の様子を一言で話しますと、宇治茶の香味は京洛中の人糞尿を味あうのと同じ位と云うようなものです。

「このような宇治茶と、当地背振の」山に自然に育った茶葉をそのまま製造した茶を比較しましたのでは、雲泥どころか、下駄と焼味噌ほどの相違がございまして、その茶は郡令所に引き取られまして、販売することはかなり難しかったそうでございました。その結果は損失が三百円あまりであったと云うことは本当の話で、私も保証いたします。» p. 86、石上茶話を読む、村岡実、2013

背振山は、1191年に中国から帰国した栄西が茶園を開いた地として知られている。松下智によれば、栄西は抹茶の製法とともに、当時すでに主要茶産地であった浙江省で芽生えつつあった釜炒り茶の技術も日本にもたらした可能性が高い。

続いて鷲谷は、煎茶製造法導入の試みについて語る。

«ここ背振山のようなところでも、前に話しておきましたとおり、番茶の製造以外は知った者はおりませんでした。

しかし、安政年間になって日本茶が外国への輸出物の一つとなってから、次第に製茶に関心が高まりまして、明治の初年頃「明治元年、一八六八年」の春から、当時の「神埼郡」郡令、吉村謙助という方が急遽背振山において製茶法を奨励されました。

宇治から教師を三人雇い入れ、修学院は以前はその造りが広大であったので、外にある台所を製造場所にして、茶の製造を試みられたところ、かなり優れた形状で、宇治茶に似ていたために、地元の人たちはこれまで見たこともなかった焙炉製の茶の色で、その評判は「宇治茶に優る背振の上茶」であると云って、この自慢は面白いことでございました。

そこで、宇治茶をわざわざ久留米の通り町若松屋から買い求め、飲み競べることになりました。

その座に列席した人には、神埼郡郡令下級役人の田代与一、当修学院前住職の清水義俊、中谷坊前住職の野田普照、その他一般の客二人ばかり、私もその座に列席しておりました。

飲み比べてみましたところが、その香味に至っては、宇治茶の足下にも及ぶものではありませんでした。

そのはずでございます。宇治の茶園の栽培、肥培の様子を一言で話しますと、宇治茶の香味は京洛中の人糞尿を味あうのと同じ位と云うようなものです。

「このような宇治茶と、当地背振の」山に自然に育った茶葉をそのまま製造した茶を比較しましたのでは、雲泥どころか、下駄と焼味噌ほどの相違がございまして、その茶は郡令所に引き取られまして、販売することはかなり難しかったそうでございました。その結果は損失が三百円あまりであったと云うことは本当の話で、私も保証いたします。» p. 86、石上茶話を読む、村岡実、2013

続いて著者は、当時人気であった紅茶を夏茶の葉から製造し輸出しようとした試みについて記している。これは、今日多くの農家が二番茶煎茶の低価格を理由に紅茶製造へ取り組む状況とも重なる。一八九四年には熊本から技術者が招かれ、その指導のもと中国式製法による大規模な紅茶生産が行われた。

その製品は長崎において中国人仲買人に通常の釜炒り茶のおよそ三倍の価格で販売されたが、収益は高い生産コストを辛うじて補う程度にすぎなかった。

1896年度には、高額な製造費に加え、同じ時期に村人が製糸業へ移行してしまい、茶摘み人夫の確保の困難さ、また天候の不具合で、茶園の発芽の不揃いその他さまざまな要因により、紅茶生産は見送りとなり、ついには政府補助金を求めて当局に支援を要請せざるを得なくなった。

«組合の茶は一床も製造できませんでした。各村々の家では昔ながらの釜炒製の茶を製造するだけに留まりました。» p. 91、石上茶話を読む、村岡実、2013 政府は補助金を拠出し、あらゆる手段を講じて茶業の再生を図った。

«その間には、多田元吉、平尾[喜寿]などの農商務省の役人が茶業奨励に巡回などもありました。明治二十六年頃には、前農商務省の次官、前田正名氏が神埼駅に巡回して、本県勧業有志に対して、切実に実業の意義を演説され奨励されました。» p. 88-89、石上茶話を読む、村岡実、2013

状況を調査した結果、鷲谷は、当地の環境が宇治の模範に基づく煎茶の成功的な生産には適合しないという結論に達しているのである。

«全国には茶業団体が組織され、九州[茶業]団体の会議が長崎、熊本で開催されました。茶業関係者が東奥、西肥、南紀、北越でも声を上げ、世間の風潮に喚起されて、当地の茶業家も奮い立って思いを凝らし、日本最初の茶園たるその名に恥じないようにと、思いのほか気持ちが高揚し、茶業家の推薦によって、私も神埼郡北部茶業組合長の役に当てられ、やむをえず茶業家の会議に加わり、国内の遠く近くの茶業の状況を注意深く見聞きしてみますと、当地の茶園は山腹に自生している茶園でございますので、とうてい宇治やその他のような栽培肥養の行き届いた場所ではありません。

[茶樹を]蘆や藁で覆って、日光を遮り、「草木を燃やした」灰汁を施して、玉露製の茶芽を育てるなどの工夫を凝らしたとしても、製葉の形状はともかくも、香味に至っては日本茶の中位であるなどと云うことは、覚束ないことと考えられます。» p. 89、石上茶話を読む、村岡実、2013

この流れの中で、品質評価という市場の枠組みに組み込まれた結果、釜炒り製法によって地域の嗜好に寄り添いながら独自の風土の中で育まれてきた昔の茶は、外需を前提とした市場の潮流のもとでその価値を急速に失っていった。

それから百年以上が過ぎた現在、日本の茶産業は再び海外需要、とりわけ抹茶需要に応えるべく奔走しているが、その過程で自らの茶文化に内在していた多様な伝統は、なおも周縁へと追いやられつつある。

脊振山の風光明媚な斜面に立ったとき、目に入ったのは、ただ森林の緑に呑み込まれつつある茶畑の痕跡だけであった。「谷」で起きている激しい変動をはるか歴史のてっぺんから見下ろしながら、『石上茶』は去った世代の記憶を抱え込みながら、自分の出番を静かに待っているかのようだ。

37 日常茶飯の破壊

江戸、明治、大正時代における茶業の近代化を総括すると、19世紀から20世紀の転換期に近づくにつれ、煎茶の高級化、すなわち商品特性の向上と、何よりもその外形の美しさを整えることに、より多くの労力が費やされるようになったといえる。

永谷宗円によって考案された「揉み切り」という緩い揉み方から移行するにつれ、煎茶の形状は、自由で丸みを帯びた「蜘蛛の足」のような形から、主に米国の買い手に好まれた直線的な針のような形状へと変貌を遂げたのである。1923年、好川海堂は次のように記している。

«明治大正を通じて、既に今日五十数年に餘るの長年月を経過し、殊に當代は明治維新後、歐米の文化を容れ、舊來の風習を一洗し、今や萬事に科學的研究の旺盛を極め、凡ての點に於て改造熱の高い現代社會に於て。茶は何程の進歩發達を見たかと云へば、單に製茶の外形に過ぎない形状色澤の美を發揚したるに。

他は其の形状を根本的に革めた位の事である。前者の代表的のものは、彼の静岡縣に於て創始された『天下一』の製品である。其製茶は針の如く細く美しく眞に美術的の製茶ではあるが。茶の實質なる香味には何等の優秀なる變化を與へて居らないのである。» p. 124、日本喫茶史要, 1923

実際には、形態の変化が内容の変化を伴わないはずがなかった。桑原秀樹が公刊した明治・大正期の史料が示すように、美しい外形の追求のために、茶本来の自然な味わいと香りは必然的に犠牲にされた。

手作業から機械製茶へと移行した後も、美しい形状を重視する傾向は茶業界の主流であり続けた。煎茶における視覚的美の優先は、品質評価基準として制度化され、今日に至るまで品評会において実践され続けている。

1835年には、煎茶の高級版として覆下栽培による玉露が誕生した。明治期には、もともと丸みを帯びていた玉露は針状の形へと変化し、最高品質の象徴となった。この時期、「完璧な形状」と「覆下栽培」が茶の絶対的品質の同義語とみなされる「新たな伝統」が形成され、それは現代に至るまで生き続けている。

このような茶の品質観は、茶における二つの最も重要な側面―日常性と多様性―を見落としている。言い換えれば、多様性とは茶の日常性が地域ごとに実現した存在形態にほかならない。

その結果、全国的な高級化と標準化は日本茶に深刻な打撃を与えた。伝統的な日常茶文化は損なわれ、日本の茶文化の基盤として何世紀にもわたり存在してきた数多くの地域的番茶が消滅していった。

高宇政光が著書『茶は世界をかけめぐる』(2006年)のあとがきにおいて «日常茶飯の破壊»について論じている(引用は同書の «前書き前に»掲載)。

伝統的な日常喫茶の侵食は、日本茶の品質低下と並行して進行した。製品の高級化と標準化を追求する中で、茶業界はその日常性と地域的多様性を低下させたのである。

こうした破壊的過程は20世紀を通じて続き、各地で意識ある生産者や販売者による抵抗を受けながらも進行した。20世紀60年代までに主要な海外市場を失った日本の茶業界は、以後、積極的に国内市場へと軸足を移していった。

高度経済成長期(1955~1973年)の高い購買力を背景に、「品質競争」は再び頂点に達し、伝統的な日常茶文化に決定的な打撃を与えることとなった。

38 階層に囚われて

2021年に逝去するまで、高宇政光は日本国内外において日本茶の普及活動を続け、とりわけ2000年に発足した日本茶インストラクター協会創設期の専門家の一人として重要な役割を果たした。

高宇は、絶滅寸前に追い込まれていた釜炒り茶の復興を積極的に訴え続けた。釜炒り茶は、ほぼ消滅しかけた地域番茶と実質的に同じ運命をたどっていた。

番茶と釜炒り茶は、本来、日本の日常茶の伝統的同義語である。その中心にあるのは「飲用性/飲みやすさ」であり、それが手頃な価格と結びつくことで、茶が一般庶民の日常生活に自然に溶け込む能力、すなわち茶の「日常的品質」の本質を形成している。

高宇は著書『日本茶』(2005年)の中で、釜炒り茶と番茶について次のように記している。

「煎茶や玉露などの蒸し製茶よりも香り高く、その香ばしい香りは釜香といわれています。

味は、渋み、苦みがなく、すっきりとした味わいです。」 p. 24、高宇政光、日本茶、

「もともとは、遅摘みの葉でつくるお茶をいいましたが、製茶技術の発展と市場が高級煎茶を重視する傾向になったため、現在では一般に下級煎茶のことを番茶と呼ぶようになりました。

荒茶を仕上げる工程で選別された煎茶の古い葉、かたい葉が使われたり、一番摘み茶や二番摘み茶のあとにとった茶葉を原料とする場合もあります。煎茶と比べると水色は薄く、甘みも少ないのが特徴。軽くてさっぱりした味わいです。」 p. 20、高宇政光、日本茶、2005

番茶と釜炒り茶には客観的長所が数多く存在するにもかかわらず、品質階層はそれらを正当に評価せず、その結果、茶文化はいまなお「茶種差別」という慢性病に苦しみ続けている。

茶種差別とは、歴史的に形成された多様な茶を、「上下」「優劣」「高価廉価」という垂直的市場序列へと還元する傾向である。

前述したように、この論理では、高級茶が品質ピラミッドの頂点に置かれ、それと異なる茶種は自動的に二次的・低級と見なされる。

高宇はこの差別に反対していた。しかし番茶や釜炒り茶の重要性を深く理解しながらも、日本茶インストラクター協会の他の関係者と同様、最終的には新茶を番茶より上位に置く既存の品質階層の中に留まり続けた。

組織の内部に留まったまま、その構造を根本的に変革することはできない。

我々は、8世紀『茶経』に起源を持つ品質階層(実質的には茶種差別制度)を解体し、「すっきりとした味わい」、 「爽やかな香り」やその他の過小評価されてきた属性を、「茶の日常品質」(茶の日常性)という独立した価値として再定義することによってのみ、日本茶品質の真の本質を消費者に明示し、構造改革へ進むことが可能になると考える。

39 狐草

古来、人々は良い茶を飲みたいと望んできたが、悪い茶と良い茶を正確に見分けられる者はごく少なかった。茶は理解の難しいものであり、まるで化け狐のように姿を変える不可思議な産物と見なされ、そのため「狐草」とも呼ばれた。

この状況は現代においても大きくは変わっていない。一般消費者にとって、茶はいまだに容易には本質を見抜けない謎に包まれた存在であり、お茶のプロの領域、そして数々の神秘的な伝承の題材であり続けている。

藤栄製茶社長・時田鉦平は、お茶は「消費者にとって緑茶が、品質、価格のわかりにくい商品」であると述べている。p. 23 新茶通報、1999

彼は、消費者にとっての日本緑茶の商品特性を以下のように挙げたのである。

イ 地域性の高い官能商品である。

ロ 品質価格の優劣判定の難しい商品である。

ハ 生活環境に影響され易く、単年度消費が望ましい嗜好的商品である。

ニ 味の慣れ、飽き、流行もあるが比較的保守的な商品である。

ホ 国民飲料的な慣習と伝統に支えられた生活密着型の商品である。

大石貞男は«茶は複雑な飲料である»と述べている。p. 423、茶随想集成、5、2004

緑茶の事典や茶大百科などには、そもそも「茶の品質」という項目自体が存在しない。存在するのは「茶の品質評価」に関する項目であり、「茶の品質」そのものを定義する項目ではない。

一見すると根本的概念と思われるこの言葉の曖昧さについては、一部の茶業教材や専門誌でも指摘されている。たとえば、1994年の業界誌『月刊茶』には次のように記されている。

『リーフのお茶には、規格もなければスタンダード・サンプルもない。ナショナル・ブランドもない。つまり品質評価の基準がないから、単価の高いものが低いものより品質がよいとは限らない。結局、客は店主を信用して買い物を選択することになる。』月刊茶1994。

1976年刊行の緑茶読本にも、これとよく似た記述が見られる。

『緑茶は一定の品質規格を定めることがむずかしく、小売店の銘柄はまちまちで、それぞれの店の信用で販売されている。(中略)

茶価は茶商のセレニティに(誠実性)によって決まる。茶には(紅茶も同様)グレード(種類等級)があっても、スタンダード(規格)がない。したがって品質による分類はとらえにくい。』p. 180-181、 緑茶読本、桑原穆夫, 曽根冨雄共著 (味覚選書) 柴田書店, 1976.

茶の品質とその評価基準は消費者には分かりにくく、その判断はもっぱら生産者と販売者の側に委ねられている。

1993年発行の月刊誌『茶』8月号の『お茶に対する消費者の声』 という欄に静岡市在住の稲葉春子は色々な日本茶の種類の多様性やその価格の不透明さに驚きを表明している。

『かつて、計量モニター三十名程が、計量チェックの目的で、市内の小売店、デパートで、百グラム五百円の緑茶を買い集めました。その時、同じ値段なのに、こんなにもいろいろなお茶があるのかと驚きました。針のように細く揃ったもの、荒茶のように雑なもの、色も濃い緑茶から茶色味を帯びたものと様ざまでした。多分味も多種に亘っていたと思います。茶は、し好的要素の強いものであり、入れ方に依っても大きく作用されるので、一概にその良し悪しを論ずることはできませんが、他の食品と比べ、売り手の栽量に任せざるを得ないのが現状であり、我々消費者の不満に思う点でもあります。』 p. 47、 月刊茶、1993。08。

1970年代頃から、茶の品質という概念の曖昧さと分かりにくさは、消費者の間で次第に強い不満を招くようになった。同じ茶園で生産された茶でありながら、100グラム100円のものもあれば1万円のものもある理由を、消費者は理解できなかったのである。

«お茶は日常茶飯事という言葉があるように、日本人にとって一日も欠かせない伝統的な飲み物である。しかし、産地や種類が多く、嗜好品という商品特性も手伝って、わかりにくい商品になっている。とくに最近、外から中身が見えない包装茶がふえており、消費者が茶を選ぶ目安は表示しかない。そうしたことから消費者サイドには表示が不明確とか、値段の基準がはっきりしない、という批判が強まっている。» NHK総合テレビ「くらしの経済セミナー」(昭和五十七年五月八日)

p. 185、緑茶の文化と経済、竹中久ニ雄、1984

誰が悪いのか。茶を分かりにくい商品にしたのは、ほかならぬ茶業界そのものではないのか。

一般には、茶の品質とは茶に本来的に備わった性質の集合であり、消費者はそれを学び、味覚や正しい淹れ方のスキルを磨きながら理解し評価していくべきものだと考えられている。

このような考え方では、常に消費者の側に責任があることになる。問題なのは、淹れにくい茶ではなく、正しい淹れ方を学んでいない消費者だというわけである。

しかし実際には、茶の品質とは茶に不変的に内在する絶対的な性質ではない。それは消費者の欲求が満たされる瞬間に初めて現れるものである。手軽に熱湯で淹れられる美味しい茶を求める人の欲求が満たされないのであれば、その茶を無条件に高品質だとは言えない。

茶の品質は、単に消費者の嗜好や需要に左右されるだけではない。それらによって決定されるのである―茶品評会の場ではなく、家庭の台所において。

国際標準化機構ISOの規格8402-86において、品質とは«製品またはサービスが明示または暗黙のニーズを満たす能力として有している特徴および特性の全体»と定義される。

これは、単に良し悪しの度合いではなく、顧客の要求や期待をどれだけ満たせるかという総合的な能力を指している。

「茶が満たすニーズとは一体何なのか?」――おそらくそう疑問に思い、「もちろん飲むという欲求だろう」と考えるかもしれない。だが実際には、茶はその多様な形態を通じて、生理的欲求から精神的欲求に至るまで、実に幅広い人間の需要を満たしている。

消費者についても同様であり、その存在もまた多様である。消費者も、その求めるものも千差万別であり、まるで一つの世界を成している。

では、なぜ茶の品質はこれほどまでに価格へ大きな影響を及ぼすのか。茶は本質的には同じ茶樹から作られ、違いは加工法にあるだけではないのか。なぜ、ある品質は他より高く評価されるのか。

品質とは、狐の尾のように容易に掴めるものではない。すでに述べたように、品質は二重構造を持つ。すなわち狐には少なくとも二本の尾がある―「洗練性」と「日常性」という二つの価値尺度である。

40 シンデレラの馬車

伝統的な茶の品質観は、茶に備わる二つの根本的品質―「洗練性」と「日常性」―の存在を見落としており、『茶経』以来の単一的かつ高級志向的な評価尺度のみを前提としている。

伝統的な茶の品質観は、この茶に備わる二つの主要な品質の存在を見逃し、『茶経』以来提示されてきた単一の垂直的評価軸のみを提示してきた。

8世紀末、中国の茶人・陸羽は、その著名な『茶経』において、今日にまで続く茶の品質評価の試みを初めて打ち立てた。

若い芽が成熟した葉より品質的に優れ、また樹木の陰で育った茶は直射日光下で育った茶より高品質であると認めることで、彼は品質を「上・下」「優・劣」という序列的な垂直構造で捉える直線的品質観の起点を公式に築いた。すなわち、若芽と成葉をヒエラルキーの中に配置したのである。

しかしながら、「茶の品質とは何か」という核心に迫りながらも、陸羽は実質的な明確化を避け、「茶の品質の理解とは、師から弟子へ口伝される秘伝である」と記すにとどまった。

『茶経』は、唐代最高級の茶であった団茶を正統化した理念書でもあった。その中で陸羽は、煩雑な製茶・煎茶手順と24種にも及ぶ茶具を通じて、その高貴な地位を強調し、それらの道具なくして「真の品質」は到達不能であるとした。こうした高級茶の価値づけ手法は、現代においてもなお積極的に用いられている。

『茶経』に見られる思想を土台として、今日では「早摘みの茶は、遅い時期に摘まれた茶よりも品質が優れている」という考え方が広く浸透している。中国茶文化においては、高品質茶の摘採時期を分ける基準として「穀雨」(グーユー、4月20日前後)が重視されてきた。穀雨以前に摘まれた茶は高品質とされ、とりわけ清明(4月4〜5日頃)前に摘まれた茶は最高級品として知られている。

しかし、『茶経』そのものには穀雨への言及は存在しない。穀雨をめぐる観念は、より後代の農耕的伝統に由来するものである。おそらく時田鉦平は、『茶経』の後世における解釈の一つを引用しているのだろう。

«摘採日の指定として、「穀雨前五日を以て上と為す。後の五日之に次ぎ、再五日又之に次ぐ」とあり、陽暦四月二十日を中心とし、遅れは品質低下を招くと警告しております。» p.

135, 新茶通報

現代日本では、茶の品質低下は、まさにこのように——原則として単線的に理解されている。

また今日に至るまで、茶葉は成長するにつれて品質が低下するという考え方が一般的である。岩浅潔は『茶の栽培と利用加工』(1994年)において、«生葉の品質は生育初期を除き生長に伴って低下する。» と述べている。 p. 356、岩浅潔は茶の栽培と利用加工、1994

大石貞男は著書『茶の栽培―良質質多収の技術体系』(1967年)において、「出開度でいうと、90パーセントをこえるとどんな場合でも品質は極端にわるくなり、60-70パーセントくらいまではそれほどおちない。いずれにしても、茶は心をもっている若芽のときが一番品質がよい。中国では心だけで製造した茶もある。そこで、摘採適期というのは品質がまだそれほど悪化せず、収量はかなり上がったという時期である。」と述べている。p. 19-20

また、茶葉の生育が進むにつれて、「茶の品質をよくする成分がへり品質がおちる」と論じている

しかしこの見解では、事物や成分の「空」の性質が十分に考慮されていない。成分は本来的に、品質を改善する性質や悪化させる性質を固定的に有しているわけではない。その作用や結果は、さまざまな因縁条件の結合によって決定されるのであり、必然的に一方向へ定まるものではない。

品質を直線的に捉える見方は、大石貞男の諸著作にも見られる。彼は茶の品質と収量との間に逆相関を見いだし、「量から質への転換」が求められる時代になったと強調している。

茶に唯一絶対の「高級さ」が存在するかのような錯覚が生まれる最大の理由は、まさにここにある。だが、もし日常性をも茶の品質の一部として捉えるならば、我々の考えでは、茶の量的増加は必ずしも品質向上と矛盾するものではない。

時田鉦平は、唯一絶対の一番茶の品質というものの不在をほのめかし、二番茶や三番茶の独自の価値をも認めるかのような興味深いことを指摘している。

«総てを満足させる商品は無い。品質とは、不満足中の満足感で

二番茶を一番茶に近づけたい。二番茶に不足している内質は何か。肥培管理で補えるだろうか。この課題の研究も数十年前から続行されているが数々の不条理に遮られる上に、甚だしく忍耐の要る作業らしい。むしろこの研究は逆に、一番茶の品質向上に大きく役立ったと聞いている。

さて、二茶三茶の品質審査を行なう茶商の経験的価値評価の背景に、嗜好の柱として常にあるのは一番茶の香味である。所がよくしたもので、二番茶の季節には二茶が旨く、三茶の候には三茶の香味も満更でない。» p. 109-110, 新茶通報、1999

結局のところ、時田鉦平はなお市場の現実、すなわち「唯一にして最良」とされる一番茶品質へと立ち戻っている。そこでは、一番茶以外の収穫が独自の品質的価値を持つ可能性は否定されると同時に、それらは不完全なものとして位置づけられてしまう。著者は、他季節茶の品質的特性を活かす方法を模索するのではなく、それらを一番茶の基準へ近づけることを志向しているのである。

このような姿勢からは、商業的価値の高い茶の「洗練性」への強い執着、さらには後期収穫茶の持つ飲みやすさや買いやすさの中に、日常的価値を見出そうとしない態度が感じ取れる。興味深いことに、施肥や被覆によって夏茶の品質を春茶へ近づけようとする試みが成果を上げなかったことについては、大石貞男も言及している。

結局、いくつかの代替的な考察を示しながらも、時田鉦平は大石貞男と同様に、茶葉の成熟を「質が別のモードへ移行する過程」ではなく、「不可避的な品質低下」とみなす視座の内部に留まり続けているのである。

大石は、茶の収量と品質の相関関係を検討する中で、同様の結論に至っている。

«というのは、茶の収量ほどとらえにくいものはなく、つまりこれは芽の生長のどの段階でも収量となりうるもので、摘採時期により収量は大幅に変化する。一方、品質は原則的には早いものほど良質であり、極端に遅れると番茶にしかならない。

また、一芽でも、一芯二葉摘み、三葉摘みというように芽の上部ほど良質の茶ができ、下位の葉を含むほど品質は悪化するが、収量は逆に深く摘葉するほど多いのである。

したがって、茶園の固有の収量品質というものが決まっているわけではなく、摘採時期や摘採方法によって大幅に変化するものである。しかも品質と収量は逆の関係が成り立つ場合が多いのである。» p. 222、集成、茶随想、2004

この一節には、仏教における「空」を思わせる感覚が漂っている。すなわち、茶とは固定的で不変の本質を持つものではなく、自然と人間が織りなす無数の条件と関係性の中で姿を変える存在である、という認識である。

だが、そのような哲学的洞察にもかかわらず、市場の線形的な論理は、大石を再び一番茶至上主義へと引き戻してしまう。

大石は、品質向上競争の時代を体現した人物であった。その時代には、新茶の価値が過度に神格化される一方で、番茶の価値は低く見積もられていた。そうした価値観のもとでは、新茶が番茶へと変わっていくことは、まるでシンデレラの馬車が深夜にかぼちゃへ戻るような、「価値の失墜」として理解されていたのである。

このような二項対立的な品質観は、「品質が高まれば収量は減り、収量が増えれば品質は下がる」という反比例の幻想を生み出す。

大石の目指したものは、いわば風車に挑む戦いであった。見かけ上の反比例関係――さらには自然そのもの――に抗い、技術の力によって大量かつ高品質な茶を実現しようとしたのである。そこに高級化思想の本質がある。そして、その革命的努力が最終的にもたらしたのは、環境と茶文化の損傷、つまり茶離れとなった。

16世紀末(明代後期)に著された『茶疏』において、中国の茶人・許次紓は、摘採時期と茶の品質との相関を、より繊細かつ柔軟に描き出している。彼は、固定的な価値観に基づいて茶を厳格に「良い茶」と「悪い茶」とへ切り分けることなく、茶を分断することなく、その自然な全体性のうちに捉えている。許次紓にとって、大きく育った葉とは、成長した芽の延長にほかならない。

«清明(四月五日ころ)や穀雨(四月二十日ころ)は、茶摘みの時節である。清明では早すぎ、立夏(五月五日ころ)では遅すぎ、穀雨の前後、そのころが最適である。もしさらに一両日茶摘みの時期を遅らせ、茶葉の気力が十分に満ち足りるのを待てば、香りの強さは倍増し、収蔵しやすく、梅雨時にも蒸れない。やや葉が長大になるといっても、もともとこれは若い枝の柔らかい葉である。» p. 127-128、明代ニ大茶書、岩間眞知子, 2023

許次紓の評価体系は、より相対的で自由であり、より「空」に近いものである。彼は、「早すぎる」摘採にも、「遅すぎる」摘採にも寛容であり、茶の品質が味覚習慣だけでなく、その土地の気候風土にも左右されることを理解している。彼はまた、日常の飲み物としての茶と商品としての茶との価値を区別している。さらに許次紓は次のように記している。

«杭州の習俗では茶碗の中に茶葉を撮んで湯を注ぐやり方を好むため、極めて細かい茶葉を重んずる。茶は煩いを埋め鬱を散すので、それを非難するべきではなかろう。呉淞の人は吾が郷の龍井茶をとても尊重して、雨前の細かい茶葉を高価でもいとわず買うが、それは昔からの習慣に従っているばかりで、妙理を解しているわけではない。

峠中(浙江省長興)の人は、立夏の前でなければ摘まない。最初に試しに摘むものを開園と謂い、立夏より本格的に摘み始め、これを春茶と謂う。その地がやや寒いため、そこで立夏を待って摘むので、これを遅すぎると咎めるには当たらない。昔は秋に茶を摘むことはなかったが、近ごろはある。秋の七、八月にまた一度摘み、これを早春と謂う。その品質はたいへん佳く、少々味は薄いが気にするほどのこともない。他の産地では儲けようと、梅雨に多く茶を摘むが、梅雨の茶は苦渋く、やっと食事用の茶として飲めるほどのもの、さらに秋摘みの茶葉を傷めるから、佳い茶の産地では戒めて梅雨に摘まない。» p. 128、明代ニ大茶書、岩間眞知子, 2023

現代の著者であるアメリカ人のジェームズ・ノーウッド・プラットも、2010年刊行の『茶の辞典』において、早摘み茶の絶対的優位という固定観念から距離を置き、穀雨以後に摘まれた茶のほうが、場合によってはより高品質であり得ると述べている。彼は、その見解が茶の品質を直線的に捉える発想に対する異議申し立てであることを自覚している。

«谷雨茶(グーユーチャ)中国語。毎春、清明(4月5日頃)の後に続く茶の収穫期を指す。すなわち、清明節(墓参の日)から4月20日頃までの約二週間に摘まれる茶である。春の気候条件によっては、谷雨茶が清明前の茶よりも優れている場合もあるが、そのように認めることは「異端」とされかねない。» p. 126, James Norwood Pratts’s Tea Dictionary, 2010

実践的経験に基づくきわめて妥当な観察であるにもかかわらず、著者はなお、茶の品質に関する伝統的価値体系の内部にとどまっている。私たちは、そこから一歩踏み出すことを提案する。

もし、深い滋味よりも、高い飲みやすさと低価格を備えた大衆的な日常茶の生産を目的とするならば、芽葉の成長に伴って茶の品質が低下するのではなく、その本質が「洗練性」から「日常性」へと変わっていくにすぎないことが見えてくる。

茶の品質とは、一つの使用形態から別の使用形態へと流動するものであり、固定的属性ではなく、「使用への適合性(fitness for use)」という機能として現れる。(この概念については後に詳述する。)

このような二元的視点は、大石貞男が体系化した日本茶品質観の厳格な直線性とは相容れない。

『茶経』以来の伝統を継承した大石は、高品質を主として深い旨味、すなわち味覚的快楽としての茶の「洗練性」に見出していた。

1969年、高度経済成長と国民の購買力向上を背景に、大石貞男は品評会を軸として高級茶のさらなる品質向上路線を推し進めた。

しかし、その後の日本茶の歴史が示したのは、緑茶の高級化が無限に品質を高めることはなく、最終的には飲みやすさの急激な低下と価格上限への到達を招くという事実であった。

大石は次のように記している。

『茶のように品質が微妙で、客観的に表示しにくいものは、このような品評会において、その道のベテランが審査し、優劣を判断することは、すぐれた品質の保持と時代に適合した品質の標準化に役立ったことははかり知れないものがあったろう。

一方、出品者が賞を勝ち取るためには大変な苦心のいることで、現在のような大量生産の商品化された品質水準をはるかに抜く製品を出品し、一般に表示することによって、商品の品質向上の目標が高らかにかかげられるのである。

最近、日本の農作物は食糧供給の立場から、うまいものを作るという質的転換を図ろうとしている。これは、もちろん、量が充足されたので、消費者の好みに合うものがなければ売れないという時代がきたのだが、茶のような嗜好性飲料では、歴史的にそうなのである。そのような意味から、うまい茶、好まれる茶の基準を、品評会を通じて確立して、経済生産の場合の品質基準になることを願わずにはいられない。』昭和44・4

大石は、茶品評会を茶の高級化と標準化を推進する中核的制度として位置づけた。それは、本来相対的で多面的な茶の品質の中から、特定の高級的側面のみを抽出し、それを厳密に制度化された絶対的基準へと昇格させようとする試みであった。しかしその帰結として、茶文化の土台を成す日常性と多様性は大きく損なわれることとなった。

伝統的な茶文化は、病害や霜害に強く、自然本来のリズムの中で生きてきた古来の在来茶樹とともに、文字通りブルドーザーによって根絶されていった。

在来種は、窒素肥料を効率よく吸収し、大石貞男が説いた高級化された旨味―すなわち「うまい茶」の基盤となるやぶきた系統のクローンに比べれば、収益性の面で劣ると見なされたのである。

善意に満ちた理念を抱きながらも、大石やその他の技術革新推進者たちは、結果として地域固有の在来種に事実上の死刑宣告を下した。

そして大石は、1974年7月の論考の中で、伝統的な在来茶園を新たな育成品種へと早急に転換すべきであると強く訴えている。た。

«品種茶園からは高級せん茶が作れるけれども、在来茶園からは作ることができない。また品種茶園ならば、普通、せん茶を省力的効率的に生産できるけれども、在来茶園からは生産できないのである。

静岡県では昭和三十五年に茶園改植のために二台のブルドーザーが導入されて、いままでに一〇アール三〇日間もかかっていた茶園抜根深耕が、一挙に二〜三時間で可能となり、改植への新時代を迎えたが、その後一五年間を経過した現在、品種茶園は五〇〇〇ヘクタールで、県下全茶園の二五パーセントにすぎない。

ブルドーザーによれば、山間傾斜地三〇度程度までは容易に開園することができるのである。またこの間に、改植に関するほとんどすべての技術的手法を開発した。問題は、農家の改植への意欲と熱意にかかっているといってもさしつかえないと思う。(昭49・7)» p. 224、5、茶随想 集成

今日、在来種が占める茶園面積は、日本全体で地域差はあるものの、およそ2〜5%にまで縮小している。日本の茶文化は、もともとこの在来種を基盤として育まれてきた。それにもかかわらず、近代化の過程で在来種は「収益性に劣る」と判断され、その経済的評価の低さが、いつしか品質そのものの低さとして扱われるようになった。

新品種のやぶきたについては後で詳しく触れるとして、まずは茶の品質に関する議論を続けることとする。

41. 生活適合性 ― FITNESS FOR LIFE

茶の品質は、通常、あたかも茶そのものに生得的・内在的に備わった属性として捉えられている。すなわち、高品質の茶があり、低品質の茶がある、という理解である。

この考え方では、「良い」茶は本来的に、繊細な香り、複雑な味わい、希少な原料、高度な加工技術といった一定の長所を内包しており、それらの価値は飲用方法とは無関係に独立して存在すると想定される。品質は、まるで自然的所与であるかのように、商品そのものの内部にあらかじめ組み込まれている。

この論理からは、消費者に対する一定の行動モデルも導き出される。すなわち、消費者の役割は茶の品質的特性を見極め、それを適切に引き出し、自らが茶に適応することである。品種、味、温度、抽出回数、茶器、淹れ方を学び、自身の行為を調整しながら「正しく」味を抽出しなければならない。この構図においては、人間が茶に奉仕するのであり、茶が人間に奉仕するのではない。

茶が複雑であればあるほど、その社会的地位は高いと見なされ、その分だけ高度な知識や労力が要求される。一方で、簡便さや利便性は、多くの場合、低級で日常的な茶の特徴として理解される。

しかし、茶を機能的観点から捉えるならば、このような理解はむしろ奇異に映る。

茶は本来、芸術作品でも特殊技能を要する実験対象でもなく、第一義的には日常的に消費される飲料である。その根本的役割は、継続的に渇きを癒やし、健康と快楽を提供しながら、人間生活に寄り添うことにある。もしそのために特別な訓練、技術、時間を要するのであれば、製品本来の目的と使用形態との間に矛盾が生じる。

したがって、実生活的・応用的文脈においては、品質とは単なる茶内部の属性の総体ではなく、それらがどれほど人間の必要を満たしうるかによって定義されるべきである。言い換えれば、一般消費者にとって茶とはまず機能性から始まるものであり、それゆえ茶の日常性こそが品質評価の基礎的基準となる。

ここでいう日常性とは、茶が特別な条件や追加的適応を必要とせず、安定的に通常の生活リズムへ統合されうる能力を意味する。すなわち、継続的飲用における機能的適合性である。

この意味で高品質な茶とは、以下の条件を備える茶である。

・標準的な茶器で熱湯により容易に淹れられる

・広範な抽出条件を許容する

・精密な技術を必要としない

・高頻度かつ大量に飲用できる

・飽きや生理的不快感、疲労を生じさせない

・仕事や日常生活を妨げない

ここで本質的なのは、もはや人間が茶に適応するのではなく、茶が人間に適応している点である。もし商品が恒常的なユーザー調整を要求するなら、その機能的価値は低下する。逆に、追加的努力なく生活へ自然に組み込まれるなら、その日常性(=日常的品質)は高い。

この理解は、20世紀品質管理論の主要構築者の一人であるジョセフ・M・ジュランの思想と直接的に響き合う。ジュランはWestern Electricでの技術管理から出発し、品質を「仕様への適合」から「使用への適合(Fitness for use)」へと転換させた。

この品質定義は、さらにマルクス的視座とも接続する。マルクスは品質という概念そのものよりも、Nützlichkeit(有用性)およびGebrauchswert(使用価値)を重視した。

(なお、Gebrauchswertを「消費者価値」あるいは「使用価値」と訳す方が、現代的理解においてはより正確であり、「消費価値」や「消費者価格」といった混乱を避けやすい。)

茶の日常性こそが、その使用価値の核心である。しかし資本主義においては、使用価値はしばしば副次化され、より重要視されるのは交換価値、すなわち利益を生む能力である。

茶の高級化とは、消費者にとっての実用的価値以上に、販売利益実現を促進する性質を強く持つ。資本家にとって使用価値は、交換価値実現のための技術的前提にすぎず、真の関心は常に交換価値および剰余価値の拡大にある。

そのため、古典的資本主義は、使用価値を抑制しつつ高級性を最大化しようとする傾向を持つ。

ジュランは、品質を単なる高級性や威信から切り離し、消費者にとっての根源的有用性へと回帰させようとした。この思想は日本企業の品質哲学にも大きな影響を与えた。

ジュランによれば、製品は現実的使用条件下で安定的に目的を果たし、過剰な負担を消費者に強いない限りにおいてのみ高品質である。

つまり、どれほど仕様や規格に完全適合していても、現実の使用者需要を満たさなければ、その製品は本質的に無価値となりうる。

茶においても同様である。淹れ方の複雑さ、技能要求、条件依存性、低アクセス性、高価格は、たとえ製品自体が優れた特性を有していても、総合的品質を低下させる。

逆に、簡便性、安定性、利便性は総合品質を高める。

判断基準は常に一つである――その製品が、どれほど容易かつ安定的に本来の目的に供しうるか。

この論理を茶に適用するなら、茶の主要機能とは、継続的に飲用される日常飲料であることに他ならない。

したがって、最も高品質な茶とは、特別な準備も注意集中も過剰な経済負担もなく、毎日飲み続けられる茶である。

(日常茶は必ずしも安価である必要はなく、各消費者の所得水準に適合していればよい。)

Fitness for useの言語で言えば、茶の「飲用性/飲みやすさ」はfitness for body(身体適合性)であり、食事との調和性はfitness for food(食適合性)と表現しうる。

さらにジュランの概念を拡張すれば、茶にはfitness for life(生活適合性)という視点が必要となる。

茶は一時的商品ではなく、恒常的消費財である。ゆえに、その品質は人間生活と長期的に共存しうる能力によって測定されねばならない。

この意味において、日常性とは副次的性質ではなく、茶品質の中核的指標である。

人間が茶に適応する必要が少なく、茶が自然に生活へ統合されるほど、その茶の真の機能的価値は高い。

すなわち、茶の日常性――換言すれば生活適合性(fitness for life)――こそが、茶品質の根本基盤であり、今後さらに深く探究されるべき核心概念である。

40. 品質の橋

さて、品質の根本的要素とは、「使用価値」すなわち「機能的価値」に他ならない。それは不変不動の絶対的属性として商品内部に固定されているものではなく、商品と消費者との対話の中で立ち現れる相対的価値である。まさに、ある者にとっての「肉」が、別の者にとっては「毒」となりうるように、品質とは関係性そのものである。

品質とは、茶と人間との相互作用であり、その過程を通じて茶の諸性質が具体的に発現し、消費者の多様な欲求が満たされる現象である。

そして、その価値実現のためには、茶と人間とのあいだに「品質の橋」が架けられなければならない。現代において、その橋は使用形態と市場構造に応じて、おおよそ以下の四類型に分類できる。

1. 超高級茶

2. 高級茶

3. 日常茶

4. ペットボトル入り即飲茶飲料(RTD)

以下、それぞれの品質構造を概観する。

超高級茶とは、品評会優勝茶や伝説化された銘茶のような存在であり、消費者に対して急峻な登坂橋を提示する。それは複雑で不安定な構造物であり、身体的・知的・経済的努力を大量に要求する。

その価値を享受するためには、消費者自らが茶葉、茶器、技術、時間を投入し、自身の側から橋を完成させねばならない。品質は自動的に与えられるのではなく、人間が能動的に橋を登りきった時にのみ成立する。そうでなければ、品質への道は途中で途絶える。

高級茶もまた上昇橋であるが、その勾配はやや緩やかであり、構造も比較的安定している。しかしなお、基礎的知識、抽出技術、経済的余裕を欠く者にとっては容易な道ではない。

高級茶は、時間、注意、規則性を要求する。秤、温度計、タイマーといった補助器具を必要とする場合も多く、それらを用いずに安定した品質へ到達できるのは経験者に限られる。

これに対し、日常茶の品質は水平橋として現れる。

それは民主的であり、老若男女を問わず、誰もが無理なく渡ることができる。巨大な自然性の土台の上に築かれ、地域性という接着材によって個々人の嗜好や身体性へと柔軟に接続される。

この橋は急激なコスト上昇を要求せず、極めて効率的かつ安定的である。カフェイン負荷も比較的穏やかであり、子供でさえ熱湯を注ぐだけで容易に淹れることができる。抽出条件の許容範囲も広く、過抽出にも比較的強い。

ここでは、農家の技術がすでに茶葉の潜在的有用性を人間の生活へと滑らかに接続しているため、茶は生活の中で自然に機能する。

茶は人間を橋の中程で迎え、香り高い一杯として生活へ寄り添う。

日常茶とは、継続的対話を可能にする品質であり、その柔軟性ゆえに、消費者の体調や気分に応じた微細な調整すら許容する。

一方、RTD茶飲料は、日常茶の簡略化された模倣物である。

それは本来的茶葉の深層的価値を利便性へと置換し、容易な下り坂として消費者に提供される。一見すると最も手軽だが、その対岸は脆弱である。

そこでは、生きた葉茶の豊かな身体性は、保存料、安定剤、標準化処方、広告イメージによって代替される。

味や抽出度の調整は不可能であり、茶は工場段階で固定され、生命的可変性を失っている。

そのため、この橋は最低限の渇きの解消には役立つが、本来的な茶との深い対話や広範な自然的恩恵には至らない。

この構造は、人間と茶との関係を単純消費へと矮小化する。

以上四類型のうち、最も安定的かつ健全な品質橋は、日常茶と高級茶である。

その理由は、両者が品質の複合性を保持している点にある。

品質とは本来的に多面的であり、単純な極端化に耐えない。したがって、一定の洗練性を備えた日常茶、あるいは一定の日常性を保持した高級茶こそが、最も完成度の高い品質形態となる。

しかし、市場原理は差異化と単純化を求めるため、茶をしばしば両極端へと追いやる。

すなわち、一方には神話化された超高級茶、他方には工業的代替物としてのRTDが位置づけられる。

この両極は、本来不可分であるべき陰陽的統一性の一方を喪失しているため、不完全性を内包する。

マーケティングにとっては、複雑な中間的価値よりも、理解しやすい極端の方が宣伝や促進しやすい。

その結果、超高級茶の神話性とRTDの利便性は広告によって過剰に増幅され、市場は不健全な二極化へと向かう。

真鍋尚美は次のように述べる。

«味の基準が分からないとお客様に出すのも気が引けます。緑茶の日常化が減っている割に、コーヒーよりも緑茶の味に対する評価は厳しかったりします。茶道や煎茶道など、生活とは離れた崇高な部分でのイメージは広がっています。緑茶のイメージとは不思議なもので、超安物であり超高級という極端な世界ができあがっています。

マーケティングと広告という松葉杖に支えられた市場原理は、生活から乖離したイメージを過剰にアピールする一方、茶文化の基盤である素朴で手頃な大衆的茶葉を、知らぬ間に脱価値化し、静かに市場から侵食していく。

やぶきた―標準化から歪曲へ

国家規模の茶文化において、茶とは本来、各地域の風土の中で何世紀にもわたり、その土地に生きる人々の嗜好と生活様式に適応しながら形成されてきた地域的多様性の総体である。

地域ごとの茶は、土地の人々の嗜好の表現として存在する。その茶は人々の日常生活に深く根差し、あたかも普段着のように自然で身近な存在であった。

生物学的に見ても、その地域で育つ茶樹は、古来より土地の気候や土壌に適応しながら生存してきた。

広義において茶文化とは、茶・自然・人間の調和によって成り立つ複雑な機構である。栽培法や栽培産地、製造法、茶種、品種など、茶文化を構成する「構成要素」に急激かつ大規模な変化を加えることは、長い歳月をかけて築かれてきた茶文化そのものに深刻な損傷を与えうる。

今日の日本人によるリーフ茶離れの根源は、幕末から明治期にかけての改革にまで遡ると考えられる。当時、日本では革命的近代化の過程が始動し、その流れは20世紀後半の高度経済成長期においてさらに加速した。

「富国強兵」のスローガンのもと、経済効率の優先は、伝統文化的価値、さらには仏教的価値観をも犠牲にする国家的課題となった。

生産性と収量向上の有力な手段となったのが標準化である。この標準化は、まず地域に密着していた番茶を徐々に周縁化し、さらにそれら番茶の原料であった在来種茶樹を段階的に駆逐していった。

第二次世界大戦以前には、茶業改革の主要な推進力は輸出拡大であったが、戦後になると茶業界の関心は急成長する国内市場へと大きく移行した。

以下に示すのは、«番茶と日本人»に収められた「よそいきの茶」の章であり、著者中村羊一郎が近代化の本質とその帰結を描き出している。

«よそいきの茶

 幕末開港後、輸出品としていかに評価を高めるかというのが、茶業界の課題であり、それに沿って一挙に品質の向上と均質化が図られた。その過程で伝統的な番茶は商品としての規格外に追いやられ、急速に廃れていく。それに合わせて、ただ飲むことだけを目的にした高級な蒸し製煎茶の生産が進んだ。「普段は番茶を飲んでいるが、客が来れば静岡の茶を出すよ」という表現を関西方面でよく耳にする。この場合、蒸し製の煎茶はよそいきの茶なのである。

 番茶の占めてきた地位は、これでじゅうぶん理解できよう。私たちは、技術は発展するもの、という大前提を無意識のうちに認めあっている。近世以降の煎茶製造技術も間違いなく発展過程をたどってきた。しかし、それに逆らう流れもあるのだということを認識することは大切である。

 日本の茶産業、というよりもほとんどの日本製品は、必死になって画一化を進めてきたといえよう。茶に関してもっとも極端な例を示そう。ヤブキタというきわめて優れた品種は茶の改良に大きな功績を残した杉山彦三郎によって、明治末期に実験茶園の藪の北側で発見されたのがその名の由来である。そしてさまざまな観察・試験を経て優良品種に指定され静岡県内で徐々に普及していった。味や香り・収量など、商品としての茶に要求されるすべての面で標準を超えていたのである。そのためヤブキタは戦後になってから爆発的に全国に広まり、現在では全国の品種化茶園のじつに八〇%以上を占めるまでになってしまった。

 このように、茶畑が特定の品種に統一される前は、茶樹はそれぞれの個性をもっていた。茶は自家受粉できないため、種で育てる限り子は親と違う性質をもってしまう。したがって、隣り合った木でも収穫時期や味・香りなどがまちまちであることが普通だった。これがいわゆるザイライ(在来種)である。ザイライにはいろいろな個性があり、ひとつの分野ではヤブキタ以上の評価を得るものも少なくなかったのだが、総合点でヤブキタには勝てず、ザイライは次々とヤブキタに植え替えられた。

その結果として、茶の味や香りがいずれも似たものになり、病気に対する弱さも共通になった。いっぽう製茶技術も機械化が進めば進むほど、製茶機械メーカーの提案に沿った製法が普及する。素材の面でも製法の面でも、茶の個性が失われたのである。

 そのかげにあって自家製番茶でなければと、その味わいを楽しんでいる人たちが、まだ全国には大勢いるものの、商品としての茶が普及する中で、食べ物の一部を構成してきた在来の番茶は、急速にその姿を消しつつある。» 162-163,”、番茶と日本人、1998

この事例から分かるのは、茶の品質概念が、特定の消費者集団の味覚・用途・生活習慣への適合性(fitness for taste/use/life)から、次第に茶業界全体の抽象化された標準への適合性へと転換していったことである。

茶文化――すなわち、何世紀にもわたり磨き上げられてきた茶と人間の共存の体系(つまり複雑な茶の品質体系)は、標準化の波にさらされていった。

標準化それ自体が悪なのではない。問題は、それを絶対的善として神格化することである。度を超えた標準化は、「差異化する能力」、すなわち独自性を保ち、環境に適応し、生き残る力としての品質の本質と矛盾する。

過剰な標準化は、茶文化を変形させ、貧困化させながら、その構成要素である自然、人間、そして人々の生活様式そのものに打撃を与える。

茶文化は、標準化と個別化という二つの対極のあいだで成立し、発展する。茶文化の衰退とは、この陰陽にも比すべき二つの根源的力の均衡が崩れることによって生じるのである。

標準性は多くの利点を持ちながらも、本質的には自然な多様性の「天敵」となりうる。そしてその多様性もまた、消費者によって同様に求められている。多様性とは、品種や地域性のみならず、季節性をも含む。

健康的な食生活に関する文献では、旬の野菜や果物の重要性が繰り返し強調される一方で、茶に関しては、一番茶のみを全季節中最高の茶として絶対視する傾向が強い。

この不均衡の結果として、今日では、甘い旨味を特徴とする一番茶のイメージに強く結びついた緑茶は、夏季市場において販売不振に陥っている。

しかし本来、緑茶は余分な熱を取り除く性質を持つことから、夏に最も適した清涼飲料の一つとされてきた。

とりわけ夏には、夏摘みの煎茶や番茶こそが高い適性、すなわち高い品質を有するにもかかわらず、残念ながら、夏の暑さに必ずしも最適とは言えない一番茶の絶対的権威によって過度に抑圧されている。

先に述べたように、時田鉦平は、一番茶のみならず、それぞれの収穫期が持つ固有の価値を重視していた。さらに彼は、茶市場におけるより大きな多様性への

需要が今後ますます高まることも指摘している。

構造的問題

1996年、波多野公介は、その著書『おいしいお茶がのみたい!』において、日本の茶業界が徐々に移行していった生産モデルそのものに疑問を投げかけた。

«これでいいのか、日本の茶づくり

そういう事情通の厳密さからみて、最近の日本の茶づくりはどんなものだろうか。

先にも少しふれたが全国五万四千五百ヘクタールの茶園のうち、およそ八三パーセントの茶園が品種改良の改植をすませている。この品種茶園の八五パーセントが「やぶきた」である。つまり「やぶきた」は全茶園の七〇パーセントを占めていることになる。

なぜ、「やぶきた」がそんなにもてるのか。専門家の意見をまとめるとこうなる。

まずどんな風土でも根づきがいい。根や芽の出方が均質で生育が早い。だから改植した場合、成園になるのが早い。これは大変なメリットだ。

さらに耐寒性が強く凍霜害後の回復力が強い。そして決定的なのが生葉の収量が抜群に多いことだ。

十アール当たり「やぶきた」七百三十二キロに対し、在来種は六百四十五キロだったという静岡県の調査がある。

さらに摘採期も在来種より十日前後早い。ということは新茶シーズンの要求にマッチして高く売れる。水色、香味も比較的高い水準を維持するから結果的に生産農家の収益が大幅に上がる。「やぶきた」の生産額を一〇〇とした場合、「するがわせ」七八・六、「やまかい」七七・三、「やぶえ」七七・〇、「ふじみどり」七一・〇、在来種三七・〇といった数字も出ている。

弱点らしい弱点は害虫がつきやすいこと、香気が薄いことぐらいだ。

要するに「やぶきた」は、どこからみてもきわめて生産性の高い品種ということである。そして農薬や化学肥料が、さらに生産性を高めるために注ぎこまれる。それらは茶の本来の香味を著しく損うといわれているのだが……。» p. 52

さらに著者は、過度な生産性の追求が、生産の場を山間地から平地へと移行させることで、高級山茶の繊細さを支えてきた基盤そのものをいかに掘り崩していったかを示している。

«生産第一主義の観点からすれば山峡での栽培よりも平野部での栽培の方がずっと効率的ということになるだろう。「長いよね仕立て」を基本として、集団茶園とし、うねの間隔を広げて大型機械刈りという姿が現に鹿児島では行なわれている。生産者の老齢化と後継者不足に追いつめられて、そういう平坦地での機械化を実現しなければ茶の生産は不可能になるという声も出ている。

かくして次第に〈山峡の山茶の風味〉はどこかに置きざりにされてしまうのだ。

生産農家にいわせれば「そんな風流心はどこを押しても出てこない」となる。これではもはや本当においしいお茶を口にすることはできなくなり、日本人の日本茶離れはますます進むのではないか。

―あなたが今、のんでおられる天然の茶から作ったお茶、これが本来のお茶の香味なのです。「やぶきた」には、それなりの大きな役割があって否定はいたしません。しかし余りに一辺倒、全国制覇ともいえる今の状況は決して望ましいものではありません。

近年の緑茶需要は次第にダウンし輸入茶もふえて茶畑が年々大幅に減っていくと聞いています。それは、青臭く甘っぽい、少しもたれるような「やぶきた」の香味をよしとする今の日本茶の状況と、どこかで重なってはいないでしょうか。恐らく重なっていると私は考えています。

「やぶきた」ふうのお茶はつづけて何杯ものむ気になれないでしょう。こういうお茶は大衆の心をつかめないのです。知らず知らず何杯でもつづけてのめるお茶、一口にドライなお茶といったらいいか、これが若い人ばかりでなく、今の人が求めているお茶ではないでしょうか。

ウーロン茶を始めとする中国茶、釜炒り茶、紅茶、京ばん茶、ほうじ茶などが、その要求に応える飲物ではないでしょうか。» p. 54

«一方、文字通りの本格的な上質茶。水色、香味とも文句のつけようのない高級茶を厳しい条件の中でも作りつづけなければならない。これは生産性とは無関係です。今の「やぶきた」では、この役割は果たせない。生産性を切りはなせば、もっと優れた品種がいくらでもあるじゃありませんか。国や県の登録品種の中にでも、在来種の中にでも。

若い人たち、子供たちにのませて、本当の日本茶というものはこういうものだ、と舌に、心に浸みこませる努力を茶業関係者が心がけなければ日本茶の将来は危ういと私は思います。» p. 54

著者は、茶の品質を日常茶の基本の味だけに還元してはいない。さらに彼は、効率化がもはや最優先ではなくなる、自然本来の品質(自然性)の別の法則に従う、洗練された高級茶の存在にも指摘している。

«一方、文字通りの本格的な上質茶。水色、香味とも文句のつけようのない高級茶を厳しい条件の中でも作りつづけなければならない。これは生産性とは無関係です。今の「やぶきた」では、この役割は果たせない。生産性を切りはなせば、もっと優れた品種がいくらでもあるじゃありませんか。国や県の登録品種の中にでも、在来種の中にでも。

若い人たち、子供たちにのませて、本当の日本茶というものはこういうものだ、と舌に、心に浸みこませる努力を茶業関係者が心がけなければ日本茶の将来は危ういと私は思います。» p. 54

品質の標準化と効率化を一貫して推し進めた結果、20世紀70年代までに日本全国の煎茶は均質化された工業製品へと変貌し、消費者は次第にそれに背を向けるようになった。いわゆる「お茶離れ」の始まりである。

茶業界は、やぶきた品種の慣行栽培に深蒸し製法を組み合わせた「やぶきた深蒸し」モデルへと移行した。売り手市場、消費者からの信頼、そして高い購買力を背景に、茶業界はこのモデルを事実上の独占的構造として市場に一方的に浸透させた。

本来それ自体は優れた品種であったやぶきたも、ほぼ唯一の高品質基準として絶対化され、全国一律に拡大された結果、やがて消費者に飽きられ、その普及を推進した茶業界自身にとっての構造的問題へと転化していった。

波多野公介は、この「やぶきたバブル」を生み出した主要因を列挙している。

«静岡県茶業試験場によれば、生産者が「やぶきた」以外の品種を導入しにくい原因はおおよそつぎのようなものだという。

一、流通が「やぶきた」を中心としているため、ほかの品種の評価が得にくい。

一、工場が大型化し、新しい単独品種の製茶が困難になっている。

一、改植には数年間の無収入を前提としなければならず投資がしにくい。

一、茶価が時期相場的で、中心になっている「やぶきた」の新茶時期を過ぎると価格が急落する体系になっている。したがって「やぶきた」よりも晩生の品種には手が出せない。

一、新品種に適した栽培、製造技術が確立していない。

一、新品種の苗木が手に入りにくい。

一、「やぶきた」の高い生産性、安定した流通力に対抗できるような、さらに魅力的な新品種が見当たらない。» p. 75

著者は、この問題の持つ複雑さを十分に認めている。

«いずれも容易に解決できるようなテーマではない。しかしこういうふうに問題の所在を明確にする指摘があれば、ここから何らかの手がかりを求めることができる。じゃあこうしたらどうか、こうすることも可能じゃないかという手がかりだ。

そういう手がかりを、生産者、流通・販売組織、行政・指導機関などが一体となって研究し検討し、ついに「やぶきた」の土俵から離れて消費者のニーズに合った品質本位のおいしいお茶を産地活性化の中心に据えようという町が出てきた。静岡県榛原郡中川根町だ。» p. 75-76

波多野公介は、山間地に適した品種「おくひかり」の活用に希望を託している。在来茶が担っていた本来的な多様性の焼け跡の上に、新品種によって人工的な多様性を築こうとする試みである。

著者は、名高い川根茶の産地である中川根町へと向かう。その道すがら、中川根には茶業に従事する農家が約千戸存在していたことを伝えている。

しかし、市場競争が求める効率化とコスト削減は、必然的に茶を山から平地へと追いやっていく。2024年、鹿児島県は荒茶生産量で静岡県を上回った。鹿児島県は、導入されいてる品種の多様性においても全国をリードしている。願わくは、新しい品種とともに、霧に包まれた山々までも植えることができればよいのだが。

今日、中川根に残る茶園は150戸にも満たない。

2017年、私は金谷の国立茶業試験場で研修を受けていた際、しばしば大井川鐵道で川根を訪れた。だが現在では旅客需要の減少が深刻化し、鉄道路線の一部は運休に追い込まれている。人影のない駅舎は、放棄茶園に囲まれ、その跡地には行き場を失った高級茶が静かに伸びている。

裏切られた期待

リーフ茶の品質低下は21世紀初頭に至るまで進行し続けたが、やがてペットボトル茶飲料が主導権を握るようになると、リーフ茶は日常生活における中心的な地位を失っていった。

波多野公介は、この劣化の過程を目撃した当事者であり、その根底には「やぶきた・深蒸し」という歪んだモデルが存在すると見ていた。彼はその記述を、自著『緑茶の最前線』(1997年)の中で続けているのである。

本書の頁上で著者が伝えようとするのは、もはや茶業界から顧みられなくなった消費者の声である。それは、十分な購買力を持ちながらも、本当に質が高く美味しい茶を手に入れることのできない四十代前半のビジネスパーソンという、典型的な有効需要層の姿である。期待を裏切られた彼は、個人的な対話の中で次のように語る。

«「そりゃあそうです。香りのないお茶はお茶とはいえないでしょうね。また濁ったお茶もお茶とはいえない。緑の色がついた湯にすぎません」

「ハアー、手厳しいですね。しかしまあ、日本茶離れの勘どころはその辺にあるのかもしれない。私もその口でしょうか。いや、確かに昔のようなお茶だったら、私も不貞腐れるような気持ちにならなかったかもしれない。今のお茶は消費者を小馬鹿にしているような気さえする。腹が立ってくる。もっと高価なお茶を買えということなのか。どうして日本茶がこんなふうに、色ばかりきれいで、味気ないものになってしまったのか」

「そこなんです。そこに品種の問題がからまってくるのですよ」と私はいった。

相手が少しずつ乗ってきたことを私は感じた。この男も日本茶に未練がないわけじゃないらしい。ただあまりに今のお茶が百グラム千円以下では、おいしいなあと思えるようなものに出会わないことに腹を立てているのだ。

といってどこにも苦情のもっていきようがない。お茶の小売店にそれとなく感想を述べることはあり得ても文句をいうことは実際問題としてない。ましてスーパーではどうにもならぬ。欲求不満が、もう買わないぞという気持ちを強める。

「では千五百円程度のお茶はどうかとデパートで試しに買ってみた」と彼は続けた。

その際「やぶきたの深蒸し茶だよ、狭山茶の高級品、おいしいよ」というのが売手のうたい文句だったという。

期待はほぼ完全に裏切られた。濃すぎる色、濃すぎる味が胸につかえただけであった。湯加減などさまざまに工夫してみても香りは決して立たなかった。こんなお茶はもういらない。

この体験を最後に彼は日本茶を見限った。つまりお茶は細君にすべて一任し、一切口を出さないことにしたのである。数年前のことだという。

「そのやぶきたという品種、これが茶業界を我がもの顔に横行し始めてから、お茶がまずくなってきた。といってもむろんやぶきたに罪はない。やぶきたを推奨し続けた公的機関の研究陣や農協(JA)、やぶきたを買い漁った茶問屋、その茶問屋のいいなりになってやぶきた偏重に陥った生産者、それらが罪を負うべきだと私は考える。消費者のあずかり知らぬところで供給側の効率化だけで組立てられた戦略だからね」

と私はいった。

「つまりこういうことですか」と彼がいった。

「まるで金太郎飴のように、どこを切っても供給側に都合のいい、やぶきたばかりが顔を出すということですね」

「その通り、今や全国の茶園の七五パーセントをやぶきたが占めている。いわゆる在来種を除いた品種茶園でみると八五パーセントがやぶきたになっている。バランスを失している」

「でもそのやぶきたが、おいしいお茶だったら問題ないわけですよね」

「その通りです。しかしこれがなかなかうまくいかなくなった。ある意味では当然の帰結かもしれない。やぶきたに切替えた最大の理由は儲かるということだった。すべてはそこに帰着する。高度経済成長のムードと重なって、化学肥料をふやし生長を早める、やぶきたは炭疽病に弱いから農薬もふえる、経営効率の悪い山間地は放棄する、製茶機を大型にして省力化する、実はどれもこれもお茶の香味をまずくする方向にばかり働く要素なんですね。そしてそういう育て方を強いられたやぶきた茶が次第に嫌われるようになった。

本来、やぶきたは香味の濃い品種、それが窒素系の肥料のやりすぎでますます甘味を増すようになった。しつこく胸につかえる、とまず若者がソッポを向いた。しかし消費者の声が茶問屋にすっと届く仕組みにはなっていない。仮に届いても今更ほとんど修正がきかない状況だ。生産者の肥培管理も問屋の香味感覚も、そういうやぶきた茶一辺倒にどっぷりとつかりきって脱けられない状況なのだから」

「なるほど、今の世の中のスッキリ、サッパリ感覚とは正反対ですね。そしてそれに輪をかけたのが深蒸し茶じゃありませんか。不思議ですよ。どういうメリットがあるのでしょうかね、あのお茶には。大体お茶というものはのんでサッパリするものでしょう。どんよりと胸につかえるようじゃお話にならない」 стр. 31-35

以上の一節は、「やぶきた・深蒸し」型リーフ茶が、その本来備えていた「基礎的な味わい」(爽やかな滋味と香気)、すなわち日常茶として最も重要な特質を失ってしまったことを如実に示している。

人為的に強化された旨味という味覚的な味が、茶本来の自然な味わい(基本の味、生理的な味)を押しのけたのである。以下では、このような劣化をもたらした主要因について検討する。

山西貞教授は、「私どもの研究室で、埼玉県茶試の渕之上弘子氏と共同研究した結果では、多肥栽培煎茶は標準に比べてさわやかさが欠け、重く、くどいにおいだと官能テストで批評されました。

多肥栽培で香りが薄くなる傾向は他のいろいろな植物、たとえばトマト、ニンジンなどにも認められます。また、バラの花も人工肥料を十分与えると、形の大きな色も美しい、みかけはたいへん立派な花が咲きますが、においが非常に弱いと聞いています」と書いている(月刊「茶」1980年12月号)。

肥多し、香り乏し

やぶきた深蒸し茶の主要な病理の一つは、その凡庸な香気にあった。そして、その主因は品種やぶきたそのものではなく、戦後以来今日に至るまで茶業界を支配してきた慣行栽培にあるとされる。

それは、多量の肥料と農薬の投入に支えられた「悪循環」の農法である。この方法は経営効率を追求するが、その効率化への執着の中で、茶は次第に茶ではなくなっていく。

以下の引用において谷本陽蔵は、この農法の本質を簡潔に描写しつつ、香りこそが茶をはじめとする農産物の健全性を示す最重要の指標であることを的確に指摘している。

また、この方式が向上させようとする「品質」とは、茶葉の成長に伴って品質が低下するという誤った前提の上に築かれた、直線的な階層として理解されている。

さらに著者は、このような品質観そのものが比較的新しい時代に形成されたものであることを示唆している。

«そもそもお茶は季節的な農産物だから、年中、製造できるものではない。おまけにお茶の芽が大きくなると晩茶に近くなって安くなるから、価値の高い若い芽のうちに摘みとって短期間にお茶にしなければならない。というのも近ごろのお茶の価値は、茶の芽の大きさと葉の色が絶対的な目安になっているからである。いわばお茶の芽が若ければ若いほど高価であり、お茶の葉色が濃緑色で青ければ青いほど値打ちが上がるのである。

そういった事情のもとで茶農家は生産性を高めるため、戦前戦後とは比べものにならぬほどお茶の木に肥料を施すようになった。有機肥料はもちろんのこと、即効性で茶葉の色出しがよくなる化学肥料、葉面散布など、多すぎると思われるほどの肥培管理をするものだから、お茶の木はよく肥えて濃緑色の葉をたっぷりとつけ、裁培面積当たりの効率は機械摘みとあいまって、優にむかしの二倍以上の収穫ができるようになった。ところが困ったことに、お茶の木に肥料を多くやればやるほど香りは低下するのである。

これはトマトのことを思いおこせば十分理解できるであろう。むかしのトマトにはトマト独得の強烈な匂いがあった。私の子供のころにはトマト嫌いの子供がとても多かったことを思い出す。

トマトばかりではない。キュウリやタマネギなどにも強い匂いがあった。農産物は一般に野生に近ければ近いほど香気が高く、それぞれが持つ本来の滋味と香りを醸し出すものなのである。

さらにはお茶の木に多くの肥料をやることによって葉は異常なまでに生育する結果、楽聞がっまって群集し、風通しが悪くなる。またよく肥えた葉はやわらかくておいしいから、非常に害虫がつきやすい。そこで害虫駆除のため、繰り返し消毒が必要になる。農薬散布の回数が多くなればなるほど毒性ももちろん問題だが、香りの面でもいっそう低下させてしまう。» p. 58、お茶のある暮らし、谷本陽蔵

旨味を強めるためだけではなく、茶葉の緑色をより濃くし、商品価値を高めるためにも肥料は盛んに使われている。これについて、川根の茶農家である相藤久行氏は次のように述べている。

«「硫安とか、尿素とか、チッ素系成分だけの化学肥料を施肥すると、葉の色がものすごくよくなる。摘んでもんだ製品も青くなります。ただ、のんでみるとイヤなにおいが残るんですよ。だから、ボクはチッ素の芽出し肥はやりません。やめてもう六年か七年になります。

ところが、流通に乗ったときに茶商さんはなんと言うか、お茶は見るものでない、のんで味わうものだから、味さえよけりゃいいヨ、とは言いません。色のことも言うし水色のことも言うし、形状のことも言います。

ボクは通販をやってますから、香気が抜群にいいとか、水色がすばらしいとか、味が特別に濃いとか、それぞれとりえのある茶をミックスしてちょうどバランスのよくなったところが一番いいんじゃないか。そういう形でボクは販売しているのですよ」» 145, お茶八十八話、大高愛司、1998

お茶の香りの研究における第一人者である、お茶の水女子大学の山西貞教授は、次のように指摘している。

「私どもの研究室で、埼玉県茶試の渕之上弘子氏と共同研究した結果では、多肥栽培煎茶は標準に比べてさわやかさが欠け、重く、くどいにおいだと官能テストで批評されました。

 多肥栽培で香りが薄くなる傾向は他のいろいろな植物、たとえばトマト、ニンジンなどにも認められます。また、バラの花も人工肥料を十分与えると、形の大きな色も美しい、みかけはたいへん立派な花が咲きますが、においが非常に弱いと聞いています」と書いている(月刊「茶」1980年12月号)。

大石貞男氏は、一方向に際限なく進む論理が必ず突き当たる矛盾について、次のように指摘している。

「このように、多肥栽培(とくにチッソ)がテアニンなどのアミノ酸の生成によって旨味をもたらす反面、チッ素化合物の香気成分がふえ、香気が冴えなくなることは茶の良質多収栽培にとって矛盾が生ずる。」» p. 66、茶栽培前科、大石貞男、1986

自然条件や植物本来の成長サイクルよりも経済的採算性を優先する慣行農法は、茶樹の生命力を損ない、その結果、茶の香りや飲みやすさを低下させるだけでなく、明らかにその健康効果をも弱めている。

一般的な品質パラダイムの観点から見れば、慣行農法は陸羽以来の垂直的品質序列を継承しながらも、一歩一歩その根幹を成す「栽培茶は野生茶に及ばない」という著名な命題を侵食していく。

この矛盾は、「新茶―番茶」という垂直的序列の内部にとどまる限り解消されえない。なぜなら、その序列は絶対化されたとき、自然そのものの本質に逆行するからである。

茶業改革の生態学的帰結を憂慮する大高愛司は、『複合汚染』の著者として知られる有吉佐和子の言葉を引用する。

「人間が自然を支配できると考えるのは思いあがりです。農業は自然と友好関係を持つことによって正しく安全に成長するものだと私は考えます」 p. 147、お茶八十八話、大高愛司、1998

«だが、現実はどうかというと、有吉さんの考えとは逆の方向に進んでいるようにみえる。» と大高は憂いを込めて結んでいる。p. 147

やぶきた深蒸し―効率性の象徴

栽培段階で生じた偏重は、火の手が広がるように製造工程へと波及し、茶の品質をさらに低下させた。煎茶における香味のバランスの喪失は、茶文化全体の均衡をも揺るがせた。この連鎖反応の仕組みを、茶生産の各段階に沿ってより詳しく見ていこう。

最も収益性の高い旨味を絶対視して最高の味とみなし、最も経済効率の高い品種であるヤブキタを最高品質と位置づけるなら、その論理の帰結として、春先の若芽の収穫にあらゆる力を集中させる必要が生じる。

クローンであるヤブキタは成熟時期がほぼ一斉であるため、数ヘクタール規模の茶園に広がる若芽を、品質が低下し「シンデレラ」の物語におけるかぼちゃのように番茶になってしまわないうちに、短期間で一気に摘採・加工しなければならない。

このため、茶工場には処理能力を大幅に高めた設備が導入され、一回の工程で従来の60kgではなく、120〜240kgもの生葉を処理できる大型ラインが整えられていった。

摘みたての生葉は多量の水分を含むため、かつては冷涼な室内で数時間萎凋させ、水分を適度に減少させることが少なくなかった。これにより後続機械の作業効率が高まるだけでなく、生葉の破壊も防がれていた。

この工程によって独特の萎凋香が生まれ、それを好む愛飲家も存在した。しかし戦後になると、摘みたて生葉の青々しく清純な香りが品質評価の基準として標準化され、萎凋香は欠点と見なされるようになった。その結果、まだ水分過多の摘採直後の葉を即時加工することが常態化した。

蒸熱後、大量の生葉は粗揉機(葉打機)へ投入され、熱風による乾燥と回転する葉ざらい(攪拌羽根)と揉み手による撹拌・揉捻が行われる。

しかし大量投入時には、茶葉の大部分が粗揉機(葉打機)の底部に寝込んだり、葉ざらいによって持ち上げられても換気不足により十分に乾燥しきれない場合が生じる。

生葉はなお呼吸を続けているため、高温かつ通気不良の大量堆積状態では蒸れが進行し、不快なむれ臭を発生させることになる。

赤堀良雄は次のように指摘している。

«昭和三十八年、製法法に革命的変革をもたらした五〇K背面通風大型粗揉機が開発され、同三十九年から普及した。それは、当時の茶業情勢から、省力合理化を計ることが茶産業の維持に欠かせぬ切迫した時代の要請に応えようとした試行だったが、背面通風粗揉機の開発によって、製茶品質を理想的香味に改善することを可能にした結果、それが主因となって、生産者の奮起を誘発し栽培製造全般の革新技術を導入したことにより、爾後、長期に亘る茶の好況期を迎え、茶業の飛躍的発展をみたのである。 (中略)

大型製茶機開発の目的は、品質低下をまねくことなく省力能率化の実現にあったが、背面通風粗揉機は十分に目的を果したのみか、従来機に比べ品質の著しい改善向上をもたらした。それは粗揉機で心水がよくとれるため、製造工程中のムレをほぼ解消して、製品の香味は非常にスッキリしたものとなり、品位の著しい高い茶ができるようになったのである。

また、吸引式従来機の給熱方法では、蒸度を進めて茶葉を軟化すると揉乾が円滑に進めにかかったが、背面吹込粗揉機では、むしろ蒸度をかなり進めないと揉乾が円滑にできず、自然と従来機に比べ深蒸しを強制するようになって味の充実した茶となり、品質向上が自動的に実現することになった。» p. 418-419,

このような利点がある一方で、背面通風式の導入を必要とした機械の大型化には、重大な欠点も存在した。強力な送風が文字通り茶の香りを吹き飛ばしてしまったのである。この点について、例えば、渕之上康元と淵之上弘子は次のように記している。

«香気については、大型の背面熱風型の粗揉機になって、著しく減じるようになったとされる。

 機械が大きくなると微調整が難しくなる由で、ごく良質の茶は、一般の大型機(粗揉機投入量六〇㎏以上)よりも小さい機械(粗揉機投入量三五㎏程度まで)を用いるものもある。» p. 243, 日本茶全書、渕之上康元、淵之上弘子、1999。

一つの技術革新がもたらした問題は、次なる困難を招く土台となり、製茶機械の大型化は重大な構造的問題へと変質していく。赤堀良雄はさらに次のように述べている。

«それは粗揉機で心水がよくとれるため、製造工程中のムレをほぼ解消して、製品の香味は非常にスッキリしたものとなり、品位の著しい高い茶ができるようになったのである。また、吸引式従来機の給熱方法では、蒸度を進めて茶葉を軟化すると揉乾が円滑に進めにかかったが、背面吹込粗揉機では、むしろ蒸度をかなり進めないと揉乾が円滑にできず、自然と従来機に比べ深蒸しを強制するようになって味の充実した茶となり、品質向上が自動的に実現することになった。

折柄、流通業者は不況脱出のため、品質改善に強い関心をもっていたが、従来の茶とは格段と向上した香味の茶が出現して、香味に自信をもって消費地対応のできるようになったのであった。» p. 419

かつて構造的な問題へと転じた深蒸しは、戦後の時代においては十分に適切なものであったと考えられる。つい最近まで飢えに苦しんでいた人々が、濃厚で「飲みごたえ」のある味を求めていた当時の大衆の好みに合致していたのである。

このことは、時代や場所とともに変容する「品質の空性」を我々に思い起こさせる。

1997年、大高愛司は次のように指摘している。

«時代の移るにつれて食生活が変わり、食材の味も変化する。お茶の香味か変わり始めたのは、ざっと三十年来のことである。

昭和四十年代から五十年代にかけての茶業は、需要超過の時代であり、省力機械化と大量生産の時代だった。製造装置は大型化し、粗揉機の生葉容量は大きくなった。

一方、消費地の市場からは味が濃くて苦渋味のない甘口(あまくち)のお茶が求められ、その要求に合うお茶として深蒸しが歓迎された。

ところが、深蒸しが普及するにつれて、「むかしのお茶は香気がよかった。むかしに比べれば香気はないも同然」という批判の声がやかましくなった。

蒸し度を進めると、コク味は増すが、そのかわり香気成分は蒸し時間が長くなるにつれて減っていく。背面送風式の粗揉機はむかしの横引き式に比べて、はるかに風量が多いから、香気成分は蒸し葉から蒸発する水分といっしょに逃げていく。» p. 13、お茶の八十八話

深蒸し茶特有の弱い香気を補うため、通常は焙煎に近い強い火入れが行われる。その結果、煎茶にはいわゆる「火香(ひか)」が備わる。

強い火入れは茶の保存期間を延ばし、「火香」は一般に広く好まれる傾向にあるが、この操作は産地ごとの個性の喪失を招く。

いずれにせよ、技術的な変化が犠牲なしに語られることは稀である。「やぶきた・深蒸し」という品種と技術の画一化は、香気を減少させただけでなく、産地固有の特色をも消し去り、深蒸し煎茶を徐々に一種の「茶のミンチ」のような存在へと変貌させた。

次章以降では、深蒸し茶の製造工程、そして栽培から販売に至るまで茶業界のあらゆる階層に浸透している「やぶきた・深蒸し」という標準モデルについて、より詳細に考察していく。

すべては、古き良き「絶対的な品質」である一番茶(新茶)の柔らかい芽を基盤として始まったのである。

一番儲かる茶期

歴史をたどれば、一番茶が茶市場における絶対的な主役となったのは、おおよそ20世紀後半以降のことであることがわかる。すでに述べたように、いかに優れた一番茶であっても、それだけで人間のあらゆる茶の需要を満たすことはできない。

それ以前、人々は二番茶やそれ以降の茶も日常的に飲んでおり、それらは一番茶より価格こそ低かったものの、その差は現在ほど極端ではなかった。

しかし、茶の高級化化が進むにつれ、社会には茶をまず第一に「嗜好品」として捉える見方が徐々に定着し、茶は「おいしいお茶」とそれ以外のお茶へと二極化(分別)していった。その結果、一番茶とそれ以降の茶期に採れたお茶の価格差は急激に拡大した。

これにより、それまで複数の収穫期に比較的分散していた農家の経済的基盤は、一番茶へと大きく依存する構造へと変化した。

一番茶は高い風味品質を持つ一方で、干ばつや、とりわけ霜害に対して脆弱である。この脆弱性は、地域の気候に適応した在来種から育成品種やぶきたへの転換によって、さらに強まった。

やぶきたは一番茶の成熟を早める目的で早生品種として育成されたが、その早い萌芽(在来種よりおよそ10日早い)は、かえって霜害への脆弱性を高める結果となった。自然より先んじようとする人為的な試みは、「敵地適作」という農法の根本原則を乱し、その代償を自然そのものによって払わされたのである。

以下に引用する小笠(静岡)の茶業史に関する書籍の一節は、社会における茶の価値評価の変化が、日本茶および茶産業にいかなる影響を及ぼしたかを物語っている。

«元来、農作物の栽培には適地適作を原則とする。茶は亜熱帯性植物で、これを栽培する上では温暖多雨な地域でよく生育する。一方、わが国で開発した蒸製緑茶の香味は、茶の栽培地帯としては概ね冷涼な地域に良品を産し、平均気温の高い地域の茶の市場評価は一般に劣る。従来から限られた地域内においてもその傾向がみられた。いうまでもなく緑茶は嗜好飲料であるがため、微妙な香味の差異を鋭敏に価値づける。ことに香味の品格の高尚なことを尊ぶため、概して暖地産茶の香味に比べ、冷涼地産茶に高い評価が与えられてきた。従って、茶産業の成立要件には、栽培条件より品質条件にやや重きをおいて調和した地帯で発展してきた。

本郡産茶は伝統的に消費地から高い評価を受けていたが、変化の多い地勢的な関係により、局地的にも全般的にも古くから気象災害を受けることが多かった。茶園の異状気象からくる障害には、冬季の極端な寒冷や早魃などによる被害や台風時に起こる潮風害などあるが、最も深刻な影響を与える災害は、一番茶の摘採を目前にした四月に起こる霜害、凍霜害である。詳細は明らかでないが、往昔から霜害、凍霜害を主とした気象災害は枚挙にいとまない。

茶の生産は一~四番茶と摘採期が分散しているため、必ずしも当該年度の年間生産量に反映しないが、最も生産量が多く評価の高い一番茶の減産や評価損による実害は甚大だった。もっとも別項で述べたように、昔の販路が輸出茶に依存した大正時代の中期までは、一番茶価格に対し夏茶価格は概ね七〇~八〇%であったから、年間収入に対し比較的実害は軽かった。大正中期から国内販路の比重が高まって、一番茶価格に対し夏茶の相対評価が低下し、例外はあったが収益では一番茶の比重が増し、ために凍霜害の影響は著しく大きくなった。ことに昭和五十年代になって消費の上級茶指向など反映し、一番茶と夏茶の価格差が拡大し、二番茶は三分の一内外、三番茶では四分の一内外の価格となって、一番茶の収益が茶業経営の大部分を占めるようになって、防霜の必要性は倍加した。

凍霜害は天災というも収穫を目前の災害だったから防除には工夫がこらされ、往昔からコモ掛、藁掛けなどによって防霜を行なった。戦後になって甚大な被害を与える凍霜害が頻発した。近年の気象に異状現象が多発しているためであるが、発芽期の早い「やぶきた」の増加も被害範囲や程度を著しくしている。こうした実情から科学技術の進歩と共にその防除技術は順次発展した。

昭和二十七~八年、耐久力のある化繊カンレーシャの利用により、被覆による防霜法が開発され、本郡ではまず発芽期の早い「やぶきた」茶園に普及をみた。けれども早期の降霜予測は困難だし、被覆法は資材と共に労力を多く要したため、次第に被覆法は減少した。四十年代ごろから被覆の着脱装置が開発されて便利となったため、一部常習的霜害茶園等に普及した。五十年代になると特殊化繊布による直接被覆法が開発され、被覆作業が容易なため一部で利用されている。

一方、異状気象のため凍霜頻度の高い三重県では茶業センターと中部電力総合技術研究所は、昭和四十五~六年ころ上空逆転層の暖かい空気を利用した防霜ファンを開発して実用化した。» p. 23-24、小笠茶業史、赤堀良雄、1983

引用された一節は、人間が新たな技術(たとえば早生品種やぶきた)を生み出し、それが肥料によってさらに加速されることで自然本来のリズムを崩し、その弊害を補うために再び新たな技術(化学繊維製被覆資材)を導入するという構図を示している。

この終わりなき効率追求のための技術的連鎖については、自然農法の思想的先駆者である福岡正信がすでに鋭く指摘していた。

そして、化学繊維による被覆でさえ問題の根本的解決に至らなかったこと自体が、技術偏重パラダイムの構造的欠陥を物語っている。若い茶芽はとりわけ物理的損傷に弱く、強風時には芽同士が接触することで容易に傷む。

合成繊維の被覆資材は、風の強い条件下で芽を大きく変形させ、損傷を助長する。その結果、傷ついた酸化面からは不快な「傷み臭」が発生する。

さらに、被覆資材による茶樹の覆いは光合成を阻害し、茶の味や香りに重さと停滞をもたらし、本来の清涼感を損なう。

送風機の設置もまた、効果には限界があり、その評価は一様ではない。送風機は茶園の気温を上昇させることで、本来、香味豊かな茶の栽培条件として選ばれた冷涼な環境そのものを緩和してしまう。

加えて、いかなる追加的技術手段も必然的にコスト増加を伴い、それは最終的に茶の価格上昇へとつながる。

こうして品質向上を目指して導入された新技術は、結果として茶をますます消費者の日常生活から遠ざけていくのである。

限界

早生品種、被覆、送風機、そして肥料の活用は、自然を「加速」し、とりわけ一番茶の成熟時期を早めようとする試みである。

このため近年、茶業界の努力の方向性はますます、日本南部の平坦地で生産される早生茶へと移行している。これらは伝統的に、冷涼な山間地でゆっくりと育つ晩生茶に比べ、香りの気品や味わいの繊細さにおいて劣るとされてきた。

加速を目的とした操作への傾倒は、品質低下を招く傾向がある。その一例が促成栽培技術であり、これによって早春に、いわゆる「早出し茶」が生産される。

この早出し茶について、保本および渕之上康元と弘子は次のように記している。

«ビニルハウスやビニルトンネルなどの施設を用いて、周辺の茶園より数日から一カ月近くも早く摘採する早出し茶は、とかく味は苦渋味が強く、香気も弱くなりがちである。成分面をみると、とくにビニルハウスに加温装置を組み合わせて、一層昼夜の気温を高めて一カ月も早く摘んだものでは、タンニン含有率が高めとなりがちで、これが味に悪影響を及ぼしていることが明らかにされた。

一方香気成分でも竹井らによって、促成されたものはさわやかさに寄与すると思われるリナロール、シス-3-ヘキセニルヘキサノエート、シス-ジャスモンが少なく、重い香りを与えるヨノン系化合物は多く、保香性をもつインドールがかなり少ない傾向が、認められている。

品質の官能審査の結果も、早出し茶の味は苦渋味が強く劣り、香気もさわやかさに欠け総体的に露天のものより弱く、もの足りない傾向を認めるものが多く、成分上もこれを裏づけるものであった。

ハウスより簡易な、トンネル被覆の場合、被覆資材についていろいろ検討されたが、早出し効果は三、四日から八、九日ほどの促進に止まり、タンニン含有率は、いずれも露天下に比べて高まり、窒素含有率は、被覆資材の遮光程度により若干差を生じるが、品質の中で、香気や味に好影響を及ぼすものはない。一方遮光率が高いと品質向上はみられるが、日射を多く遮るので気温を低めとし、促進効果はない。

暖地に比べて生産の遅れる地域に、早出し志向は多いかにみられるが、自然条件下で一カ月も早く摘採できる地方を相手に、コストの高い早出しの茶をつくるのは、それがその地域の初摘みとして高く売られるだけに、消費者としては首をひねりたくなる。» p. 241-242、日本茶全書、渕之上康元、渕之上弘子、p. 1999

皮肉なことに、収穫時期の早さへの執着を和らげるべきだと提唱しながらも、著者自身は、一般化した一番茶への執着そのものにはほとんど気づいていないかのようである。

まさにその執着こそが、「早いほど良い」という茶品質の直線的な論理を生み出している。

著者は、品質と収量をめぐる古典的な金科玉条を次のように引用している。「やや早めに摘めば品質は良いが、収量は少なく、遅れて摘めば収量は増すが、品質は劣る」p. 78

また著者は、煎茶における形状や艶、その他の商品的特性が、品質の必須条件として自明視されていることにも気づいていない。煎茶について論じる中で、その研究者は次のように述べている。

①煎茶:煎茶は現在の国産茶の中でもっとも一般的なもので、各産地で生産される。一番茶にはじまり、地方によって三、四番茶まで生産されるが、一番茶の品質が最高である。新芽の熟度は若くとも新葉開葉数三〜四枚頃から四、五枚開葉で、出開度七〇%程度の頃に摘まれたものが一般に最良の品質となる。

〇特徴:形状は細く締まりよく伸び、丸みがあり、色は濃緑色、表面に光沢がある。香気は、爽やかさ、新鮮香、若芽香などが調和して好ましく、水色は清澄で黄金色(山吹色)、濁りや沈殿はほとんどなく、味はうま味と苦渋味の調和がよい(中級品以上)。

〇楽しみ方:煎茶は日常生活中、いつどんな場合にも不適ということはなく、万人好みとも言える。食事中、食後、疲れ休み、接客時、喫茶自体を楽しみたい時など、いつでもよい。茶うけも各自の好みに応じて幅広く取り合わせて楽しむとよい。» p. 142-143

この一節を読んだ茶の初心者は、最高級の一番茶の煎茶こそが、日常のあらゆる場面において前述のすべての役割を理想的に果たす万能の茶であるかのような誤った印象を抱きかねない。そこには、唯一絶対の「最高の品質」が存在するかのような幻想が生まれている。

しかし実際には、伝統的な茶文化においては、高級な春の煎茶から秋の番茶に至るまで、あらゆる茶たちがそれぞれの役割を分担しながら日常生活を支えてきた。

番茶は日々の暮らしの中で極めて重要な役割を担っているにもかかわらず、淵之上弘子は慣例的にそれを「煎茶のごく晩期摘みで品質の劣るもの」と位置づけている。そのように番茶の価値を矮小化しておきながら、同じ書物の別章では、消えゆく地域番茶やその他の日常茶、すなわち「常茶」の衰退を憂慮している。

茶の収穫期を優劣で区分する発想は、意識の深層にまで根強く染みついている。著者もまた無意識のうちに、茶と茶期を「喜ばしいもの」と「それ以外」とに分けてしまっている。しかし実際には、どの季節にも、どの収穫にも、それぞれ固有でかけがえのない価値が存在している。

«一年中でもっとも嬉しいのは一番茶を摘む時だ。雲一つない日本晴れ、頬をかすめる風も爽やかだ。茶園に立つと新芽のみずみずしい息吹きが香ってくるようで、一芽一芽が伸びやかに健やかに美しくその生命を誇っているようだ。一年の茶園作業のさまざまな苦労が一瞬頭の中をよぎる。苦労が稔って本当によかった。老いも若きもわくわくそわそわする。茶園に向う人々の足どりにも力がこもり、「お早う」の声も明るい。

二番茶、さらに三番茶は、一番茶に比べると新芽の葉数も少なく、高温下にあって新芽の硬化も進みがち、味も香りも今一つである。摘採適期の決め方は一番茶にほぼ準ずるが、葉数はやや少なめで、出開き芽の割合もやや高めである。特に二、三番茶は摘み遅れない注意が肝要である。この時期は暑くて労働も苦しいし、品質もあまり期待出来ないので、一番茶期のように勇んで摘むというわけにはいかない。また品質本位の一番茶のように、高級茶生産のための手摘みなども行なわない。» p. 79

「公的に承認された」序列構造に従うあまり、著者は二項対立的な発想に傾き、茶の世界を高品質と低品質へと切り分けてしまっている。長年その組織の中で歩んできた人物である以上、それも無理のないことかもしれない。

しかし、このような一元的かつ直線的な品質理解は、現実そのものと齟齬をきたす。むしろ研究者として積み重ねてきた豊富な実践経験は、一番茶の高品質ですら万能でも絶対でもなく、自ずと限界を持つことを暗に物語っている。

淵之上弘子は次のように述べている。

○若葉摘みの限界

チャの芽は、やや早めに摘めばよい品質の茶となるが、早いほどよいのではない。若芽摘みと言っても、新葉が一枚や二枚開いた時期では早過ぎて、却って香りが弱く、味は調和を欠き苦渋味が強く、製品の色も黄味を帯びる。一番茶期では新葉が少なくとも三〜四枚開いた段階が若芽摘みでの限界である。

○上級茶は新葉を何枚つけて摘むか

昔から上級茶は心三葉摘みと称し、伸育中の新芽の上から三枚目までの葉の直下で摘み取ることにしていた。しかし茶の外観が重視されるようになって、心二葉摘みに変わった。心三葉に比し細く揉まれ、外観は確かによいが、味の調和の面では心三葉摘みの方がまさる。の判定が大切である。一番茶の場合は新葉が四〜五枚展開し、葉数増加を終った芽(出開き芽)が全体の七割内外で、全体の新芽が硬くなる前に摘むのがよいとされるが、品種によって適期の決め方には若干の差がある。» p. 143

著者の観察は、若く高品質な新茶と、成熟し品質の劣る番茶という二元的な茶の区分が根本的に成り立たないことを示している。なぜなら、煎茶がかつて日本中の家庭へと普及しえた背景には、まさに第三葉というより大きな葉、すなわち新茶から番茶へと連続する方向性によってもたらされる「番茶性」が存在していたからである。

一方で、優美に撚られた外形や茶葉の光沢への執着は、逆に第三葉の消失を招き、煎茶の用途の幅を著しく狭める結果となった。

第三葉を排したことで、煎茶は小さな茶碗でちびちび味わうための高級嗜好品へと特化し、その機能性は大きく削がれ、茶文化そのものの実践的な豊かさもまた損なわれた。

煎茶が万能選手であり続けられるのは、その内に日常茶としての番茶の精神が生きている限りにおいてである。これは、茶の品質、ひいてはあらゆる品質が、本質的に線形的・階層的なものではなく、非線形かつ非序列的な性質を持つという我々の仮説を改めて裏づけている。この事実を無視することは、茶文化全体に深刻な結果をもたらす。

浅蒸しから深蒸しへ

自然も、人間も、そして茶もまた、中庸を好み、極端に走ることを嫌う。極端を避けることは単なる仏教的教義にとどまらず、茶葉の栽培と加工における極めて重要な原則でもある。

茶業界ではしばしば浅蒸し茶や深蒸し茶という表現が用いられるが、厳密に言えば、「浅い蒸し」や「深い蒸し」という絶対的なものが存在するわけではない。存在するのは、茶葉の厚みや性質に応じた適切な蒸し加減のみである。

多くの人は、深蒸し製法が20世紀70年代に発明されたと誤解している。しかし実際には、その歴史は蒸し製茶そのものと同じほど古い。手揉み煎茶の時代、すでに約100年前の明治期に、牧之原の農家・戸塚豊蔵によって、平地茶の厚い葉を蒸すために深蒸し技術が用いられていた。

20世紀に入ると、戸塚は原崎源作と協力し、深蒸し製茶の機械化に取り組んだ。その理念を受け継いだのが、同じく相良町出身で相良物産の社長であった山本平三郎(1887~1962)であり、彼は「深蒸し茶の父」と称された。そしてここから深蒸し茶は本格的な発展を遂げていく。

戦後日本の茶業界では、依然として爽やかだが渋みの強い浅蒸し煎茶が主流であった。しかし山本は、戦争によって飢えた日本人が求めていたのは、単なる爽快さではなく、より「美味しく」、さらには甘みさえ感じられる茶であることを見抜いていた。

実際、戦後日本で砂糖入り粉末緑茶、いわゆる「グリーンティー」が爆発的な人気を博したのも偶然ではない。国家全体がカロリー不足に苦しみ、人々は茶にさえ栄養価を求めていたのである。

山本は、時代精神そのものが形式より内容を優先することを求めていると理解していた。飯田辰彦は「この平三郎、徹底して外観無視、内容本位のお茶を追求した。」と指摘している。p. 174日本茶の勘所、飯田辰彦、2012。 

彼は茶業だけでなく肥料販売にも携わっていたため、1950年代に全国へ普及しつつあったやぶきた品種の高いアミノ酸蓄積能力をいち早く評価したと考えられる。やぶきたは香気こそ平凡だったが、十分な施肥によって強いうま味と甘味を蓄える特性を持っていた。そして深蒸しは、その味わいをさらにまろやかにした。

深蒸しの将来性を確信した山本は、県茶業試験場長・丸尾鈷六の支援を得る。丸尾は退官後、深蒸し茶の研究と普及に生涯を捧げ、「うまい茶は、蒸熱を進めるにあり」と考えていた。p. 174、日本茶の勘所、飯田辰彦、2012。 

さらに、東京築地の茶商・魚がしの社長であった土屋正も山本の茶に魅了された。やぶきた由来の濃厚なうま味は圧倒的であったが、彼は「これで香りがもっと強ければなお良い」と語った。

牧之原の茶葉は平地産であり、もともと香気が弱かった。このため、戦前から多くの牧之原農家が紅茶製造へ転換していたほどである。

加えて、やぶきた自体も香りの強い品種ではなく、大量施肥と深蒸しによって、その香気はさらに弱まった。

そこで必要となったのが、「火入れ」と呼ばれる高温乾燥による人工的な香気強化である。これは現在でも茶商によって広く利用されている。

こうして荒茶は乾燥機で強い火入れを施されることとなった。比喩的に言えば、深蒸し茶はまるでパンを焼くように「焼成」されたのである。この過程でメイラード反応が生じた。

メイラード反応とは、加熱によってアミノ酸と糖が化学反応を起こす現象であり、肉の焼成やパンの焼き上げに見られる香ばしい香り、色、味を生み出す。深蒸し茶における火入れもまた、この反応を利用していた。

強い火入れは、弱い香りをある意味で蘇生させる。それは鮮烈な焙煎香、いわゆる「火香」を与えるだけでなく、保存性の向上にも寄与する。このため、日本で流通する大半の煎茶は比較的強い火入れが施されている。

「火香」は大衆消費者にとって理解しやすく、しばしばそれ自体が緑茶本来の香りであるかのように認識される。(同様に、肥料由来の重たい味わいが自然なうま味と混同されることも少なくない。)

しかし実際には、火香は茶本来の自然な芳香を覆い隠し、ある意味で焼き消してしまう。そのため、高級山間煎茶では伝統的に火入れも施肥も最小限に抑えられる。

かくして、平地産という本来香気に乏しい原料であっても、深蒸し、施肥、火入れという複合的技術によって、味、色、香りを最大限に補強することが可能となった。

無論、これは大量生産用茶として十分に成り立つ製法である。 ただし、節度を越えない限り 。

49. 深蒸し――形式の破壊と内容の変質

いかに形式から離れ、内容を重視しようとしても、結局われわれは再び形式へと立ち返る。なぜなら、形と内容とは陰陽のごとく不可分であり、形式とはすなわち内容の顕現そのものだからである。

静岡県牧之原台地の茶園は、20世紀60~70年代における茶業革新の象徴であり、新たな茶、すなわち深蒸し煎茶の代名詞となった。

経済効率の観点から見れば、渋味はやや強く香気は弱いものの、高い収益性を持つ平地茶は非常に魅力的であった。山を登る必要がなく、平地では大型茶摘採機や各種機械化技術の導入が容易であり、生産コストの削減が可能だったからである。

牧之原の茶園面積は5000ヘクタール以上に及び、これは7000面を超えるサッカー場に相当する。江戸末期から明治初期にかけて、輸出用大量生産茶を目的として造成された、日本最大規模の茶園地帯である。

20世紀60年代に入ると、国際競争の激化によって茶輸出は停滞し、一方で国内における緑茶需要の増大に伴い、牧之原茶園の活用価値が改めて注目されるようになった。

一部は紅茶生産へ転換されたが、1970年代の紅茶貿易自由化によって保護関税が撤廃されると、インドやスリランカ産の安価な紅茶が日本市場へ大量流入し、国内生産者は競争力を失った。

こうして、牧之原は国内向け緑茶生産へ本格的に舵を切る必要に迫られた。ただし、求められたのは単なる緑茶ではなく、「美味い茶」、すなわち濃厚なうま味を持つ茶であった。

1960年代半ばの茶業関係者たちは、茶の評価基準を外形美から内容重視へと転換する必要性を強く感じていた。

その後の技術革新によって、茶葉は従来の針状の形態から離脱した。しかしその過程で反対方向へと極端化し、ついには本来の葉の構造的完全性を失い、粉砕され、鮮やかな緑色の微細片へと変貌していった。

私自身が、鮮やかな翡翠色にもかかわらず深蒸し煎茶をほとんど常飲しない理由もここにある。確かに深蒸し茶は抽出が速く、手軽である。しかしそれは、葉が著しく損傷しているからに他ならない。

葉の完全性が損なわれることで、一煎目から過剰な抽出が起こる。味が過剰になるのである。

それだけではない。

大量のタンニンが一気に湯中へ放出され、それが胃粘膜のタンパク質と結合することで、胃に不快感をもたらすことがある。とりわけ空腹時の深蒸し茶は、抹茶同様、慎重であるべきである。

また、微細粉の多さは深蒸し茶を葉茶から遠ざけ、粉末茶である抹茶に近づけている。

周知の通り、抹茶は大量に飲める茶ではない。同様に、深蒸し煎茶もまた大量摂取や日常的連続飲用には一定の限界を持つ。

抹茶と深蒸し煎茶はいずれも、「飲みやすさ」や「日常性」に制約を持つ茶と位置付けることができる。濃厚すぎる味わいは食事との調和を狭め、純粋な渇きの解消にも必ずしも適していない。

以下では、深蒸し茶の進化過程をさらに詳しく検討し、本来は相対的かつ機能的であった品質が、いかにして絶対的価値基準へと転化していったのかを考察したい。

茶の歴史は、良い茶が市場競争の中で高品質、すなわち形式と内容の最適な均衡を保ちながら生き残ることがいかに困難であるかを示している。「良質であり続ける」ということは、不自由な条件下で自由であるということである。それは、一種の芸術ではないだろうか。

自由な茶

飯田辰彦は著書『日本茶の勘所』の中で、明治期から20世紀60年代に至るまでの深蒸し煎茶の進化を、静岡県牧之原という一貫した舞台を軸に長い歴史的系譜として描いている。

«他方、これに少し遅れて、吾郎さんたちの深蒸し製研究はスタートする。キッカケは、近所に住むお茶の斡旋業(才取り)、斎藤昌彦さんの「旨い茶をつくるには、よく蒸すことだ」というアドバイスだった。孝さんによれば、平三郎の評判はこのころにはすでに広く流布しており、吾郎さんはそこ(平三郎)からも少なからぬ影響を受けたはず、という。

 時を同じくして、当時の県茶試の大石貞男場長、森薗市二製造主幹、県農産園芸課の高橋恒二課長らの発案で、「フリースタイル茶」への取り組みがはじまっていた。発想の原点は、これまでの品評会では外観が重視され、旨さの追及がおろそかになっているとの危機感からだった。「形状、色沢にとらわれない、香味本位の商品を開発し、品質の改善と消費の増進に役立てる」という明確な目標を掲げていた。それを実現させるためには、慣行の製茶技術にいっさいとらわれることなく、どんな製法、どんな形状でも構わないことを堂々と謳っている。のちに、吾郎さんは当時の時代状況を振り返って、以下のようなコメントを雑誌に寄せている。

 中国茶も台湾茶もすべてフリースタイルであるといってよい。銀針、碧螺春、龍井など数多い銘柄のもののスタイルはみなフリーだ。内容もすべてフリーである。

〈……中略……〉

 その他、(日本の)ヨンコンにしても、玉緑茶にしても、駄農子(吾郎さんの自称)の知る限りの茶種についてみると、おもしろいほど多種多様の内容をもち、内容もすべて異質独特のものだ。いずれにしても無理な整形を加えていないから、切れ葉や傷み葉ができず、従って格調高い独特な品格をあらわしているものばかりだ。

 中国茶を真似ろというのではない。ただ、画一化された日本緑茶の形状から脱却しようということだ。どんな形状でも、どんな色沢でも、どんな内容でも、要は消費者がのんでうまいというような、消費者の嗜好に合った品質内容を探り、新しい製法を確立して、多様化した消費者の嗜好を満たすことができるよう、選択の範囲をひろげて消費の拡大を期そう、というのがフリースタイルの茶の研究構想のようであった。» p. 175-176

飯田辰彦は、吾郎が立ち向かった状況が、実質的には今日に至るまでなお大きく変わっていないことを的確に指摘している。彼はこう記している。

«これを読むと、当時(昭和四十年代前半)も現在と同じように、画一化した飲み茶が社会問題にまでなっていたことが、よく分かる。当時が“細撚れの若蒸し茶”で、現在は“深蒸しのやぶきた”という違いはあるが、いずれにしても業界の消費者不在の殿様商法である点では、まったく酷似している。» Стр. 176

フリースタイル茶の理念に鼓舞された吾郎は、志を同じくする六人の農家とともに「お茶の天狗会」を結成した。(天狗とは、日本神話に登場する鼻の高い存在であり、その名称には「自負心の強い者たち」という含意も込められていた。)

会員たちは技術水準の向上を誓い、「お互い鼻をへし折るほどの努力をし、みずから茶天狗になろう」という決意が込められた。

まず彼らが着手したのは、蒸機の研究であった。

通常、煎茶の蒸熱には胴回転式の蒸機が用いられる。高温蒸気を内部に送り込み、回転する羽根によって茶葉を前方へ送りながら蒸す仕組みである。この過程で茶葉は羽根に打たれ、蒸熱段階から徐々に損傷し、揉みが始まる。

しかしお茶の天狗会のメンバーは、葉を傷つけずに、そしてベタベタする蒸し葉が粗揉機の底に寝込んで蒸れ臭を生じない長時間の蒸熱を可能にするため送帯式蒸し機を採用した。

この方式では、茶葉はコンベア上をゆっくりと移動しながら蒸気処理を受けるため、物理的損傷が少ない。

彼らは蒸熱時間を従来の30~40秒から2倍、さらには4倍へと延長し、この新たな茶を「特蒸し煎茶」と名付けた。

完成した茶を評価したのは、茶商・加納茂三郎であった。

彼によれば、送帯式蒸し機は超深蒸しにおいて極めて高い可能性を持っていた。

出来上がった茶は、半分が茶粉のような微細片、半分が蒸気で軟化した葉が固まった球状粒子という、従来の煎茶とは著しく異なる外観を呈していた。

その異様な見た目に会員たちは落胆したが、加納は彼らを励ました。

「形状なんか気にする必要はない。重要なのは味だ。」

実際、その茶は苦味と渋味が驚くほど抑えられ、まるで魔法のように甘味へと転化していた。

加納はこの特蒸し茶を東京の茶店向けに買い取ることを決断した。

さらに彼はその可能性を高く評価し、自費で400キログラム処理能力を持つ大型蒸機を購入し、加えて他の必要機械への投資も支援した。これにより、天狗会の若き農家たちは二つの製茶工場を整備するに至った。

時は1970年。

操業の中で、送帯式蒸し機にも欠点があることが明らかとなった。

胴回転式とは異なり、葉が内部で十分に撹拌されないため、葉裏に白っぽい色が残りやすかったのである。

また、処理効率も胴回転式より低く、生産コストは上昇した。

しかし、こうした初期的困難を見越していた加納は、天狗会を一貫して支援し続けた。

こうして農家たちは、牧之原特有の長い日照時間と強酸性粘土質土壌という不利な条件を克服し、それまで赤黒く苦味の強い煎茶しか生まれなかった原料を、鮮やかで美味な特蒸し緑茶へと転換することに成功した。

彼らは、極めて不利な原料条件を覆し、ほとんど不可能とも思える改革を成し遂げたのである。

しかし、お茶の天狗たちの前には、さらに困難な課題が待ち受けていた。

それは、針状の浅蒸し煎茶のみを絶対的基準として崇拝する茶業界全体に対し、自らの茶の価値を真正面から訴えなければならないということであった。

深蒸し茶 ― どうしたか?

静岡県茶業試験場の指導部による尽力の結果、深蒸し煎茶は1969年に静岡で開催された全国茶品評会への出品を認められた。

深蒸し茶は、「形状、色沢にとらわれない、香味本位の商品」として提示された。それは実質的に、茶が執着から解き放たれ、美味しく体にいい飲み物として本来の役割を果たそうとする、まるで禅的とも言える試みであった。

協賛種目として、新たな茶には外観に対する評価は課されなかったが、商品としての特性に関する評価は将来的課題として暗黙のうちに保留された。

これに対し、茶業界関係者からは激しい批判が巻き起こった。多くの者は、深蒸し煎茶には独自性がなく、独立した茶種としての地位には「及ばない」と非難した。大多数の反対者は、この新しい茶を香気を欠いた茶の砕片にすぎず、真の品質基準を満たさないものと見なした。

高塚五郎はこれに対し、あらゆる評価の主観性と相対性を指摘して反論した。彼は次のように記している。

«すべての茶の審査基準は神さまによって設定されたものではない。また絶対不変の鉄則でもない。時代の変遷につれて審査基準も変更が加えられた。それが現行基準だ。新しい審査基準を考えるのが専門家の使命であり、責務ではないのか。»(『茶』第三十二巻 七月号)

五郎は、自らの時代の固定観念に果敢に立ち向かい、茶業界に味の民主主義を呼びかけた。その姿勢自体、すでに高く評価されるに値する。

一方で、深蒸し茶に向けられた批判にも、ある程度の妥当性があったことは認めるべきである。深蒸しは確かに茶本来の自然な香気を弱め、さらに茶葉の粉砕は飲みやすさを低下させる側面を持つ。

審査員たちは、深蒸し製法の改良を求めることで、実質的には深蒸し煎茶を浅蒸し煎茶の高い基準へと近づけるよう促していたのである。

五郎は、茶の品質を何らかの絶対的頂点としてではなく、それぞれの茶の特性が消費者の多様な嗜好にどれだけ適合するかとして捉えていた。彼は、移ろいゆく世の中において、茶の品質を含め、あらゆるものが相対的であることを深く理解していたからこう答えた。

«(私は)若蒸し茶あるいは標準製法の茶を決して否定するものではない。需要の大部分、つま り七〇%から八〇%(当時)の消費者は普通煎茶党なのであるから、普通製法の適地はいまま でと変わることなく、いっそうよいものを研究し、生産してほしい。深蒸しは生葉の素質が普通製法に向かない産地でとりあげるべき茶種で、上級茶の適地でとり入れるものではない。適 地の特性を考えずにとり入れるのは危険だから、従って深蒸しの適地は限定されることになる。» p. 185

結局、何が起こったのか。まさに五郎が危惧していた通りの事態であった。その後の茶品評会では、深蒸し茶の「商品としての見栄え」がますます重視されるようになった。そもそも品評会の本質とは、茶の商品的特性を評価することにあるためである。

深蒸し茶の外観に対する点数評価が導入され、その結果、本来の特蒸し茶――長時間の蒸熱によってクロロフィルがフェオフィチンへと変化し、やや黄味を帯びた茶――ではなく、できる限り蒸しを浅く抑え、針状の形状と鮮やかな緑色をよりよく保持した深蒸し茶が上位を占めるようになった。

茶商たちは、この濃緑色に大きな商業的価値があることを素早く見抜き、深蒸し製法を「改良」することで、その本来の理念を完全に歪めていった。蒸熱時間はクロロフィル保持とコスト削減を目的として短縮され、多くの農家は、美しい緑色を得るために茶葉を傷つけやすい円筒式蒸機へと回帰した。さらに同じ目的のもと、揉捻工程において茶葉は意図的に粉砕されるようになったが、これは本来、深蒸し製法の創始者たちが想定していたものではなかった。

1982年、大高愛司はこの技術的すり替えについて次のように指摘している。

«深蒸し茶は急須から茶わんに注ぐと水がにごるでしょ。強く蒸すから、細胞組織がもろくなる。だから、粉がたくさん出るのは深蒸し茶の宿命ですよ、といって放ってあるでしょ。そういう言い方はおかしい、とボクは言うんだ。

強く蒸すから粉が出るんじゃない。強く蒸した原料を強く揉むから粉が出るんだ。粗揉工程じゃそんなに粉は出ませんよ。

ひとくちに粉と言っても、大型の粉は水色を濁さない。微粉がいけない。微粉は中揉―精揉と進むにつれて多くなる。だから、精揉機を使わない製法を考えればいい。» p. 140

深蒸し茶本来の意味は歪められ、やがて高塚五郎という一農家によって解き放たれた深蒸しの「緑の蛇」は、日本全国を席巻していった。

その品質観―本来、創始者にとっては茶葉の性質への適合性として捉えられていたもの―は絶対的価値へと祭り上げられ、巧みなマーケティングによって急速に大量拡散された。

エメラルド色の茶湯はよく売れたため、多くの生産者や流通業者は、五郎が説いていた茶葉や産地への適性という基準を無視し、平地の厚葉のみならず、本来豊かな香気の可能性を秘めた山間地の繊細な茶葉までも緑色の「茶の挽肉」へと変えていった。

それは、茶葉に本来備わっていた自然の芳香的潜在力を根本から損なう行為であった。

波多野公介は著書『緑茶最前線』(1997年)の中で、深蒸し茶の変質の原因を探ろうとし、1996年秋に森薗市二から受け取った書簡の内容を簡潔に紹介している。

«深蒸し茶の原点は穂先梨蒸し茶です。字が示す通り茶葉の心芽を梨の色になるまで蒸した茶です。私が現役のころ、昭和四十四年の第二十三回全国茶品評会静岡大会で初めて新しい商品として取上げられました。外観は審査しない、フリースタイルの部の協賛種目として第一回が実施されたのです。

正式に深蒸し茶と命名されて参加するのは昭和四十九年から。当時の深蒸し茶の品質は、しっかりと茶葉の形があり、色は黄緑色にさえ、水色は黄金色が濃く透明で、甘いさわやかな香りがあり、味は渋みと甘みのバランスがよくとれたコク味が強く、実においしかった。それだけに値段も高かった。

――何年か経つうちに商人が色の青い深蒸しをいいだした。美しいグリーンのイメージで売ろうというわけです。そして結局は味も香りもない、色のドロドロした、粉だらけの深蒸し茶にしてしまった。いったんそうなってしまうと、もう見境がなくなる。茶葉を破砕し粉になったのが深蒸しだとして意識して破砕するようになる。みる芽もこわ葉も区別がなくなる。茶葉をこわくして収量をふやす。

普通は十アール当りの生葉の収量は七百キロぐらいなのに八百から千キロも取って深蒸しに回す。これでは本物の深蒸し茶は出来ません。本来の深蒸しは、みる芽を前提にしている。さらにもう一つ、土が赤土粘土質で茶葉が肉厚な所は標準蒸しでは駄茶になってしまう。そこで深蒸しにして特徴をもたせるということがある。ところが全くそういう土質でない茶葉までやたらに深蒸しに回してしまう。

――とにかく今の市場に出る深蒸し茶は大部分がごまかしです。とにかく今の市場に出る深蒸し茶は大部分がごまかしです» p. 38-40

深蒸し煎茶は、「やぶきた深蒸し」というほとんど慣用句とも言える組み合わせのもと、日本全国へ急速に広まった。やぶきた品種は生来、比較的肉厚でしっかりとした葉を持ち、深蒸し製法はまさにこの品種に最適であった。

当初、やぶきた深蒸し煎茶は東日本、とりわけ東京で高い人気を得た。というのも、やぶきたとの組み合わせによる深蒸し煎茶は、東京の水道水に特有であった塩素臭を見事に和らげることが判明したからである。

さらに、粉状になりやすい深蒸し煎茶は熱湯でも短時間で素早く抽出できるため、絶えず時間に追われる都市生活者たちの嗜好にも合致し、爆発的なヒット商品となった。波多野公介は彼らを「待てない人々」と呼んでいる。

«しかし待てない人々ばかりが東日本に住んでいるわけではない。あわただしい日々だからこそ、たまには本物のおいしいお茶にめぐり会いたいと考えている人もたくさんいるに違いない。» と波多野が述べ続ける。p. 43

波多野は、肥料を過剰に与えられたやぶきた種が特有の不快な臭気を帯びることを嘆き、それを「やぶきた臭」と呼んだ。

著者は、日本茶本来の味と香りを取り戻す方法を模索する。まず波多野は、通常茶商が農家の荒茶に「火入れ」を施す仕上げ乾燥の段階で香気改善を試みた。

しかし試行錯誤の末、繊細で自然な香りを備えた上級煎茶は、この火の強い処理に適さないことを悟る。

そこで波多野は、萎凋という工程に活路を見出す。

やはり加工段階ではなく素材の茶葉そのものに手を加えるしか、方法はないか。そのひとつがやぶきたの萎凋だ。手摘みの小林園のものはどうか。

朝の一煎目で心を澄ましてのむ。やぶきたのしつこさ(やぶきた臭をともなう濃い風味)はかなり薄れ、さわやかな清涼香が微かに立った。代わりにやぶきたのしぶとい個性が後退したことは否めない。のど越しはかなりよくなっている。» p. 46-47

しかし波多野の考えでは、やぶきたの過剰な個性を抑えたとしても、«「香り高い本格煎茶」を生みだす大前提は、一部を残して深蒸しを標準蒸しにまず戻すことだ。でなければ話は前に進まない»p. 47

茶を再び日常生活へ取り戻すことを論じる前に、まずその品質評価体系そのものを見直す必要がある。まさにその評価基準こそが、番茶、釜炒り茶、その他の日常茶の価値を固定的に低く位置づけてきたのである。

品質は二つ、評価基準は一つ?

本研究は、茶の持つ二面的性質を出発点とする。

茶の品質は、相互浸透する二つの極――「洗練性」と「日常性」という理念型によって構成されている。

現実の茶は、常に洗練性と日常性の何らかの組み合わせとして存在する。これらの理想型は、茶文化を分析するための概念的枠組みにすぎず、茶文化そのものは洗練性と日常性のあいだに広がる空間として捉えることができる。

茶の洗練性とは、飲み手に非日常的な感覚をもたらす力である。これに対し、茶の日常性とは、人間の日々の生活の中に自然に溶け込みうる力を指す。

この二つの品質極は、それぞれ固有の価値を持つ。したがって、茶葉の成長に伴い、茶の品質は低下するのではなく、洗練的から日常性へと変化していくのである。

しかし、茶の品質が本来的に二元的であるにもかかわらず、現代の品質評価体系は依然として一次元的であり、茶品評会における高級茶評価の基盤となっている。小川八重子はこう述べた。

«もともと、よいお茶の基準は、どこで決まっているのでしょうか。

茶作りに関係する人達の間のイベントですが、全国茶品評会というのがあります。年一回、茶を生産している県のまわり持ちで開かれ、この品評会で一等と認められると農林大臣賞が授与されます。

全国茶品評会で高い評価をうけた茶が、よいお茶と格付けされ、高い価格で取引されるところから、茶生産者は、この品評会の審査基準にあてはまるような茶を作ろうと精出すことになるわけです。

“やぶきた”が、改良品種としてもてはやされ、全国で栽培される茶樹のほとんどがやぶきた種になってしまうといった事態がありました。» p. 51

茶品評会の評価軸は、ほぼ全面的に高級性の側面に依拠し、優美な形状、光沢、色沢、その他の商品的特性を重視し、茶を片方へと引き寄せ、茶文化全体の不均衡を生み出し、さらに深刻化させる。一方では、その基盤である日常茶文化を過小評価し、他方では、嗜好品としての茶の高級化――すなわち商品特性の人為的強化――を促進する。

明治時代に定着したこの評価方法は、市場原理(資本主義)に基づく日本茶のあり方の形成を後押しした。その一方で、茶業界内部においても、時に厳しい批判にさらされることがあった。

1970年代、有馬利治は次のように述べている。

『特に最近の日本茶はまずくなり、嗜好性もなくなってきたので、連年消費量は減少しつつある。(…)中国人は、現代でも茶を嗜む傾向は強く、茶の香気を大切にして茶を飲む。

茶を飲むことは、喫茶といわれ、茶をすすって、香りを楽しみ、飲んだ後の甘涼しさを味わうことである。最近は喫茶に値する茶がなくなり、飲茶に変わったとも考えられる。

茶の価値は、原料である茶の芽葉の性質によって支配されるもので、その原料園である茶園が品評会で入賞しても、その原料で作られた茶がうまい茶とは限らない。このような優良茶園の茶は、肥料過多や農薬散布のやり過ぎで、嗜好品としての茶に向かないものがほとんどである。

一般に、茶園の肥料は必要量の二、三倍施されており、それも化学肥料の割合が多く、大半は地中は流亡している状態である。農薬の散布過多は、茶の香気を著しく減殺し、茶をまずくしている最大の原因となっている。

中国では日本と異なり、茶の香りを大切にして、嗜好性をなくさないように心がけ、肥培管理もほどほどに行なわれている。また、中国は茶の地帯として、地質の良好な場所を選び、古生層、 中生層等の礫質土壌を使用し、下級茶の地帯でも第三紀層が止まりで、日本のように沖積層、火山灰土は使用していない。

施肥量も少なく、それも有機性の肥料が多い。農薬の散布も、日本と比較して、回数は著しく少ない。私も、最近二回、技術交流で中国を訪問して、浙江省の試験場や、農場で意見の交換を行ったが、彼らは茶の本質をくずしてまで、茶の栽培を進める考えはない。(中略)

日本でも、昭和三五年ころまでは、天竜川や大井川奥の山間地に、まれにうまい茶があり、買い置きしたものである。その当時の茶園は、茶樹は在来種で、青草や枯れ草をしき、肥料も少なく、手摘みで、乱獲しないようにしたもので、茶に力もあり、全くうまい茶であった。

その後、茶の優良品種が普及して、品種園が増えるほど、茶の外観はよくなったが、香味は平凡になり、里の茶と余り変わりがなくなり、ある品種のもつ嫌みのある茶も現れ始めた。

優良品種の茶が全部まずいとは限らないが、外観が綺麗で、収量の多いものは、在来種に比べてまずい茶が多く、このような見場の良い茶は、価格は比較的に高く売れ、生産家の利益にはなっても、消費者にとっては必ずしも得な茶ではない。

日本の茶生地では、毎年茶の品評会で出品茶の審査が行われ、品質の優劣が決められる。現在の日本緑茶の審査法は明治以来玉露茶を基本として仕組みで行われており、優位に決定される茶は、施肥量の多い、形状の伸びた、紺緑色の、肥料による甘味の多いものである。このような嗜好性のない、生臭味の茶は煎茶本来の性状に相反する茶であり、本当にうまい茶ではない。

古くは、室町時代から、茶の本非ということがやかましく言われ、茶の産地の格付けを行った。本茶とは、古生層地帯の茶を称したものであり、非茶とは、古生層以外の地質のもので、茶のにせ物ということであるが、現代の入賞茶などは、むかしの非茶の足もとにも及ばないのではなかろうか。』p. 64-65、有馬利治、昭和二十三年から三十五年まで静岡県茶業試験場長を勤める。鹿児島県出身)。くつろぎの茶、こんなに深い日常茶の世界、1982。

少数ながら異議を唱える者もおり、その一人が小川八重子であった。彼女は、良い茶とは見た目が美しく、なおかつ濃厚な旨味を備えたものだけとされている現状に着目し、こう記している。

«誰のための茶か

以前から気になっていたことですが、茶業の世界に競争の場のないことが不思議でなりません。二、三十年前までは、宇治茶・川根茶・本山茶・狭山茶・八女茶・矢部茶等々、各地の茶処が自分の名を冠して夫々の特色を競い合っていたものでした。又、茶処へ行くと、茶作り名人が競い合っていて自作の出来映えを自慢しあっていました。

今はどうなっているでしょう。茶作り農家は、茶業試験場等行政の指導をうけて茶園を管理し茶を栽培します。茶葉を摘みとると、直ぐさま農協の協同工場へ持ち込むのです。葉は様々であっても、茶として出来上るときは、一つになっています。

産地の特色を競うということもなくなりました。品質の上下を格付けする基準は、只一つ、品評会の審査基準です。宇治茶はまろやか、川根茶は香り、狭山茶はさっぱり、八女はコクのある味わい、といった特色は全く評価されなくなっています。

本来、生産業者・販売業者は、自分の製品・商品を売って利潤を獲得するために努力している筈です。自分の製品・商品が売れなければならない。売れるとか売れないとか、どうして決まるのでしょうか。

売り手市場とか、買い手市場とか、いわれますが、一般的には、物が売れるか売れないかは、買い手側の意向次第というのが最大の要因であると思います。» Стр. 48-49

小川八重子は、評価基準として濃厚な旨味――すなわち我々が「味覚的な味」と呼ぶもの――が据えられていると指摘した。その一方で、日常茶に特徴的な爽快な「生理的な味」は、「旨味の付属物」として扱われ、独立した価値としては捉えられていなかった。

«お茶のよしあしを決める基準として、”うまみ”と”こく”ということがいわれています。うまみとこくのあるお茶がいいお茶だというのです。うまみは、アミノ酸の含有量に左右されるといわれます。

こくというのは、お酒などによく使われますが、”味が濃くて飲みごたえがする”深みのある味わい”のことです。

そうすると、いいお茶というのは、玉露や深むしということになるわけですが、もう一つ、甘くなくても、濃くなくても、さっぱりとして、さわやかな香りがあって、何杯も飲みたくなるようなおいしいお茶がある。それもいいお茶といっていいのではないでしょうか。» p. 218-219、小川八重子の常茶の世界、小川誠二、1996。

«小川八重子は、単に茶の味への不満を述べたのではない。彼女は、茶の品質低下が、やぶきたを基準品種とし、画一的な製造基準を中心に構築された支配的な品質評価基準と直結していることを見抜いていた。彼女はこう記している。

昭和五十年代に入る頃から、茶業の近代化が進められるにつれ、産地毎にあった茶の個性味が薄れてきました。全国どこへ行っても同じようなお茶になってきたのです。その原因の一番大きなものは、全国の茶畑が次から次と改植され、”やぶきた“という品種一色になってきたことです。それから、栽培法、製茶技術も画一化され、一つに決められた品質規準に従って生産するようになったことです。

おいしいお茶の味というのが、うまい味、甘い味となり、だんだんくどい味になってきました。

”コク“があるという表現が、果てはドロッとした味になってくると、私には重すぎて飲めません。私は、さっぱりとして、飲んだ後がさわやかで軽いものを求めます。しかし、そういう茶は、年々姿を消してしまいます。» p. 149

小川八重子は、茶の販売業者と生産者自身が、消費者の実際の嗜好を無視したまま品質基準を設定してきたことを強調している。

彼女は、茶の流通業者と生産者自身が、消費者の現実の味覚や求めるものを顧みることなく、自ら品質基準を定めてきたのだと強調した。

«現実の茶業界では、お茶の善し悪しは全日本茶品評会で格付けされます。飲む人の側のニーズなんて全く顧慮されていません。

茶の生産者・販売業者、それにこの人々を指導監督するお役人さんたちも、十数年も茶の消費量の減少・消費者の茶離れが由々しき問題であると言い続けているのに、物差しを飲む人の側の意向に当てようとしていないのです。» p 50

小川八重子は、玉露の味と番茶的な味わいという二つの客観的に存在する味覚類型があるにもかかわらず、茶の品質が玉露の評価尺度のみで一元的に判断されていることを見抜いていた。その結果、この一面的な評価のもとで番茶系統の茶は事実上視野の外に置かれ、「低品質」との烙印を押されていた。

三田光男著『ものさしの概念』において、いわゆる「偏った標本化」の欠陥について述べている。

「一般に、『ものさし』は充て方に影響されずに『客観的な計測を実現する道具である』と考えるのだが、これに反することが起きている。したがって『ものさし』は、むしろ『見たいものを強調し、見たくないものを隠す』道具なのである」p. 26

我々がある特定の評価基準に焦点を当てる時、定量的な指標を得ることはできるが、生物の多様性のみならず、自然な動的な変化(ダイナミズム)の中にある現象そのものを見失ってしまう。

例えば、走行中における人間の身体の位置のさまざまな相(フェーズ)をものさしで測定する場合、得られるのは「高い・低い」「長い・短い」といった数値的な指標を示す単一の断面(スライス)にすぎない。結果として、我々は最も重要なこと、すなわち、一つの理想的な断面(固定された一コマ)ではなく、その多様性と連続性におけるすべての相のあり方(動画)こそが重要である「走る」という現象そのものを見失うことになる。

著者は、ただ一つのものさしのみを用いることの不十分性を次のように指摘している。

計測は目盛のある「ものさし」一本で充分だと誰もが考える。しかし、「ものさし」一本では見えるものが見えなくなることもある。その計測の見落としは複数の「

ものさし」を同時に使うことによって解消できる。

客観的かつ多角的な茶の品質評価の必要性は自明のことのように思われるが、茶の場合、最大の障害となっているのは利害関係者間の不一致である。詰まるところ、小川八重子は「売り手のものさし」から「買い手のものさし」への転換を求めていたのである。

著書『小川八重子の常茶の世界』の中で、彼女は茶の二元的な評価システムの導入を訴えている。

「商品としての価値は低くても、保健飲料としての評価が、飲む側にとっては、より重要な要素ではありませんか。

緑色の茶と、茶色の茶。嗜好飲料としての茶と、保健飲料としての茶。二つの異なった山があっていいのでしょう。夫々違った価値判断の規準があってよいと思います。茶色のお茶だから安物と決めつけることはできない筈です、と私は考えています。」p. 73

小川八重子は、茶種差別を生み出す垂直的な階層構造を押し付ける制度に反対した。彼女は煎茶と玉露の価値について論じたとき、茶種差別を強く反対している。『煎茶』も『玉露』もそれぞれによさがあるので、どちらが上位でも、下位でもないです。』p.43、暮らしの茶。そして『お茶に値段の高低はありますが、貴賤はないのです。』p.57、小川八重子の常茶の世界。

小川八重子は、茶は最終的に誰のために生産されているのか、消費者のためなのか、それとも売り手のためなのかと疑問を呈していたのである。

小川八重子の「常茶」

ジュランが品質を「使用への適合性(fitness for use)」と定義した観点から見るならば、「やぶきた・深蒸し茶」の品質とは、販売者によって何よりもまず売り手の利便性、すなわち「販売への適合性(fitness for sale)」として構築されたものであったと考えられる。

これに対し、小川八重子は、茶とは飲む人の身体に適い、食事の際やその他の日常のさまざまな場面に寄り添うものであるべきだと主張した。だからこそ彼女は番茶を「伴侶の茶」と呼んだのである。

このような茶の見方は、やがて彼女を「常茶」というコンセプトへと導いた。常茶とは単なる番茶や特定の茶種を指すものではなく、より広い意味を持つ概念である。

«茶は、私の生活になくてはならないものですから、何処へ行くにも、外国旅行にも必ず水筒とお茶を持って行きます。これさえあれば体調を維持できると確信しているからです。いつも私とともにある「伴茶(バンチャ)」なのです。

日常生活という言葉があるように、ごはんとお茶とはワンセット、食前・食中・食後ともお茶をはなしません。常茶は塩分のとりすぎを適当に調節する役目もします、体に塩分がないと体力がつきませんから、私はどんなからいものでも平気でどんどん食べます。これは、わたしの常茶がちゃんと私の体の塩分を調節してくれる、不要な分はちゃんと体外へ排出してくれると確信してのことです。

私は、十年余のまわり道をしてやっと自分の常茶を見つけることができました。それではどういうお茶なのかといわれても、人の体には個人差があるので、いちがいにコレですということは難しいです。自分の体に入ちばん合っていると思われるもの、食欲不振のとき、体調が思わしくないときにこそ飲みたいと思うお茶が、その人にとっての常茶です。» p. 32 小川

八重子の常茶の世界

寒さを知らなければ、暖かさの本当の意味を知ることはできない。それと同じように、小川八重子が茶の根源的な価値である適性として見出すに至ったのは、まず茶の「不適性」に直面したことが出発点であった。

すべては、茶道を嗜んでいた八重子が結婚を機に故郷・京都を離れ、高度経済成長に沸く東京へ移り住み、やがて煎茶道(煎茶・玉露)の教授となったことから始まる。

しかしそこで問題が生じた。上級煎茶や玉露に多く含まれるカフェインは慢性的な不眠を引き起こし、いわゆる高級茶は胃の粘膜を強く刺激し、吐き気や頭痛の原因となった。

それは、古来より人々を救う薬として理解されてきた茶の伝統的イメージとは大きく矛盾していた。

この経験を契機として、八重子は茶とは何か、その本質を自ら問い直すことを決意した。

小川八重子は記している:

私がお茶というものを根本から見直してみようと思いましたのは、今申しあげたいろいろな理由の外に、もう一つ、自分の体がだんだんと緑茶を受けつけなくなったということがあります。お稽古のあった日は夜眠れないし、翌日は胃が痛くなる。玉露をたくさん飲むと、てきめんに便秘をおこし、その調節に何日かかるといった具合でした。

だいたい、鎌倉時代に書かれた栄西禅師(明庵、一一四一〜一二一五)の『喫茶養生記』によれば、茶は薬のはずだ。それなのに、夜眠れない、ものが食べられない、胃が痛くなる、といった症状になるのはなぜか。どこか間違っているのではないか。考えれば考えるほどわからないことだらけで、ひとつ、お茶というものを根本から見直してみる必要がありそうだと思ったのでした。

作家の水上勉さんが『喫茶養生記私考』というエッセイを書いておられます、いうまでもなく、栄西の『喫茶養生記』は現存する日本最古の茶書とされていますが、それを水上さんがわかりやすく紹介して、次のように付け加えておられました。

「『お茶とは、茶道の茶ではなく、日常朝夕、食前食後、諸事の一服に喫するところの番茶のたぐいのお茶ではないだろうか。そもそも茶というのは末代における養生の仙薬である。末代は末世、悪世にあわせている。末世とは、秩序が乱れ人倫が失われるだけでなく、天災や疾病が流行、人類は滅亡していくという意味も含まれている。末世の仙薬は、禅師のいわれるごとく、もし仙薬なれば、実はもっと卓効がなければならないのが道理であろう。とすると我々は、せっかくの仙薬を飲みちがえているのではないか』 p. 26-27

小川八重子は、いったい何が日本茶をこれほどまでに飲用に適さないものへと変えてしまったのか、理解することができなかった。

«栄西のいうお茶は、今のお茶とくらべて私にはどうも大きなへだたりがあるように思えました。そして、それが「私のお茶」を求める原点となったのです。» p. 27

煎茶の破壊

«日本のお茶の場合は、美しい形と色に仕上げようとするため、香りと味は、二の次になっています。» p. 10、くつろぎの茶、1982

小川八重子の茶の旅の出発点となったのは、最高品質の普遍的基準とされていた旨味の味であった。

«“おいしいお茶”というのは、甘くて、まろやかで、コク、うまみのあるもの」というお茶屋さんのいう基準が、一般的な常識になっています。

おいしいというのは、嗜好の問題ですから、人によって、場所によって、時代によって、変化して当然と思うのですが、物には、そのものの持ち味というものがあるはずですから、その点で、普遍的な基準というものがあってもいいのでは、という気もします。

お茶そのものの持ち味とは何だろう、ということから、茶店巡りを始めました。» 6、くつろぎの茶、1982

先に述べたように、「味覚的な味」は相対的なものであり、第一に個人の嗜好に左右される。これに対し、基本の味・生理的な味(爽やかな香気と後口)は、人間の生理に根ざしたものであり、数百年、数千年にわたり大多数の人々にとって比較的安定して存在し、茶文化の基盤を成してきた。おそらく小川八重子が普遍的な持ち味として見ていたのは、まさにこの領域であった。

小川八重子は当初、濃厚な旨味そのものを否定していたわけではない。しかし最終的には、現代の多くの玉露の味わいが人工的なものとなり、百年ほど前に存在していた本来の姿とは大きく異なってしまったことを認めるに至った。

«最初のうち、おいしいお茶イコール玉露と、私も思っていたものですから、とにかく玉露を追いかけました。

宇治(京都府)、八女(福岡県)、朝比奈(静岡県)、水沢(三重県)、朝宮(滋賀県)など、有名無名の玉露処を訪ねました。

茶摘みのシーズンを迎えて茶処を訪ねますと、畑は、すっぽりとよしずやわらを敷きつめたように見えました。山の斜面は、まるで畳を敷きつめたように見えました。もっとも、このごろでは、よしずやわらが少なくなったとかで、ナイロン製の黒い布をかけるところが多くなっているようです。» p. 6, くつろぎの茶、

«あちこちの玉露に挑戦しているうちに玉露の味は、どうも私の好みにぴったりしないと思うようになりました。私には、もう少し軽くてさっぱりした味の方が合うように思えたのです。これは、私の個人的な嗜好の問題だと片付けようとしたのですが、ここに、一つの大きな疑問がのこるのです。

文豪といわれる夏目漱石の『草枕』の一節に、玉露の味わいを表現したくだりがあります。“緑を含む琥珀色の玉液を、二、三滴ずつ、茶碗の底へしたたらす”

“舌頭へぽたりと載せて、清いものが四方へ散れば、咽喉へ下るべき液はほとんどない。ただ馥郁たるにおいが、食道から胃の中へしみ渡るのみである”

この文章を読むかぎり、漱石の口にした玉露が、今私どもの前にある玉露と同じものであったとは、どうしても思えないのです。

あのグリーンの玉露の色を、“緑を含む琥珀色”と表現できるのだろうか。“清いものが” “馥郁たるにおいが” という表現は、私どもの玉露からは、どうしても浮かんでこないように考えられるのです。

香りは、山間部で川霧のかかる茶畑の茶がよい、というので、そういう条件のところを目標にしました。

玉露は宇治、煎茶は静岡、といわれているので、まず静岡へ。富士川、安倍川、大井川、天竜川の流域で、名あるところのお茶を味わってみました。玉露の場合とちがって、それぞれの産地で、特徴のある香りがあります。

味のいいお茶から、香りのいいお茶へと、私の興味が移っていきます。“甘いお茶がおいしい”という、標準規格みたいなものができあがってしまっているからか、どこへ行っても、特別個性的な魅力を感じる味には出会いませんでした。香りに魅かれるようになって、味本位では物足りなくなったのかもしれません。

このあたりから、私は、お茶にのめりこんでしまうことになるのです。» p. 7

著者はいったい何に直面したのだろうか。彼女が「味のよい茶」と「香りのよい茶」と呼んだものの本質的な違いはどこにあったのか。彼女は、自らにとって茶に必要なのは「甘さよりもさわやかな香りがほしい」であると強調している。

さわやかな味わいと香りは本来不可分の一体であり、我々はそれを茶樹の健康性、自然性を示す最も重要な指標であると考える。

我々はこれを、施肥や被覆によって人為的に容易に操作されうる「味覚的な味」と区別し、「生理的な味」あるいは「基本の味」という概念として捉える。

著者は、「ほんものの茶」、”自然の茶”を探し求めるにあたり、自らの「喉で味わった感覚を大切にしてありのままの日本の茶の姿を報告したい」と強調している。p. 6-7

このことから、小川八重子は玉露において、人為的に強化された«味覚的な旨味»が、本来の自然な生理的味覚(および香り)を圧迫し、置き換えつつあることを見出したと推測できる。

自然な茶においては、味覚的な味は施肥・被覆茶ほど強烈ではなく、その多くが香りへと昇華されると考えられる。

しかし現代の多くの玉露では、味はもはや香りと調和しながら移行するものではなく、過剰に強化された味が香りを支配し、抑圧し、駆逐する傾向を示している。

玉露の味の強さについては、現代の茶業書にも記されている。たとえば袴田勝弘は『茶の力』(2003年)において、「慣れない方ですと、玉露の味の強さに驚かれるかも知れません。」と述べた。 p. 116、茶の力

明らかに漱石の時代の玉露は、今日よりも自然で煎茶に近く、その味は単に衝撃的なのではなく、より複雑で繊細であり、海藻様の覆い香へと微妙に移行する性質を持っていたと考えられる。

こうして小川八重子は、社会的固定観念を徐々に解体しながら、人工化した華やかな旨味中心の表層的価値観から、簡素で爽快な自然本来の味へと向かっていった。

言い換えれば、彼女は影から太陽へ、肥料依存から制限的あるいは無施肥へ、選抜品種やぶきたから在来種へ、高級性から日常性、陰から陽へと歩んだのである。以下は、彼女自身によるその歩みの記述である。

«市販のお茶に飽きたりなさを感じるようになってから、地方の産地を訪ね、土地の茶作りの人々から確かに話を聴いて、おいしいお茶、ほんとうによいお茶を求めて歩きました。

おいしいお茶といえば、先ず、玉露というわけで、初めは、玉露の産地から廻りました。だんだん脚を伸ばしていくうちに、露天で雨風にさらされて育つ煎茶の方が、私の好みに会うと思うようになりました。

玉露は、肥料を多量に施した茶園で栽培します。そして、茶の葉の成長する時期になると、木の上にむしろをかけ、太陽光線と外気を遮った中で芽を育てます。それに対して煎茶の場合は、露天で栽培しますので、風雨、霧、霜などにさらされて芽が育ちます。

玉露のような甘味はありませんが、さっぱりとした苦渋味があって、女性的な玉露に対し、男性的な風味があります。煎茶の香気には、各産地それぞれの自然条件による個性が玉露にまして出てくるので、私の興味が玉露から煎茶へと移っていきました。』小川八重子の常茶の世界、p. 145-146。

小川八重子は、宇治茶を「女性的」、九州の釜炒り茶を「男性的」と呼ぶことで、二つの弁証法的対立物の闘争を繊細に感じ取っていた。p. 89、小川八重子の常茶の世界

著者は、女性化された日本茶に伝統的な男性的原理を取り戻し、それによって茶文化の調和を回復するよう訴えた。

「今様のお茶は、お菓子に合う茶、甘い味、どちらかというと女性向きです。

九州の釜炒り茶は、お酒に合う茶、男向きの茶であると思う。

苦くて、ちょっと渋味があって、それでいて、しばらくすると、舌の奥で甘味を感じさせる。

“甘い男”ではいただけない。

“苦みばしったい男”“渋い好み”というのはほめ言葉。

『男の茶よ、消えないでおくれ』 p. 94、小川八重子の常茶の世界

そのような中、研究者の目の前で、煎茶を中心とした日本茶の「女性化」、「高級化」、あるいは言わば「玉露化」がまさに現在進行形で進んでいた。1982年発行の『太陽』誌の「煎茶」特集の中で、八重子は次のように綴っている。

1982年の雑誌『太陽』別冊『煎茶』の中で、八重子はこう記している。

«前茶のよさは、さわやかな香りにある。そして、玉露とはちがった、さっぱりした苦渋味を特徴としている。

その香味は、地形・土質・気候等や、さまざまな自然環境に左右されるので、産地によって、デリケートなちがいがあった。宇治茶・川根茶・狭山茶・八女茶と、それぞれに個性をもった茶であったが、昨今、改良品種(とくにやぶきた)が普及し、肥料・製造法が画一化され、産地による特色がうすれてしまったのは淋しいことである。

また、味さえよければそれがよい茶であるという風潮で、香りをあまり重要視しなくなり、煎茶でも、甘味をますように作られるので、玉露と区別がつかないものもできてきた。

酒には、甘口と辛口がある。お茶の場合、玉露を甘党の茶とすれば、煎茶は、さしずめ、辛党好みといえよう。それが、本来の前茶の持味であると、私は思っている。» p. 124, 煎茶

«最近は改良品種の普及をはじめとして、肥料も、製造方法もすっかり画一化されてしまい、その土地のもつ煎茶に個性がなくなってきているのは残念だ。ちょっと見ると玉露と見分けも難しくなっている。» стр. 123 煎茶

小川八重子はこう述べた: «煎茶は露天で伸びた葉で、玉露にくらべると多少固いので 蒸し時間を少し長くします。そのため緑がやや浅くなります。最近 はより上質のものをというので、成熟しきらないうちに早く芽を摘 んで作りますので、色や形は玉露と見わけがつかないようになりま した。  

茶畑に覆いをすると、直射日光にあたらないので、茶素といわれる タンニンが少なくなり、そのかわりアミノ酸がふえます。タンニン の苦渋味が減り、アミノ酸の甘味の多い茶ができるのです。覆の藁 のせいでそうなるのか玉露の香りには、生ぐさい海苔(のり)のような感じ の特徴があります。

煎茶の場合は風雨にさらされて育っているので自然の味と香りが 特徴ですが、玉露にくらべると甘味が少ないというので、最近茶摘 みの一週間くらい前から茶畑に、一時的に覆いをして玉露に似た味を つけるようになりました。「かぶせ」とか「わらかけ」とよびます。 熱湯玉露という商品名で以前売り出されたのはこれです。玉露の安 物が煎茶という考えがあるので、このような商品ができるのです。» p. 42-43 暮らしの茶

煎茶は玉露の廉価版であるという誤った認識が定着し、まさにそのような風潮が、こういう商品の誕生を可能にしたのである。かぶせ茶はその甘味によって、次第に人気を集めるようになっていった。

1975年の家庭画報誌には次のような記述がある。 «ひとくちにいえば、玉露のようにして 作られる高級茶で、玉露と煎茶の中間的な存在で す。お茶の芽の伸びる春先の一〜二週間にわたっ て茶園をワラやコモなどをかぶせ、直射日光を防 ぐことによって、玉露に近い味と香りが得られま す。最近はワラやコモの代わりに、化学繊維の寒 冷紗(かんれいしゃ)も多く使用されています。 かぶせ茶は数年前までは、熱湯玉露という名が 使われていましたが、この名は玉露とまぎらわし いということから、業界では使うのが禁止されま した。玉露と煎茶の中間とはいえ、かぶせ茶は一 般には単独では使用しません。高級煎茶や玉露の 味を引き立てるための材料として使われるのが普 通です。» p. 9

コスト削減を目的として、従来の藁の代わりに黒い防水シートが使用されるようになり、それを茶樹に直接かぶせる方式が普及した。同時に被覆期間も一週間から二週間以上へと延長された。これにより、かぶせ茶の味わいと水色はより濃厚になったが、その一方で代償も生じた。風によって揺れ動くシートが繊細な新芽を擦り、茶芽を傷つけることで、香味に変質をもたらしたのである。

玉露の場合、藁や菰、あるいは寒冷紗は高い棚掛け式の骨組みに張られ、天井部分に冷涼な空気が循環するための空間が確保されていた。それに対し、シートを直接茶樹にかぶせる方式では、茶樹にとって生命線ともいえる通気の隙間が存在しなかった。

その結果、被覆内部の温度は著しく上昇し、病害の発生や害虫の増加を招き、それに伴って農薬散布の必要性も高まった。こうした「生産上の代償」は、茶の香気や飲みやすさを損なうだけでなく、生産コストや最終価格の上昇にもつながっている。

さらに、茶樹品種の選抜育種も進められた。最大限の被覆効果、すなわち鮮やかな緑色と強いうま味を得るため、日本ではそれに適した品種が開発され続けてきた。その代表例が、やぶきたに次いで日本で二番目に普及している「ゆたかみどり」である。

この品種は、鮮やかな緑色、高収量、早生といった多くの利点を備えているが、その特性への過度な依存はさまざまな問題を引き起こす。

ゆたかみどりは、およそ一週間程度の被覆によって非常に印象的な鮮緑色を呈する。鹿児島の茶農家、松崎氏は、ゆたかみどりの特性について次のように述べている。

«ゆたかみどりは早めに作るようにしている。被せるかって? ゆたかみどりは被せないと色が出ないから必ず被せるよ。鹿児島ではほとんどそうじゃないかなあ。本当は三日から四日だよね。一番ゆたかみどりらしいのは、そのくらいで被せたのがいいと思うよ。いま、もっと長くなっているように思うなあ。六日くらい被せてるのが多いものね。

確かに香りが変わっちゃうよね。色目はすごくなるけど、味もまったりした感じが出て、ゆたかみどりの新茶らしいスッキリした味とは違ってきてるよね。この二〜三年で被せの期間が長くなってきているようには感じるな。見た目が良くなるからそうなっちゃうんだろうね。うちでは三日、長くて四日目にははずして一日置いてから摘むようにしている。

でも、大きい荷口を作ろうとすると色で合わせざるを得なくなるから、覆いが長くなっていく傾向は変わらないように思うよ。出荷する荷口を例えば30kg入りで50本(1500kg)とか100本(3000kg)とかに揃えるとなると、色で揃えるしかないじゃない。その方が茶市場や大手の業者は良いんだろうけどね。特徴あるお茶は無くなるよ。» p. 225 お茶は世界をかけめぐる、高宇政光、2006

ゆたかみどり以外にも、被覆栽培に適した品種が育成され、それらもまた「緑」を意味する「みどり」で名づけられた。代表的なものとして、「おくみどり」や「さえみどり」が挙げられる。

これらの品種による被覆茶は人気を高め、高級贈答品として百貨店で積極的に販売された。しかし、それを贈られた人々の多くは、正しい淹れ方もよく分からぬまま、新世代の高級茶を台所の戸棚に放置しがちであった。その一方で、「やなぎ」のような簡便で日常使いに適した茶は、茶舗の店頭から次第に姿を消していった。

そして、スーパーマーケットとの競争に耐えきれず、茶舗そのものもまた姿を消していった。

やがて「覆いの病」はかぶせ茶から、通常の無被覆煎茶にまで波及し始め、深刻な懸念を呼び起こすこととなった。

小西茂毅は、被覆と茶品質との相関関係を追究しようと試みた。著書『宇治茶の魅力を求める』(2005年)の中で、彼は次のように記している。

«昨今煎茶のジャンルのものでも一週間ほど、薄く被覆をした製品が良質煎茶の主流となっており、全く被覆しない煎茶を「純煎」と称して逆に今希少価値のある茶として人気がある。» p. 92

小西は本来の煎茶のよさについて述べる。

«被覆茶の良質さの科学的根拠が漸次明らかになるにつれ、その技術が実行され、広がるのは良いことであるが、一方、本来の煎茶の良さや、地域の特徴が消されてきているのは残念なことである。お茶はもとより嗜好品である。茶の種類それぞれの良さや、産地の風土を包み込んだ茶の良さがあるので、それを十分知って作られることが求められる。» p. 92

かぶせ茶の普及は深蒸し茶ブームと重なり、その結果、色沢と滋味の濃厚さを特徴としながらも、香気に乏しく、飲み飽きしやすい深蒸し被覆茶が登場した。

深蒸し茶やかぶせ茶に否定的であった小川八重子の夫・小川誠二は、著書『日本茶一一服どうぞ』(2001年)の中で、これらを煎茶の「新しい煎茶の仲間」と呼びつつ、その無制限な拡大が、煎茶本来の伝統的な「番茶性」を圧迫し、独立した茶種としての煎茶を危うく衰退させかけたことを暗示している。

製茶歩留まりを調べた高宇政光は、1960年代末頃までの煎茶は、今日よりも水分含有が少なく、繊維質に富み、すなわち、より大ぶりで「番茶的」なものであったはずと結論づけている。

«今よりずっと大きく硬い葉を摘んでいたはずです。(中略) つまり今の煎茶は、昔の煎茶よりずっと若く瑞々しい水分をたくさん含んだ生葉で作っているのです。六〇年代に急速に普及した当時の煎茶は今の煎茶よりずっと硬くて大きな葉で作られていたに違いありません。すると味も香りもだいぶちがっていたはずです。

やぶきたを筆頭にした茶樹の品種化は水分が多い生葉の供給に大きく貢献しましたし、より若いうちに茶摘みをする、ミル芽摘みを推奨することも製茶歩留まりの低下を一層促進しました。

当時の煎茶は今の煎茶より大型であっさりとした味のものだったのです。» p. 177-178 お茶は世界をかけめぐる、高宇政光、2006

1970年代頃から、煎茶は急速にその香り、飲みやすさ、そして価格の手頃さ、すなわち日常性を失い始めた。

ますます多くの日本人が煎茶から離れるようになり、1980年代にはその売上も減少し始めたが、高級茶の高価格がなお販売業者を辛うじて支えていた。

活路を見いだそうとしながら、小川八重子はさらに茶の道を歩み続けた。

常茶の一種のプライド

小川八重子は日本の南へ向かった。そこでは、一九七〇年代半ばの時点でも、九州で釜炒り茶がなお十分な量で作られていた。

小川八重子やその先行研究者たちの著作には、ときおり「釜炒り煎茶」という言葉が登場する。つまり、半世紀ほど前までは、釜炒り茶もなお葉茶、すなわち煎茶の一種として認識されていたのである。

しかし今日では、その連想はほとんど完全に失われてしまった。蒸し製で針状に揉まれた葉茶だけが「煎茶」という名称を独占し、言語のレベルにおいてさえ、釜炒りの「兄弟」を周縁へと追いやってしまったのである。

«九州の山深く、佐賀、熊本、宮崎の地に釜炒り茶とよぶまぼろしの茶が眠る。炎熱に耐え、人の手で何度も炒られ、いぶし銀のような茶が生まれる。さっぱりしてさしの利く本ものの“常茶”である。» p. 116、暮らしの茶

すでに述べたように、釜炒り製法は日常茶の生産に適した製法である。小川八重子は、釜炒り茶の中に、「常茶」の伝統的基盤を見ていた。

«京都生れの私は、お茶といえば、蒸して作ったものばかりでしたので、はじめて飲んだときの「釜炒り茶」の味には異様なものを感じました。しかし何度か飲んでいるうちに、玉露や煎茶にはない胸のすくような味に、ふしぎななつかしさを感じるようになりました。その田舎風の素朴な味に「茶の原点とはなにか」というようなことを考えさせられるようになり、その産地をたびたび訪れるようになったのです。» p. 125、暮らしの茶

熊本県の山都や馬見原、佐賀県の嬉野、宮崎県の高千穂など、伝統的な釜炒り茶の産地を訪ねながら、小川八重子は各地の釜炒り茶を飲み比べ、釜炒り茶に共通する特徴を見いだしていった。

«А、ちぢんだ丸まった形状。B、葉の色にやや褐色味があり表面が白っぽい。C、いれた茶の色が蒸し製の緑色にくらべてこがね色。D、味が濃く芳香がある。E、濃いがさっぱりした風味は胸につかえない。F、熱湯でいれる。それでも何煎も出る。G、変質しにくく他の茶にくらべ保存が容易である。などの点です。» p. 126、暮らしの茶

茶の形状に関して、小川八重子は「茶は形や色ではなく、味こそが肝心である」という原則に導かれている。煎茶という支配的な形式に抗おうとする試みは、研究者を反対側の極端へと押しやってしまう。しかし本来、茶のあらゆる要素は相互に結びついており、それぞれが重要な意味を持っている。

既成のドグマへの抵抗を通して真実を見いだそうとする試みには、過剰な力が潜んでいる。その力は一方では古いドグマを破壊するが、均衡点を通り過ぎ、さらに進んで新たな固定観念を生み出してしまう。

そのため、客観性を保つには、新たな理念は「反イデオロギー」として築かれるべきではなく、単なる否定ではなく再認識を通して調和の均衡点を探る、新たな試みとして形成されるべきである。

青柳の釜炒り茶の形状を、著者は「しぼった手ぬぐい」に喩えている。これは『茶経』の一節を想起させる。茶の評価に際し、その著者である陸羽は、特定の形状に品質を結びつけるべきではないと述べ、茶の形状がきわめて多様であることを指摘している。

「三之造」において、陸羽は次のように記している。

«茶に千万状あり。鹵莽(ろもう)にして言えば、

胡人の靴のごとき者は、蹙縮(しゅくしゅく)然たり。犎牛(ほうぎゅう)の臆(おく)のごとき者は、廉襜(れんせん)然たり。浮雲の山を出づるがごとき者は、輪囷(りんきん)然たり。軽飆(けいひょう)の水(みず)を払うがごとき者は、涵澹(かんたん)然たり。陶家のきの子の、膏土(こうど)を羅(ふる)い、水を以てこれを澄泚(ちょうし)するが如きあり。また新に地を治むる者の、暴雨流潦(りゅうろう)の経(す)ぐる所に遇(あ)うが如きあり。»

小川八重子は釜炒り茶に、「番茶性」あるいは「茶の日常性」とでも呼ぶべき性質が強く現れていることを見いだしている。すなわち、大ぶりの葉に特徴的な諸性質―熱湯への強さ、保存性、繰り返しの抽出への耐久性、清らかで爽やかな後味など―の総体である。

«釜炒り茶の茶葉は十分に成熟した葉がよい。玉露や上級煎茶のようなやわらかい葉を使うと何度も高温で炒ってゆくと葉が粉粉になってしまう。» 暮らしの茶

日本の日常茶を調査する過程で、小川八重子が繰り返し向き合ったのは、番茶と釜炒り茶だった。言い換えれば、それらは日常茶を特徴づける最も典型的な原料と製法である。番茶が釜炒り茶として作られている場合も多く、反対に、釜炒り茶の多くが成熟した「番茶」の葉を用いて製造されていた。

小川八重子は各地の番茶を飲み比べながら、その飲みやすさや、日々の暮らしに寄り添う「伴茶」としての性質に注目していた。彼女はまた、番茶が食事と非常によく調和することを繰り返し強調している。

伝統的な日常喫茶文化はすべて、「土産土法」という原則の上に成り立っていた。各地の番茶や釜炒り茶は、在来種、いわゆる自生の「山茶(やまちゃ)」を用いて作られていたのである。

地方番茶を飲み比べながら、小川八重子は、その飲みやすさや、暮らしに寄り添う茶としての性質に注目していた。彼女はまた、番茶が食事によく合うことを繰り返し強調している。

«今、”お茶にお菓子”と、お茶にはお菓子がつきものであるかのようになっているが、元来は、”食事にお茶”で、そのお茶がばん茶であったと思う。» p. 126、別冊太陽、煎茶

近年では、「一晩置いた緑茶は朝に飲んではならない」という考えが広く浸透している。しかし、それは傷みやすいアミノ酸やタンパク質を多く含む高級緑茶について言えることである。繊維質に富んだ番茶は、常温で一晩置いても十分に耐えうる。

«ばん茶は、だしたままほおっておいても、翌日になっても、色が濁らない。”お茶を濁す”ことにはならない。宵越しの茶は飲むなとのことわざがあるが、そのような気づかいは無用である。冷たいのも、かえってうまい。» p. 126、別冊太陽、煎茶

「ばん茶は、番茶ではない。安いお茶だけど、安もんのお茶とはちがいます」。ばん茶党は、そういって、一種のプライドをもっているようである。 p. 126、別冊太陽、煎茶

どうやら、我々が「日常性」としておすすめした茶の性質こそが、著者が描いていたばん茶の一種のプライドであるようだ。

私たちが「日常性」と呼んだ茶の特性こそが小川八重子が描いたばん茶の一種のプライドそのものであると思われる。

小川八重子は自らを「バンチャのおばさん」と呼んだ。常茶の特質を追い求めるなかで、彼女は番茶を理想化し、ときには絶対視する傾向すら見せていた。

しかし、茶は日常性だけで成り立つものではない。若い芽や葉に宿る繊細さも茶の本質の一部である。

釜炒り茶は必ずしも番茶ではない。春摘みの上級釜炒り茶も存在し、その独自の価値―すなわち繊細さや気品―を否定することはできない。

小川八重子と交流のあった農家たちの証言からは、彼女が「よい茶」をすべて番茶性/日常性の枠組みに押し込めようとし、極端な方向へ傾きかけていたことがうかがえる。

熊本県馬見原の茶農家・岩永さんとの対話のなかで、私はある逸話を聞いた。ある時、小川八重子は彼女の夫に対し、春の柔らかな新芽を使って、荒く炒った釜炒り番茶を作ってほしいと頼んだという。本来なら繊細な高級茶となるべきミルイ原料は、不適切な製法によって事実上台無しになった。結果として、小川八重子は焦げた釜炒り茶およそ四十キロを買い取ることもなく、研究の代償だけが岩永家に残されることになった。

暗中模索を重ねながら経験を体系化していくなかで、小川八重子は、人々の暮らしに大きな影響を及ぼす飲み物としての常茶を科学的に研究することの重要性を、次第に強く認識するようになっていった。

«“日常茶飯”は、これこそ何気なく使われている言葉です。毎日毎日の飯と茶は、とりたてて問題にすることでもない当たり前のこところから生まれた言葉でしょうが、考えてみると、茶と飯は、空気や水と同じように、格別の存在を意識しないけれども、常時身辺にあって私どもの生を支えているものであることの証左といえるかもしれません。

この頃、“お茶”というと、茶道の影響からなのか、いれ方がどうの、飲み方がどうのと、やたらと勿体ぶっているようです。そうして、普段に飲むお茶となると、番茶となって、どうでもいい茶、安もんの茶と、さげすまれた扱いをされるようです。

お茶の研究というと、茶道、茶の湯の研究ということがすぐ頭に浮かぶと思います。茶道の研究となると、各流派で、夫々勉学のためいろいろと研鑽が重ねられ、数々の労作が生まれています。けれども、これはその特別の世界の中に限られたことであって、一般の家庭なり職場なりで日常飲用されているお茶に関しては、殆んど触れられていません。

一方、茶業関係者の間では、栽培、製造について仲々の研究が行き届いています。うまさ加減の尺度をつくり、高級茶、下級茶の格付をしたり、効能などについてもいろいろと説明がなされています。

一方的なおしつけではないかと首をかしげることがありました。「これがおいしいのだ」と言われても、本当においしいと自らが感じるかどうか、どう体のためになるのか、実は飲む側の大切な問題です。本当に研究が必要なのは三百六十五日、春夏秋冬、毎日食事とともに飲んでいる普段のお茶についてではないでしょうか。» p. 145-146 小川八重子の常茶の世界

日常性の種、あるいは茶の価値空間

茶の専門家たちは、発酵度、産地、品種、摘採時期、摘採方法や製法、化学成分など、さまざまな分類法を提示している。

これらの分類はいずれも茶を学術的に研究するうえで重要なものであることは間違いない。しかしその一方で、それらは往々にして、まず何よりも「その茶が自分にとってどのような価値を持つのか」を理解しようとする一般消費者にとっては、必ずしも分かりやすいものではない。

小川八重子はそのことをよく理解していた。彼女は茶業界が過度の自己満足に陥り、消費者の切実な要求を軽視していると批判している。『暮らし茶』(1975年)の中で、彼女は次のように記している。

«先日、テレビの家庭番組がお茶をとりあげ、その中で出演の奥様方に玉露と煎茶の区別をテストしたところ、全員がわからなかったそうです。それを見たお茶屋さんが私のところへきて「まったく驚いてしまった」というのです。私は「それこそお茶屋さんの認識不足ですよ、それが実情です。わからないのが当然です」と答えました。話していながらお茶が宙に浮いてしまっているような感じをもちました。

区別がわからないと憤慨するお茶屋さんは、テストの点が悪いと生徒を叱る先生のようなもので、できが悪いのは生徒ではなくて、教え方がよくなかったとか、問題が不適当であったとか、時代おくれであるとかいうこともあるのです。こんなときこそ先生が考えなければならない。

玉露と煎茶の区別はいってみれば、茶の大きな世界からみれば些細なことです。一般の主婦にとって玉露と煎茶の微妙なちがいよりも、お茶が日常の暮しにどんな影響があるかということのほうが重要な意味をもっていると思います。お茶屋の店頭の見本ケースにずらっとならんでいますが、なにを基準に序列をつけているのか、そのわけ方もこのあたりで考えなおしてみたらどうでしょうか。

㈠製法別、㈡産地別、㈢用途別(嗜好、常飲、薬用)、㈣品種別、同時代別(過去、現在、未来の茶)等々と幾らもありましょう。

玉露、煎茶というのはこれらのなかの中のほんの一部にすぎません。衣食住のすべてが世界に交流を広げてきている現在、日本人だけしか飲まない茶の中にとじこもっていないで、広い見地から茶をながめ、積極的に暮しの中にとりいれるようにしたいものです。

このわけ方の一つ一つをとりあげても、それぞれ一冊の本ができます。ここではそのかんじんかなめだけを説明することにします。みんなの茶に対する考え方がはっきりして「こんな茶がほしい」の声が消費者の中で高まれば、茶業にたずさわっている人たちのほうでも研究して、その要望に合ったお茶を供給すべく努力するようになると思います。

お茶屋の側からみた「よいお茶」と消費者の側の「よいお茶」はひらきがあります。値段は高いがおいしくない。いれ方がむずかしい。封をあけるとすぐまずくなる。そんなお茶では消費者に嫌われることになりましょう。» p. 38-39、暮らしの茶

小川八重子は、多様な茶を人々の日常生活へ積極的に取り込むべきだと唱え、そのために必要な茶の特性をいくつか提示した。彼女が常茶の代表的性質として重視したのは、まず飲みやすさと手頃さである。

さらに、生理的なやさしさと親和性も重要視された。茶は刺激的すぎず、苦すぎず、重たすぎず、自然に喉を通り、飲み飽きることがない。食事との相性にも優れ、何杯続けて飲んでも負担にならず、寝る前でさえ口にできる。後味には軽い清涼感が残り、身体が自然に求める飲み物として感じられる。

健康面から見れば、常茶は免疫や代謝などを支える働きを持つ。また原料や製法の面では、より成熟した葉、在来種、露天栽培、過度な介入を避けた栽培、素朴で伝統的な加工法、さらには釜炒りによる殺青などが重視される。加えて、そのような茶は価格面でも可能な限り身近でなければならない。

こうした性質を総合して見るならば、そこにあるのは単なる個別的特徴の寄せ集めではない。それらはすべて、茶を押しつけがましくないもの、生活に自然に寄り添うものへと導いているのである。

小川八重子は、常茶に固有の特質を抽出することで、茶に関する知識体系化の基盤を築いた。いわば彼女は「茶の日常性」という概念の種子を蒔き、消費者の立場から茶の品質理解を根本的に拡張したのであった。

長らく日本茶の評価は、単純な垂直的論理によって支配されてきた。すなわち、「上にあるものほど優れている」という考え方である。一番茶、濃厚な旨味、複雑な香気、希少性、高価格といった要素が品質の頂点とされる一方、番茶や釜炒り茶、晩摘み茶、素朴な茶は、自動的に下位へ置かれてきた。それは本来異なる機能を持つ茶同士を、あたかも高級茶に対する未完成度の差として扱う見方であった。

このような体系は、一種の階段構造に似ている。市場競争には都合がよいが、同時に茶文化を貧しくもする。高級基準に適合しない茶は二流品と見なされ、徐々に周縁へ追いやられていく。階層化は必然的に多様性を制限するのである。

小川の重要性は、まさにこの鋳型のような垂直構造を解体した点にある。彼女は「優・劣」という単一の尺度ではなく、「味わうための茶」と「日常のための茶」という二つの評価軸を提示した。そこでは異なる飲用形態と異なる品質基準が承認され、常茶はもはや「下位段階」ではなく、独自の座標系を持つ存在となった。

しかしながら、小川八重子の思想は先進的であったにもかかわらず、その常茶運動は広く普及するには至らず、『暮らしの茶』刊行から半世紀を経た今日、ほとんど忘れ去られている。

その理由はいくつもあるが、大きな要因の一つは、小川が新時代の形式――やぶきた品種や蒸製法など――を退ける一方で、すでに日本からほぼ消滅していた、より正確には消し去られていた旧来の茶文化の形式に固執し続けたことにある。そのため彼女の活動は、変化した時代条件の中では実践性を欠いて見えた。外部からは、それは進歩への抵抗であり、高宇政光が語った「沈みゆく太陽を追う」ような営みとして映ったのである。

もちろん、釜炒り茶や在来種の復興には大きな意義がある。しかし現実的に見れば、近い将来それが全面的に復活する可能性は高くない。現在、在来種は日本の茶園面積全体の二〜三%を占めるにすぎず、伝統的な釜炒り茶も、その本来の故郷である九州ですらほとんど生産されなくなっている。

だからこそ必要なのは、現実を直視し、特定の形式や時代条件に依存しない、茶を日常生活へ近づけるための普遍的原理を構築することである。

私たちは、小川八重子が築いた基盤に立ちながら、さらに一歩先へ進もうと試みた。小川が個別の形式や特徴を列挙したのに対し、私たちが関心を向けるのは、それらの背後に潜む共通原理である。

飲みやすさ、やさしさ、素朴さ、非刺激性――これらは互いに無関係な特徴ではない。それらはすべて、「茶の日常性」と呼ぶべき、より高次の性質の現れである。すなわち、茶が日々の生活の織物の中へ自然に織り込まれていく能力である。

茶の日常性とは、品質の反対概念ではなく、品質の一つの形態である。この概念を用いることで、抽象的な「高品質」「低品質」という見方ではなく、消費者の視点から茶を捉え、その日常度を論じることが可能になる。日常度は、消費者の需要に応じて、生産者が意識的に設計しうる重要な茶の特質なのである。

日常性という価値概念は、茶の品質観そのものを変化させる。それは、晩摘み葉が必ず早摘み葉より劣るとする、従来の直線的階層を否定する。

茶葉は成長するにつれて品質が低下するのではなく、その性質が変化するのである。すなわち、意識を要し、特別な場面に向く「非日常性の品質」から、持続的で、目立たず、日常飲用に適した「日常性の品質」へと移行していく。それは退化ではなく、機能の転換である。

この理解に立てば、茶文化は固定化された価値のピラミッドでも、厳密に区分された形式の集合でもなく、洗練性と日常性という両極のあいだに広がる無限の連続体として捉えられる。あらゆる茶は、「上か下か」ではなく、それぞれ固有の機能と、その時点の品質スペクトルにおける絶対的な価値によって位置づけられる。品質はもはや静止した階段ではなく、循環し続けるエスカレーターとなる。

栽培、摘採時期、加工工程を通じて日常度を調整することで、時々味わうお茶から、穏やかで日々の暮らしに寄り添う茶まで、多様なプロファイルを意図的に作り出すことができる。

品質を固定された「等級」ではなく、機能的適合性として理解することによって、茶文化は本来の多様性と動態性を自然に取り戻していく。

唯一の頂点が消えれば、「麓」もまた消える。番茶、釜炒り茶、晩摘み茶、地域品種、素朴な日常茶は、もはや妥協的な「不完全な茶」ではなく、茶という存在の対等なあり方として認識される。

そして常茶は、ついに独立した価値として消費者の前に現れる。等級の階段は崩れ去り、その瓦礫の下から、無限に広がる茶の価値空間が立ち上がってくるのである。

茶の価値世界

常茶という日常茶の思想は、単なる新たな茶観ではなく、茶文化を複雑な価値体系として再考するための重要な一歩である。

小川八重子が見出した日常茶の特質は、さらに一般化を進め、「茶の日常性」という概念へと到達する契機を与えた。

この新たな視座において、茶文化はもはや固定化された単極的ヒエラルキーではなく、相互に競合し作用し合う価値の動的体系として現れる。

1982年、小川八重子と同時代を生きた大石貞男は、茶の再考の必要性を強調している。

«要するに茶は単に嗜好性飲料としてなら数千年の人類との生存の共有をしているはずはないのである。茶の薬理的効果、嗜好性飲料、あるいは日常茶飯事としての食文化との関係などの総合的効果のある飲料ではなかろうか。茶はまさに新しい見直しの時代に入っているといってよいと思われる。(昭57・1) » p. 477、5

大石も小川も茶業界に身を置いていたが、実際には互いに対極的な立場を体現していた。

両者の姓は偶然にも象徴性を帯びている。大石――「大きな石」――は茶業のメインストリームを代表する存在である。彼は、人間は自然の産物、とりわけ茶の品質を大きく改良できるという揺るぎないドグマに基づく近代化の支持者であった。

また、「大きな石」を支えていたもう一つの固定観念は、茶葉は成長するほど品質が低下するという考えであった。

これに対して「大きな石」大石に対峙するのが、小川――「小さな川」――である。彼女は茶の伝統を重視し、茶の品質を茶に内在する固定的属性としてではなく、日常生活のさまざまな場面において茶と人間のあいだに成立する動的関係として捉えた。

多くの人にとって、小川八重子は伝統的な日本茶の数多くの普及者の一人にすぎなかった。しかし私たちの見るところ、彼女はそれ以上のことを成し遂げた。すなわち、茶に関する知識の体系化に寄与し、本質的には茶の類型化を試みたのである。

知識を科学的に体系化する方法には、大きく分けて二つの方法が存在する。分類と類型化である。これらは、複雑な体系を単純化することで秩序づけ、その構造的連関や普遍的法則性を明らかにする強力な方法論である。

分類は量的特徴に基づき、測定可能な特性によって対象を整理する。たとえば茶は、緑茶・紅茶、発酵茶・不発酵茶などに分類される。

こうした茶分類は学習者にとって有用であるが、一般消費者にとっては理解しにくいことが多い。多くの専門用語のなかから、各種茶の実際的価値を見出そうとしても、それは容易ではない。

問題をさらに複雑にしているのは、同じ対象のなかに異なる価値を見る人々が存在することである。たとえば、ある人にとって同じ茶が健康飲料として価値を持ち、別の人にとっては儀礼やステータス誇示の価値を持つ場合がある。

ここで重要となるのが類型論である。類型論は単なる性質ではなく、具体的価値を扱う。分類が「性質の世界」であるならば、類型論は「価値の世界」である。

類型論は質的特徴に基づき、主体にとって本質的な特徴――すなわち価値――を反映した理想モデルとしての「類型」を抽出する。

小川八重子は、消費者の視点から見た茶の根本的価値に注目し、それを番茶や釜炒り茶などのなかに見出し、それらを総合して「常茶」という「理念型」にまとめ上げた。彼女は、この「褐色の茶」である常茶に対し、新時代の高級な「緑色の茶」という別の類型を対置した。

小川八重子本人はむしろ直感的に行動しており、「類型論」に言及することもなく、常に一貫して類型化を進めていたわけではない。それでも文化論的観点から見れば、常茶はドイツの社会学者・哲学者マックス・ヴェーバー(1864–1920)が提唱した「理念型」に相当する。

ヴェーバーは、理念型は現実に純粋な形で存在するものではなく、社会歴史的分析のための方法概念であると強調した。それは極限概念であり、現実社会を比較・分析し、その本質的法則を明らかにするための尺度として用いられる。

ヴェーバーは単に異なる価値を比較したのではない。ある価値選択が、人間・社会・経済の全構造をいかに規定するかを研究したのである。

彼は、世界が互いに競合する複数の対等な価値体系によって成り立っていることを理解していた。彼はこれを「神々の多神教」あるいは「神々の闘争」と呼んだ。

彼の立場からすれば、「英雄行為の価値」が「休憩の価値」より優れていると科学的に証明することは不可能である。同様に、玉露を味わう価値が、番茶によって渇きを癒す価値より高いと証明することもできない。

このためヴェーバーは、科学に対して「善悪」の価値判断から自由であることを要求した。彼は価値を裁くのではなく、比較したのである。そして現実を評価する尺度として理念型を用いた。

私たちも茶を研究する際、ヴェーバーと同様の方法を採る。すなわち、「日常性」を「日常茶」という理念型の属性として抽出し、各種の茶をその日常性の程度によって比較する。

ここでは「価値判断からの自由」という原則が維持される。私たちは評価するのではなく、比較するだけである。なぜなら、茶に「良い種類」や「悪い種類」は存在せず、それぞれ異なる目的に応じて存在しているからである。

もちろん、具体的な茶の品質が、栽培・加工・保存の欠陥によって「技術的に欠陥」であることはあり得る。酸化し劣化した番茶を批判する場合、問題なのはその酸化や劣化であって、「番茶性」(種別的特徴)ではない。同様に、過剰な肥料や農薬の使用も、洗練茶そのものに内在する「種別的欠陥」ではない。

小川八重子の方法論的非一貫性は、ヴェーバーが求めた「価値判断からの自由」をしばしば逸脱した点に現れている。彼女は「常茶」という理念型――「褐色の茶」――を日常茶のモデルとして創出しながら、しばしばそれを比較の道具ではなく、「緑色の茶」というエリート茶を道徳的に批判する道具へと変えてしまった。

緑色の茶

他所行きの茶

嗜好品 商品として作った茶

高くて不美味い

近年のもの

未熟の葉から

化学肥料・農薬をふんだんに使う

啜る茶

茶色の茶

普段着の茶

常食の茶(日常茶飯)

飲用のために作った茶

安くておいしい

何百年も前から親しんだもの

十分熟した葉で

肥料農薬ほとんど使わない

ガブガブ飲む茶

p. 70–71 小川八重子の常茶の世界

小川八重子は、古いドグマと闘う過程で、新たなドグマを生み出す極端さへと傾いていった。

ドイツの哲学者ハインリヒ・リッケルト(1863–1936)は、価値と評価の混同こそが哲学における最も一般的かつ重大な偏見の一つであると指摘している。

リッケルトによれば、「価値の問題とは価値の『妥当性』(Geltung)の問題であり、それは決して評価行為の存在の問題と同一ではない」。

リッケルトの価値論は、茶文化を、多様な茶に表現され承認された価値の世界として理解する手がかりを与えてくれる。ここで茶は、多様な価値を内包し、多面的研究の対象となる文化財として捉えられる。

リッケルトによれば、文化とは、固定的な価値規範を持たない、時代とともに変化し続ける未完結の「開かれた体系」である。

リッケルトは、従来とは本質的に異なる文化概念を提示し、それは後に古典的定義となった。彼によれば、文化とは、普遍的価値と結びつき、その価値ゆえに育まれる対象の総体である。

さらに彼は、「文化」の本質を「自然」との対比によって説明している。

「『自然』と『文化』という言葉は決して単義的ではない……自然とは、自ずから生じ、自ら成長し、そのままに委ねられたものの総体である。

これに対する意味での自然の反対物が文化である。文化とは、人間が価値づけた目的に従って直接作り出したもの、あるいは以前から存在していたとしても、それに結びつく価値ゆえに意識的に育まれたものである。」

リッケルトによれば、社会科学における認識方法とは「価値関連」の方法であり、自然科学のように価値文脈を排除して客観的関係のみを扱う方法とは異なる。

私たちの見るところ、茶学は自然科学と人文社会科学の接点に形成される学問であり、茶の客観的性質と、人間の主観的欲求との相互作用を研究する。まさにこの相互作用こそが、私たちが茶文化と呼ぶ複雑で動的な価値体系を形成している。

これらの価値は、欲求の重要度によって構成される階層を形成する。したがって茶文化は、単なる等価的性質の集合ではなく、時代ごとに変化する、より重要な価値とそうでない価値から成る構造化された体系として現れる。

人間の基本的な生理的・心理的欲求を基盤とする伝統的茶価値のヒエラルキーは、本来的に日常性へと傾斜している。しかし今日それは、一般に流布した「品質評価のヒエラルキー」と鋭い弁証法的矛盾を生じている。

世代間の断絶と広告の影響のもと、多くの消費者は、伝統的な葉茶を、簡便な日常飲料としてではなく、専門知識や追加的出費を必要とする高度な嗜好品として見なしている。

さらに、茶産業が高級茶による利益追求へ傾斜した結果、高 良質の日常型葉茶の生産は著しく縮小した。

もちろん、「茶の日常性」だけが茶の唯一絶対の価値ではない。しかしそれは、洗練性と並んで、茶文化の存続と持続的発展そのものを可能にする根源的価値である。

日常茶の品質を本来の位置へ回復することは、「見かけ上の価値」と「実際的価値」とのあいだに生じたアンバランスを是正する助けとなるだろう。

中国茶の日常性――唐から明へ

中国茶の歴史は、茶が「洗練性」と「日常性」という二つの基本的な存在様式のなかで発展してきたことを示す、きわめて分かりやすい例である。それは日本を含むあらゆる茶文化にとって重要な教訓でもある。

唐代になると、茶は天下に広まり、文字通り家々へ浸透していった。ここに至って、中国の国民茶文化がようやく形成されたのである。八世紀後半、それまで蓄積されてきた茶の知識は、陸羽によって『茶経』として体系化された。そして品質の基準として据えられたのが、高級餅茶(餅状の緊圧茶)であった。

陸羽は、茶葉の採取、蒸熱、臼での搗砕、型への成形、乾燥、粉砕、煮沸に至るまで、あらゆる製茶工程を詳細に記述している。

品質のベクトルは若い芽へと向けられ、その理想像として野生茶が位置づけられた。これは、人為的手段によって茶を改良しようとする試みに対して、厳しい制約を課すものであった。おそらく、この制約こそが、中国人を人工的な覆下栽培や施肥へ向かわせなかった一因であろう。

陸羽は、みずから高級茶として位置づけた餅茶の製造と喫茶の各段階に、専門家としての徹底した注意を払った。『茶経』には二十四種もの茶器が記載されている。

しかし、このように精緻かつ豪奢な喫茶は、明らかに高い社会的地位を持つ者にのみ許されたものであった。庶民が橙皮や生姜などを加えて飲んでいた日常茶に対し、陸羽は軽蔑的であり、そのような茶は「溝渠(みぞかわ)の間の棄て水」に流すにしか値しないとまで述べている。

とはいえ、陸羽が民間の喫茶法に本心から嫌悪を抱いていたとは限らない。彼自身、孤児として庶民の出自を持ち、僧侶たちによって育てられた人物であった。確かなのは、彼が品質階層の直線的な論理に従って行動せざるを得なかったということであろう。餅茶の高級化は、庶民の茶を価値の低いものとして位置づけることによってのみ可能だったのである。

今日の海外の茶商たちもまた、秋摘みの無遮光抹茶を貶め、それをfake matcha(偽物の抹茶)と呼ぶことで、「セレモニアル抹茶」を売ろうとしている。「良い茶」を売るためには、「悪い茶」という敵のイメージを作り出さねばならない。この論理は、「茶葉は成長するにつれて品質が低下し、“番茶”という“悪い茶”になる」という命題にも通じている。

『茶経』は、茶そのものと同じく二面性を持つ書物である。一方では茶知識を整理・体系化した科学的著作であり、他方では高級餅茶を宣伝するためのマーケティング的パンフレットでもあった。陸羽は、その巻物を茶室の壁に掛けることすら推奨していた。

続く宋代は、中国茶文化の絶頂期として知られる。「(茶は唐に興り、宋に盛んなり」とも言われる。この繁栄を、点茶による洗練された抹茶文化と結びつける見方は多い。しかし、その背後には強固な茶の日常性という基盤が存在していたことを忘れてはならない。民衆にとって茶は、米や塩と並ぶ日常不可欠の飲み物であった。

宋代には、高級茶と日常茶の明確な二極化が最終的に完成した。『宋史』「食貨志」には、「茶に二種あり。日く片茶。日く散茶。」と記されている。

片茶は蒸して型に入れ圧製した固形茶のことを総称していう言葉である。

高橋忠彦は、現存史料を参照しながら、この二種の茶に対する記述が著しく偏っており、高級な片茶に過剰な関心が集中していたことを指摘している。

«宋代、特に北宋期には、多くの茶書が著されているが、現存するもののほとんどが、北苑茶を対象とした、限定的な内容となっており、ある意味で極めて偏っている。(中略)

つまり、宋代の茶文化の他の部分、葉茶の飲用方法や、煎茶法の詳細については、断片的な記事しか残されておらず、全容を解明するのは困難であるということである。» p. 58、東洋の茶、茶道学体系、第七巻、高橋忠彦

現存する史料を検討した結果、石田雅彦は次のような結論に至っている。

«このように、「新唐書』といい「唐國史補』といい「茶譜』といい、今扱われた内容を鑑みるに、その視点は全て高級茶である團茶についての考察ばかりが中心で、散茶についてはほとんど記述がない。これは「茶経』に限らず、唐代から宋代に書かれた茶書に特にその感がつよい。» p. 51、「茶の湯』前史の研究、石田雅彦、2003

千年以上前に葉茶へ関心が向けられなかった状況は、今日の茶学が、ほとんど専ら高級茶のみを対象とし、番茶に代表される素朴な日常茶に十分な注意を払っていない現状と、きわめてよく似ている。

唐・宋時代において社会の関心は高級な団茶に集中していた一方で、葉茶(散茶)の内部では、まだ高級茶と日常茶との明確な分化は生じておらず、その全体がむしろ食事のための茶として捉えられていたようである。

石田雅彦は、さらに追究を続ける。

«では散茶はどこにいったのか。»

片茶は、歳貢の支払いおよび国家の需要のために用いられた。散茶(さんちゃ)は、歳貢や国家の需要に充てられたほか、「食茶」としても飲用されていた。

«通考巻十八征権考に、

[片茶]は以て歳責及び、邦國の用に充つ。[散茶は]以て歳貢及び、邦國の用に[も]及び、本路の食茶に充つ右「通考巻十八征権考」によれば、片茶は主として「以て歳貢及び邦國の用に充」(第三章参照)てられ、散茶は「本路の為の食茶に充」てられている。この食茶とは、「長編』巻一〇〇(茶法一11)に、凡そ民の茶を繋ぐ者は、皆な其を官より働う。其の以て旧用に給する者は、にを食茶と調う。]と記されている。

「日用に給する者は、之を食茶と謂う。」庶民が日常的に飲む茶これが「食茶」なのである。すなわち、一般大栗が普通日常に飲用する茶は全て「散茶」がその役を負った。こうした生活と密着している散茶をみるならば、「散茶」には團茶に比しても遜色のない大きな存在価値を認めることができるのである。にもかかわらず、茶に注がれる歴史家たちの視点は、殆どが團茶(固形茶)に向けられた。

石田雅彦は、私たちが「茶の日常性」(茶が人々の日常生活の中に溶け込みうる性質)という言葉で表現する、常茶の特別な価値への理解に到達している。

«園茶と散茶、茶が二つの種類に分かれたことは、茶という飲み物が「生活の中で食茶という日常の飲料として必需品」でありながら、形を変えることによって「高度な茶の文化」へと成長していく重要な分かれ道になった。これは、現在の日本国内でも見られるように、日常に飲茶がされながら抹茶を媒介とする「茶道」という伝統文化が存在するに酷似している。同じ茶の木から取れながら、「團茶と散茶」という二つの茶はそれぞれにその価値観を大きく別にしていくのである。» p. 51、「茶の湯』前史の研究、石田雅彦、2003

石田雅彦は、茶が存在する二つの異なる次元を繊細に見抜きながらも、一方を他方に従属させるような階層構造を作ろうとはしていない。

高級茶と日常茶の並行的な共存のなかには、これら二つの対極のあいだに潜在的な緊張関係が内包されている。

歴史的経験が示しているのは、高級化が茶の品質向上に寄与しうるのは、それが常性との調和を保っているあいだに限られるということである。人工的手法によって洗練性が過度に強められていくにつれ、洗練性は次第に日常性と衝突し、その結果として品質の低下を招く。

宋代には、陸羽によって推奨された餅茶がさらに高級化し、団茶へと変貌した。

品質向上を追い求めるあまり、宋代の茶人たちはしばしば行き過ぎた方向へ進み、過剰な付加価値を茶に与え、茶本来の自然な香味を損なう結果を招いた。 中国の研究者・李開周は著書『宋茶』のなかで次のように述べている。

蝋茶(ろうちゃ)は実際には片茶(へんちゃ)でもあるが、この種の片茶は原料の選定がより精緻であり、生産工程も多く、しばしば竜脳や麝香(じゃこう)などの名貴な香料が混ぜ合わされる。これにより茶磚(ちゃたん)の表面に薄い油のような光沢が形成され、まるで蝋を塗ったかのように見えることから「蝋茶」と名付けられ、誤って「腊茶」とも称される。

高価な香料を使用するため、蝋茶の製造コストは、同じ原料から作られる通常の団茶よりもはるかに高かった。しかし、茶に深い見識を持っていた宋代の士大夫たちは、この「蝋茶」を好まなかった。

«蝋茶は実のところ片茶の一種である。しかし、この片茶は選別がより厳しく、製造工程も多く、しばしば竜脳や麝香などの高価な香料まで加えられた。その結果、茶餅の表面には薄い油光が生じ、まるで蝋を塗ったかのように見えることから、「蝋茶」と名づけられ、また「腊茶」とも書かれた。

高価な香料を使用するため、同じ等級の毛茶を用いて製茶した場合、蝋茶は通常の片茶よりも当然ながらコストが高くなる。しかし、茶を深く理解していた宋代の士大夫たちは、蝋茶を好まなかった。

蘇東坡は、自らの詩の中で、過剰な「付加価値化」に反対する姿勢を示している。

「要知玉雪心腸好,不是膏油首面新。戯作小詩君一笑,従来佳茗似佳人。」

この詩の意味するところは、真に優れた茶とは真の美女のようなものであり、生まれながらに麗質を備え、内外が一致しているべきであって、脂粉を塗って見かけの美しさを作り上げる必要はない、ということである。

茶の香りが人並み外れている場合、それは本来、香料の香りでは代替できないものである。ところが、貢茶を作る工匠たちは、香りが足りないことを恐れて、さらに竜脳などの香料を混ぜ込んだ。このやり方はまさに「画蛇添足」、巧妙さを弄した末に本質を損なう行為であった。

高橋忠彦は次のように述べる。

元来、点茶法は、御茶園たる北苑を頂点とする、建州の固形茶(団茶)を品飲するための手段であったらしい。(中略)

宋の北苑の管理者たち、例えば丁謂(九六二~一〇三三)や蔡襄(一〇一二~六七)は、異常な情熱をもって、茶の高級化を図り、龍鳳団茶から始まって、白茶、龍園勝雪といった極品を作り出していった。

その製法は、趙汝礪の『北苑別録』に詳細が記されているが、①茶の葉を摘み、②蒸し、③締め木にかけて汁気を搾り取り、④水を加えながら長時間すり、⑤型に入れて固め、⑥やはり長時間かけて火気で乾燥させるというものである。『茶経』の製茶法の延長線上にあるとはいえ、それに比べると、異様に手の込んだもので、一種の工業製品の観を呈していた。» p. 55、東洋の茶、茶道学体系、第七巻、高橋忠彦

宮廷では、「甘く滑らか」(茶味主於甘滑)な茶の味わいが理想とみなされていたが、一方で宋代の貴族たちは渋みや苦みを低品質の現れと捉えていた。点てられた粉末茶の純白の泡が、最高品質の象徴と認められていた。色彩のコントラストを際立たせるために、抹茶はそれ自体が芸術的傑作であった黒い天目茶碗で点てられた。

渋みを最小限に抑えるために、高級な団茶は若い芽から作られていた。これは唐代に既に始まっていた傾向を引き継ぐものであった。

石田雅彦が指摘するように、「芽は固形茶へ、葉は葉茶へ」のである。p. 48

注目すべきは、そうであった理由が、単により大きな葉の方が安価であったからというだけでなく、それらが本来、機能的な適性を備えていたからであるという点だ。すなわち、より飲みやすく、日常の茶としての機能をより良く果たしていたのである。

高橋忠彦は次のように続けている。

用いる原料も、貢品の場合は、茶の葉というよりは、芽だけ用いたり、さらには芽を水中でほぐし、中の芯だけ用いたり(これを水芽と呼ぶ)、極度の贅沢が行われた。p. 55-57、東洋の茶、茶道学体系、第七巻、高橋忠彦

«茶摘み人たちは、日の出前に銅鑼の音とともに出勤し、専用のピンセットで極小の芽を摘み取っては、わずかな酸化をも防ぐために、通常の籠ではなく水を入れた容器に入れていた。

味わいをまろやかにし、雪のように白い泡を得るためのもう一つの重要な方法は、いわゆる「白茶」と呼ばれる特別なアルビノ品種を使用することであった。

近年、中国では宋代の点茶が人気を集めているが、それを実践している人々でさえ、白牡丹や銀針のような、微発酵の白茶を粉末にしたものが使われていると時に誤解している。しかし実際には、それは蒸し製の緑茶であった。

『大観茶論』において、徽宗皇帝は特別な白茶、すなわち葉が白色をした、希少なクロロフィル欠乏の突然変異品種について記している:

«白茶は、それそのものが一種の種類をなすもので、普通の茶とは異なる。枝は四方に張って広がり、葉はつやつやとして薄い。この茶は崖林の間に偶然に生え出るものであり、人為的に作り出そうとしても出来るものではない。正治でこの種があるのは四、五家の茶園にすぎず、それも芽が出るのは一、二の株にすぎないので、製造できるのは二、三鍵に止まる。

素も多くないうえに、ことに蒸し方、盤り方が難しく、湯や火の加減をちょっとでも間違うと、もう変質してしまって普通の品になる。だから製造は精徴に、過度は適切でなければならない。そうすると、表裏ともに昭くばかりに澈らかで、荒玉の中に置かれた玉のごとく、他に比ぶべきものがない。浅培にもこの種があるが、しかし品格は及ばない。» p. 206、中国の茶書

このような代謝(光合成)に異常のある品種は、アミノ酸を豊富に含む一方で、クロロフィルやカテキンが少なく、生命力が弱いため、極めて稀にしか見られないということは重要である。この「珍品」は、自然界の一般的な規則における、むしろあまり健全ではない例外である。

1972年、浙江省安吉県の天荒坪において、宋代の白茶の現代におけるアナログ(対応物)である、異常に明るい、白っぽい春の芽を持つ野生の茶の木が発見された。

その後、同地域でさらにもう一本が発見された。元の原木のうち一本は時の経過とともに枯死した(文献には、母樹1号が1980年代に生存能力を失ったと記されている)。二本目は保護され、まさにそこから栄養繁殖(挿し木)が始められたことが、現在の産業的な個体群をもたらした。

このアルビノ品種は挿し木で増殖されるようになり、1990年代にその産業的生産が始まった。なお、安吉白茶は全体として、その古代の先駆者と同様に、緑茶の技術(製法)によって生産されている。

実験として、我々は少量のリーフの安吉白茶を石臼で挽き、宋代の儀礼の規則に従って熱湯を7回加えながら、天目茶碗の中で竹製の茶筅で泡立てた。実験は成功した。遮光がないにもかかわらず、泡は雪白色になり、茶の味わいは柔らかく、渋みはほぼ完全に存在しなかった。

高級茶として位置付けられた安吉の白茶は、大きな商業的成功を収めた。中国の研究者である程啓坤は感嘆して次のように書いている:

«茶葉農家もまた、これによって利益を享受した。これはまさに中国全土の茶産業発展に対する安古の巨大な貢献であるといえるだろう。習近平氏は浙江に赴任していた際に安吉を視察し、安吉白茶を「一片の葉が一地方の百姓を豊かにした」と賛美した。まさにそのとおりである。» p. 57、徽宗『大観茶論』の研究、2017

今日、このような白化(アルビノ)品種(白葉茶)は日本でも発見され、栽培されている。正直に言うと、これらは安吉白茶と同様に「好みの分かれる」お茶のカテゴリーに属する。なぜなら、その味わいは旨味で過剰になっており、多くの人々が日本の緑茶にむしろ求めている渋みが欠けているためである。

程啓坤は、自身の論文「『大観茶論』における『白茶』と『点茶』の理解」の中でアミノ酸の効能を大いに称賛している。しかし、茶カテキンの抗酸化作用、抗ウイルス作用、その他の特性に関する数多くの研究を背景にすると、その重要性は非常に限定的なものに見える。

白葉茶に関するより客観的な分析は、それが「最高の茶」であったわけではなく、むしろ高級茶セグメントにおける希少な品種であったという結論へと導く。

宋代において白茶が高級と認められたのは、美しく味わい深い高級茶に対する支配階級の認識に合致していたからである。

対照的に、唐代であれば、この同じ茶は味の不均衡という理由だけでなく、間違いなく「不自然な茶」と見なされていたであろう。

というのも、苦味を取り除く目的で、宋代の茶の加工工程には、専用の締め木で茶汁を何度も搾り取り、茶芽をすり潰してペースト状にする工程が追加されていたからである。李開周は次のように述べている。

«蒸し青を経た後の茶葉を繰り返し漂白・洗浄し、繰り返し圧搾して、苦い汁をできる限り多く搾り出さなければならない。その後、搾り終えた茶葉を搗いて茶泥にしてから、ようやく型に入れて成型し、焙籠に入れて焙煎することができるのである。» p. 18

李開周はメリットとデメリットを天秤にかけている:

«我々現代人の視点から見れば、研膏にはメリットもデメリットもある。苦渋みの成分を除去し、すっきりと甘い口当たりを際立たせ、臼で搗(つ)く、揉む、叩くといった工程を経て少量の茶油を放出させることで、茶磚(ちゃたん)の表面をきらきらと輝かせ、完成した茶の見栄えを良くする。これが研膏のメリットである。しかし、圧搾、研磨、そして繰り返しの漂白・洗浄の際に、茶葉に含まれる人体に有益な栄養成分が必然的に半分以上失われてしまう。これが研膏のデメリットである。唐代の人々や現代人が茶を作る際に研膏をしないのは、主に栄養成分の流失を恐れるからである。

陸羽はかつて『茶経』の中で、唐代の人の茶作りにおける忌避について次のように言及している。

「蒸せる芽、笋(じゅん)並びに葉を散らすは、其の膏(こう)の流るるを畏るればなり」

蒸青の際には、特製の叉杆(さかん)を用いて、頂芽(ちょうが)や柔らかい葉をタイミングよく裏返し、茶汁が鍋の中に流れ落ちないようにしなければならない。考えてもみれば、蒸青の段階でさえ茶汁が流れ出るのを避けようとするのであるから、ましてや研膏においてはなおさらである。

唐代の人は茶の栄養流失を恐れて研膏をあえてせず、宋代の人は茶湯が苦くなるのを恐れて繰り返し研膏をした。両者の取捨選択は、それぞれ一長一短である。» p. 69

現代の煎茶、特に深蒸し煎茶の製造工程を思い起こせば、撹拌翼で茶葉を叩く円筒型の蒸機や、粗揉、揉捻、中揉、精揉の各機は、宋代の茶の圧搾機の役割を部分的に果たしており、茶汁の一部を絞り出すことで茶の味をまろやかにしている。それが良いことなのか、悪いことなのか。それは好みの問題であり……、栄養の問題でもあり……、緑茶の永遠のジレンマである。

李開周は中立的な立場をとろうと努めているが、最終的には宋代の茶人の知恵へと傾いている。

«この人々が線引きをして陸羽を見くびることができたのは、彼らが陸羽より賢かったからではなく、幸運にも宋代に生まれたからである。宋朝の国力は必ずしも唐朝より強盛であったとは限らないが、宋茶は間違いなく唐茶よりはるかにこだわりがあり、現代の茶と比べてもはるかに洗練されていた。

唐代の人々が飲んでいたのは「煎じ茶」である。茶葉を焙燥して乾燥させ、すり潰し、篩にかけて粉末にし、鍋に投入してぐつぐつと沸騰させ、その鍋の茶湯を飲む。この鍋の茶湯は非常に香りが高いが、同時に非常に苦く、まるで薬湯のようであった。苦味を減らすため、あるいは苦味を抑え込むために、唐代の人々は茶湯に塩、生姜、花椒、胡椒、胡桃の実などを入れたが、その結果、薬湯は今度はスープのようになってしまった。» p. 3

李開周は陸羽の説に反論した宋代の著者たちを引用している:

«宋の神宗期の進士である黄儒は、次のように述べている。もし陸羽が生き返り、我が朝(宋代)が最近打ち出した高級な茶餅を味わって、その柔らかく芳醇な茶の香りを体験したならば、彼はきっとすっきりとわだかまりが解けたようになり、自分が数百年早く生まれてしまったことを後悔するであろう。(黄儒『品茶要録』)

南宋の評論家である胡仔は、次のように述べている。陸羽は茶に通じていると自負し、『茶経』の中で彼が良いとみなした多くの茶を列挙しているが、実際のところ、彼は一体どのような良い茶を味わったというのだろうか。『茶経』にある茶を我が朝に持ってくれば、せいぜいどれも格の低い草茶にすぎない。(胡仔『苕溪漁隠叢話』)» p. 3

それにもかかわらず、歴史の歩みは陸羽の多くの思想の賢明さを証明した。『中国抹茶』の著者である俞燎远は、「茶汁を搾り取る方法は実際には茶の品質を低下させており、次第に廃れていった」という事実を述べている。p. 4、中国抹茶、2020

奇妙なことに、最終的に生き残り、勝利を収めたのは、禅僧の間で流行していた、まさにあの「格の低い草茶」であった。草茶の勝利の主な原因が、その高い日常度にあったことは明らかである。

李開周はその意味を次のように解説している。

«散茶は宋代には「草茶」とも呼ばれ、その生産工程は片茶よりもはるかにシンプルであった。蒸青(蒸す工程)と焙煎(乾燥)の二つの工程しかなく、型に入れて緊圧する必要も、搾って苦汁(にがじる)を除く必要もなく、製造工程は日本の煎茶と全く同じであった。

しかし、その飲用方法は煎茶とは異なっていた。日本人は煎茶を淹れて飲むのに対し、宋代の人々は草茶を飲む前にすり潰して粉末にし、湯を加えて点(た)てていた。この点は、むしろ抹茶に非常に近い。散茶は加工が簡単であったため、販売価格も片茶より安価であった。» p. 30

『宋史』に記録された二種類の茶の価格から見れば、最も高価な草茶は、最も高価な片茶よりも約7.5倍安かった。

その製造方法(蒸しと乾燥)は、日本の碾茶の製造方法と根本的には変わらない。草茶と碾茶の唯一の違いは、草茶が藁のむしろで遮光されていなかったこと、つまり無遮光茶であったという点にある。

安価な価格には、より遅い時期の収穫も影響していたであろう。前述のように、散茶は主に芽ではなく葉から作られていたのである。粉末にすり潰された草茶の味は、かなり渋く、あるいは苦いものであったと容易に想像できる。

しかし、「草茶の粉末」を飲んでいた僧侶たちは、茶のカテキンによる苦味を尊び、それが主要な器官である心臓を強くすると考えていた。このことについて、栄西はその著書『喫茶養生記』に記している。同書には、草茶の碾茶の製造方法と保管方法も記述されている。

«宋朝における茶を焙って作る方法を見ると、朝摘んで、すぐに蒸し、すぐに焙る。飽きやすい怠け者にできる作業ではない。茶を焙る棚には紙を敷き、紙が焦げない程度に火を入れて、丁寧に焙る。ゆっくりでもいけないし、急いでもいけない。一晩中眠らずに、夜のうちに焙って仕上げる。茶は上等な瓶に入れ、竹の葉でしっかりと封をすれば、何年も質が落ちない。» p. 195、高橋忠彦、茶経、喫茶養生記、2013

『茶経』において独立した茶の種類として登場していた抹茶は、宋代には散茶(草茶)の一亜種となった。当時の文献において、抹茶は「磨散茶」、すなわち「粉末に挽いた散茶」とも呼ばれていた。

散茶は汎用性が高かった。乾燥した茶葉を挽いて禅の儀式用の抹茶にすることもできれば、通常の散茶のように煎じて満足な食事とともに飲むこともできた。煎じることと粉末にすることは並行して存在していた。

高橋忠彦は、唐代に陸羽によって体系化された煎じ方が宋代に消失したわけではなく、まさに散茶の主要な淹れ方として存続したと指摘している。

主な違いは茶葉の加工にあり、煎じる(煎茶)ためには茶葉を粗く砕き、泡立てる(点茶)ためには微細な粉末に変化させた。恐らく原料も使い分けられており、抹茶には若い芽が選ばれる傾向が強く、日常的な散茶にはより成熟した葉が選ばれていた。

布目潮渢は、このような抹茶は型への緊圧工程を経ず、熱い釜で加工された茶葉から作られていたとの結論に達した。

その結果、宋代の抹茶の最も日常的な「草茶」版が日本へと伝わり、後にそこでの人工的な遮光と施肥によって「甘みが加えられる」こととなった。

一方、中国では、手間とコストのかかる抹茶が散茶によってますます駆逐されていった。散茶は、揉捻技術の導入によって日常における利便性が大幅に向上していた。

国はモンゴルの支配から解放されたものの財政難に陥っており、高級な固形茶(団茶)の形での貢納は、戦争で疲弊した納税者のリソースを過度に圧迫していた。

布目潮渢によると『茶経』において独立した茶の種類として登場していた抹茶は、宋代には散茶(草茶)の一亜種となった。当時の文献において、抹茶は「末散茶」、すなわち「粉末に挽いた散茶」とも呼ばれていた。

散茶は汎用性が高かった。乾燥した茶葉を挽いて禅の儀式用の抹茶にすることもできれば、通常の散茶のように煎じて満足な食事とともに飲むこともできた。煎じることと粉末にすることは並行して存在していた。

高橋忠彦は、唐代に陸羽によって体系化された煎じ方が宋代に消失したわけではなく、まさに散茶の主要な淹れ方として存続したと指摘している。

主な違いは茶葉の加工にあり、煎じる(煎茶)ためには茶葉を粗く砕き、泡立てる(点茶)ためには微細な粉末に変化させた。恐らく原料も使い分けられており、抹茶には若い芽が選ばれる傾向が強く、日常的な散茶にはより成熟した葉が選ばれていた。

布目潮渢は、このような抹茶は型への緊圧工程を経ず、熱い釜で加工された茶葉から作られていたとの結論に達した。

その結果、宋代の抹茶の最も日常的な「草茶」版が日本へと伝わり、後にそこでの人工的な遮光と施肥によって旨味が加えられることとなった。

一方、中国では、手間暇のかかる抹茶が散茶によってますます駆逐されていった。散茶は、揉捻技術の導入によって日常における利便性が大幅に向上していた。

国はモンゴルの支配から解放されたものの財政難に陥っており、高級な固形茶(団茶)の形での貢納は、戦争で疲弊した納税者のリソースを過度に圧迫していた。

布目潮渢は次ののように述べる。

«洪武帝は洪武二十四年(一三九一年)、

このような竜団は民力をひどく疲弊させるという理由から、竜団の製造を止めさせ、茶は

茶芽(葉茶)として献上させることにした(『万暦野獲編補遺(ばんれきやかくへん)』巻一)。また、「茶に香物を加え、搗(つ)きて細餅(さいへい)となすは、已(すで)に真味を失う。……今人惟(ただ)だ初めの萌(きざ)しの精なるものを取り、泉を汲み鼎(かなえ)を置き、一たび煮てすなわち啜(すす)り、遂に千古茗飲(めいいん)の宗(そう)を開く」(同上)とも言っている。香料まで加えて、っ搗(つ)いて作る固形茶はたしかに茶の真味を失うものと言えよう。» p. 256、布目潮渢、中国喫茶文化史、2001

«明代の丘濬(きゅうしゅん)(一四二〇ー九五年)は『大学衍義補(だいがくえんぎほ)』巻二十九、山沢之利の下(げ)において次のように述べている。

元代の記録ではなお抹茶のことを説いている。今の世ではただ閩(びん)・広(こう)(福建から広東・広西の一帯)にてまま抹茶を用いる。而して、葉茶の用は中国に遍(あまね)し。而して外夷もまた然り。世また抹茶有るを知らず。

明朝の創始後、百余年経過し、一四八七年に著作された本書において、そのころでは、中国の南方の一部に抹茶がわずかに行われているほかは、葉茶が普遍化し、周辺諸民族も含めて、世間では抹茶の存在を知らなくなったと言っている。» 257、布目潮渢、中国喫茶文化史、2001

この短い概説の結論として、日常の茶を筋肉に、高級茶を茶文化の脂肪に例えたい思いが、自ずと湧き起こってくる。これらは一体となって一つの全体を構成しており、両者の調和のとれた相互作用がシステム全体の健全な機能を保証している。

経済的繁栄の時期には、脂肪層は概して増加し、肥大化に達すると、しばしば生体全体に負担をかけ、変形をもたらす。景気が悪化するにつれて、余分な脂肪は減少し始め、運動に必要な筋肉が前面に出てくる。

同時に、生体とは複雑な体系であり、そこでは筋肉がある一定の割合の脂肪なしには十分に機能できないのと同様に、洗練さを完全に欠いた茶の実用性への傾倒は、品質の低下を招く。

両方の力が重要であり、相互に関連しているが、根本的なものは茶の日常性である。日常性とは、いわば茶文化の重力のようなものである。

対照的に、高級茶は美しい雲を思わせる。それは安定性に欠け、経済情勢や流行、あるいはそれぞれの時代に支配的な社会の嗜好や品質に対する認識に、より大きく左右される。

茶文化はダーウィンの進化論の普遍的な法則に従っていると言える。最終的に生き残るのは、最も生存に適したもの(fittest for life)――すなわち最も日常的な形態である。

社会における茶の機能のメカニズムや、茶がその日常生活へと統合されるのを決定づける要因を理解することは、目的意識を持って茶文化を発展させることを可能にする。

原点回帰

それでは、21世紀の日本へと舞台を移してみよう。現代の状況は、宋朝の滅亡後に到来した「ポストプレミアム」(脱高級化)時代をどこか彷彿とさせる。

日常性と同時に、リーフ茶は大衆の信頼を失い、今日、多くの日本の若者はお茶をペットボトル入りの茶系飲料と同一視しており、その人気は高まり続けている。

茶文化の振り子は、前世紀末の高級茶への崇拝から、日常性の向上(ティーバッグ、粉末茶)の方向へと振れ、その慣性によってハイパー日常性の境界にまで達した。

極端に陥ることは、茶文化に否定的な影響を及ぼす。過度な高級性は日常生活からお茶を奪い去り、一方で過剰な日常性はお茶からその茶としての本質を奪い、お茶を水へと近づけ、その化学組成や機能性を貧弱にし、お茶を淹れる過程から人間を完全に排除してしまう。

缶・ペットボトル入りの茶系飲料は、お茶と「非・お茶」を隔てる極限の境界であると言える。茶系飲料はお茶の消費領域を広げることに貢献した。例えば、移動中におけるペットボトル飲料の便利さは否定できない。しかし、リーフ茶がボトル飲料に駆逐された場合、その同じ便利さが、家庭や職場における茶体験の質の低下を招くことになる。

質の高い日常茶を手に入れたいという大衆消費者の欲求は、今なお満たされないままであり、今後数年のうちにこのぽっかりと空いた空白を埋めることが、茶業の急務とならなければならない。これは、千年以上続く日本の茶文化の生き残りがかかった問題である。

茶文化の復興は、その原点である日常的な形式と内容へと回帰することにある。それは、一見するほど難しいことではない。ジャガイモの原形が丸ごとのジャガイモであるように、お茶の原形は茶葉である。

«「茶の本質は、”飲む茶”です。生産されたものが利用者に渡るまで流通・販売といった過程を通ります。その段階では、”売る茶”になりますが、それは一時的様相で、決して本質的なものではありません。「売れるお茶がよい茶です」と決めつけたり、換金作物の茶を作り、それを如何に売りつけるかと知恵をしぼる姿は決して常道ではありません。

茶は自ら育とうとしています。生物としての本質でしょう。

人為的な環境の中で栽培するとなると、茶自体の働きだけでは不十分で、どうしても人間の手で補助する必要があります。肥料とか農薬とかはその補助の手段の一つに過ぎません、人間が作っているのだと思い上ってはいけないと思います。

佳い飲む茶を作ることが第一義的なことであって、有機栽培・無農薬栽培といったお茶を作ることが目的である筈はないのです。自然を大切に、無理強いはいけません。

生産の段階に関与している方々の言動を眺めていて、幾つかの感想を持つようになりました。勿論不完全な知識しか持ち合わせていない素人のことですから多くの偏見があると思いますが、敢えて言わせていただきます。

自分が(人間が)茶を作ると思っておられるのではないだろうかと、邪推することがあります。

都合の良い品種を創り出す。

変わった香気を出す茶を創る。

肥料をうんと施して、肥料漬けにする(収穫を増やす、甘い茶を作る)。

多肥は病害虫を発生させ農薬使用を余儀なくさせる。

ミル芽摘み。内容が充実しないうちに採取、勿体ない。生物は未熟な間は有毒であったりする。

年中新茶はおかしい。自然に反する。春夏秋冬四季折り折り、季節の変化がある、人間も変化する。茶だけが変わらないのは不自然。茶にも季節の移り変わりのあった方が人間に受け入れ易いのではないだろうか。

色沢重視の製茶、無理が多い。

付加価値をつけなければならない。販売促進のためにはまず買い手の歓心をかうような新奇さを加えるのだといった人間の都合。» p. 13-13、茶に貞く、小川誠二2007

小川誠二の観察は、茶の歪みが嗜好の流行による結果ではなく、価値観の軸足が商品としての特性へと意図的に移された結果であることを如実に示している。

伝統的に「自然性」を根底に据えていた、日常消費される農産物としての茶本来の価値は、付加価値という重荷の下で歪められてしまったのである。

小川八重子は、茶をその根源的な本質へと立ち返らせようとする体系的な試みを行った、茶の近代化に対するほぼ唯一の異論者であった。彼女は独自の茶観を築き、それを著書や雑誌を通じて提示するとともに、一定の社会的評価を得ることにも成功した。

これらの功績にもかかわらず、この研究者の没後30年余りが経過した現在、彼女の人物像に対する社会的な関心はほぼ完全に薄れ、日常茶(常茶)に関する独自の教えは、今日に至るまで実践的にも理論的にも発展を見ていない。

「階級的不平等」と茶の種類の差別を生み出した、階層に基づく茶の品質評価システムは、依然として茶業界の確固たる基準であり続け、小川八重子が正当な批判を向けた茶の品評会によって公式に固定化されている。

小川八重子は、茶業界の個別の欠陥ではなく、資本主義システムの根源的な問題と実質的に戦っていたため、破滅(あるいは不成功)を運命づけられていた。彼女の批判は、文化的というよりは構造的な性質のものであった。

在地(地場)の茶である在来種の「ジェノサイド」(本質的には日本の茶の遺伝子資源の破壊)、やぶきた品種の植え付け、窒素肥料や農薬の過剰使用、自然な味わいや香りを犠牲にした茶の色や形状への偏重などは、経済的利益を最優先する体制である、日本で発達した資本主義の本質の不可避な現れとなった。

今日の資本主義的農業は、化学肥料や農薬を積極的に使用した自然資源の集約的な搾取、いわゆる慣行農法に基づき構築されている。

資本主義の現代の発展段階において、上手に販売する能力は、質の高い商品を生産する能力よりも重要になっている。資本主義のこの段階は、マーケティングの時代と呼ぶことができる。

資本主義に対する批判は、本稿の枠組みを超えるものである。ただ、いわゆる農本主義の代表者たちが、資本主義はその本質において反自然的であり、伝統的に自然のリズムに従って営まれる農業そのものの本質とは相容れないと主張していたことを、一言付け加えるにとどめる。

このような資本主義への見方は急進的に過ぎるように思われるかもしれないが、そのシステム的な欠陥をよく浮き彫りにしており、その一つは、食品の使用価値(消費価値)がその商品的特性の犠牲にされていることである。

日本の医師であり栄養学者でもある森下敬一は、理想的には食べ物はそもそも売買の対象にすべきではないと主張した。彼はその本質(食品の品質)を、業界の基準ではなく、人々の身体の特性への適合、いわば「fitness for body」に見出していた。

1995年の八重子の没後、茶の研究は夫である小川誠二によって引き継がれた。彼の最後の著書『茶を聴く』は2007年に出版された。彼は同書を、今日においてもほとんど変わっていない現状の描写から始めている。

«「茶の本質は、”飲む茶”です。生産されたものが利用者に渡るまで流通・販売といった過程を通ります。その段階では、”売る茶”になりますが、それは一時的様相で、決して本質的なものではありません。「売れるお茶がよい茶です」と決めつけたり、換金作物の茶を作り、それを如何に売りつけるかと知恵をしぼる姿は決して常道ではありません。

茶は自ら育とうとしています。生物としての本質でしょう。

人為的な環境の中で栽培するとなると、茶自体の働きだけでは不十分で、どうしても人間の手で補助する必要があります。肥料とか農薬とかはその補助の手段の一つに過ぎません、人間が作っているのだと思い上ってはいけないと思います。

佳い飲む茶を作ることが第一義的なことであって、有機栽培・無農薬栽培といったお茶を作ることが目的である筈はないのです。自然を大切に、無理強いはいけません。

生産の段階に関与している方々の言動を眺めていて、幾つかの感想を持つようになりました。勿論不完全な知識しか持ち合わせていない素人のことですから多くの偏見があると思いますが、敢えて言わせていただきます。

自分が(人間が)茶を作ると思っておられるのではないだろうかと、邪推することがあります。

都合の良い品種を創り出す。

変わった香気を出す茶を創る。

肥料をうんと施して、肥料漬けにする(収穫を増やす、甘い茶を作る)。

多肥は病害虫を発生させ農薬使用を余儀なくさせる。

ミル芽摘み。内容が充実しないうちに採取、勿体ない。生物は未熟な間は有毒であったりする。

年中新茶はおかしい。自然に反する。春夏秋冬四季折り折り、季節の変化がある、人間も変化する。茶だけが変わらないのは不自然。茶にも季節の移り変わりのあった方が人間に受け入れ易いのではないだろうか。

色沢重視の製茶、無理が多い。

付加価値をつけなければならない。販売促進のためにはまず買い手の歓心をかうような新奇さを加えるのだといった人間の都合。» p. 13-13、茶に貞く、小川誠二2007

小川誠二の観察は、茶の歪みが嗜好の流行による結果ではなく、価値観の軸足が商品としての特性へと意図的に移された結果であることを如実に示している。

伝統的に「自然性」を根底に据えていた、日常消費される農産物としての茶本来の価値は、付加価値という重荷の下で歪められてしまったのである。

それでは、21世紀の日本へと舞台を移してみよう。現代の状況は、宋朝の滅亡後に到来した「ポストプレミアム」(脱高級化)時代をどこか彷彿とさせる。

日常性と同時に、リーフ茶は大衆の信頼を失い、今日、多くの日本の若者はお茶をペットボトル入りの茶系飲料と同一視しており、その人気は高まり続けている。

茶文化の振り子は、前世紀末の高級茶への崇拝から、日常性の向上(ティーバッグ、粉末茶)の方向へと振れ、その慣性によってハイパー日常性の境界にまで達した。

極端に陥ることは、茶文化に否定的な影響を及ぼす。過度な高級性は日常生活からお茶を奪い去り、一方で過剰な日常性はお茶からその茶としての本質を奪い、お茶を水へと近づけ、その化学組成や機能性を貧弱にし、お茶を淹れる過程から人間を完全に排除してしまう。

缶・ペットボトル入りの茶系飲料は、お茶と「非・お茶」を隔てる極限の境界であると言える。茶系飲料はお茶の消費領域を広げることに貢献した。例えば、移動中におけるペットボトル飲料の便利さは否定できない。しかし、リーフ茶がボトル飲料に駆逐された場合、その同じ便利さが、家庭や職場における茶体験の質の低下を招くことになる。

質の高い日常茶を手に入れたいという大衆消費者の欲求は、今なお満たされないままであり、今後数年のうちにこのぽっかりと空いた空白を埋めることが、茶業の急務とならなければならない。これは、千年以上続く日本の茶文化の生き残りがかかった問題である。

茶文化の復興は、その原点である日常的な形式と内容へと回帰することにある。それは、一見するほど難しいことではない。ジャガイモの原形が丸ごとのジャガイモであるように、お茶の原形は茶葉である。

«「茶の本質は、”飲む茶”です。生産されたものが利用者に渡るまで流通・販売といった過程を通ります。その段階では、”売る茶”になりますが、それは一時的様相で、決して本質的なものではありません。「売れるお茶がよい茶です」と決めつけたり、換金作物の茶を作り、それを如何に売りつけるかと知恵をしぼる姿は決して常道ではありません。

茶は自ら育とうとしています。生物としての本質でしょう。

人為的な環境の中で栽培するとなると、茶自体の働きだけでは不十分で、どうしても人間の手で補助する必要があります。肥料とか農薬とかはその補助の手段の一つに過ぎません、人間が作っているのだと思い上ってはいけないと思います。

佳い飲む茶を作ることが第一義的なことであって、有機栽培・無農薬栽培といったお茶を作ることが目的である筈はないのです。自然を大切に、無理強いはいけません。

生産の段階に関与している方々の言動を眺めていて、幾つかの感想を持つようになりました。勿論不完全な知識しか持ち合わせていない素人のことですから多くの偏見があると思いますが、敢えて言わせていただきます。

自分が(人間が)茶を作ると思っておられるのではないだろうかと、邪推することがあります。

都合の良い品種を創り出す。

変わった香気を出す茶を創る。

肥料をうんと施して、肥料漬けにする(収穫を増やす、甘い茶を作る)。

多肥は病害虫を発生させ農薬使用を余儀なくさせる。

ミル芽摘み。内容が充実しないうちに採取、勿体ない。生物は未熟な間は有毒であったりする。

年中新茶はおかしい。自然に反する。春夏秋冬四季折り折り、季節の変化がある、人間も変化する。茶だけが変わらないのは不自然。茶にも季節の移り変わりのあった方が人間に受け入れ易いのではないだろうか。

色沢重視の製茶、無理が多い。

付加価値をつけなければならない。販売促進のためにはまず買い手の歓心をかうような新奇さを加えるのだといった人間の都合。» p. 13-13、茶に貞く、小川誠二2007

小川誠二の観察は、茶の歪みが嗜好の流行による結果ではなく、価値観の軸足が商品としての特性へと意図的に移された結果であることを如実に示している。

伝統的に「自然性」を根底に据えていた、日常消費される農産物としての茶本来の価値は、付加価値という重荷の下で歪められてしまったのである。

小川八重子は、茶をその根源的な本質へと立ち返らせようとする体系的な試みを行った、茶の近代化に対するほぼ唯一の異論者であった。彼女は独自の茶観を築き、それを著書や雑誌を通じて提示するとともに、一定の社会的評価を得ることにも成功した。

これらの功績にもかかわらず、この研究者の没後30年余りが経過した現在、彼女の人物像に対する社会的な関心はほぼ完全に薄れ、日常茶(常茶)に関する独自の教えは、今日に至るまで実践的にも理論的にも発展を見ていない。

「階級的不平等」と茶の種類の差別を生み出した、階層に基づく茶の品質評価システムは、依然として茶業界の確固たる基準であり続け、小川八重子が正当な批判を向けた茶の品評会によって公式に固定化されている。

小川八重子は、茶業界の個別の欠陥ではなく、資本主義システムの根源的な問題と実質的に戦っていたため、破滅(あるいは不成功)を運命づけられていた。彼女の批判は、文化的というよりは構造的な性質のものであった。

在地(地場)の茶である在来種の「ジェノサイド」(本質的には日本の茶の遺伝子資源の破壊)、やぶきた品種の植え付け、窒素肥料や農薬の過剰使用、自然な味わいや香りを犠牲にした茶の色や形状への偏重などは、経済的利益を最優先する体制である、日本で発達した資本主義の本質の不可避な現れとなった。

今日の資本主義的農業は、化学肥料や農薬を積極的に使用した自然資源の集約的な搾取、いわゆる慣行農法に基づき構築されている。

資本主義の現代の発展段階において、上手に販売する能力は、質の高い商品を生産する能力よりも重要になっている。資本主義のこの段階は、マーケティングの時代と呼ぶことができる。

資本主義に対する批判は、本稿の枠組みを超えるものである。ただ、いわゆる農本主義の代表者たちが、資本主義はその本質において反自然的であり、伝統的に自然のリズムに従って営まれる農業そのものの本質とは相容れないと主張していたことを、一言付け加えるにとどめる。

このような資本主義への見方は急進的に過ぎるように思われるかもしれないが、そのシステム的な欠陥をよく浮き彫りにしており、その一つは、食品の使用価値(消費価値)がその商品的特性の犠牲にされていることである。

日本の医師であり栄養学者でもある森下敬一は、理想的には食べ物はそもそも売買の対象にすべきではないと主張した。彼はその本質(食品の品質)を、業界の基準ではなく、人々の身体の特性への適合、いわば「fitness for body」に見出していた。

1995年の八重子の没後、茶の研究は夫である小川誠二によって引き継がれた。彼の最後の著書『茶を聴く』は2007年に出版された。彼は同書を、今日においてもほとんど変わっていない現状の描写から始めている。

«「茶の本質は、”飲む茶”です。生産されたものが利用者に渡るまで流通・販売といった過程を通ります。その段階では、”売る茶”になりますが、それは一時的様相で、決して本質的なものではありません。「売れるお茶がよい茶です」と決めつけたり、換金作物の茶を作り、それを如何に売りつけるかと知恵をしぼる姿は決して常道ではありません。

茶は自ら育とうとしています。生物としての本質でしょう。

人為的な環境の中で栽培するとなると、茶自体の働きだけでは不十分で、どうしても人間の手で補助する必要があります。肥料とか農薬とかはその補助の手段の一つに過ぎません、人間が作っているのだと思い上ってはいけないと思います。

佳い飲む茶を作ることが第一義的なことであって、有機栽培・無農薬栽培といったお茶を作ることが目的である筈はないのです。自然を大切に、無理強いはいけません。

生産の段階に関与している方々の言動を眺めていて、幾つかの感想を持つようになりました。勿論不完全な知識しか持ち合わせていない素人のことですから多くの偏見があると思いますが、敢えて言わせていただきます。

自分が(人間が)茶を作ると思っておられるのではないだろうかと、邪推することがあります。

都合の良い品種を創り出す。

変わった香気を出す茶を創る。

肥料をうんと施して、肥料漬けにする(収穫を増やす、甘い茶を作る)。

多肥は病害虫を発生させ農薬使用を余儀なくさせる。

ミル芽摘み。内容が充実しないうちに採取、勿体ない。生物は未熟な間は有毒であったりする。

年中新茶はおかしい。自然に反する。春夏秋冬四季折り折り、季節の変化がある、人間も変化する。茶だけが変わらないのは不自然。茶にも季節の移り変わりのあった方が人間に受け入れ易いのではないだろうか。

色沢重視の製茶、無理が多い。

付加価値をつけなければならない。販売促進のためにはまず買い手の歓心をかうような新奇さを加えるのだといった人間の都合。» p. 13-13、茶に貞く、小川誠二2007

小川誠二の観察は、茶の歪みが嗜好の流行による結果ではなく、価値観の軸足が商品としての特性へと意図的に移された結果であることを如実に示している。

伝統的に「自然性」を根底に据えていた、日常消費される農産物としての茶本来の価値は、付加価値という重荷の下で歪められてしまったのである。

付加価値は高品質か

2025年1月4日の朝。フェイスブックを開くと、静岡県——江戸時代末期から今日に至るまで、日本の主要なリーフ茶(葉茶)である煎茶を生産している地域——の茶農家による投稿が目に入る。その農家は懸念を抱きながら、『静岡新聞』の記事を共有している。

農林水産省が2025年以降の緑茶の生産に関し、一般的な「煎茶」などから抹茶の原料となる「てん茶」への転換を農家に促す方向で検討していることが3日分かった。今春に目指す基本方針に盛り込む。海外で抹茶を使ったラテやスイーツが人気で、輸出を中心に引き合いが強いためだ。国内では急須で淹れるお茶の消費が減少し、価格も低迷していることから、農家の経営を支えるために調整を進める。(中略)

茶の輸出額は近年急増、過去最高の292億円に達しており、15年前から約9倍に増加。

抹茶を含む粉末状が伸びたためで、農水省は欧米での日本食普及や健康志向の高まりが追い風になったとみている。

一方、国内は農家の高齢化や担い手不足で近年の生産量が15年前から2割以上減少した。総務省によると、この間、1世帯(2人以上)当たりの緑茶の年間支出額も4割近く低下した。

新方針は農家の減少で国内の需要を満たせなくなる懸念があるとして、抹茶需要への対応と、価格が高い有機栽培茶への転換も明記する方向だ。農水省は来年度予算で、てん茶加工施設の整備や生産機械の機械化などへの補助金を確保する。(中略))

農水省の担当者は「付加価値の高いお茶の生産は重要だ。関係者、海外に共通意識を持てるように検討を進める」と話した。»

茶業界の古株たちは、「高付加価値」「品質向上」といった同じスローガンが、すでに半世紀前にも叫ばれていたことを覚えている。当時、付加価値化の対象となったのは煎茶であった。そしてその付加価値化は極端なところまで進み、日本人は、過度に高価で、甘く、過剰加工され、肥料漬け・農薬漬けとなった茶から次第に離れていった。現在、その茶は国内市場においてなお存在感を失い続けている。

いま、その賭けは抹茶に向けられている。50年前の煎茶内需拡大期と同様に、そして150年前の輸出ブーム期と同じく、それは外貨獲得をもたらす。しかし、その結果として茶文化にどのような影響が及ぶのかを真剣に考える者は少ない。そして、その影響は高い確率で、過去に劣らぬ破壊的なものとなるだろう。

急速に抹茶生産を拡大する中国と正面から競争することは、日本には難しい。だが、別のことは十分に起こり得る。すなわち、自国民から安価なリーフ茶の残された選択肢を奪ってしまうことである。

すでに今日、抹茶価格の高騰は茶道愛好家の家計を直撃しており、さらに農家の碾茶転換によって、リーフ茶やペットボトル飲料向け原料の不足も生じている。2025年には、従来は安価であった秋番茶が3倍以上に値上がりし、多くの茶店が仕入れできなくなった。

ここで、私たちは一つの根本的な問いに行き着く。付加価値とは、果たして実質的な品質そのものなのだろうか。

付加価値そのものが悪いわけではない。茶文化自体、人間の手による営みの積み重ね、すなわち付加価値の産物である。問題なのは、「加えること」自体ではなく、その度合いにある。消費者にとって真の品質とは、まず市場的地位によってではなく、その茶が人間の生活の中でどれほど本来の役割を果たしているか、すなわち機能的適合性によって決まる。

マーケティングは、私たちにまず付加価値――派手で人工的な上部構造――を見せる。しかし、価値の本体、その自然的基盤は陰に隠される。

私たちは、美しく針状に整えられた玉露を見て感嘆する一方で、仕上げ揉捻前の大きく「毛羽立った」葉には目を向けない。しかし、その両者の原料は本来同じものである。しかも、過度な機械加工や加熱は、しばしば本来の香味りを損なう。

価値全体をありのまま見る力――市場的な包装紙だけでなく、その中身を見る力――には、経験と知識が必要である。しかし実際には、「犬に五本目の脚を売る」方がはるかに容易である。しかも、専門家が「それがいかに必要で高級か」を丁寧に説明してくれればなおさらだ。だが、それによって犬の人生が良くなるわけではない。

市場メカニズムと、それに奉仕する技術体系は、農産物本来の品質のあり方と衝突する。市場は農産物に、本来備わっていない派手さや刺激性を要求する。そしてその過程で、伝統的な「目立たない文化」を破壊し、それを人工的で演出的な商品へと変えていく。

この論理は、茶の品種改良の歴史にもよく現れている。科学技術はまず、在来茶の自然な多様性を破壊し、それをやぶきたへと置き換えた。そして今度は、新たな人工的多様性を作り出すために、長い年月と莫大な資金を投じて新品種を育成している。

「足し算」という発想は、人間に、新しい技術によって古い技術が生み出した問題を解決させようと促し、無限の複雑化という悪循環を形成する。人間は次第に自然と対立する方向へ進んでいく。

新聞記事の引用からも明らかなように、有機栽培茶への転換は、消費者の健康改善のためではなく、茶業界の利益拡大と政府の税収増加の手段として語られている。

多くの人は、有機栽培茶を「高付加価値を持つ特別で高価な商品」として見ている。しかし、それは本来、何千年にもわたり自然農法の中で存在してきた有機農産物の自然な素朴さとは根本的に矛盾している。今日、有機という概念さえ、単なるマーケティングの道具へと変わりつつある。

自然農法の思想家の一人である 福岡正信 は、「引き算」の方向へ進むことで、高品質で安全な米作りへと到達した。彼は、肥料や農薬の使用を完全に放棄したのである。

「イワンのばか」に自らを重ね合わせた福岡は、「何もしない農業」へとたどり着いた。

«それからの三十五年、私はもう、全くのただの百姓で、現在まできたわけなんです。

その間、一冊の本を読むわけでもなし、外へ出て人と交際するでもない、ある意味で言いますと、まるっきり時代おくれの人間になってしまいました。

だが、その三十五年の間に、私はただひとすじに、何もしない農法を目指した。ああしなくてもいいんじゃないか、こうしなくてもいいんじゃないか、という考え方、これを米麦作りとミカン作りに徹底的に応用した。

普通の考え方ですと、ああしたらいいんじゃないか、こうしたらいいんじゃないか、といって、ありったけの技術を寄せ集めた農法こそ、近代農法であり、最高の農法だと思っているのですが、それでは忙しくなるばかりでしょう。

私は、それとは逆なんです。普通行われている農業技術を一つ一つ否定していく。一つ一つ削っていって、本当にやらなきゃいけないものは、どれだけか、という方向でやっていけば、百姓も楽になるだろうと、楽農、惰農を目ざしてきました。

結局、田を鋤く必要はなかったんだ、と。堆肥をやる必要も、化学肥料をやる必要も、農薬をやる必要もなかったんだ、という結論になったわけです。

そういうものが必要だ、価値があることだと思い、効果があるように思うのは、結局、人間が先に悪いことをしているからなんです。価値があるような、効果が上がるような条件を、先に作っているということなんです。

人間が、医者が必要だ、薬が必要だ、というのも、人間が病気になる環境を作りだしているから必要になってくるだけのことであって、病気のない人間にとっては、医学も医者も必要でない、ということと同じことです。

健全な稲を作る。肥料がいらないような健全な、しかも肥沃な土を作る。田を鋤かなくても、自然に土が肥えるような方法さえとっておけば、そういうものは必要でなかったんです。あらゆる、一切のことが必要でないというような条件を作る農法。こういう農法を、私はずっと追求しつづけてきたわけです。

そして、この三十年かかって、やっと、何もしないで作る米作り、麦作りができて、しかも、収量が、一般の科学農法に比べ、少しも遜色がない、というところまで来た。

そして、この三十年かかって、やっと、何もしないで作る米作り、麦作りができて、しかも、収量が、一般の科学農法に比べ、少しも遜色がない、というところまで来た。

ということは、人間の知恵の否定です。それが、今ここで実証できたということになる。これも一、二の事であって、他のあらゆることにも適用できるはずなんです。

たとえば、教育というものは、価値のあることだと思っている。ところが、それはその前に教育に価値のあることと思っている。ところが、それはその前に、教育に価値があるような条件を人間が作っているんだということにまず問題がある、と私は言いたいんです。教育なんて、本来は無用なものだけれど、教育しなければならないような条件を、人間が、社会全体がつくっているから、教育しなければならなくなる。教育すれば価値があるように見えるだけにすぎないということです。» p. 19-21、わら一本の革命

«だから、自分の米作り麦作りは、きわめて簡単なものになってしまって、もうこれ以上手を抜くところはないようになってしまった。種を播いてわらを振るだけですから。だが米麦ともに反当たり十俵以上をとるようになるまでには二十年も三十年もかかってきたというわけです。しかし、これは自然農法で成功するには、永年かかるという意味ではありません。» p. 45、9-21、わら一本の革命

福岡正信は、農業をその原点である自然農法へと立ち返らせるべきだと訴えた。彼はその地点において、節度に支えられた人間と自然との長期的な調和を見いだした。価値の基盤が生まれるのは、果てしない付加の中ではなく、まさにそこなのである。

農は空

今日、多くの人々が有機農業を、農薬、除草剤、化学肥料を使用しない農業であると理解している。

分類の形式的な特徴は変化する可能性があり、それゆえに、特定の農業手法が従う一連の原則である思想(イデオロギー)の方がはるかに重要である。

有機農業の根底にあるのは、化学物質の使用を拒否すること以上に、植物の自然な成長過程への人間の介入を最小限に抑えるという原則である。

栽培と加工は、農産物の自然な力と個性を維持することを目的としている。主たる重点は原材料の品質に置かれ、付加価値は二次的な価値として見なされる。

茶に関して言えば、このような論理はすでに陸羽の『茶経』の中で表明されており、彼は自然の野生茶が、人為な園茶よりも品質において優れていると考えていた。

陸羽はまた、«倹»を茶の重要な特性であると考えていた。この原則は、野生茶が手間暇がかかる園茶よりも優れているという彼の主張と共鳴している。«倹»とは、自然の生態系への人間の介入の度合いを最小限に抑え、生物多様性の維持を通じてその生命力を保存し、それを人間に伝えるのに役立つ普遍的な道徳である。

農業は人間の利益に向けられているにもかかわらず、それは古くから自然への敬意とその慎重な利用を基礎として構築されている。

有機農業が自然を「加速」させ「向上」させようとする利己的な思惑に基づいている場合、化学物質の使用に依存する慣行農業と根本的には変わらない。

茶業において、これは高級性の優先という形で現れ、そこではすべての努力が高級品種の生産に向けられ、その結果、多肥栽培の必要性が生じる。このことは、有機茶栽培の指導書にも記されている:

«肥料や被覆資材などを利用して”新芽を早く伸ばす” p. 203、有機栽培の果樹・茶つくり、小祝政明、農文協。

«アミノ酸肥料や堆肥を大量に施用して旨味と甘み、インパクトのあるお茶を目指す 。»

p. 200、有機栽培の果樹・茶つくり、小祝政明

有機(=「良い」「安全な」)肥料は、しばしば絶対的な善として謳われ、無制限の量で使用されることも少なくない。

肥料の増量は、最終的には合成肥料を使用した場合と同じ弊害をもたらす。すなわち、茶樹における硝酸塩の蓄積、地下水への流出、あるいは人体の健康へのリスク(子供における「ブルーベビー症候群」や、成人における肝臓および血管への負担)である。

有機農業では、合成肥料の代わりに厩肥(きゅうひ)、鶏糞、あるいは未完熟堆肥が大量に使用されることが多い。このように栽培された有機野菜を研究する中で、木村秋則は、それらが急速に成長し、多くの水分と窒素を蓄積すること、そしてそれが肥満状態をもたらし、腐敗菌の栄養源となるという結論に至った。

肥料を与えずに育てられた自然な野菜は、繊維質を多く含み、腐敗することなく徐々に枯れていく。お茶の場合、これと同様に、冷蔵庫の外での保存性が悪い、肥料を過剰に与えられた高級煎茶等と、常温での保存性に遥かに優れた、繊維質が豊富な自然栽培の番茶との間で観察される。結局のところ、すべては目的と手段によって決まる。

自然農とは、一般に、有機農業の一部でありながら、自然を優先し、植物の成長過程への人為的介入を極力抑える論理に従う農法として理解されている。自然農と有機農業の最大の違いは、通常、農薬だけでなく、あらゆる肥料をも完全に用いない点にある。

自然な方法で育てられた野菜は、一般に、肥料を用いた有機野菜よりも「喉を通りやすく」、後味にも清涼感があるとされる。また、自然栽培の茶は、有機茶よりも飲み飽きしにくく、より「飲みやすい」ものとして感じられ、日常茶として適している。

埼玉県の農家・渋谷正和は、有機栽培と自然栽培の人参の違いについて次のように述べている。

«人参は無肥料栽培と肥料を使ったものとで、味の違いが大きく出るお野菜の一つです。私の個人的な感想では、しぶや農園で有機質肥料を使った人参は香りや甘みが強く、パンチのある味がします。たとえ隣の畝で作付けしているような場合でも、無肥料の人参はクセがなく、フルーティーですっぽりとした味です。生で食べ続けていると、有機の人参は味が濃いがゆえに段々とのどにつまるようなエグミを感じますが、無肥料のものはすっきりしていて食べ続けられるような感じです。ジュースにするなら無肥料のもののほうが向いているような気がします。» p. 177、木村秋則と自然栽培の世界、2010

自然農という思想が、一つの体系的な教えとして形成されたのは、有機農業が登場する以前、すでに20世紀前半のことであった。それは、人間と自然を切り離して捉える近代西洋的思考への異議申し立てでもあった。こうした主体と客体の分離は、本来、日本人の伝統的感覚には馴染まないものであった。

自然農は、人間と自然を主体と客体に分けず、両者を一体のものとして捉える古来の感覚に従っている。その関係は、陰と陽のように、対立しながらも相互に支え合う二つの原理にもたとえられる。

日本の伝統的な食文化もまた、陰と陽の均衡によって成り立つ複雑な体系である。福岡正信は次のように述べている。

«秋がくれば家庭では秋刀魚を焼く季節という。霜がふり始めると、焼き鳥屋の屋台をぞきたくなる。極陽の青魚のブリ、マグロがこの季節によくとれ、また美味になるのもこの時期からである。陰性の時期に陽性の青魚が美味となるのも自然の配剤であろう。また、その頃には大根や菜っぱ類が豊富にできて、魚に添えて出せば結構調和がとれるのも面白い。塩をしたり焼いたりして、陰の魚を陽の食品に変える生活の智慧も人間は持っていて、食は楽しく芸術にまで高められる。

前にも述べたが、この火と塩についていえば、これは原人の分別智というより生活の智慧で、自然人であった原人が、自然の妙味に感応した結果にすぎない。素材な自然そのものの、海の塩と、草木を燃やした火の料理は正に食の芸術である。

正月のおせち料理も同様である。正月のめでたさを祝う料理として、塩鮭、数の子、こんぶ、黒豆を配する造智、それに赤色の魚の鯛、イセエビを配するのも、単に百姓の生活の智慧といわれるようなものではない。その智慧は、自然と人間が一体となってはじめて生まれる無分別の英智である。» p. 203-204

農作業の過程において、農民はある意味で主体と客体の分離を乗り越え、自らを自然の一部として感じるようになる。

宇根豊は次のように指摘している。

«百姓仕事の最大の特徴は、自然と一体になれることです。仕事に没頭しているときは、自分のことも、時間のこと、世の中のことも、ましてや経済のことなど、すっかり忘れてしまいます。そしてふと手を休めてわれに返ると、生きものや田んぼに囲まれている自分を発見するのです。子どもたちは、こういう仕事がまだ現代社会にも残っているのだと感じとることができます。ここに限りなく生産性を求め、人間のためだけの富を求めていく近代化を暴走させないもう一つの道がある、と私は信じています。» p. 29、宇根豊、農は過去と未来をつなぐ、2013

人間が世界を外から対象として眺めるのではなく、その営みのただ中に身を置いている状態を、日本の哲学者 西田幾多郎 は「純粋経験」と呼んだ。

西田によれば、純粋経験とは、世界が知性によって分析され、主観と客観に切り分けられる以前の、根源的な存在のあり方である。彼はこのような境地を、禅の実践、芸術、職人の仕事、さらには自然との直接的な触れ合いの中に見出していた。仏教的に言えば、無心に行為へ没入することは、「自」と「他」を対立させる枠組みを超え、自我を乗り越えるための道でもある。

自然を全体として見る視点に立てば、人間が自らの都合によって「役に立つもの」と「役に立たないもの」とに分けてきた存在同士が、実際には複雑に結びつき合っていることが理解できる。そこでは、昆虫を益虫と害虫に分類する発想そのものが意味を失っていく。なぜなら、それらは互いに支え合いながら、自然の均衡の中で共生しているからである。

著者は、それらは本来「ただの虫」にすぎないのだと強調する。害虫となるのは、生態系の均衡が崩れた時に限られるのである。

均衡は崩れ、自然を外側から眺める人間は、宇根の言葉を借りれば、自らが生きていた池の岸に投げ出されたフナのような存在である。

宇根豊 は、現代農業において成功の尺度となっているのは生命ではなく金銭であると述べている。たとえば、水田にどれだけ多くのオタマジャクシが生きているかではなく、どれだけ収益を上げられるかが重視されているのである。

また著者は、消費者が口にしているのは単に農家が育てた米だけではなく、その水田に暮らす「メダカ」をも含んだ世界であると指摘する。

宇根は、最終的な農産物のみを価値の中心に置き、直接利益へ結びつかない自然を周縁的なものとして扱う価値観そのものに疑問を投げかけている。そして彼は次のように述べる。

«私は、これこそが農の土台を冒涜(ぼうとく)してきた近代化思想だと思います。農は農の土台である自然に対価を払っていません。払う気がないから、自然が痩せてきたのではないでしょうか。» p. 30、宇根豊、農は過去と未来をつなぐ、2013

著者はその具体例として、ネオニコチノイド系農薬によるミツバチの大量死や、現代技術によって生命が損なわれてきた数々の事例を挙げている。

そして今日の農業が自然と対立するものとなってしまった現状を指摘し、明治以来形づくられてきた、あまりにも狭い「農業生産」の定義そのものを見直すべきだと訴えている。

«現在の私たち百姓は、昔の百姓とくらべてずいぶん狭い世界に生きているのではないでしょうか。世界が薄く、貧相になっていると言ってもいいかもしれません。» p. 39、 宇根豊、農は過去と未来をつなぐ、2013

«赤トンボは農業生産物でしょうか。日本で生まれる赤トンボは、多めに見積もると約二〇〇億匹で、そのうち九九%は田んぼで生まれていることはすでに述べました。» p. 130、宇根豊、農は過去と未来をつなぐ、2013

宇根豊 は、多くの国民が赤トンボ立派な生産物としての価値を認めるようになれば、農業そのものの転換はてきると考えている。それは何から何への転換であろうか?

農業の本質を問い直そうとする中で、著者は「農業は自然を破壊するのか、それとも破壊しないのか」という問いを投げかける。確かに農業は人為的な営みである。しかし、人間そのものを自然の一部として捉えるならば、本来の農業もまた自然の働きの一部であったとも言える。

問題となるのは、人為そのものではなく、その人為の程度である。著者によれば、本格的な問題が顕在化したのは、一九五〇年代以降、農薬や化学肥料が大量に使用されるようになってからであった。

研究者は最終的に、«農業はやり方によっては自然破壊であり、やり方によっては自然保全的だ»という哲学的結論へと至る。p. 79、宇根豊、農は過去と未来をつなぐ、2013

仏教的な言葉で言えば、農業それ自体は「空」であり、固定された善悪の本質を持たない。これはメスとドスの実態にも似ている。どちらも単なる先がとがった鉄のへらにすぎず、人間の意図次第で、人を救う道具にも、人を傷つける道具にもなり得る。

仏教では、善への過度な執着が、かえって悪を生み出すと考えられている。

ロボット工学の先駆者であり、応用仏教の思想を技術開発へ取り入れた 森政弘 は、多くの場合、貪欲や執着が善を悪へと変えてしまう一方で、足るを知ることは逆に悪を善へ転じさせる力を持つと指摘している。

川口由一 は、執着から生じる過剰な不安や心配が、現代農業をまるで輪廻のような悪循環へ追い込んでいることを示している。そしてその結果として、川口が重視する「生命力」が失われ、現代社会は深刻な生命力不足に陥っているのである。

«種をおろすときに、発芽するか否か心配で、たくさん蒔いたとします。そうすると密集して苗がひ弱になってしまいます。田植えのときも、稲が分けつするか心配なので6〜7本の苗を植えるのが一般的です。でも1〜2本で植えたほうが元気に育って、いのち豊かな恵みを手にすることができます」

きちんと育つか心配だから肥料を与える。虫がつくと困るから農薬を使う。そうやって、何かを用意して、過保護に育てれば育てるほど、いのちは軟弱になっていく。

これは人間でも同じこと。軟弱に育つと、病気になったり、現実に立ち向うことができずに悪循環に陥ってしまう。» p. 121-122、新井由己、畑から宇宙が見える

いのちを生かす自然農法

自然農法の先駆者の一人が、岡田茂吉(1882―1955)である。

近代化の時代において、彼は自然や人間の魂を汚染へと導く利己的な在り方の欠陥を見抜き、「曇り」から社会だけでなく土壌そのものを浄化することに生涯を捧げ、自然農法の基本原理を築いた。

岡田茂吉は、自然に分解され土へ還る落ち葉や枯れ草を除き、いかなる肥料にも反対した。

岡田茂吉は«作物に肥料を使うのは、人の健康に対する医薬や栄養の考え方と共通した誤りがある”確信していた。» p. 64 現代農業、2010年、8。

彼は土壌を自足した宝とみなし、その重要性を強調した。

«言わば、土その物は肥料の塊とも言うべき貴重品である。それを何時の時代どう間違えたものか、肥料という、土を殺し、土地代の栄養を阻止するような汚物を手数をかけ、農民の懐を絞り、反って減産に役立つものを使うようになったかという事で、全く驚くべき迷信にかかってしまったのである。

(栄光119号 1951年8月29日)

岡田茂吉は、肥料の害について繰り返し語り、それを「毒」とまで呼んだ。

«私は人為肥料が如何に恐るべきかを列記してみよう。 現在最も悩んでいる事は害虫の発生であらう。(中略)実は害虫なるものは肥料から発生するのであって、近来害虫の種類が殖えつつあるのは肥料の種類が殖えたからである。又殺虫剤を使用して害虫を駆除し得ても、薬剤が土に滲透して土壌を悪質化し、それが害虫発生の原因となる事を知らないとは実に愚かな話である。

肥料を吸収すると作物は非常に弱るのである。それは風水害に遇えば折れ易くなり、又花落ちがするから結実が少く背が伸びすぎ葉が大きくなる為実が葉蔭になって、米、麦、豆類は皮が厚く、実が痩せるのである。硫安や糞尿中のアンモニア、其他の化学肥料のその殆どが毒劇薬であるから、それを作物が吸収する以上、仮令微少であっても、常住胃を通じて人体内に入る以上、健康に害なしとは言はれない。(中略)糞尿肥料を二、三年中止すれば、回虫病は全滅するといふことを、最近の医学は報告している。此点に於いても無肥料栽培は偉大なる成果である。»

(地上天国1号 1948年12月1日)

自然農法の根底にあるのは、自然を搾取の対象として扱う姿勢ではなく、大地への愛とその力への信頼である。岡田茂吉は、土の威力を生かすべきだと説いた。

«自然農法の原理は人為肥料のごとき不純物を入れないことである。土を清浄に保つと、肥料に邪魔されないから土本来の性能(土にもともと備わっている、植物を健全に育てる力)を発揮される。

自然界では、

熱や光をつかさどる太陽からは«火素エネルギー»

水をつかさどる月から”水素エネルギー”、

そして地球の奥からは”土素エネルギー”

が出ていて、これら3つのエネルギー(霊気)が土に満たされると作物が正常に生育する。このことを理解したうえで”土を尊び、土を愛す”ると、土の威力は”驚くほど強化される”。

作物も肥料を使うと一時的には効果があるが、やがて”土の養分”を吸う本来の性能が衰え、いつしか肥料を養分としなければならないように変質してしまう。p. 65 現代農業、2010年、8。

自然農法のもう一人の先駆者である福岡正信(1913–2008)は、土の力を軽視し、肥料に頼るようになった結果、農産物は人工的な模造品へと変わり、不自然に合成された味を持つ、作られた食品が生まれたと指摘している。

«いわゆる現在の近代農法というのは、自然を生かして、自然のめぐみを収穫するというのではなくて、チッ素、リン酸、カリを合わせて米を合成する、野菜を合成する、果物を合成してるんじゃないか。私はこういうのを、加工業者だというんですよ。近代農法っていうのは、自然を生かして、それを利用したと言ってるけど、そうじゃなくて、それを踏み台にして、それのまねごとをしてるんじゃないですか。人工的な、自然のものに似た、にせものを作っているにしかすぎないんです。

だから、野菜でもですね、自然のものだと思ったら、味がちがう。これは、チッ素、リン酸、カリという合成品で、ただ、わずかに、その野菜の種を使って、それに吸収させて、そのチッ素、リン酸、カリが変形したものが、そのものの味になってるんです。» p. 121、わら一本の革命、福岡正信、1983

福岡正信もまた、太陽のエネルギーが軽視されていることを指摘している。今日では、多くの野菜がビニールハウスで栽培され、茶も被覆栽培によって育てられているが、それは抗酸化物質を生み出す光合成を妨げるだけでなく、味わいそのものを歪めてしまう。

最近、農林省のある技官と話していましたら、こんな話が出たんです。「温室作りの野菜がこのごろ非常にうまくない。冬出すナスビなんかに、栄養がない、キュウリに味がない、というような話を聞かされるので、この研究に着手したが、結局、ビニールやガラスの中で紫外線の通らないところで作っているから、そのようになるんだということがわかってきて、現在はいろいろな光の研究をして、ビタミンの多い野菜を作るということを研究しているというような話でした。

これなども、冬に人間は、ナスビやキュウリを食う必要があるのかないのか、ということが実は根本問題だと思うんです。それをほうっておいて、とにかく、冬という時ならぬ時に作れば、野菜が値よく売れるから、という理由だけで作ったにすぎない。そういう作り方を誰かが開発する。開発して、しばらくしてみると、それには、いわゆる栄養がないということがわかってくる。

栄養がなくなれば、それを防ぎゃいいんじゃないかということを、すぐに技術者は考える。そして、栄養がないのは光線にその原因があるとすれば、すぐその光線を研究して、ぼう大な設備と機械を使って、新しい光線を照射する、そして、ビタミンのあるナスビを作って出せばいいじゃないか。もちろんそれには、資材労力が莫大にかかっているから、いままでの温室もののナスビよりは高くつく。

それでもビタミン入りとか、あるいは栄養価の高いナスビと言えば、値もよく売れるだろう。売れさえして、元が引き合えば、それでいいじゃないかということになってしまう。» p. 125-126、わら一本の革命、福岡正信、1983

日本の医師・新谷弘実は、露地野菜の価値を強調している。その考えは茶にも当てはまる。現代では、美しい色合いと旨味を強めることを目的として、茶が過度に遮光栽培されることも多い。

«じつは日本各地で見られるハウス栽培は日本独自のものでアメリカにはありません。ハウスを用いる目的は、害虫被害の軽減と室温管理ですが、ビニールによって太陽光線を遮断するデメリットがあることはあまり知られていません。もともと植物というのは、動物のように動き回ることはできません。そのため多量の紫外線にさらされます。紫外線は動植物に強いフリーラジカルを受けさせて酸化を促進させるので、植物はみずからの身を守るために抗酸化物質を体内に大量に作り出す仕組みを備えています。それが植物に多く含まれるビタミンA・C・Eなどのビタミン類や、フラボノイド、イソフラボン、カテキンなどのポリフェノールなのです。

こうした抗酸化物質は植物が紫外線を受けたときに作り出されます。つまり、ビニールなどで太陽光線を遮断してしまうと、植物に降り注ぐ紫外線が減り、結果としてビタミンやポリフェノールなど抗酸化物質の含有量が減ってしまうのです。今の日本の農業は、栄養価よりも見映えの良いものを作ることが優先されてしまっています。自然の中で育った野菜というのは、むしぐい穴があったり、形に大小があったりと、本当はそれほど見映えのよいものではありません。でもそのぶん、『エネルギー』備えています。» p. 220-221、新谷弘実、病気にならない生き方、株式会社サンマーク出版、2014年。

私たちは辻野将之の考えに深く共感しており、近い将来、太陽の光を十分に浴びて育った茶や野菜が当たり前の存在になることを願っている。

『太陽の光を浴びないと気がめぐらないのは植物も同様です。どれだけ有機肥料や無農薬にこだわった野菜でも、直射日光を浴びない屋内で育てられたら、その野菜本来の栄養やエネルギーを持っていないかもしれません。健康に気をつかうのであれば、できる限り太陽をいっぱいに浴びた露地栽培の野菜、天日干しの乾物や干物を選び、間接的に太陽のエネルギーを体内に取り込む、すなわち「太陽を食べる」ことを心がけたいものです。』p. 111、からだと心を整える食養生、辻野将之、2015。 

上記のような主張は一見自明に思われるにもかかわらず、一年中利益を生み出すことに従属した科学技術の進歩は、なおも「太陽を追い越そう」とする試みを続けている。

茶舗・ 福寿園 の公式サイトには、次のようなニュースが掲載されている。

«福寿園CHA遊学パークでは、研究の一環として、年間を通してお茶を収穫する『通年摘採』に取り組んでいます。これは、土の代わりに軽石を敷き詰めて液体肥料で育てる『礫耕栽培』を用い、実験温室の温度・湿度・光を管理することで、通常とは異なる時期に収穫を可能にするものです。

2026年1月5日には、温室で育てた新茶を摘み、福寿園CHA遊学パークで蒸熱を行った後、宇治の福寿園宇治茶工房にて伝統的な手揉み製法で宇治茶に仕上げました。本年も、お茶の魅力や楽しみを皆さまにお届けできるよう努めてまいります。どうぞよろしくお願いいたします。»

もしかすると、そのように人工的に作り出された茶が、高級茶として一つの地位を築くことはあるのかもしれない。だが、もし現代から千年ほど昔へと遡ってみれば、季節から切り離された茶は、皇帝にとってさえ価値を持たなかったことが見えてくる。なぜなら、高級茶も日常の茶も、その源は結局のところ同じ、生きた自然だからである。

中国の研究者・李开周はこう指摘している。

«往年、朝廷に献上される新茶は、いずれも早春に萌え出た茶芽を用いて製造されていた。ところが後に福建転運使は、宋の徽宗帝 徽宗 の歓心を買うため、冬になると暖房施設で茶樹を保護し、本来なら休眠しているはずの茶樹に厳冬のさなか新芽を萌出させ、その冬芽を用いて貢茶を作り、冬至以前に徽宗へ献上した。

しかし蔡絛が述べるように、「茶はその芽を貴ぶのであり、その価値は社前にある。御前を欺くようなものではない」。人工的に育成された冬茶は「自然に近からず」、かえって早春の芽茶に及ばなかった。» p. 26、宋茶、2022

宋代においてすでに人工的な環境による茶栽培には疑問が向けられていたが、今日ではそれがむしろ当たり前となっている。現代日本において被覆栽培は、日本茶の品質を示す重要な条件として広く受け入れられている。

もちろん、場合によっては被覆が有効に働くこともある。しかし、濃厚な水色やうま味を求めるあまり、過度な被覆栽培が一般化した結果、茶は高価になり、本来備えていた爽やかで繊細な香気を失い、同時に飲み飽きしにくさまでも損なわれつつある。

また、被覆は収量の低下を招くため、生産コストもさらに上昇する。その意味で、被覆茶は「日常性の限られた茶」であるとも言えよう。

太陽エネルギーを最大限に活用することは、本来農業における重要な原則の一つである。たとえば大石貞男は、「おいしいお茶を安く提供」(1978年4月)という論考の中で、その必要性を説いていた。実際には、高度経済成長期の中で大きく後退した日本茶の日常性を、再び取り戻そうとしていたのである。

«日本経済が高度成長の時代は高級茶の追求だけでもよかったかも知れない。しかし減成長の時代において生活のなかで茶に支払う金額の伸びがそれほど期待できない以上、魅力ある茶という条件とともに、いかに安く提供できるかを強く考えなければならない時代である。(中略) 昨今、生葉生産の上昇は、労力、機械、肥料、農薬、燃料、電力などの補助エネルギーの高騰が大きい。いかにこれらの効率化をはかるかというのは今後に余地を残している問題である。

また、茶はいまでもよく植物であり、太陽エネルギーを利用して生長(物質生産)を行なっているのであるから前頁の補助エネルギーにも関連するが、太陽エネルギーの利用にもっと注目しなければならない。光合成をいかに高度に利用するかは相対的に補助エネルギーを節約することになり生産費を下げることになるからである。» p. 448-449、集成、5、茶随想

大石の提唱した原則は決して新しいものではない。それは農業そのものと同じほど古く、昔から優れた農家によって実践されてきたものである。

たとえば、静岡県井川地区の山間集落・伊久美の茶農家、斉藤安彦は、この原則を見事に体得している。その点について小川誠二は次のように述べている。

«栽培した茶葉の収穫に当って。新らしく伸びた芽を全部刈り獲るのが通例ですが、齋藤さんは、新芽を二〜三枚残して刈ります。そうすることによって、通常に比べてその時の収穫量は減ります。ところが、残された葉は、〝光合成〟の作用によって自らの生命力でエネルギーを内に貯え、根を張らせ枝を繁茂させるのです。

収量が減れば収入は減るというのは自然の理です。しかし、肥料が不要である分支出は減っているのです。農業経営は一年で終わりというものではありません。» p. 26、茶に貞く

斎藤は、長年定着してきた固定観念を見事に打ち破っている。こうした型破りな農家の姿勢に驚いた小川誠二は、次のように述べている。

«長い目で見れば、結局プラス・マイナスどちらがよいことになるのでしょうか。» p. 26、茶に貞く

太陽エネルギーを受け取る茶葉の受光面積という観点から見れば、未成熟な若芽を摘採することは、風味の面からも、生産効率の面からも、必ずしも合理的とは言えない。

1999年9月号の月刊『茶』誌では、斎藤氏の特集記事が組まれている。「遅く摘むほどいい」と題されたその記事には、斎藤氏について「品質を第一に考え、摘採期を遅くする工夫をしている。」と記されている。p. 52。

しかし、一般的な常識に従えば、茶葉は成長するにつれて品質が低下するはずではないだろうか。だが、実際はそう単純ではない。斎藤氏の茶園こそ、「良い茶を大量に作ること」は矛盾ではなく、本来あるべき姿であることを示す生きた証と言える。必要なのは、茶を深く知り、その品質が一方向にのみ変化するものではないと理解することである。

個人経営の茶農家である斎藤氏は、中古の製茶機械を組み合わせ、自ら120キロ規模の製茶ラインを作り上げた。そして15ヘクタールに及ぶ茶園の茶葉を、その設備で加工している。

さらに氏は、台湾製の製茶設備を工場に導入し、多種多様な品種から中国茶を製造している。その年間売上は、すでに十億円を超えて久しい。

この工夫に富んだこの農家は、肥料や農薬をほとんど使用しない。しかし、それらを絶対悪とも見なしていない。氏は、それらが害にも益にもなりうるという「空」の性質を理解しているのである。これは、薬を無闇に飲むべきではないが、適切なタイミングでの抗生物質の使用が命を救うこともある、という考え方に近い。

斎藤氏の目的は、有機農業そのものではない。低コストで、健全な味わいを持つ健康な茶を育てることである。

斎藤氏とお会いした時に、氏が小川八重子と親交を持ち、健康に役立つ日常茶の価値について、その考えに深く共感していたことを知った。

斎藤氏の茶を口に含むたび、それはまるで新鮮な空気を吸い込むような感覚をもたらす。緑茶であれ、紅茶であれ、その他どの茶であれ、その香りはやわらかく自然で、味わいは軽やかで清々しい。

私はそこに、自然の味であると同時に、日常の味を感じるのである。

いのちの味

農産物の栽培方法や加工方法は、その味や香りに直接表れる。そして味と香りとは、本来切り離すことのできないものである。味について論じる際、私たちは決して香りを忘れることはない。

中国の養生 (医農食同源)の思想、すなわち「食は薬である」という養生観の立場から味を考えるならば、人の日常に最もふさわしいのは、自然な味であると言える。

森下敬一は、日常の食生活について論じる中で、自然農法によって育てられた野菜を「ベストの食事」として推奨している。そうであるならば、日常茶の理想的な味とは、自然農法から生まれる味に他ならない。

福岡正信は、「真の味」とは「体にいい味」、「自然の味」であると考えていた。

『野草化した野菜と一般の農家の庭先や、田で肥料をやって作った野菜と、どちらがうまいだろうかというような話が出てきたわけですけれど、それも、比較してみますと、もう、全く香りとか味とかが違ったもので、野生化したものは強烈で、コクのある味だというようなことを確認したわけなんです。なぜこうなるんだろうか、というような質問をされたから、私は即座に、それはもう、むつかしく考えることはないんだ。

畑で野菜を作った場合には、チッ素、リン酸、カリ肥料というふうな三要素のみの化学肥料を使って野菜を作っている。一方、この草の中というのは、草の種類が多ければ多いほど、あらゆる養分というものが土壌の中にある。雑草のはえてるところ、クローバーのはえてるところ、混生しているところには、チッ素、リン酸、カリはもちろん、豊富な各種の微量要素が、そこには含まれている。ミネラルがあるし、何でもある。こういう中で、そういうものを吸収して太った植物というものは、複雑な味になる。

いわゆる味でいえば、ただ単にあまいということだけでなくて、にが味、から味、すっぱ味、しぶ味、こういうものが全部ミックスされたものが、自然の味、自然に作られたものの味になる。もう一つ言うと、人工的に改良されてきた野菜よりも、野生の草、山菜というものの方が、現在作られている野菜より価値があると言えます。一般の人が山菜を尊ぶようになってきたというのは、昔の野菜や、山菜の方に、現在、一般の人が食べている野菜よりも風味があり、味があるということを、思いだしたというか、そういうことがわかってきたんだと思う。自然の山野にあるものは、コクのある味ができる。そして、野生に近い改良されてないものは、本質的に、そういう、あらゆる味っていうものをかねそなえている。本当の草になってくると、それが、人間の体にもいいことになってくるんです。

結局、本当の味っていうものは、人間の体にいいものということになる。(食物と薬というのは二物でなく、表裏一体のものです。現在の野菜は、食物ではあっても薬にはならないが、改良されなかった昔のものは、食用にも薬にもなるというのが本来だったのです。』p. 107-108、わら一本の革命、自然農法、福岡正信

福岡は、食べ物の味と農法との不可分な結びつきを重視していた。しかし今日、その関係は、不自然に人工合成された味によって壊されつつある。彼は「現代人の味覚は狂ってしまった」と記している。

彼は、本来、自然さと禅的な節度、簡素さ、そして「空」を特徴としていた精進料理が、合成的な食品によって形だけ模倣されている現状を批判した。

空的に考えれば、食べ物もまた「空」であり、その味は常に移ろいゆくものだからである。福岡の文章には、行間の至るところに仏教的な空の感覚が漂っている。実際、『わら一本の革命』の一節には、次のような直接的な引用が見られる。

«犬が西向きゃ尾は東、簡単明瞭な世でありながら、この世ぐらいむずかしい所もない。東も西も無い」と弘法大師はいう。万巻のお経の中で一番ありがたい、大事が書いてあるとされる般若心経の中で、お釈迦さんは、”色即是空、空即是色。物質も精神も一つ、しかも一切は空なり。» p. 159、わら一本の革命、1983

福岡は、料理人の包丁も、「文化」という言葉そのものも空であると語る。今日、それらは本来とはまったく異なる中身によって満たされてしまっている。

«料理が、自然を加工して自然とは似ても似つかない珍味や奇妙な味を出して、人間をよろこばすのが目的になれば似非文化になる。

包丁もまた剣と同じこと、使う人、場合で正にも邪にもなる。一口にいえば禅と食は一如、自然食の醍醐味を味わうために精進料理や懐石料理があると言える。

したがって、百姓が土足では行けないような高級料理店の奥座敷には、不自然な懐石料理があっても、つつましい自然の懐石料理はもうない。

いろりのはたの番茶の方が、茶席の玉露よりうまい世の中になっては、茶の文化も終わりである。» p. 212、わら一本の革命、1983

「禅と食は一如」という表現は、「茶禅一味」という言葉を思い起こさせる。現代の日本茶には、人を救うための禅が、あまりにも少なくなってしまったように思われる。禅は、とりわけ余韻の中に最もよく現れる。

味について論じる多くの著者たちは、自然な食品を見分ける最大の指標は、スッキリとした後味にあると指摘している。

”雑味のない食べ物を頂いた時、後味がすごくスッキリします。自然農で育てたみかんの場合、透明感のあるスッキリとした味になります。その食べ物が本物かどうかは、後味が教えてくれます。そして後味を味わっている時、身体の奥の方から太陽の陽だまりにいるような、柔らかくて暖かい感覚が湧き上がってくるときがあります。これは、身体が『ありがとう』と言っているサインのように感じます。身体は何に感謝しているのでしょう。身体が求めていた栄養素を受け取った時、身体全体で喜びを表現しているように思います。それが『美味しい』ということです。』p. 48, 森賢三、森光司、農から学ぶ哲学、株式会社文芸社、2019年。

お茶の無農薬無科学肥料栽培から自然栽培への転換を成功した熊本県の松本和也さんは自然栽培茶の嗜好度よりその自然度・日常度の高さを強調している。

『よく、無農薬のお茶は味がいまいちだと言われたりしますが、自然栽培にしても、栽培、製造方法によっておいしいお茶を作ることは可能だと思います。(。。。)自然栽培のお茶はさっぱりしていて、すっと体になじむ。けれども、ただ浅いのではなく、深みを感じる。すっきりしていて、味わい深い”のではないかと思います。』p. 193、松本和也、スッキリして深い自然栽培のお茶、 自然栽培の世界、日本経済新聞出版社、木村秋則 責任編集

「無施肥無農薬栽培」としても知られる自然農の思想は、川口由一(1939–2023)や木村秋則(1949– )等、多くの志ある農家たちによって受け継がれ、発展させられていった。

川口由一は、食べ物の味を生命力と直接結びつけて捉えていた。

『農産物の味は、すなわち生命力です。本来の味の追求は、どれだけのいのちを宿しているかの追求でなければなりません。本来よりの豊かないのちを十全に宿していれば、その味は豊かでおいしい。その味の違いは、言葉で示しがたしですが、指し示すことはできます。爽やかな味、しっかりした味、足るを知ることのできる味、多くを貪らない味、あるいは香りのある味、甘味のある味、本来の味、深い味。。。食べて味得しながら得るいのち豊かな真の味は格別です。一度その味を身体で知り覚えたならば、そこから外れている味との違いは明確になります。

味とはいのちの味であり、その作物が田畑で育ってくるなかで食べていたものが、味を大きく左右します。例えば、化学肥料や動物の糞尿中心で育っている場合は、化学肥料や動物の糞尿の臭い味が強くあります。自然本来の野山のところのものは香りがよくて、化学物質や動物の糞尿の味はいたしません。そこには小鳥の糞や小動物の糞尿も死体もありますが、それ以外にも数えきれず、はかり知れないいのちの営みからもたらされるものが足元にあって、糞尿の味はいたしません。』p. 20、 川口由一 、自然農にいのち宿りて、創森社、2017。

2020年11月7日、私は奈良県桜井市で川口由一氏と直接お会いする幸運に恵まれた。氏は2023年に亡くなるまで、その地で暮らしていた。私は、南山城村の放棄茶園で育てられた出来たての秋番茶を持参した。その茶園は、地元の農家たちと共に再生したものである。

川口氏は、香ばしい番茶を湯呑みにたっぷり注いで美味しそうに飲み干すと、微笑みながら私の目を見て、こう語った。「これこそ、足るを知る、本当のいのちの味ですね。」

煎茶――栽培から製造へ

茶の栽培は、その成分、味わい、香りを左右する最も重要な工程である。不自然な環境で育てられた茶葉は、その後どれほど巧みに加工し、丁寧に淹れたとしても、本当に優れた茶となることは難しい。

茶葉は摘採されると間もなく製茶工場へ運ばれ、加工工程へと入る。これもまた、茶樹から乾燥茶へ至る過程において欠かすことのできない重要な段階である。いかに栽培が適切であっても、製造の過程で品質を損なうことは十分にあり得る。本章では煎茶製造の主な工程と、その品質を左右するいくつかの技術的要因について見ていきたい。

まず茶葉は摘採される。摘採には、二人で担ぐ可搬式摘採機を用いる方法と、乗用型摘採機を用いる方法がある。乗用型は作業効率に優れる一方、急峻な山間地では使用が難しい。

摘み取られた生葉は、通常、茶園の近くにある製茶工場へ運ばれる。摘採後の葉はなお生命活動を続けており、呼吸を行いながら熱を発する。処理を待つ間は十分な通風を確保しなければならない。そのため生葉は送風設備を備えた生葉コンテナに収容される。

大量の生葉を長時間積み上げたままにすると葉温が急上昇し、蒸れを起こすことがある。

また雨に濡れた葉は蒸れやすく、その後の蒸熱工程にも悪影響を及ぼす。このため茶の摘採は古くから晴天時に行うことが基本とされてきた。

次に生葉は蒸機へ送られ、蒸気による蒸熱処理を受ける。これはいわゆる殺青であり、酸化酵素を失活させるための工程である。

蒸しが不足すると酵素的酸化が継続し、茶葉は褐変を始める。香気には烏龍茶を思わせる要素が現れ、茶湯も赤みを帯びるようになる。また蒸熱には酸化を抑制するだけでなく、生葉特有の青臭さを和らげる働きもある。

蒸熱を終えた茶葉は冷却された後、粗揉機へ送られる。ここで茶葉は熱風を受けながら撹拌され、揉み手によって揉まれていく。粗揉機の内部には手のひらを思わせる凹凸が設けられており、茶葉はその表面に押し付けられながら徐々に形を整えていく。機械製茶はもともと手揉みの動作を機械的に再現する試みから発達したものであり、今日の製茶機械にもその名残を見ることができる。

粗揉工程では乾燥と揉みが同時に進行するが、生葉の量が過剰であったり熱風の供給が不足したりすると、葉が蒸れてしまうことがある。蒸れた茶葉は不快なむれ臭を帯び、品質を著しく損なう。
粗揉機の前には、しばしば葉打機が設置される。外観は粗揉機とよく似ているが、その役割は異なる。粗揉機の揉み手に代わって平らな羽根(はざらい)が取り付けられており、回転によって茶葉を空中へと跳ね上げる。

葉打機の目的は、蒸熱直後の茶葉から余分な熱を素早く取り除くことである。同時に葉の表面に付着した水滴を除去し、高温多湿の状態にある茶葉が塊になるのを防ぐ役割も果たしている。

こうしてある程度の水分を失った茶葉は、次に揉捻機へ送られる。揉捻は煎茶製造において唯一加熱を伴わない工程である。

揉捻機では重りによる圧力を加えながら茶葉を強く揉み込み、細胞組織の一部を破壊する。これによって葉や茎の内部に含まれる水分や内容成分がより均一に分散し、後の整形工程に適した状態となる。また、この工程は煎茶特有の細く締まった形状を形成するための重要な準備段階でもある。

すでに述べたように、明治時代になると煎茶は輸出を目的としてより強く揉まれるようになった。その結果、茶葉は細く美しい針状を獲得したが、一方で熱湯に耐えられなくなっていった。

強く揉まれた煎茶は抽出が速くなり、熱湯に対して苦味や渋味を出しやすくなる。そのため今日でも多くの煎茶は湯冷ましを前提としている。

このことは煎茶の高級茶としての価値を高めた一方で、日常茶としての扱いやすさをいくらか失わせたとも言えるだろう。

百年ほど前の歴史を振り返ると、煎茶は一度だけこの針状の姿から距離を置き、より日常的な茶として親しまれる方向へ向かったことがあった。

それは、煎茶が自らの原点である父たる番茶へと、ほんの一歩だけ歩み寄った瞬間だったのかもしれない。

露国向特殊茶

1920年代半ばになると、革命と内戦の混乱から立ち直ったソ連は対外貿易の再建を進めていた。『日本茶業史』(1936年)によれば、「閉された露西亜の門戸が開く」という言葉は、当時、世界各国の実業界で広く語られた希望の象徴だったという(p. 225)。

中央アジアの諸共和国向けには中国緑茶が供給されていたが、政治的・物流的な混乱のため依然として不足が続いていた。そうした中、1924年、ウラジオストクの茶業トラストから、上海の中国人商人を通じて日本へ試験的な緑茶の注文が寄せられた。

この茶は中国緑茶に混ぜて使用し、数量を増やしながら価格を抑える目的で導入される予定だった。しかし当時の煎茶は細長い針状で、中国茶とは外観が大きく異なっていた。一方、中国茶の形状はむしろ日本の釜炒り茶に近かったが、静岡県では釜炒り茶が低級な番茶と見なされ、その製造は認められていなかった。

そこで静岡県茶業組合は、中国釜炒り茶に似た外観を蒸製法によって再現することを試みた。煎茶製造から精揉工程を省き、その代わりに茶葉を回転胴の中で揉み上げたのである。その結果、中国茶によく似た曲がりくねった形状の茶が誕生した。

それまで針状だった煎茶は、丸みを帯びた独特の姿へと変わった。静岡ではこの新しい輸出茶を「ぐり茶」と呼んだ。また、その形がひらがなの「よ」に似ていることから、「よんこん」の名でも知られるようになったという。

この独特の形は、仕上げ工程の終盤に行われる再乾燥によって生み出された。茶葉を回転胴に入れると、葉は自らの重みで曲がりながら乾燥し、やがて丸みを帯びた形へと整えられていく。

その手本となったのが、中国を代表する輸出茶の一つであるハイソンだった。ハイソンは大きめの葉を丸く揉み込んだ茶で、その外観から低級茶と見なされることもある。しかし茶の日常性という観点から見れば、ハイソンは優れた大衆茶だった。

価格は手頃で、熱湯にも耐え、香味は安定している。さらに爽やかな飲み心地を備えていた。18世紀のイギリスでは高く評価され、課税額も他の茶より高かった。1773年のボストン茶会事件では、海に投げ込まれた三百箱余りの茶のうち七十箱がハイソンだったと伝えられている。

こうしてハイソンは、生まれたばかりのぐり茶にとって”先生”となった。ぐり茶はハイソンから日常性を学びながら、蒸し茶としての個性を少しずつソ連市場の需要へ適応させていったのである。その過程で重要な役割を果たしたのが、茶商であり製茶技術にも精通していた鈴木孫太郎だった。

1925年にはソ連大使館の代表団が「日本一の大茶園牧之原と静岡再製市場とを観察し、日本茶に對する理解を深めていった。」(『日本茶業史』p. 230)代表団を率いていたのは全権代表ヴィクトル・レオンチェヴィチ・コップであった。

一方、ソ連は自国の茶業育成にも積極的に取り組んでいた。わずか二年後の1927年には、チフリス近郊に450ヘクタールの茶園が開かれ、中国種、日本種、インド種の茶種子が播かれた。

話をぐり茶に戻そう。1925年、一番茶を用いた試験製品50ポンド(約23キログラム)が上海へ送られ、現地でソ連側の茶業専門家による検査を受けた。試飲の結果、いくつかの改善点が指摘された。

まず香気がハイソンに大きく及ばなかった。香りは青臭さが強く、不快な魚臭を伴うものと評価された。これは当時、日本で旨味を高める目的からニシンの加工残渣を肥料として用いていたこととも無関係ではなかった。

またソ連側の専門家は、「日本茶は葉が一枚々々平たく揉捻され居るが、これを圓く仕上げる必要あり」と指摘していた(『日本茶業史』p. 228)。

「露国住民の嗜好に投ずるよう、その蒸し度、その揉捻、その乾燥について露国検査員等の意見を徴して熱心改善に努むる一方、大正15年には對露輸出組合を組織して輸出の統制を計り、露国大使館とも密接な連絡を保ち益々馬力を加えるようになり」(『日本茶業史』p. 230)

やがて東京にはソヴェート政府の通商代表部が設けられ、その代表であったアニケーエフ氏も牧之原を視察した。氏は日本茶業の高い技術水準と日本茶の品質を高く評価し、今後の協力関係に大きな期待を示した。『日本茶業史』は、「その一語により日本茶の将来には大なる望が繋がれるようになった。」(p. 231)と記している。

「この對露製茶取引關係からして日本茶業者の間に温き印象を與へたるは、露國セントルサューズ(中央購買同盟組合)上海支部の副茶師として昭和四年五月、日本茶檢査の任務を帯び來朝したヒョドール・エミリエウキッチ・シェーニング氏其人であらう。氏は露西亜の一茶方に過ぎないが、その一言一行は日本茶のヨリ良き指導者として、又强き味方として最も光輝ある大きな存在であつた。當時通商代表部輸入主任のザイドネル氏と同行、静岡縣下のグリ茶状況を視察し、先づ日本茶のために最も親切なる忠言として其第一聲を放つたのであつた。」(『日本茶業史』p. 231)

「日本茶の製造工程を見ると、茶そのものに苦労をかけ過ぎるといふ感じがする。」とシェーニングが指摘している。

こうした日ソ双方の協力によって、製造工程の見直しが進められ、数々の改良が加えられた。

『日本茶業史』によれば、「シェーニング氏の日本茶に對する忠言は、少からぬ営業者を啓發するに力があつた。しかも氏は緑茶に對して親切に世話を焼いたばかりでなく、新日本の紅茶進出に對しても熱心なる指導誘掖の勞を惜まなかつた。日本の紅茶は明治初年以來屡々研究を繰返したが、未だその基礎を固めて貿易線上に躍り出すまでには至らなかつた。

然るにシェーニング氏の指導によりて、どうにか日本紅茶をモノにしたのは、同氏が滞留四年にして日本を去つた昭和八年からの事で、翌九年に於ける新興紅茶の活躍は實に目醒ましきものがあり、何れも氏の徳として、その大きな足跡を慕はぬものはなかったのである。」(p. 232)

ぐり茶は好調な売れ行きを示し、その将来に大きな期待が寄せられた。中国産ハイソン茶の模倣として生まれたものの、次第に独立した茶種としての地位を確立し、ついには国内市場における正式な認知が求められるようになった。

「對露輸出の日本グリ茶は、かくして支那茶を壓倒し、堂々一本立の地位を獲得したが、同じ緑茶である以上、在來のノビ茶の如く之を内地の需用にも供し、生産過剰等の場合に備ふるの必要ありとし、昭和七年度中央會の事業として、内地向に最も好適なる茶銘の懸賞募集をなし、同年十一月十七日左の人々により之が審査を行ひ、ここに『玉緑茶』の新しき茶銘を得たのである。」(『日本茶業史』p. 235)

その後、輸出向けの玉緑茶はハイソンにならって等級分けされた。

大葉 ― 「梅」
中葉 ― 「桜」
小葉 ― 「小桜」

日本人がこの新しい茶にどれほど大きな期待を寄せていたかは、公募に寄せられた他の名称候補からも窺える。

倭茶、日之丸茶、富士茶、桜茶、珠茶、勾玉茶、皇国茶などである。

まるで、ぐり茶に日本を代表する国民茶としての未来を託そうとしていたかのようである。しかし、その未来はまもなく始まる戦争によって断ち切られることになる。

このとき日本人がぐり茶に託した夢は、ひょっとすると二十一世紀の今日になって実現へ向かいつつあるのかもしれない。

ぐり茶に一章を割いた『日本茶業史』が印刷に付されたのは1936年12月であった。日中全面戦争の勃発まで、なお半年ほどの時間が残されていた。

しかし世界の緊張が高まりつつあったその時代にあっても、著者たちは章の最後で未来に向けて次のような願いを記している。

「玉緑茶よ、永遠に我が茶業界にさきくあれ。」(『日本茶業史』p. 236)

期待を背負った茶

第二次世界大戦後も、玉緑茶はモロッコをはじめとする北アフリカ諸国へ輸出され続けた。1958年には、モロッコ最大の都市カサブランカに日本茶専門店が開設された。

後にカサブランカを訪れた高宇政光は、その著書『お茶は世界をかけめぐる』の中で、現地のおじいさんが「チュンミー」の「さっぱりした味で甘い香りがした」を懐かしそうに語っていたことを紹介している。しかし、そのチュンミーとは、実際には日本で製造された玉緑茶であった。p. 173

興味深いことに、1960年代末頃まで煎茶の製造工程は玉緑茶の製造工程により近いものであった。いずれの場合も、揉捻機を通過した茶葉は再乾機へ送られ、そこで揉みほぐされながら乾燥された。

玉緑茶の製造ラインでは、この再乾機が通常二基設置されていた。第一再乾機を通過した茶葉は三号から五号程度の比較的粗い篩で選別される。篩上には、すでに十分乾燥した番茶的な葉が残り、さらなる乾燥を必要としなかった。

一方、篩を通過した細かな茶芽は第二再乾機へ送られる。この部分は、より若く水分の多い芽葉からなり、第二再乾機の中でさらに乾燥し、丸まっていき、次第に勾玉状へと形づくられていった。その後、茶葉は乾燥機へ送られ、玉緑茶の製造工程は完了した。

これに対して煎茶の場合、茶葉は再乾機の後に精揉機へ送られ、加熱を受けながら針状に整形された。

すなわち、戦後の日本には大きく二つの茶の形態が存在していたのである。輸出向けの丸い形状をもつ玉緑茶と、国内向けの針状の煎茶である。静岡では、揉捻機で十分に揉み込んだ茶葉を再乾機で攪拌しながら仕上げて玉緑茶を製造していたのに対し、京都では、繊細な芽を潰さないよう揉捻機を用いず、より丁寧に煎茶や玉露が作られていた。

再乾機に投入された芽葉の多くは団子状に固まり、一度その状態になると、美しい針状へ整形することは困難であった。この経験を踏まえ、京都府茶業研究所ではすでに1920年代から、再乾機に類似しながらも粗揉機と同様の揉み手を備えた機械の開発が進められていた。

高橋宇正は月刊『茶』2026年5月号において、『茶業宝典』(1950年版)では、この工程に配置される機械として再乾機が記載されていると指摘している。

同書には中揉機も登場するものの、それは独立した機械としてではなく、再乾機の一種として扱われている。

«再乾機 粗揉機に似た構造である。これには最近一種の廻轉乾燥機と見做される型のものも多く利用されて来ている。

本機は撚れ形を與へ、外乾きをさせずに平均に水分を蒸發出来るものが良い。中揉機と呼ばれるものは揉切操作を行うもので、割竹製タガ内張り廻轉胴の内部を通るシャフトに、粗揉機類似の軽い圧迫手(揉手)を持つものを云うのであつて、嫩芽を原料とする高級茶用としては好適である。

是には専らドラム径七五糎級以下の小型のものが愛用されている。しかし一般には内部のシャフトに数個の葉さばき用の「へら状」攪拌手を持つものとか、数個の斜横桟による引上旋轉混合型が愛用される。» p. 164-165、

茶業が輸出中心から国内市場中心へと移行するにつれ、再乾機は次第に中揉機へと置き換えられていった。高橋宇正によれば、1968年には大型中揉機が開発され、まもなく広く普及したという。

その結果、一般的な煎茶製造ラインでは、揉捻機に続いて中揉機が用いられるようになり、茶葉に加わる揉圧はさらに強まった。こうして日本茶はより若芽志向となり、より針状の外観を備える一方で、日常的に熱湯で淹れる茶としての性格を次第に失っていった。

1954年および1958年には、輸出向け玉緑茶と、それに対応する中国茶との比較研究が行われた。

その結果、中国茶は手摘みの若い原料を用いて製造されていたのに対し、日本茶は機械摘みで、切れ葉や軽量葉の割合が高く、芯芽も少なかったため、アミノ酸含量も低いことが明らかになった。味わいも中国茶に比べて甘味や厚みに欠けると評価され、研究者たちは中国茶の方が品質面で優れているとの結論に至った。

こうして、本来は飲みやすく廉価であった玉緑茶も、いつしか高品質化競争へと巻き込まれていった。そのことが、玉緑茶が日常茶としての性格だけでなく、海外市場をも徐々に失っていく一因となった可能性は否定できない。

しかし1950年代末になると、高度経済成長の波に乗って拡大する国内市場が玉緑茶の前に開かれた。玉緑茶には再び大きな期待が寄せられるようになった。

松下智は、日本人の食生活が脂肪分の多い食事へと変化したことにより、うま味の強い茶よりも、うま味が控えめでカテキン含量の高い茶が好まれるようになったと指摘している。当時の玉緑茶は、まさにそのような特徴を備えた茶であった。

1976年に刊行された茶業関係の書籍には、「この玉緑茶は、マイールドな味で近代感覚に合っているらしく、以前は九州などの一部でしか飲まれていなかったものが、この頃では東京とか北海道あたりでも、消費者の方々に愛飲されるようになりました。」と記されている。p. 89、茶、西日本茶商倶楽部、1976

さらに同書では、品質の方向性として次のように述べられている。「玉緑茶、青やぎは特に若芽のうちに摘み取って製造したものが、味も香りも抜群です。」p. 89、茶、西日本茶商倶楽部、1976

1970年代頃から、「抜群な味」と「若芽」は、しだいに茶の絶対的な品質基準として位置づけられるようになっていった。

SIMPLE IS THE BEST

玉緑茶にどれほど大きな期待が託されようとも、それはあくまで茶の一つの存在形態にすぎない。その形態自体に善し悪しはなく、望ましい内容にも望ましくない内容にも容易に満たされ得る。

同じことは釜炒り茶についても言える。釜炒り茶の高級化と日常性の喪失は、茶を「高付加価値商品」として利益を引き出す道具へと変えようとする欲望が、いかに茶を人々の日常から引き離していくかを示す好例である。

おいしく、体にいい実用的な飲み物としての茶は、いわば名ばかりとなり、空虚で形式的な殻だけが残される。名称とは紛らわしいものであり、しばしば混乱を招く。たとえば今日では、玉緑茶という名称は、釜炒り製玉緑茶(釜炒り茶)と蒸製玉緑茶(ぐり茶・よんこん)という二つの系統を包括する総称となっている。茶の種類を分ける境界は実際にはきわめて曖昧であり、その名称が現実の茶の姿と一致しないことも少なくない。

2007年、小川誠二は釜炒り茶の退化について次のように述べている。

«現在生産され販売されている金り茶の多くは、釜刺製王編茶と教されるものであるに拘わらず、蒸製(蒸しグリ)(まがいの疑似釜妙茶です。水ッぽく、カラッとしないのです。炒製の一番の良さであるさわやかさ涼しい香味を自ら放葉しているわけで、これでは飲み手の感動をそそることはできません。需要は更に下がる一方、値は叩かれて、自ら自分の首を締める羽目に陥るのが関の山。生産の側では猛反省することが必要です。

これぞほんとの釜炒り茶ですと胸を張って自慢できるものを供給して売り手・飲み手の面々に納得してもらわねばなりません。それが、市場を維持し販売を向上させるための第一歩です。» p. 59、茶に貞く

松下智は、「渋味は、お茶の生命であり、渋味の無いお茶は、単なる色湯に過ぎない。」と述べている。 p. 99 松下智、日本茶、おいしさを究める、1992。

一方で、渋味が過度に強まり不快な苦味へと転じれば、それは重大な欠点となる。結局のところ、問題は理想的な茶の形や製法にあるのではなく、品質とともに失われてしまったかのような節度の感覚にある。  茶の発展の歴史を振り返ると、本来、自然と人間に向けられていた品質向上の方向性が、たびたび利己的・営利的な方向へと逸れてきたことがわかる。  

この二つの相克する力の均衡が崩れるとき、茶の品質は劣化へと向かう。  この不均衡を是正する最も重要な方法の一つが、簡素化を通じて原点へ立ち返ることである。まさにそこに、茶の湯の根底をなす禅の思想がある。  『禅と日本文化』の中で、鈴木大拙は次のように述べている。

«禅と茶道の共通点は、絶えざる簡素化の試みにある。禅は究極の現実を直観的に掘むことで、不要なものの酒去に成功している。茶道の場合、茶室での茶の点て方を手本とする生活の仕方によって、これと同じことを行っている。茶道は、原初のシンプルさを求める唯美主義だ。

自然へ近づこうとするその理想は、茅葺の屋根の下に自分自身をかくまうことによって実現される。そこは四畳半しかない部屋だが、必ず技巧を凝らした構造と装飾で出来ている。禅もまた、人間が自己を厳かに見せるために開発してきたと思われる人工的な覆いを剥ぎ取ることを目指す。»  p. 410 、禅と日本文化、鈴木大拙。

禅に見られる簡素化の原理は普遍的なものであり、茶にも十分に当てはまる。それは、今日では常態化した終わりなき技術的複雑化とは対極にある考え方である。

禅に見られる簡素化の原理は普遍的なものであり、茶にも十分に当てはまる。それは、今日では常態化した終わりなき技術的複雑化とは対極にある考え方である。  

本来、日々の暮らしの中で飲まれる素朴な茶をつくるはずの技術が、いまや茶をますます複雑なものへと変えている。複雑化は新たな問題を生み、その問題を解決するためにさらに新たな技術が導入される。その結果、茶の品質は損なわれ、生産コストだけが上昇していく。  

埼玉県茶業試験場の元場長・太田義十は、『狭山茶五十年のあゆみ』(1985年)の中で、渋味との戦いを「角を矯めて牛を殺す」とたとえている。  太田は、日本茶の製造工程をできる限り簡素化すべきだと主張した。そして、簡 簡略化とは単なる単純化や後退ではなく、本来備わっている機能を取り戻すことにほかならないと説いた。

«更に製造の簡略化は緊要な課題である。明治、大正以来の製茶工程を金科玉條と心得、製茶機械の連結自動化を以て満足しているのは時代錯誤も甚だしいものだ。

かつて我々は戦時非常事態の際、熱風蒸しを実施してその可能を知った。現在では資材は豊富、工学は飛躍的発展を遂げている。これ等を検討応用すれば、蒸し操作と粗操を同一機械で行なうことも可能となり、また精採機、乾燥機を廃止し、中採機の構造に考案を加え玉緑茶型仕上げとし、温度の調節等によって乾燥までの遂行も不可能ではない。このような構想が浮かぶ。

現今消費市場に出回る茶のよう形態軽視で差し支えないとすれば、玉緑型の方が消費者に取っては好都合のように筆者の体験は教えている。» p. 244、太田義十、『狭山茶五十年のあゆみ』(1985年)

簡素化はそれ自体が目的なのではなく、技術を消費者の日常的なニーズに従わせようとする姿勢の結果にすぎない。

太田義十と同じ埼玉県出身の茶農家・増岡伸一も、茶づくりにおいては飲み手のことを第一に考えている。そして、形に盲目的に従うのではなく機能的な本質へと立ち返り、不要なものを削ぎ落としながらも、本当に重要なものは残すべきだと提案している。その一例が、生葉の萎凋工程である。

現代の品質評価体系では、摘採後の生葉を直ちに加工し、青々とした新鮮香を保持することが求められる。

そのため萎凋の必要性は否定され、萎凋香は品質上の欠点の一つとみなされている。しかし、その伝統的な工程が果たしてきた重要な役割は忘れられがちである。萎凋とは、単に香りの問題ではない。

生葉を加工前に数時間ほど放置して萎凋させることで、水分含量が減少し、揉捻の際に葉が痛みにくくなる。これについて増岡は、飯田辰彦著『日本茶の本流』(2016年)のインタビューの中で次のように語っている。

«まず原料は、無施肥・無農薬の新芽を使います。ただし、一芯四葉の芽の上半分を手摘みするんです。緑茶の使命は、嗜好品であると同時に人間の健康を担保するものでなくてはならず、そこから考えても、この原料に丁寧に萎凋をかけて使うことは最低限の条件です。手摘みの価値は今さら言うまでもないと思いますが、ひと芽、ひと芽に人間の手が触れていることで、その時点からすでに理想的な萎凋がはじまっているわけです。

粗揉では、何度も言及してきましたように、「葉切れ」を生じさせないのが第一の眼目です。強い渋みが出るのを防ぐだけでなく、お茶になって急須から茶碗につぐとき、濁った水色にさせないためです。萎凋がしっかりできていれば、まず簡単に葉切れをおこすことはありません。» p. 223

増岡氏は、現代の多くの茶業者よりも広い視野から茶の価値を見つめている。若い新芽だけでなく、伸びた葉にも茶の可能性を見出しているのである。

飯田辰彦は、そうした既成概念に縛られない茶観を高く評価している。

«一芯四葉の(上)半分摘みなどは、言われてみればなるほどと納得がいくが、みる芽でつくる旨みのお茶が基準である現在の高級煎茶の情況からすれば、一般の業界人には理解不能の言辞かもしれない。» p. 225

増岡氏は、茶の形よりも中身を重んじる。そして、こう語る。

«細い針のようなお茶しか認めないのであれば、

揉捻は必要かもしれませんが、形状(見てくれ)ではなく(お茶の)本質に力点をおくのであれば、揉捻はまったく不要です。揉捻の工程を省けば、結果として中国茶風の軽いお茶に仕上がり、何煎でもはいるすばらしいものができます。» p. 226

飯田辰彦は簡素化の理念を次のように提示する。

真っ当な(無施肥・無農薬の)原料を用い、そこに理想の萎潤を加え、あとは粗揉機を完全に使いこなせる技術をもち合わせれば、それだけで究極の煎茶ができるしそう、伸一さんは言いたいのに違いない。考えてみれば、高林謙三が粗揉機を発明したころには、蒸し(蒸籠)は別としても、これ(粗揉機)一台で機械製茶が完結していたわけで、有馬や伸一さんが理想としたシンプルな製茶工程は、けして特異なものではないのである。さらに手揉みの時代には、焙炉だけで最高の煎茶が揉まれていたのであり、工程の複雑さは何らお茶の品質に比例しない。

それどころか、現実には機械製茶が進めば進むほど、茶葉の形状や水色ばかりが珍重され、お茶の真の香味から遠く離れてしまった。工程が複雑になればなるほど、逆に基本は疎んじられ、もっとも大切な本質がないがしろにされてしまったのだ。これは人間が生み出したすべての文化・文明に通底する弊害ではなかろうか。世界三大文明と呼ばれたものも、また古代ギリシャ・ローマの文明にしても、最終的には自滅・崩壊する道をたどった。

いずれも、お茶における本質が何であるかが忘れ去られたように、文化・文明の基本が大地(自然)にあることを無視した人類が、大地に根差さない虚構のシステムをつくり上げようとして、失敗を繰り返したのである。» p. 226

1982年の時点ですでに、大高愛司は製茶工程の簡素化の必要性を十分に認識していた。

«蒸し―粗揉―揉捻―中揉―精揉という製造方法が、うまい茶づくりにもっともいい方法であるかどうか、徹底的に再検討すべきですよ。

こんなミルい茶を摘んで、ていねいにより込んで、伸ばして、手もみの形状のお茶つくっているでしょう。おいしい香味を出すことができるならムリに伸ばさなくてもいいじゃないか。たとえばヨンコン型でもいいはずです。」

むかしの紅茶は全部、日本茶と同じナチュラル・リーフ型のOP(オレンジ・ペコー)でした。ところが揉捻で長い葉を切断するCTCマシンを開発して以来、全部ブロークン型のBOPになってしまった。紅茶で成功したことが、緑茶でやってできないことはないでしょう。

深蒸し茶は急須から茶わんに注ぐと水がにごるでしょ。強く蒸すから、細胞組織がもろくなる。だから、粉がたくさん出るのは深蒸し茶の宿命ですよ、といって放ってあるでしょ。そういう言い方はおかしい、とボクは言うんだ。

強く蒸すから粉が出るんじゃない。強く蒸した原料を強く揉むから粉が出るんだ。粗揉工程じゃそんなに粉は出ませんよ。

ひとくちに粉と言っても、大型の粉は水色を濁さない。微粉がいけない。微粉は中揉―精揉と進むにつれて多くなる。だから、精揉機を使わない製法を考えればいい。

それなのに、茶業は八十年ずーッと同じ製法にかじりついている。旧態依然だ。思い切った改革を成就するには、思い切ってバカげたことやらなければダメですよ。試験研究機関はぜひそういう改革に取り組んでもらいたい。» p. 140

21世紀の茶?

簡素化の道をたどると、玉緑茶、あるいは1976年に増田光央が「明日の茶」として提唱した、玉緑茶と釜炒り茶の中間的な姿へと行き着く。

«日本人の食生活も時代と共に変化してきた。パン食など洋風化が進み、コーヒー・紅茶が一般に普及してきた事実をみても、このことを物語っている。米食中心から肉食へと変化しつつあるのだから、米食に合ったこれまでの緑茶より、肉食などにも合う緑茶が出現するのは、ごく自然なことで、そうなると中国製法のかまいり茶などが最適となる。

しかし蒸製による現在の緑茶から、かまいり茶となると、一般にはかなりの抵抗がありそうだ。蒸製とかまいり製の中間にあるようなお茶、つまり「蒸製かまいり茶」が、その過渡期のお茶としてクローズアップされる可能性がある。

日本茶の中にも、これらの条件を満たしてくれる緑茶はある。それは九州、佐賀県の嬉野茶(蒸製かまいり茶)であるが、サッパリとした後味に魅力を感じるし、そうなるとかまいり茶が明日の緑茶になりそうだ。» p. 155、緑茶読本

残念ながら、小川誠二の引用からも分かるように、21世紀初頭の時点で、この茶は期待された役割を果たせなかった。香りと飲みやすさを失い、事実上は標準的な玉緑茶へと置き換えられてしまったのである。

しかし、その玉緑茶もまた高級化の道を歩んだ。早摘み、深蒸し、多肥栽培、被覆栽培、そして皮肉なことに「理想的な」形状の追求によって、本来備えていた日常茶としての性格を大きく失っていった。

玉緑茶の丸みを帯びた形状は、もともと窮屈な針状形態からの脱却の中で生まれたものであったが、やがて濃厚なうま味や鮮やかな緑色と並ぶ目的そのものとなり、その後、深蒸し化によって粉々に砕けていった。

窪川雄介は『茶のすべて』(1997年)の中で、次のように述べている。

«玉緑茶の製造には、煎茶で行われる精揉工程がなくて、茶葉相互の摩擦と、茶自体の重さによる圧迫などで形が造られ、丸型ないしは自然緊締型の茶である。このため硬葉を用いては、整形もむずかしく、香味も淡白になるので、良い原料を用いることが大切である。

蒸熱=玉緑茶は濃厚な水色と、うま味が求められるので、煎茶より蒸度を進める。» p. 326

粗揉=煎茶より蒸度が進んでいるので、深蒸し茶に準じた方法で行なう。(中略)» p. 326-327

品質とは、より若い原料だけでなく、より強い(しかし飲みやすさに欠ける)味わいや、より鮮やかな水色を備えたものを指すようになり、その結果、揉み度が進められた。

«中揉=従来は再乾機を二台組み合わせ使用していたが、茶の品質からみて、第一再乾を中揉機に置きかえた方が好ましいので、現在は中揉機が使われるようになった。» p. 327

しかし、そもそもなぜ茶葉を無理に特定の形へと揉み上げなければならないのだろうか。日常茶において、形状は本来優先されるべきものではない。それは内容の結果として現れるものである。日常茶に必要なのは、むしろ高い飲みやすさと低価格を実現する大ぶりの葉である。

ところが、市場の論理は再び品質の高い若芽へと私たちを引き戻す。こうした語りは、2016年刊行の『茶生産の最新技術、製造編』にもそのまま受け継がれている。

«蒸し製玉緑茶は、精揉工程がないため細く撚れた形状になりにくい、特に生葉が硬化すると大型で締まり不足になりやすく評価が低くなりやすい。そのため、原料生葉は若芽(出開き度50%以内)で摘採される場合が多く、一般のかぶせ用生葉と比較して反当収量は少ない傾向である。蒸し製玉緑茶における高品質茶の摘採適期は、一心四葉程度(この時、葉数の少ない三葉程度のものは出開いた頃)とする。» p. 109、茶生産の最新技術、製造編、2016

引用から分かるように、深蒸し技術は四番葉に至るまでの粗い原料の利用を可能にし、生産性の向上に寄与した。

こうして見ると、今日に至るまで茶は品評会で高い評価を得るために作られてきたとも言える。この論理に従えば、日本茶は細く優美な針状の形を追求する段階から、細く優美な球状の形を追求する段階へ移行したにすぎない。

外見の美しさを追い求める過程で、茶が本来持っていた最も重要な意味――消費者の日常生活に自然に溶け込み、その一部となる力――は失われてしまった。では、その消費者のことを誰が考えるのであろうか。

興味深いことに、最終消費者の需要を最もよく理解しているのは、茶を直接顧客に販売する生産者たちである。波多野公介は著書『おいしい日本茶が飲みたい』の中で、伊久美の茶農家・中安博夫から在来種の玉緑茶を振る舞われた時のことを記している。

この玉緑茶についての描写から見えてくるのは、真の品質とは固定された不動の形でも、品種でも、製法でもないということである。それはむしろ、内容へと立ち返ろうとする指導原理であり、一つの道であり、本質へ回帰するための方向性なのである。

ここ四、五年、有機肥料、無農薬、一回摘みで

こた山際の在来種を今年は少し別なやり方で仕上げてみたい。芽をかなり大振りにして玉緑茶のように精機はしないやり方で。どんなものができるか」ほかの品種茶と一緒にその在来茶がきた。

精採(茶葉をまっすぐにする工程)をしていないから丸まっこい茶葉がまじっている。荒茶だから白い茎もまじっている。しかし私にとっては外見はどうでもいい。

朝の一煎で吟味する。つづいて二煎目。

「これはいいぞ」と私は思わず声をあげた。» p. 140, おいしい日本茶が飲みたい、波多野公介、2002

ぐり茶――品評会から日常へ

軽めに揉まれた緑茶という発想を私に示してくれたのは、2021年に東京でお会いした桑原氏だった。氏は、毎年開催される Nihoncha Award の主催者の一人である。

Nihoncha Award は、公的な茶品評会に対するもう一つの選択肢として設けられたもので、茶の外観を評価の対象とせず、業界の専門家だけでなく一般の消費者も審査に参加する。日本茶インストラクター協会によって開催されている。

そのとき桑原氏は、玉緑茶にもぐり茶にもまったく触れなかった。なぜなら、本質は名称にあるのではなく、茶葉を過度に加工しないという、より普遍的な原理にあるからだ。陸羽もまた、茶の本質は「中庸」にあると説いている。

私はようやく、その年の春に南山城村の茶農家・井殿氏が語っていた言葉の意味を理解し始めた。同氏は、私たちが共に再生した放棄茶園の葉を用い、私の依頼で自然仕立ての煎茶を製造してくれた人物である。

「煎茶の製造工程には、加工の段階が多すぎる……」と彼が言っていた。

興味深いことに、井殿氏は最終揉捻を比較的低い温度で行い、茶葉に強い圧力も加えなかった。そのため、仕上がった茶葉はあまり真っ直ぐな針状にはならなかった。

また、緑茶本来の香りを高温によって「焼き殺して」はならないことの重要性については、最高級の玉露を生産する京田辺の茶農家・山下真輝からも話を聞いた。

中庸の方向性は、精揉機の使用そのものを否定するものではない。しかし、その論理は最終的に精揉工程の簡略化、さらには不要化へと向かうものである。このことは、すでに1922年に鈴木孫太郎が述べた次の言葉にも示されている。

「◎精揉機で良い茶を製している人は、ぬるい火を使って、回転は比較的遅くしている。之が上手なやり方である。◎静岡茶の品位はまだまだ埼玉、山城に及ばぬ。其れは何のためであるか一寸解しかねるが、製造上からも栽培上からも来ることと思う。◎宇治へ行って聞くと、静岡人は火で茶を揉むことを知って、手で揉み乾かすことを知らぬと云っている。参考とすべき金言だ。◎静岡の人は茶に熱を持たすことが平気である。否寧ろ上手とされている。それだから、「一向飲めない黄色い茶ができる」と宇治の人は云っている。◎『グリ』と精揉機茶とを比較してみるに、香気の点に於て大概の場合に『グリ』の方が勝っている。力は掛け過ぎない方がよい事を証明している。」

 鈴木孫太郎は「思いついた儘」「茶業界」第17巻第6(大正11年、1922月刊茶2023/8月号

後になって私は、「加工」とは単に機械的な処理だけでなく、栽培から製造に至るすべての段階における人為的介入の度合いとして、より広い意味で理解すべきだという考えに至った。あまりにも早い時期の摘採もまた、一種の介入である。

一見すると、ぐり茶(玉緑茶)は加工度の低い茶のように見えるかもしれない。しかし、その製造においても、不文律とも言うべき「節度の原則」がしばしば破られている。

今日の玉緑茶は、多くの場合、肥料を十分に施され、被覆された若い芽を原料として作られている。すでに深蒸し茶とほぼ同義語になりつつあり、鮮やかな緑色と強い甘味を持ちながら、日常性に乏しい茶となっている。

玉緑茶の火入れも一般にやや強めで、「火香」を伴うことが多い。これは日常性の高低に直接関わるものではないが、過剰な施肥によってすでに抑えられている茶本来の自然な香りをさらに弱めてしまう。

また、色沢や旨味を強調するために、さえみどり、あさつゆをはじめとする品種が用いられることが多い。これが施肥や被覆と組み合わさることで、ぐり茶は実質的に玉露の一変種とも言える姿へと近づいている。

このような茶は、家庭で湯呑みやマグカップを用い、熱湯で気軽に淹れて飲むにはなかなか扱いにくい。その一方で、茶会や試飲会では、小ぶりの茶碗に注いで印象的に演出することができる。

こうした色彩や味わいの鮮烈さは、日本茶アワードにおける玉緑茶の成功を部分的に説明するものでもある。桑原氏は、ぐり茶に大きな可能性を見出している。:

◎「グリ」と精揉機茶とを比較してみるに、香気の点に於て大概の場合に「グリ』の方がっている。力は掛け過ぎない方がよい事を証明している。」此の鈴木孫太郎の一文を読んでビックリしました。約100年前にアワードの結果を書いている人がいたのですね。日本茶アワードの審査会は外観審査なしで、茶の液体だけで審査します。しかも、最終審査員は消費者の投票です。

私はこの日本茶アワード審査会をこの方法でやると決めた時から、ひょっとすると精操機を使っていないグリが上位に来るのではないかと思っていました。結果は、8回のうち4回はグリ茶の優勝です。鈴木孫太郎が100年前に言っている様に、精揉機で力を掛け過ぎて茶を細く長く硬く絞り過ぎると茶の風味、特に香気が落ちてしまいます。形の美しい茶や水色の緑の茶もあってよいと思いますが、今のお茶は肝心要の風味、香味を無視しすぎていると思います。

正当な楽観論があるとはいえ、旨味に満ちたプレミアム化の濃緑の雲が、ぐり茶の上にますます厚く垂れ込めている現状を見過ごすことはできない。細かな針状への精揉がないというだけで、ぐり茶が自動的に爽やかで香り高い茶になるわけではないからである。

しかし、私たちは現実の世界に生きている。だからこそ、日本茶アワードにおけるぐり茶の成功は、大きな可能性を秘めたこの茶種を普及させるための第一歩として評価できる。

そして次なる、そして最も重要な課題は、人々の家庭へ入り込み、日常生活の中に定着することである。そのためには、ぐり茶を本来の「節度」という基本設定へと立ち返らせる必要がある。蒸し度を抑え、施肥や農薬を減らし、摘採時期を少し遅らせ、被覆をやめることである。

興味深いことに、「桑原善助商店」のぐり茶は、古くから香り高い茶の産地として知られる滋賀県朝宮で生産されている。このぐり茶は被覆を行わず、深蒸しにもしていない。

一方で、原料には主として若い芽が用いられており、その点では高級日常茶の範疇に属していると言える。

京都や静岡等の茶農家たちの協力を得ながら、私は飲みやすく、香り高く、環境負荷の少ないぐり茶づくりを少しずつ重ねてきた。そして数年にわたる試行錯誤の末、ようやく理想の日常ぐり茶の姿が見えてきた。

内容から形式へ

こうして、日常茶の理想的な形としてぐり茶が見いだされた。緑茶を日々の暮らしに取り入れたい人々にとって、待望の「特効薬」が完成したかのようである。店へ行き、ぐり茶を買い、朝から晩まで健康のために飲めばよい――。

こうして日常茶の問題は永遠に解決されたかのように見える。しかし実際には、それは変化と多様性に満ちた世界、すなわち生命そのものを無視する新たなドグマを生み出すきっかけにすぎない。

すでに述べたように、今日「ぐり茶」(蒸し製玉緑茶・ヨンコン)と呼ばれるものの中には、高級化の要素が転がり込んでいる。そのため今あらためて、日常性という原点へ立ち返ることが求められている。

ぐり茶は日常性だけが永住権を持つ特別な住処ではない。固定住所を備えた私邸でもない。「ぐり茶」という看板が掲げられた宿(形式)の中には、さまざまな宿泊客(内容)が滞在しうる。たとえば、肥え太ったウマミという名の貴賓や、雑味という異邦人さえも住み着くことができる。

形式は人を欺き、包容力があり、しかも不変ではない。しかし内容もまた一か所に留まらない。内容は一つの形式に永遠に結びつけられているわけではなく、絶えず移り変わる。ぐり茶は日常性の唯一の避難所ではないのである。

もしぐり茶が倹(節度)の原則に従わず、多量の肥料を食らい、日陰で育つようになれば、その本質は変わる。日常性はそこを去り、よりふさわしい形式へと移り住むだろう。

ぐり茶が日常性の条件を満たさなくなれば、かつて玉露や煎茶から日常性が去ったように、ぐり茶からも去っていくに違いない。そしておそらく、番茶の中へ身を寄せるだろう。そこにはより居心地のよい環境があるからである。しかし、それもいつまで続くのだろうか。

さらに状況が変わり、番茶の原料となる茶樹までもが遮光され、多量の肥料や農薬を与えられるようになったならば、日常性は茶そのものを見限り、水の中に居場所を求めるかもしれない。それは事実上、日本の茶文化の終焉を意味するだろう。なぜなら茶文化もまた永遠不変の所与ではなく、人々の営み、そして読者であるあなた自身の選択に支えられているからである。

形式と内容は、より大きな適合性を求めて絶えず動き続けている。そのため両者は変化し、ときに調和し、ときに衝突する。ひとつの形式は多様な内容を内包し、またひとつの内容は実にさまざまな、時には予想もしない形の中に宿る。

たとえば畑中幸助は、伊藤園の廉価な深蒸し茶「農家の自家出し茶」の中に、私たちが日常性と呼ぶ性質を思いがけず見いだしている。著者は茶袋に記された説明文を次のように引用している。

«「静岡の深蒸しの二番茶を選び、旨味のある芽・甘い香り立ちの茎・緑が濃く出る粉の部分を残したまま、丹念に後火仕上げしました形こそ不揃いですが、熱湯で入れても渋味が少なく、香り立ちが新鮮な濃い緑の緑茶です」

とあり、後火仕上げの解説がついている。この辺の懇切さはなかなかのものだ。

外見は深蒸し仕立てではない。のんでみると滋味というものからは遠い。どちらかというと、大工さんがお茶の時間にガブのみできる中級茶であるが、ざっくばらんなのど越しに嫌味がなく自然な黄色っぽい水色にも好感がもてた。» p. 41-42、おいしい日本茶が飲みたい、波多野公介、2002

こうした現実との接触は、「深蒸し茶は飲みやすさが低い」という固定観念を容易に崩してしまう。茶の品質は本来、「空」であり、名称によって決まるものではない。むしろ因縁によって左右される。すなわち、誰が、何を原料にし、どのように作るかによって決まるのである。

その後、筆者は竹茗堂の茶に言及する。この会社は流行の深蒸し茶から距離を置き、未精製の荒茶を前面に押し出そうとしている。興味深いことに、同じ名称のもとであっても、異なる茶が流通し得るのである。「農家の自家用茶」という同一の名称のもとでも、実際にはまったく異なる茶が流通し得るという点である。

«農家自家用茶といえば静岡市の佐茗堂が同じようなものを出している。これは川根茶で価格は千円。(中略)

「いにしえより、お茶の生産農家では、その年の最初に収穫する一番茶の一部を自家用茶として蓄える習慣がございます。このお茶は産地の人たちが“のみ茶”と呼んで長く愛飲してきたもので素朴なかたちの荒茶でございます。このため形状は荒く、くき・粉が入っておりますが味はまろやかで、とても素直なのみ口でございます」

さて竹茗堂の「農家自家用茶」はどうだったか。香味ともに十分に合格だった。荒茶の素朴さがじかに伝わってくる。仕上げの火入れで妙な火香をつけられていないことも大いに貢献している。茶葉と人間を結びつける一番率直な交歓がこの荒茶にはあった。

以前、竹茗堂は「うちは深蒸しは扱っていない」と公言していたが、この売場には深蒸し茶があった。しかしそれはごく一部のように店員の口ぶりから推察された。農家の自家用荒茶を売る発想は以前からあった。深蒸しの災厄(?)から逃れたい人々の要望に応えるためだったろう。私も通信販売でしばしば深蒸ししていない荒茶を要求し入手した。それらは玉石が入りまじってはいたが概してやさしい、さっぱりした、胸のつかえのおりるお茶だった。

仕上がった深蒸し茶にとって代わって深蒸しをしていない荒茶が全国に流行したら、深蒸しで長年生計を支えてきた多くの関係者は「どうしてくれる」と目をむくだろうが、少なくとも関東以東の消費者は旱天の慈雨のようにこの荒茶を愛するだろう。

「これが安らぎを与える本当のお茶ね」といい合うだろう。竹茗堂の「農家自家用茶」は私にそんな瞑想を抱かせた。

あとで竹茗堂に問い合わせると、このお茶の品種は「やぶきた」ということだった。同じ「やぶきた」でも、製茶法の違いによってこうも違うものか、私は天を仰ぎたい気持ちだった。» p. 43-44

筆者は、品種に見られる「空性」と、その背後に本来存在していたはずの多様な製法が、近年著しく狭められてきていることに驚きを示している。

先日、静岡を訪れた際に竹茗堂の店舗に立ち寄り、荒茶、あるいはそれに近い荒茶仕立ての素朴なお茶はないかと尋ねてみた。だが、返ってきた答えは「扱っていない」というものであった。

さらに波多野公介は、健康志向ブームの流れの中で粉末茶が広まり、人は「お茶の粉砕々」(こさいさい)という小型の石臼等で粉末茶を作り、湯を注いで飲むだけでなく、料理や菓子にも用いるようになっている現状についても言及している。

私は自分の体験からこの傾向には必ずしも同調できないが、健康志向のおかげでお茶がいろいろな場面で使われることは大歓迎だ。

しかし一方で茶道や煎茶道に話が及ばなくても、リーフを主役とした日常の暮らしのなかで急須で丁寧にお茶をいれる淹茶(えんちゃ)の伝統は、やはり日本文化の一端をになうものではないかと考えている。時流に流されて外見が変わることはあっても日本茶の香味は正しく伝えられねばならないと固く信じている。

そのためにはやはり本物のお茶が芯を形づくっていることが大事だ。果たして深蒸し茶はその任に耐え得ているだろうか。

「立派な入賞茶がたくさんあるし、手もみの名人茶もある。文化の伝統は守られている。第二、茶道の存在は文化の継承そのものではないか」という人がいるかもしれない。しかしそれらは一般の消費者からは遠い。あるいは一般の生産者にとっても遠いのではないか。入賞茶を出すためには特別な施設や管理、製茶機が採用されている。手もみの名人茶など一生に一度のめるかどうかという貴重品だ。

私がいっているのは日常の暮らしのすみずみに息づいているお茶だ。異論があるかとも思うが、この「すみずみに息づいている」というのが、文化と呼べるものではないだろうか。その文化の担い手として深蒸し茶がふさわしいかどうかということだ。» p. 44-45

茶文化の枠組みの中に存在する諸形態としての茶は、それぞれ異なる役割を果たし得る一方で、ある用途には適しているが、別の用途には必ずしも適していないという側面も持っている。

荒茶、深蒸し茶、粉末茶などさまざまな茶種を検討しながら、波多野公介は、茶文化の本質を、茶が「日常生活の隅々に浸透し得る能力」として捉えるに至り、いわゆる茶の「日常性」という概念へと到達する。

また筆者は、歴史的に見て、日常的な茶の中心には常にリーフ茶が存在してきたことを指摘する。さらに、各種の茶の特性と、それらが一般消費者の生活にどの程度接近しているかを分析しながら、最も茶の本質を体現し得る形式を模索している。

パンのひび割れ

これまでの考察を通じて、私たちは、茶の日常性――すなわち茶が人々の日々の暮らしの中へ自然に溶け込み、その一部となる力こそが、茶の根源的な価値であるという結論に至った。

最も日常的な茶を探すことは、ある意味で最も美しい色を探すことに似ている。世界は多彩であり、ある人にとって日常的なものが、別の人にとっては異国的なものであり、さらに別の人にとっては何らかの個人的な理由によって受け入れがたいものとなることもある。

何が価値であり、何が価値ではないのか。何が善であり、何が悪なのか。ここで私たちは否応なく哲学へと行き着く。哲学とは世界を認識し、その存在を支える普遍的な法則を探究する学問である。

哲学もまた、その基盤となる常識も、善悪は絶対的なものではないと教えている。ここで私たちは、西暦二世紀に生きたローマ皇帝にして哲学者であったマルクス・アウレリウスの例に目を向けてみたい。

彼は「五賢帝」の一人として知られている。しかし、「良き皇帝」とは何を意味するのだろうか。マルクス・アウレリウスは生涯を通じてゲルマン諸部族やパルティア人、マウリ人との戦いに明け暮れ、多くの討伐遠征にも参加した。したがって、ローマの敵対者たちの立場から見れば、彼は決して「良き皇帝」ではなかったはずである。

マルクス・アウレリウスは「神々を敬い、人々を守れ」と説き、自国民を守り、その生活の向上に尽力した。病院や学校を建設するなど、民衆のために多くの事業を行ったのである。死後には正式に神格化され、その治世はローマ帝国の黄金時代の一つとして記憶されている。

彼が良き皇帝であったのは、皇帝としての役割をよく果たしたからである。すなわち、自国民の暮らしをより良いものにしたからである。茶の品質もまた、皇帝の徳と同様に、何かから切り離されて単独で存在するものではない。それは必ず人間と、茶が果たすべき役割に結びついている。良い茶とは、それを飲む人々の人生を豊かにする茶なのである。

一方で、品質は人間の視点から判断される以上、主観的な側面を持つ。人によって好みは異なり、若い芽を好む者もいれば、大きく育った葉を好む者もいる。緑茶を愛する者もいれば、紅茶を好む者もいる。

しかし他方で、人間は人間であるがゆえに共通する性質を持つ。したがって茶は、人間の生理的・精神的特性に客観的に適合するものでなければならない。

現代の品質評価体系は、茶の世界をあまりにも主観的に見ている。若い芽を高品質とみなし、大きく成熟した葉を低品質とみなしているのである。

萎凋香や茎の存在は欠点とされることが多い。しかしそれは、それらの「欠点」が持つ固有の価値だけでなく、それを愛する人々の嗜好までも無視することにつながっている。このような一面的な世界観は、世界を二つに分断し、その全体性を見失わせる。

マルクス・アウレリウスは、人間は自らの理性を自然全体の秩序と調和させるべきであり、そのことによって平静な心に至ることができると考えた。そうした洞察を得た人は、私利私欲に囚われることなく、物事をありのままに見つめることができる。そして昨日まで欠点にしか見えなかったものの中にも価値を見いだせるようになる。『自省録』第三巻において、マルクス・アウレリウスは次のように述べている。

「自然はわれわれに優美さと魅力を与えてくれる。焼きたてのパンのひび割れているところにわれわれは食欲をそそられ、イチジクは熟したときに裂け、オリーブは腐る寸前が最も美しい。稲は実った時に低く頭を垂れる。

ライオンの眉間の盛り上がったところ、イノシシの口から流れる泡など、それだけを取り出せば、美しいとはいえないが、それらが自然の中で生ずる時には、それらを見た人々はそれに心を引かれるのである。宇宙に生じる諸々のものも、人が感受性や深い心を持ちそれをながめるなら、その心に楽しくうつるはずである。

獣の大きく開いた口も美であり、老人の成熟も美であり、子どもも魅惑的なものである。ただこの心情は、自然の営みに親しんでいる人間にしか感じることができないものなのである。」

マルクス・アウレリウスの死からおよそ二千年を経た今日、私たちは彼の眼を通して茶の世界を見つめるとき、新茶の若い芽の中に「子どもの魅力」を、番茶の成熟した葉の中に「老人の美」を見いだす。腐る寸前のオリーブには萎凋香を、焼きたてのパンのひび割れには荒茶の不揃いな姿を重ね合わせることもできるだろう。

私たちは新茶と番茶を、優劣の問題としてではなく、茶という存在の両極として眺める。そのあいだには無数の組み合わせが存在し、果てしなく広がる茶の空間が息づいているのである。

茶は空である

マルクス・アウレリウスが語る老人と子どもは、異なる実体の例ではない。それらは一つの全体を構成する、切り離すことのできない二つの側面であり、人間の成長過程における異なる段階である。それぞれの段階は固有の性質を備えている。子どもは成長し学ぶことで大人に取って代わる。老人は自らの経験を次の世代へ伝えるために存在する。どちらも欠かすことのできない存在である。

茶においても、この普遍的な原理は同じように働いている。若い茶葉から作られる新茶は、豊かな味わいと鮮烈な香りを備えた「ハレの茶」である。一方、成熟した葉から作られる番茶は、日常生活や食事、喉の渇きを癒す用途により適しているケの茶である。両者は異なる性質と価値を持つ。

時間の経過やさまざまな条件の変化によって、ある性質は別の性質へと移り変わる。若さは老いへ、臆病さは勇気へ、強さは弱さへ、弱さは強さへ、愚かさは知恵へと変化する。性質は自然に変化するだけでなく、人間の意思によって意識的に変えることもできる。

人間が多様な欲求を満たすために、物の性質を意識的(人工的)に変化させる営みこそが文化である。私たちが飲む茶は文化的産物であり、茶樹が本来持つ性質を人為的に変化させることによって生み出された文化的財なのである。

これまで見てきたように、製造技術の変化に伴って煎茶は深蒸し茶へと変わり、釜炒り茶は蒸し製玉緑茶へと姿を変えた。また、品種の変更、施肥量の増加、被覆栽培の導入によって、玉緑茶は玉露に近い性質を持つ茶へと変化していった。

わずか百年ほど前まで、日本茶の多くは在来種から作られ、化学資材もほとんど用いられていなかった。今日では在来種は育成品種へと置き換えられ、茶園には大量の窒素肥料が投入され、農薬や除草剤も広く使用されている。

それにもかかわらず、多くの人々は、物事、そしてとりわけ茶には、生まれながらの固定された不変の性質が備わっていると考えがちである。

ある人は緑茶は苦いものだと信じ、ある人は本物の煎茶は鮮やかな緑色でなければならないと考える。またある人は抹茶は健康によいと信じ、ほうじ茶にはカフェインが少なく、玉露にはカフェインが多いと考えている。

しかし、これらの主張はいずれも部分的にしか正しくない。現実の世界ははるかに複雑で多様であり、絶えず変化している。そして物の性質もまた絶えず変化している。

多くの煎茶は黄金色の水色を示し、ほうじ茶の中にも相当量のカフェインを含むものが存在する。「生まれつきの性質」という単純化された見方は、世界が変化しうるという可能性そのものを否定し、固定観念を生み出してしまう。

もし物や人が最初から最後まで固定された不変の性質を持っているのだとすれば、世界は石のように固まり、生命の営みは停止してしまうだろう。貧しい者は永遠に貧しく、悪人は永遠に悪人であり、善人は永遠に善人であり、背の低い者は永遠に低く、苦いものは永遠に苦いままである。

しかし実際には、世界は絶え間ない変化の中にある。万物は流転し、変化し続けている。このような真実の姿を、仏教は「空」の教えによって説明する。すなわち、あらゆるものは空であり、独立した固定的実体を持たないというのである。

空とは「何も存在しない」という意味ではない。いかなるものも単独で存在することはできず、不変の性質を持つこともないという意味である。あらゆる存在は原因と条件の結合によって成立し、その条件が変化すれば、存在のあり方もまた変化する。

例えば、「日常茶飯事」という言葉に表される茶の日常性は、日本茶に本来的に備わった永遠不変の性質ではない。人々は世代を超えて努力を重ね、茶が日常生活に自然に溶け込むという特別な価値を築き上げ、それを維持してきたのである。

その最も重要な条件の一つが、「老人の美」を活用することであった。すなわち、成熟した葉から作られる安価で飲み飽きしない番茶を大量に生産することである。しかし、「番茶という老人」が品質評価の階層の中で価値を失うと、日本茶の日常性もまた弱まり始めた。その結果、日常茶文化は徐々に衰退し、やがて「茶離れ」と呼ばれる現象へとつながっていった。

問題は茶業界の営利的利益そのものにあるというよりも、むしろ茶の品質をめぐる独断的かつ主観的な価値観、そして一般消費者の日常的な需要を無視してきた茶学の姿勢にある。

半世紀前と同じように、今日の茶業界もまた、茶の真の価値を「子どもの魅力」にのみ見出し続けている。すなわち、若い芽から作られる高級茶である。その適切な淹れ方は多くの消費者にとって難解であり、高価な価格設定によって、茶は日常の飲み物から特別な機会のための嗜好品へと変えられてしまった。

伝統的には番茶が安価な日常茶と考えられてきた。しかし、阿波番茶、碁石茶、石鎚黒茶といった伝統的番茶の高価格と極めて少ない生産量を見れば分かるように、番茶もまた固定的な存在ではない。

番茶もまた、ただ空であるにすぎない。

分裂した世界、分別された茶

一つの生命体のように生きている世界を理解しようとする過程で、人間は「分別智」という主観的なメスによって、その世界を文字どおり切り分けてしまう。

現実を理解するために、人はそれを部分へと分解する。善と悪、黒と白、高いものと低いものへと区分するのである。

しかし、「善悪」という社会的な枠組みから離れ、物事を幼い子どもの目で見つめるならば、私たちは世界をあるがままの全体として、その比類ない多様性のうちに見ることができる。

仏教の空の教えによれば、この世界には本来、善も悪も存在しない。世界の美しさも醜さも、それを見る者のまなざしの中にある。そして、もし人が昆虫を敵として見るならば、その眼差しは文字どおり農薬へと変わるのである。

長年にわたり禅を学び、実践してきた日本の哲学者・西田幾多郎は、このような先入観にとらわれない子どもの物の見方を「純粋経験」と呼んだ。

純粋経験とは、主体と客体の分離が生じる以前の、直接的で無反省的な体験の状態である。それは、好きな玩具に夢中になっている子どものように、何かに完全に没入している瞬間であり、知覚する主体としての自己と、知覚される対象との区別がまだ存在していない状態を指す。西田は、思惟によって汚されていない純粋経験こそが認識の出発点であると考えた。

この純粋経験の実現を妨げるのが主観的な思考である。それは一瞬たりとも私たちを離れることなく、反射的なレベルで利己的な自我を守り続けている。西田は次のように述べている。

«我々の見る者聞く者の中に皆我々の個性を含んでいる。同一の意識といっても決して真に同一でない。たとえば同一の牛を見るにしても、農夫、動物学者、美術家に由りて各その心象が異なっておらねばならぬ。同一の景色でも自分の心持に由って鮮明に美しく見ゆることもあれば、陰鬱にして悲しく見ゆることもある。» 善の研究、西田幾多郎

純粋経験は、子どもが「大人らしく」「分別ある人間」となるよう教育される過程で次第に失われていく。

「善悪を見分けなさい」「良いことと悪いことを区別しなさい」。

子どもは幼い頃からそう教えられる。教師や親は子どもを立派な大人に育てようとする。しかし仏教的な見方に立てば、それは同時に、世俗的な価値観や固定観念を通してしか世界を見ることのできない凡夫へと子どもを導くことでもある。そのような見方は現代社会を生きる上で一定の安全を保障してくれるが、世界をあるがままに見る力を弱めてしまう。

子どもは、湯呑みに注がれた緑茶をただ緑茶として見る。そこには先入観も評価もない。

ところが大人は違う。

「この苦いお茶」
「この最高級の宇治茶」
「農薬が使われているお茶」

そのような知識や経験が、目の前にある茶そのものの姿に重ね合わされる。私たちは茶を見ているつもりで、実際には自らの記憶や価値判断を見ているのである。こうして直接的な経験は失われ、純粋経験は観念によって覆い隠されていく。

仏教は、このような分別智による自己と他者の分離こそが、人間の苦しみの根源であると考える。そして、この二元的な世界認識を超える道として、自我への執着を離れ、対象と一つになることを説く。

たとえば親しい友人への贈り物を選ぶ人を考えてみよう。その人は自分の財布の事情を忘れ、あたかも友人そのものになったかのように、贈り物を受け取った時の喜びを想像する。そこでは自己と他者の境界が一時的に薄れている。

祖国のために戦場へ向かう兵士もまた同様である。彼は自らの生命への執着を離れ、守るべき祖国と自己とを一つのものとして受け止める。仏教でいう無我とは、このような自己忘却の状態を指している。

しかし兵士が「自分の命」と「祖国」を対立的に捉え始めたとき、あるいは贈り物を選ぶ人が「自分の金」と「友人の喜び」を別々のものとして計算し始めたとき、その行為はたちまち揺らぎ始める。自己と対象との分離が強まるほど、行為はその力を失っていくのである。

同じ論理は茶の湯にも見ることができる。茶事の場では主人と客という区別が次第に薄れ、両者は一つの人間として向き合う。禅でいう無賓主の精神である。

本書では比較の便宜上、茶を主茶と副茶に分けて論じている。しかし、この区別はあくまで分析のための仮の区別にすぎない。茶をより深く理解するためには、両者を対立する存在としてではなく、一つの全体を構成する二つの側面として捉えなければならない。

鎌倉時代の禅僧・道元は、『典座教訓』の中で物心一如の大切さを繰り返し説いている。米を炊くときには«鍋は頭、水は生命»と思えと教えた。対象を外部の物として扱うのではなく、自らと一つのものとして受け止めよというのである。p. 72、『典座教訓』、1982

世界の本来の豊かさを表す言葉として、禅では「柳緑花紅真面目」がよく引用される。柳は緑であり、花は紅い。それがそのまま真実の姿であるという意味である。この言葉は宋代の詩人であり、書家であり、また茶を愛した人物としても知られる蘇軾の詩に由来するとされる。

世界の真実は、その姿そのものの中に現れている。形は内容の外側にある飾りではない。形そのものが内容の現れなのである。まさに諸法実相の世界である。

この考え方を茶に当てはめるならば、「番茶淡味新茶濃味」と言うことができる。

世俗的なレベルでは、そこには確かに異なる二つの茶と二つの味が存在する。しかし究極的なレベルでは、それらはいずれも茶の味にほかならない。

二つの見方は互いに矛盾するのではない。むしろ相補いながら、私たちの理解をより深いものへと導いてくれるのである。

禅仏教研究者の鈴木大拙は、真の理解には直接経験が不可欠であると説く。そしてそのためには、分別によって対象を切り離すのではなく、対象の中へ深く入り込み、それと一つになることが必要であるという。

大拙はその例として花を挙げている。本書では花を茶に置き換えて考えてみたい。

茶を知るには茶になるのだ。
一片の茶となりきって、茶となって茶を開く。
茶となって太陽の光を浴び、
茶となって雨に打たれる。
そうすると茶は私に語りかける。
茶の歓びも苦しみも、恐れも知る。
茶の生命、その内に脈打つものを知る。
そればかりではない。
茶を知ることによって、あらゆる宇宙の秘密を知るのである。

ただ茶になるだけでよいのだろうか。静岡の茶農家・片平次郎の茶園を訪れてから十年後、ようやく彼の茶室に掛けられていた木札の言葉――「茶に心をのせて」――の意味が分かりかけてきたように思う。

「主体‐客体」という二元性を外すためには、茶農家や販売者は「茶になる」ことが求められる。すなわち、自らを消費者の側に置き直すことでもある。言い換えれば、そこには一種の悟りが必要となる。

そのとき、人と物がただ「存在する」というだけで価値を持つような理想世界が現れる。それは仏陀的な尺度による世界理解であり、目盛りを持たない物差しによる評価である。この価値は存在論的価値と呼ぶことができる。

しかし現実には、われわれは損得の物差しによって動く無常の二元的世界に生きている。ひろさちや『禅入門』でも指摘されているように、人は物事を「機能価値」、すなわちどれほど役に立つかという観点から評価する。p. 89、禅入門、ひろさちや

だがこの「役に立つ」、つまり機能価値はしばしば不均等に分配される。たとえば日常性や安全性に劣る茶が、高品質として市場に流通することがある。しかしそれは消費者よりもむしろ販売側に有利に働く構造でもある。

こうした状況に対して、半世紀以上前から小川八重子は疑問を投げかけていた。彼女は、商品を作る側が消費者の立場に立つことは当然の実践であるべきだと述べ、「良い茶」が誰のためのものなのか――消費者のためか、あるいは販売者のためか――が不明瞭になっていると指摘している。

«使う人の身になって」というのが商品を作る場合の基本の心がけです。» p. 19、暮らしの茶、小川八重子

«お茶屋の側からみた「よいお茶」と消費者の側の「よいお茶」ではひらきがあります。値段は高いがおいしくない。いれ方がむずかしい。封をあけるとすぐまずくなる。そんなお茶では消費者に嫌われることになりましょう。» p. 39、暮らしの茶、小川八重子

彼女は、商品を作る側が消費者の立場に立つことは当然の実践であるべきだと述べ、「良い茶」が誰のためのものなのか――消費者のためか、あるいは販売者のためか――が不明瞭になっていると指摘している(19、39頁)。

このような現実がある中で、問いが生まれる。現代社会に生き続け、隠遁者になることなく、人々はいかにして状況を改善し、理想的な仏教的価値としての茶と、世俗的価値としての茶との隔たりを縮めることができるのか。その救いへの道はどこにあるのか。

この点に関して、仏教は2500年以上にわたり膨大な経験を蓄積してきた。救いへと至る道は主に二つあり、その詳細については次章で述べる。

自力の茶・他力の茶

茶が日本へ伝来したのは八〜九世紀頃とされる。遣唐使として唐に渡った僧たちの努力によるものである。彼らは中国文化の精華を学ぶことを志し、最先端の知識と技術を求めて海を越えた。空海、最澄、永忠などの名がよく知られている。

それ以前の日本に茶が存在していたかどうかは、現在もなお学説が分かれている。しかし肝要なのは、茶が文化として中国から日本へ伝わったという事実である。茶は単なる植物としてではなく、栽培法、製造法、喫茶法を含む一つの体系としてもたらされた。その一端は陸羽の『茶経』にも見ることができる。

当時の航海は極めて危険であり、多くの船が嵐によって沈没した。

804年5月12日、四隻の遣唐船が難波(現在の大阪)を出港した。空海は第一船、最澄は第二船に乗っていた。中国沿岸に到達できたのは、そのうち二隻のみであった。

現代の人々にとって、なぜ僧たちがこれほどの危険を冒したのかは理解しがたいかもしれない。しかし彼らは、世界の真理を知り、衆生を救うために海を渡ったのである。茶や文字といった文化的要素とともに、彼らは仏教という「救済の思想」を日本にもたらした。

興味深いのは、現代の仏教書がこうした僧を仏教的側面からのみ語り、茶の歴史書は茶の伝来だけに注目しがちである点である。そこにあった思想や世界観は分断されている。

しかし本来、彼らは一体的な人格として行動していたはずである。この分断的な視点は仏教の根本思想である非二元性と矛盾し、茶と仏教の双方の理解を浅くしてしまう。

修行と茶は、ともに衆生救済という目的に奉仕するものである。その理念は「抜苦与楽」という言葉に示される。「茶禅一味」とされるのも、この文脈において理解されるべきである。

仏教は自己そのものだけでなく、現代社会そのものをも照らし出す思想体系である。ロボット工学の先駆者・森政弘は、いわゆる応用仏教的な思考を技術設計に取り入れ、「理解」ではなく「理会」という統合的把握の概念を提示した。

空海は、人を自己と他者に分けず、自己の利益を他者の利益より優先しない在り方を説いた。

他者を救うことは自己を救うことでもある。

我執の否定は自己否定ではなく、より高次の目的への従属である。

この古層の思想は、現代においても形を変えて生き続けている。自然農法の実践者であり思想家でもある竹熊宜孝は、「いのち一番、金は二の次」という原則を提示した。

僧たちは長年の厳しい修行を通じて自我の克服を目指した。

空海は真言密教を開き、高野山金剛峯寺を拠点に教団を形成した。最澄は比叡山に天台宗を開き、延暦寺を中心とした教学体系を築いた。

その比叡山の麓・坂本には日吉の茶園が設けられ、日本最古の茶園の一つとされる。現存する書簡には、空海が最澄から茶を受け取っていた記録が見られ、おそらくこの茶園で栽培された茶であったと考えられる。

しかし仏教も茶も、当初はごく限られた僧侶や貴族階級の特権的文化にとどまっていた。

11世紀初頭になると茶の記録は急速に減少し、平安期における茶文化の衰退、すなわち「お茶離れ」が起きたとされる。現代にも似た状況が見られるかもしれない。

その背景には、仏教の閉鎖性や制度的硬直化があった可能性がある。結果として仏教も茶も、広い民衆へと浸透することができなかった。

両者は本来、より単純で開かれた形を持つべきものであったが、実際には高度に専門化し、選ばれた者のみの文化となっていた。

仏教はしばしば「乗り物」に喩えられる。人々を苦しみの世界から解脱へと運ぶ乗り物である。

初期仏教(上座部仏教)は、厳格な戒律と個人修行によって阿羅漢を目指す道であった。そこでは自己の煩悩を断ち切ることが目的とされる。

しかしその後、この道は他者を救わない利己的側面を持つとして批判されるようになった。

やがて大乗仏教が成立し、すべての衆生が成仏可能であるという思想が広がる。小乗仏教と呼ばれた伝統は批判され、大乗仏教は「より大きな乗り物」として位置づけられた。

密教、真言宗、天台宗、そして後の曹洞宗に至る流れも、この大乗的展開の中に位置づけられる。

道元の思想は特に厳格であり、悟りは外から与えられるものではなく、日常のあらゆる行為そのものが修行であるとした。

食べること、洗うこと、語ること、眠ること、そのすべてが修行である。永平寺における清規は、日常生活の細部にまで及んでいる。

そこでは食事の作法、衣の畳み方、歩行の仕方に至るまでが厳密に規定されていた。典座教訓においては、炊事そのものが坐禅と同等の修行であると説かれる。

茶もまたその体系の中に組み込まれ、後の茶の湯の形式へと影響を与えた。

道元は修行僧への教えの中で、「日常家飯」と「尋常茶飯」(番茶を指すのだろうか)と「得意な茶」(抹茶を指すのだろうか)という表現を用いている。

宋代中国を訪れた道元は、栄西に続いて禅を日本にもたらした。禅においては、修行によって悟りに至るのではなく、「すでに仏であるからこそ修行する」という逆転が起こる。

個人の修行による自己救済を目指す仏教は、「自力仏教」と呼ばれる。この形態は鎌倉時代に至るまで日本仏教の主流であった。しかし、それは依然として民衆から遠い存在であった。厳格な戒律、複雑な儀礼、そして過酷な修行に支えられていたからである。

日本の大乗仏教は理念としては「万人のための仏教」であったが、社会的現実においてはなお「選ばれた者のための仏教」であり続けた。このような仏教はしばしば「山の上の仏教」、あるいは「自力の仏教」と呼ばれる。

この仏教の構造は、そのまま茶にも重ね合わせることができる。高品質で高級な茶、すなわち茶の専門家たちがその探求と製造、淹れ方の研鑽に力を注ぐ茶は、「自力の茶」、あるいは「小乗の茶」とみなすことができる。それは知識と努力、そして相応の資源を必要とする困難な道である。

これに対して、広く人々に提供される日常茶は、まさに「大乗の茶」である。それは人に多くの知識や能力を要求しない。「他力の茶」と呼ぶこともできよう。この表現は、親鸞を源流とする他力仏教と響き合う。

親鸞は道元と同時代を生きた僧であり、道元と同じく比叡山の厳しい修行の中で長年を過ごした。しかし、ついに悟りを得ることはできなかった。

二十年に及ぶ修行を経てもなお、親鸞は家庭を持ち、社会の中で生きたいという人間的な願いを捨てることができなかった。そこから彼は、厳しい修行そのものが仏教を民衆から遠ざける大きな障壁となっていることに気づいたのである。

親鸞が打ち立てた浄土教は、日本仏教史における真の革命であった。彼は、弱く、不完全で、煩悩に満ちた普通の人々もまた救われうるし、救われるべきであると説いた。さらに、厳しい修行を実践できない「悪人」こそが、阿弥陀仏の慈悲の真の対象であると考えた。

親鸞によれば、自らの罪深さを自覚する悪人のほうが、自らの修行や功績に酔う僧侶よりも救いに近い。これは、高級茶への知識や経験を誇り、「質の低い茶」や安価な茶を飲む人々を見下す傲慢な茶の専門家たちを思わせる。

他力とは単なる神仏への依存ではない。そこには、自我への執着を手放すという、より深い意味が込められている。自らの力への固執を捨てることは、肥大化したエゴという根本的な悪を捨てることでもある。

親鸞の改革は、救済へ至る高い敷居を取り払った。別の言い方をすれば、仏教の「日常性」を飛躍的に高めたのである。浄土教には誰でも入ることができ、肉食妻帯も許容された。そして、「南無阿弥陀仏」と称えるだけで救いが約束されると説かれた。

こうした高い障壁の撤廃は、浄土宗や浄土真宗が日本最大の仏教教団へと成長した理由を説明している。こうして日本には、大衆のための、すなわち日常仏教が誕生した。それはしばしば「山の下の仏教」と呼ばれるが、その呼称は同時に、この仏教が社会を支える基盤であることも示している。

親鸞の教えが選ばれた僧侶ではなく広範な在家の人々に向けられていたように、日常茶もまた茶文化の基盤を成す普通の人々に寄り添い、日々変わることなく奉仕している。

他力の茶としての日常茶は、人に茶だけへ意識を集中することを求めない。茶葉の量や湯温、抽出時間を厳密に管理する必要もない。それらの茶は阿弥陀仏のように慈悲深く、多少の淹れ方の失敗を寛大に受け入れ、あらゆる生活場面に寄り添う。茶にお湯を注げばよい。それだけで救われるのである。

これはあまりにも簡略化された喫茶法のように見えるが、他力は自力を完全に否定するものではない。最低限の準備と日常の修行は不可欠である。

急須を用意し、茶を選び、湯を注ぎ、家族や友達と共に楽しむ、茶器を洗い、感謝をもって片づける。簡素な実践であっても、それは確かに修行であり、確かに茶である。

簡略化された修行であっても、それは紛れもなく修行であり、茶文化の大切な土台なのである。

頂雪麓草

山の上の「自力仏教」と山の下の「他力仏教」、そして山の高級茶と里の日常茶について考え続けるうちに、私の脳裏には「頂に雪あり、麓に草あり」というイメージが浮かんだ。私はこれを四字熟語として「頂雪麓草(ちょうせつろくそう)」と表現した。

「頂雪麓草」は、ある現象が新たな環境へと広がり、変容しながら定着していくあり方を示す比喩である。

高級茶は、溶けた雪が山頂から麓へと流れ下るように、社会の上層から下層へと広がっていく。その過程で地域ごとの嗜好や経済的制約の影響を受けながら姿を変え、やがて一般の人々の日常茶、すなわち「麓の草」へと変化する。

現象は新たな環境に適応する過程で、その形態を大きく変え、新たな性質を獲得することがある。しかしその価値そのものは失われない。

茶の場合、それは「茶らしさ」と呼ぶべきものである。すなわち、人にとって美味しく有益な飲み物であり続けること、そして健康と喜び、仏教的に言えば「抜苦与楽」という根本的な救済の機能を果たすことである。その実現の仕方は環境によって異なるが、本質は変わらない。

別の例を挙げよう。生命は海洋の最深部にまで到達している。深海という過酷な環境、高水圧の世界にも魚は生息している。しかしそれらは深海魚であり、水面近くに暮らす魚とは外見も内部構造も大きく異なる。

魚も茶も、生存や適応のために必要な変化を伴うことなく、異なる環境層へと浸透することはできない。

しかし、その変化は劣化ではない。魚も茶も、「下降」に伴って品質が低下するのではなく、新たな環境に適応する中で、従来の性質を失い、新たな性質を獲得していくのである。

このような高級茶と日常茶の捉え方は、日本に定着している茶の品質評価体系とは相容れない。その体系では、玉露をはじめとする高級茶が上級茶とされる一方、番茶などの日常茶は下級茶と見なされる傾向がある。

しかし前章で述べたように、価値という観点から見れば、両者に上下関係は存在しない。それぞれが異なる性質を備え、その性質によって周囲の環境へ適応し、新たな役割を果たしているのである。品質とは本来、そのものが果たすべき目的との関係によって決定される。

もし現代日本茶の評価基準を魚にも適用するならば、それは一種の差別となるだろう。小さな目を持つゼラチン質の醜い深海魚は「低品質な魚」と判定され、優雅に海面を滑空するトビウオは「高品質な魚」と評価されるに違いない。

魚や人間が、人種や民族の違いによって差別されることを望まないのであれば、なぜ茶だけが差別されなければならないのだろうか。

ここで述べた質的変容の現象は普遍的なものであり、その根底には「品質変容の原理」とでも呼ぶべき法則が存在している。

私たちはこの原理に基づき、茶葉は成長するにつれて品質が低下するのではなく、変容すると考える。すなわち、洗練性を価値とする品質から、日常性を価値とする品質へと移行するのである。品質は低下するのではなく、その現れ方を変える。

高級茶は日常茶へと変容する。しかし、人々を健康にし、幸福にするという根本的な品質は失われない。

香味としての品質は変化するが、価値としての品質は保たれ続けるのである。

さらに、茶が大衆の日常へと「下降」するのと同時に、その文化的使命は新たな質的段階へと到達し、量的には最大限の広がりを獲得するのである。

この観点から見れば、茶の日常生活への浸透は、茶文化のみならず、あらゆる社会文化的現象の普及を考える上でも重要な示唆を与える。

茶の日常生活への浸透の重要性に早くから注目した研究者の一人が、江戸時代における茶の普及過程を研究した守屋毅(1943–1991)である。彼は次のように述べている。

«日常茶飲事という言葉まであって、われわれは茶を日常生活の象徴と考えているにもかかわらす、その常用化が達成された過程について、これまで、余りに無関心であったといえよう。既存の茶の湯研究もしくは茶業史研究とは別の、常民生活史、常民文化史とでもいうべき観点から、日本人の暮らしの端々に茶がかかわりをもっていくプロセスを明らかにしたいというのが、小稿の目的にほかならない。» p. 62、守屋毅

守屋は、「雪」(高級茶)が地域社会への浸透の過程において、さまざまな簡略化や模倣を通じて地域ごとの条件に適応し、最終的に「草」――すなわち地方の自家用茶――へと変容していく過程を明らかにしている。

«茶の常民社会への普及は、近世初頭にはすでに禁制の対象となる程度の段階に達していたが、それが客侈(嗜好品)のレベルから常用品へ展開するのは、おおよそ十八世紀以降であろうと考えられる。その展開の基礎には、茶の生産の増大があったが、茶産地の形成と流通の活発化とともに、自家用茶の栽培・加工の拡大が、より重視されてよい。

これらによって、高級茶をめざす宇治とは別に、大衆茶普及の条件がかたちづくられたとみられるからである。従って加工法においても、今日より多様な様相がみられた。

茶の飲み方においても、多様な型態がみられ、純粋な飲料としてではなく、ことに食生活との関連での展開が著しい。しかもその場合、茶に与えられた位置は、それまでの伝統的な食事体系に対する「やつし」「もどき」のそれであって、同様の傾向は、民間習俗のなかで茶のしめる位相においても見出される。近世常民社会における茶の文化的特色は、この点に求められるといってもよかろう。» p. 104、守屋毅

中国茶文化の歩みを顧みれば、唐代の茶が、貧富を問わずあらゆる家庭へと浸透してはじめて、全国的な茶文化を形成し得たことは疑いない。

その一方で、当時の陸羽は茶の高品質化を強く唱えていた。

«ああ、天が育んだものには、それぞれに素晴らしいところがある。しかし、人間が工夫して行う物事は、安直に流れるばかりである。人は雨露をしのぐために家屋を築くが、その家屋は精美なものを求める。人は身を衣服で覆うが、その衣服は精美なものを求める。人は飲食によって腹を満たすが、食物と酒については、いずれも精緻なものを求める。にもかかわらず、茶についてだけはいい加減であり、まことに遺憾である。» p. 78-79、茶経、六之飲、高橋忠彦、

しかし陸羽は、民衆の喫茶習慣に対して批判的であり、茶が適応過程で遂げる品質変容を、品質の低下として捉えていたのである。

«茶の飲料としての形態には、粗茶(粗大な葉茶)、散茶(普通の葉茶)、末茶(粉末の茶)、餅茶(固形茶)のような種類がある。

民間の飲み方としては、茶を切り刻み、煮り、焙り、搗き砕いてから甕の中に入れ、湯を注いで飲む方法があり、これを庵茶と呼ぶ。また別の飲み方としては、ネギ・ショウガ・ナツメ・ミカンの皮・茱萸(ゴシュユ)・ハッカなどを茶に加え、百回も煮立ててから飲む。前者は茶を湯に浸して、濾してなめらかにする方法だし、一方は煮立ててから浮いた煮汁を棄ててしまう方法だ。

このような茶は、用水路に流す汚水と変わらない(斯溝渠間棄水なるのみ)。にもかかわらず、民衆はこのような喫茶習慣を捨てない。» p. 78、茶経、六之飲、高橋忠彦、

唐代において天下の隅々にまで浸透した茶が、陸羽の理想としたような高級茶のままであり続けることなど不可能であった。茶は環境に適応するために変容したのである。頂の雪は麓の草へと姿を変えた。

陸羽は、すでに品質変容を遂げた茶を、依然として高級茶の基準によって評価し続けた。実際のところ、彼が行っていたことは、今日その後継者とも言える日本茶の品質評価体系が行っていることと本質的に同じである。その体系は番茶を新茶の視点から評価し、その結果として品質序列の最下層へと位置づけている。しかし、新たな環境への適応は茶の形を変えても、その機能価値までは変えない。

この特徴が理解されていないために、しばしば誤解が生じる。たとえば今日、多くの日本の抹茶生産者は、中国で製造される抹茶の一部が被覆栽培を経ておらず、そのような「模倣品」の品質は「本物」の日本産抹茶とは比較にならないと指摘している。また、世界的に粉末状の緑茶であれば何でも抹茶と呼ぶ傾向が広がっていることにも不満を抱いている。

しかし実際には、抹茶は千年以上前の中国にすでに存在していた。そして日本へ伝来した後も、中世に至るまで覆下栽培は行われていなかった。遮光抹茶とは、日本の嗜好や風土に適応し、茶道の発展とともに形成された、より後代の形態にほかならない。

言い換えれば、中国の無遮光の僧院抹茶こそが「麓の草」であり、それが徐々に「頂の雪」である日本の被覆抹茶へと変容していったのである。この事例は、品質が上方にも下方にも変容し得ること、そして「上」と「下」という概念そのものが相対的であり、空なるものであることを示している。品質の序列としての山は、頂と麓を隔てる境界を失った「空の山」へと変わるのである。

いずれの抹茶も優れているわけでも劣っているわけでもない。それらはただ「抹茶」という一本の映画の異なる場面にすぎない。そこには、栄西が『喫茶養生記』で称賛した禅的な苦味から、今日の高級抹茶に見られる濃厚な旨味と甘味に至るまで、一つの物語の展開が映し出されている。

さらに、現在世界で消費される抹茶のかなりの部分は抹茶ラテなどの飲料として利用されている。そのような用途には、むしろ安価な無遮光抹茶の方が適している場合が多い。無遮光抹茶は、それぞれの用途において十分にその役割を果たしており、茶道の抹茶としての地位を争う必要もない。

人間は物事を極端な二項対立によって捉えがちである。しかし現実は、その両極の間に広がる無限の空の領域を示している。それはまるで元素の周期表のように、被覆の程度、甘味、色沢の鮮やかさなど、さまざまな要素が多様な組み合わせを形成する場なのである。だからこそ、茶道に十分用い得る無遮光覆抹茶も存在する。

技術的な欠陥のない抹茶であれば、いずれもそれぞれの条件のもとで固有の価値を有しているのである。無遮光抹茶(麓の草)は、遮光抹茶(頂の雪)と同様に十分な存在価値を有している。そして実際の歴史と市場が、そのことを証明している。

日本では現在でも、被覆を行わない秋摘み原料を石臼ではなくボールミルで粉砕した抹茶が大量に生産されている。この方法は生産性を高め、製造コストを大幅に低減する。

比較的低コストで生産可能な無遮光抹茶、すなわち「粉末緑茶」は、抹茶の日常版とも呼ぶべき存在であり、消費者からより大きな関心を払われる価値がある。

これらの事例が示しているのは、頂から下るにせよ、あるいは麓から頂へ向かうにせよ、「仏の慈悲」、すなわち品質は、その時々の目的に応じて形を変えるものの、その本質――人間を救済へと導く方向性――を変えることはないという事実である。

ここから明らかになるのは、香味としての茶の品質は変容する形であり、価値としての茶の品質は、その変容を通じても保持される内容、すなわち文化的本質であるということである。

品質変容の原理は普遍的である。それは茶にも宗教にも当てはまる。仏教もまた、日本の民衆社会へと浸透し、民間信仰と適応・融合する過程で、「麓の草」とも呼ぶべき形態を獲得した。そして長い間、それらは知識人や宗教エリートによって「堕落」や「残滓」と見なされてきた。

二流の仏教

日本に渡来した仏教は、まるで頂から滑り落ちる雪のように、避けがたい変容の過程を経ながら、次第に在来の信仰へと適応し、やがて古来の神道と自然に溶け合っていった。

しかしその融合は完全なものではなかった。いわゆる神仏習合(シンクレティズム)――異質な要素を一つの体系へと結びつけながらも、完全に同化させることなく、内部の差異を保持したまま共存させる在り方――がそこにはあった。シンクレティズムとは純粋な混合ではなく、異なる原理が一つの全体の内部に並存する構造である。

仏教と神道は、長い年月にわたり相互浸透のかたちで存在し続けた。寺院と神社が同一の空間に併存し、神々は一つの実在の異なる顕現として理解されることもあった。このような統合の在り方は、近代文明の分割的思考とは明らかに相容れないものである。

19世紀後半、明治維新の改革期に、日本では文化的な分断が生じ(神仏分離)、歴史的に融合していた仏教と神道は、制度的にも切り離されることとなった。

しかし、在来の信仰と混淆した民衆仏教こそが日本社会における実質的な仏教の姿であったにもかかわらず、それは公式の学知からは、未開で誤った迷信の集合として退けられていった。

理想化された寺院仏教の形式に固執した近代の学問は、民間信仰の中に別種の発展形態を見ることを拒み、「頂の雪」のみを仏教の正統と見なし、「麓の草」を俗悪で逸脱したものとして切り捨てたのである。

このような「上と下」の固定化は、生きた文化の変容力を停止させ、社会という文化的有機体を動かない標本へと変えてしまう。

こうした歪みの是正に生涯を捧げたのが、日本の研究者 五来重 (1908-1993)であった。五来は、信仰の根幹を洗練された教団仏教ではなく、荒々しく未整理な民衆仏教の中に見いだした。それはまた、小川八重子が茶文化の基層を日常的に飲まれる安価な番茶に見いだした視点とも呼応する。

五来はまた、行基や空也らのような遊行僧の活動を精密に検討した。それは、山岳修験の伝統と、真言・天台の諸宗派が交わる中で成立した複合的な宗教運動の産物であった。

行基 は、民衆の中を巡り歩いた僧の先駆けであり、「聖(ひじり)」と呼ばれる民間聖者の原型をなした存在である。

彼は庶民の中で布教を行い、相互扶助の共同体を組織し、橋や道路、用水路や貯水池といった社会基盤の整備に携わり、さらには宿坊や寺院の建設も行った。大規模な公共事業の実現のために、信仰によって結ばれた労働集団(結縁集団)を形成したことでも知られる。

空也 は、平安期民衆仏教を象徴する遊行僧であり、とりわけ951年の疫病の記憶と結びついて民衆の記憶に深く刻まれている。

京に疫病が広がった際、貴族は邸宅に閉じこもり、寺院は国家鎮護の祈祷に終始し、庶民は見捨てられ路上に倒れていった。その中で空也は都を離れなかった。

彼は観音像を自ら作り、それを荷車に載せ、疫病の町を引いて歩きながら、念仏を唱え続け、病者には梅を用いた煎じ茶を配った。その正確な処方は今日ではもはや定かではない。

おそらく彼が用いたのは、安価な番茶をベースに、機能性を備えた実用的な茶であったと考えられる。緑茶も梅も、抗菌・抗ウイルス作用を持つことはよく知られている。

現代においても、風邪やインフルエンザの際には番茶に梅干しを入れて飲む習慣があるが、その起源は平安期にまで遡ることができると考えられる。

伝承によれば、疫病に際して茶を施した徳を讃えた 村上天皇 は、正月に「大福茶(おおぶくちゃ)」を飲む習俗を定めたとされ、これは今日も関西地方に残っている。

空也や行基のような遊行僧は、民衆仏教という巨大な氷山のほんの一角にすぎず、その背後には無数の無名の聖たちの献身的な実践が存在している。

五来は、まさにこの機能的な民衆仏教の中にこそ、日本仏教の基層があると見なしたのである。形式化された寺院儀礼の中ではなく、生活に根ざした実践の中にである。

彼は次のように記している:

«仏教が日本へ入ってからすでに一千四百余年を経過し、日本人の文化と生活のすみずみにまでとけこんで、外来の宗教とはいえないほど同化している。しかし仏教は本来は外来文化であって、これを日本文化に同化した跡を究明することは、日本文化史や日本宗教史の重要な課題である。

この問題を解明するためには、仏教学や歴史学のほかに、民俗学の協力を欠くことはできないと思う。従来の日本文化史は芸術・思想・哲学・宗教・儀礼などの面で、日本化した仏教文化をあつかってきたが、それもたいてい貴族や知識人や高級僧侶(そうりょ)のになう、表層文化としての理解にすぎなかった。そのためにインドや中国の仏教とは次元のちがう庶民信仰や、仏教芸術や仏教芸能、あるいは神仏習合思想や山岳仏教、ないし念仏信仰などには、じゅうぶんな説明があたえられなかった。とくに仏教年中行事や仏教講・葬送習俗などの社会的機能には、仏教史も文化史もまったく無力であった。

しかしこれらの正統的仏教からはみだした庶民仏教文化と、仏教民俗と庶民信仰こそ、わが国の常民や下級僧侶が創造してきたものである。外来仏教の民族宗教化は、常民のになう基層文化への同化作用であったことが、だんだんあきらかになってきている。これはまったく日本民俗学のなかに蓄積されてきた仏教民俗資料と、この学問が解明した基層文化の構造理論のおかげであることは、だれもうたがうものはないであろう。

しかし正統をもって任ずる明治以後の近代仏教学と、宗祖以来の教団的伝統をまもる仏教各宗の教学とは、かならずしもこのような行き方に肯定的ではない。これは原典研究や経典解釈の立場から見れば、民俗的な仏教文化や庶民信仰は非仏教的であり、俗悪にして唾棄(だき)すべきものと見えるからであろう。しかし現実には、平安時代以後の仏教は常民の庶民信仰にささえられてきたし、現今仏教とはその観念的な教学をさすのではなく、常民の生活と接触する信仰面をさすことをことわっておきたい。» p. 250-251、五来重、仏教と民俗、続、1979

多くの研究者は五来重に対して、逆の極端に陥っているのではないかという批判を行っている。同様の傾向は小川八重子にも見られ、彼女もまた番茶の価値を擁護するあまり、時にその擁護論が過度に強調されることがあった。明らかなのは、茶においても仏教においても、公的でエリート的側面と、民衆に根ざした実践的・機能的側面の双方が不可欠であるという点である。そして両者は、一つの全体を構成する二つの側面にほかならない。

五来はこれらを仏教の「建前」と「本音」と呼んだ。同様にして、煎茶を「建前の茶」と呼び、番茶を「本音の茶」と呼ぶこともできるだろう。

仏教思想の哲学的遺産を軽視することなくとも、五来重が注目したのは、現場において実際に機能していた「実在としての仏教」の実践的意義であることを認める必要がある。

その研究過程において彼は、インドの理論的枠組みから日本的の実践の現実へと視点を移していったのである。

実は私も日本仏教の歴史を研究する前は、インド仏教を専門としたが、その観念論の深さと論理構成の巧妙さに魅了されたのは事実であった。それはインド仏教の修道の実践的方法は、苦行を否定して瞑想(めいそう)と思弁(しべん)(禅定(ぜんじょう))によるからであった。釈尊が六年間の苦行をやめて、菩提樹下の瞑想で正覚(しょうがく)を開いたのが、インド仏教だったのである。

しかし私はインド仏教の観念性と論理性の面白さにもかかわらず、その非現実性と非実践性と煩瑣(はんさ)哲学には釈然としないものがあった。それは私が日本人だからで、日本人は現実的で実践的で、直截簡明(ちょくせつかんめい)な信仰でなければ、ついてゆけないのである。これは日本人がインド人やユダヤ人のように、抽象的思考にすぐれた素質をもたないためであるとおもうが、そのために、日本仏教はインド仏教とは似ても似つかぬ仏教になってしまった。

日本仏教は問答無用の仏教である。したがって教理はできるだけ単純化され、信仰と実践(修行)がこれに代ったのである。しかもその信仰と実践はきわめて非仏教的な呪術性と苦行性にみちたものであった。これが日本仏教の本音であるが、建て前の仏教が国家統制(律令)の必要から正統(オーソドックス)になると、本音の仏教は反体制、反律令の仏教として迫害され、裏の仏教になってしまった。» p. 39-40、日本人の仏教史、五来重、2023

日本茶との関係は自然に想起される。確かに、熱湯で淹れた一杯の番茶は、「問答無用の茶」と言える。とはいえ、その素朴な外観の背後には、茶文化の奥深い根幹が潜んでいる。

五来は実践的な機能性を重視し、「知の宗教」よりも「行の宗教」を優先すべきだと主張した。日本の宗教学者である碧海寿広は、論文「仏教民俗学の思想――五来重について」(2007)の中で、五来を引用しながら次のように述べている。

«必要とあれば、仏教を捨ててでも庶民救済をとる」という極論。この本覚思想も顔負けの現実肯定的で人間賛歌に満ちた極論に到達した地点から、五来は独自の仏教思想を繰り広げていた。仏教を、「実親」つまりは人々の身体的・行為的な様相において捉え、それを思想的に言語化していたのである。この五来思想において仏数とは、人々の具体的な実装のなかで意味をもつことによってのみ、あるいは人々の「役に立つ」ことによってのみ、探求するに値する対象だった。

«庶民は仏教を自分たちの生活や借仰に都合のよいように変質させて受け容れる。それはオーソドックスな仏教から見れば、まったく無な認解なのだけれども、その方が彼らに理解できるし、役に立つのである。»  p. 8、五来重「総説仏教民俗学の概念」五来重他編『講座日本の民俗宗教2仏教民俗』学弘文堂、1980年。

人々の生活実装に応じて「変質」しなければ、仏数はそもそも理解されないのである。認知することができず、したがって意味がないのである。受容者の生活形態や彼らをとりまく文化的な環境ごとに特有の「誤解」がなされてはじめて、仏教はこの世に存在しうる。

«仏教も純粋(本物)のままでは抽象的で、はっきりした形をもたない。それはある時代のある民族文化と化合したとき、はっきりした形をあらわす。それが本物をゆがめたり、政治に利用されたりしたとしても、われわれが認識でき、生活にかかわりをもつことができるのは、その不純な化合としての仏数なのである。もっとも純粋な仏教といっても正体はよくわかっていない。なぜかといえば仏教経典は釈尊の入滅後数百年たってから、印度各地のいろいろの学派によってつくられたものだからである。

それらの経典の操作で、原始仏教を知り、それを抽象して根本仏教を知ろうとすれば、四理諦、十二因縁、八正道というような抽象的な概念になってしまう。» p. 8、五来重「総説仏教民俗学の概念」五来重他編『講座日本の民俗宗教2仏教民俗』学弘文堂、1980年

五来が重視した民衆仏教とは、庶民の暮らしのなかに根を下ろした仏教の姿そのものであった。それは、高みの雪が麓へと流れ下り、草木を潤す水となった姿にもたとえられる。

仏教は環境に応じて形を変える。しかし、その変化のなかにあっても、人々を救い導くという根本的な働きが保たれている限り、その本質的な価値は失われない。

五来重は、外来の宗教として伝えられた仏教が、日本の風土や民衆の生活と結びつきながら、どのようにして人々の日常に浸透していったのかを追究し続けた。そして、その適応と変容の過程を考察するなかで、彼が着目したのが芸術の果たす役割であった。芸術は、難解な教義を人々が理解しうる具体的な形へと翻訳し、仏教を生活世界へ定着させる重要な媒介だったのである。

適応過程を考察するなかで、五来があらためて着目したのは、その変容を支える重要な媒介としての芸術であった。

木喰

遊行する実践的修行者たちの中でも、とりわけ重要な役割を果たしたのが、円空(1632–1695)や木喰(1718–1810)に代表される民衆の仏師たちである。

彼らは、寺院を飾る定型的な仏像とは異なり、まるで生きた人間のような表情をもつ仏像を彫り、人々に救済への信仰を目に見える形で伝えた。

ここでは、近世後期日本仏教を象徴する存在の一人である木喰について、やや詳しく見てみたい。木喰は、諸国を遍歴した神秘家であり、和歌の詠み手であり、また独創的な彫刻家でもあった。

「木喰」という名は文字どおりには「木を食べる者」を意味する。しかし、その意味は木材を食べることではなく、山の恵みを糧とし、米や穀物などの常食を断つ修行を行った木食僧の系譜に属していたことに由来する。

木喰は1718年、甲斐国(現在の山梨県)に生まれた。十四歳で家を出て、しばらく江戸で暮らした後、俗世の喧騒に失望し、関東へ赴く。そこで二十二歳のとき、遊行する仏教伝道者としての道を歩み始めた。

彼の和歌は、その作者が悟りに達し、世界を分別する人工的な境界を超えた、不二の認識へと至っていたことを物語っている。その語りは、禅の言葉として知られる「日日是好日」の精神とも深く響き合っている。:

泣くもよし、

笑うもよし、

みな仏の道。

生まれてうれし、

生きてうれし、

死んでうれし。

この世よし、

あの世もよし、

ただ笑え。

もし木喰が新茶と番茶について語ったならば、おそらく次のような言葉を残したに違いない。

この世よし、

あの世もよし、

みな仏の道

木喰は高齢になってもなお、幼子に特有の、物事をありのままに見る澄んだ眼差し、すなわち「純粋経験」を失わなかった。

八十八、

子供のように、

まだ歩く。

茶葉が若葉の新茶から成熟した番茶へと変わっていくように、木喰の人生もまた、重ねられた歳月の一つひとつによって悟りへと近づいていく過程であった。

年をとり、

目もかすみて、

佛は光る。

ひょっとすると、古葉から作られる番茶こそ、悟りを得た茶、いわば「茶仏」と呼ぶべき存在なのかもしれない。

悟りに通じる「純粋経験」の世界において、木喰は自己と対象との境界を見なくなる。

佛つくり、

佛拝して、

わが身佛なり。

木喰は、自ら刻んだ仏像を、人々を救済へ導くための方便として捉えている。

わが佛、

木に宿りて、

人を救う。

もし木喰が茶農家だったなら、おそらく次のように書いたであろう。

わが佛、

茶の葉に宿りて、

人を救う。

木喰は九十二年の生涯のあいだ、ほとんど無一文のまま北海道から九州まで日本各地を歩き続けた。人々から施しを受けながら旅を重ね、行く先々の村に滞在しては、住民のために木彫の仏像を刻んだ。

木喰の仏像の多く、とりわけ晩年の作品には柔らかな笑みが浮かんでいる。その表情は、寺院仏教が生み出してきた厳粛で近寄りがたい仏像とは著しい対照をなしている。

中国風の様式が生み出した荘厳で遠い仏に対し、木喰の微笑仏は日本人の感性に根ざした親しみと温かさをたたえている。そこにいるのは、高みに坐す菩薩というよりも、日々の暮らしをともにする友人や家族、あるいは近所の優しい老人のような仏たちである。そして木喰は、そのような老翁の姿に自らを重ね合わせるようにして、自身の面影を仏像の中へと刻み込んだ。

そうした微笑仏の一つが、兵庫県猪名川町の天乳寺に残されている。老人の姿をしたその自画像的な仏像は、全身が炭で落書きされている。木の仏と遊んだ子どもたちの仕業だと伝えられている。

木喰の仕事からは、一人の遊行僧の営みによって、仏と凡人との間に設けられた人工的な境界が少しずつ取り払われていく様子を見ることができる。そもそも仏陀とは神ではなく、悟りに到達した一人の人間であった。

正統仏教の複雑な儀礼や難解な経典に比べれば、木喰が村々に残した微笑仏は、一杯の素朴な番茶のように、はるかに親しみやすく理解しやすい存在であっただろう。

木喰は仏を人々の日常へと引き寄せた。それは、救いが特別な場所にあるのではなく、生きることそのものの中にあることを示そうとする試みでもあった。言い換えれば、彼は芸術の力を通して仏教を日常へと開き、その日常度を高めようとしたのである。

しかし、真の信仰への独占的な権威を自認していた既成仏教は、このような民衆の側の仏教を容易には認めなかった。民間の宗教者たちはしばしば異端視され、その活動は抑圧された。こうして仏教の二つの極のあいだには、一つの全体を構成する相反する要素どうしの緊張関係が生まれる。陰と陽、山頂の雪と麓の草との対立である。

ヘーゲルの弁証法によれば、発展は対立物の統一と闘争によって生じる。そして一方が他方を過度に抑圧し排除するとき、その影響は部分にとどまらず、体系全体の活力を損なう。絶対化された雪は凍りつき、麓へと流れ下ることなく硬直した教条へと変わる。そこでは全体を循環させるはずの生命の流れが滞り、やがて体系そのものが停滞へと向かうのである。

五来重はこう述べた。

«いかなる世界にも正統派があれば異端派があって、この両派の緊張関係のなかで、社会は調和を保ち、また進歩するものである。これに対し、正統派が権威を笠にきて異端を圧迫した時代は、かならず停滞と惰眠の時代であった。(…)

いつの世にも、新しい時代の担い手は、まず異端として、その姿をあらわす。(…)

異端はまず民衆の中から生れ、民衆の要求を代弁するものであった。

私がここで、円空・木喰(行道)という二人の庶民芸術家を異端とするのは、このような意味で、貴族的芸術に対抗して、庶民の宗教と芸術を、堂々と主張したからにほかならない。それは、大寺院や高級僧侶から見れば異端であるが、民衆にとっては正統であった。その人間性も芸術も、親しみやすく、民衆と共にあり、民衆の心を代弁するものであった。» 異端の放浪者 円空 木喰、朝日新聞社、1972

当時の支配層は、民衆仏教のみならず、民衆芸術の価値までも事実上否定した。遊行の芸能者や職人たちはしばしば迫害を受けたが、五来が指摘するように、

«しかもかれらは心から民衆に暖かくむかえられ、尊敬され、庶民のためのすぐれた芸術をのこした。

宗教や芸術は、すべて国家や官僚や特権階級の評価と、民衆の評価はまったく異なることが多い。国家から紫衣をもらうような僧侶に、碌な坊主がおらないように、国家から賞をもらう芸術も、民衆にはまったく縁がない。民衆はそれほど異端の味方であり、異端もまた民衆に支持されて芸術を生み、宗教を広めることができた。»

木喰と円空の作品は、鉈(なた)による素早く力強い彫りと、その後の磨きや彩色をあえて施さない、「荒茶」にも通じる素朴な作風によって、無心にして誠実な芸術の理想を体現していた。しかし、その価値が正当に評価されるようになったのは、柳宗悦の精力的な活動を経た20世紀になってからのことであった。

微笑仏

1924年1月、柳宗悦は山梨県を訪れ、知人の収集家の家で偶然、木喰作の菩薩像を目にした。

民芸運動の思想家であり美術評論家でもあった柳は、その仏像に刻まれた、どこか子どものような無垢な微笑みに深く心を打たれた。後に「木喰の微笑」と呼ばれることになるその表情である。

無名の遊行僧によって彫られたその像に、柳は清らかさ、健やかさ、そして「無心」を見出した。そしてその微笑みに魅了された彼は、それを真の美の絶対的な象徴として受け止めるようになる。

1924年5月、柳はこの仏像に向かって次のように記している。

«貴方は或るものに向つて微笑むのでもなく、又その微笑みに或るものを示さうとするのでもない。凡てがその前に無差別であり、然も差別なきその相に凡ての差別を迎へてゐる。その微笑みは移りゆく時間を持たぬ。或る時に笑ふのでなく、又時に移るものに笑ふのでもあらぬ。その微笑みに於て、時に流るるものを、時なき境に活かさうとするのである。

凡てのものはその變りなき微笑みに於て又不滅にされる。そこには絶對な境地が漂ふ。示される心はあらゆる二元界に無開心である。凡ての醤立の世界から超然として離脱する。然も如何にそれが密な交はりを凡てに結んでくるであらう。» p. 371、木喰上人、柳宗悦選集第九巻

この出来事は、柳宗悦個人にとってのみならず、日本美術史にとっても大きな転換点となった。

柳はただちに本格的な調査に乗り出し、木喰の作品を求めて全国各地を巡った。そして短期間のうちに、それまで「粗雑な作」と見なされ価値を認められていなかった数百体もの仏像を発見した。

1925年、柳はその調査成果を公表し、日本中にいわゆる「木喰ブーム」を巻き起こした。

新たに見いだされたその美は、近代主義への一つの対抗軸として機能した。急速な西洋化が進む大正期、日本人は自らの文化的根源を求めており、「木喰の微笑」は純粋な日本精神の象徴として受け止められたのである。

また、それは芸術の民主化を促す契機ともなった。柳は、傑作は宮廷や権力に仕える名工だけでなく、名もなき遊行の工人によっても生み出され得ることを示した。

その影響は絶大で、それまで自らの「粗末な」仏像を顧みなかった多くの寺院が、それらを文化的遺産として公開するようになった。

木喰の再発見は、柳が民藝思想を完成へと導く重要な契機ともなった。その中心に据えられていたのは、無心の境地において無名の職人たちが日々の暮らしのために生み出した器物の美である。民藝運動は、長らく真の芸術と見なされてきた特権的な名品から視線を移し、人々の日常を支えてきた素朴な事物の美をあらためて見いだした。

柳は木喰仏の微笑の中に、美の理想的な姿だけでなく、日常の中に現れる超越的な仏の慈悲をも見ていた。

«読者よ、それを名も知れぬ一彫刻だと看過してはならない。そこにつつまれた秘義を見る者は、神を見る幸を受けてゐるのだ。眞宗は彌陀に救済の誓願があると私達に敎へてゐる。同じその敎へが合掌するこの佛像に於て活々と説かれて居るではないか。 p. 374, 木喰上人、柳宗悦選集第九巻

五来重は、木喰の才能と柳宗悦の卓越した眼力を高く評価している。

«厳粛な礼拝の対象としかおもわれない仏像の型をやぶった、まったく人を喰った木喰仏である。しかも信仰も教理もお説教は一切御免といった、あかるく単純な微笑仏である。百姓や馬方や、村娘やおかみさんが仮装したような庶民の仏さまである。それは拝まれる仏像でなくて、したしまれる仏像であり、頭や肩をたたいて声をかけたくなる仏像なのである。

なんでも型やぶりの好きな現代美術がこれを見のがすはずはない。» p. 19、微笑佛、五来重、1966

柳宗悦の功績として疑いようがないのは、それまで見過ごされていた民衆的工芸の素朴で独自な美を世に示したことである。しかし五来重は、その功績を高く評価する一方で、柳の思想や世界観が抱える長所と限界の双方にも目を向けている。

«私は柳宗悦の宗教論や人生論、芸術論にながれるディレッタンティズムにはいささかうんざりするが、彼の民芸品の発見と蒐集は、日本の文化史にのこる偉大な業績として敬意を表する。日本民芸館はその偉大なモニュメントであるとともに、彼の属した階級の高踏性もよくのこしている。

柳宗悦の木喰研究とはそのようなディレッタンティズムの所産であるだけに、いつも理窟と理論がさきに立つのである。

宗教とは、美とは、かくかくのものであるという理論を自分一人でつくりあげておいて、これに民芸も親鸞も木喰もあてはめてゆくやり方である。だからその所論はきわめて主観的(彼はこの主観の正しさをほこったのだが)で客観性に乏しく、歴史事実などはまったく無視されてしまう。その点から今後の木喰研究は柳宗悦をこえて、歴史的研究をくわえた、客観性をもったものにならなければならない。» p. 20、微笑佛、五来重、1966

五来によれば、柳宗悦は木喰の魅力に取り憑かれるあまり、その美を絶対的な規範へと高めてしまった。古い固定観念を打ち破った功績は大きいが、その反面、自ら新たな美の教条を築き上げることにもなったのである。

«しかし彼は一体を発見するごとに、その美に酔ったというよりも、発見のよろこびに酔ったのである。正直にいって古典的美学の立場から、これはたしかに仏像彫刻として傑作だとおもわれる木喰仏も少数は存在する。しかし全部が全部、柳宗悦のいったように、「幕末時代最高の傑作」などといえるものではないだろう。柳宗悦はむしろ木喰仏をかりて自分の美的直観力の優越をほこり、自分の美学をかたりたかったのである。貴族的優越感と、ディレツタンティズムと、発見のよろこびとがごっちゃになって、べたほめの木喰礼讃がとびだしたものと、私は解釈している。

そのころの仏教史の知識では無理からぬことであるが、柳宗悦は木喰行道を徳行においても、学識においても、すぐれた高僧とおもいこみ、その生の行動は、すべて慈悲忍辱の仏教精神からでたものとかんがえた。誤字宛字だらけの文字も焼字も、ものにこだわらぬ悟の境と解した。これは柳宗慌のいだいていた高僧の既成概念のなかに、木喰行道をはめこんでしまっているのである。» p. 24、微笑佛、五来重、1966

五来は柳の見解に対して説得力のある批判を加え、より冷静で、より学問的な分析の必要性を訴えている。

«木喰仏を無条件で賞護する柳宗悦の兜縛からときはなたれて、微笑仏の真価が再認識されることになる。いやそれよりも私は微笑仏をこつこつきざみあげた、無名の一遊行僧の愛すべき人間像をあきらかにしてみたいのである。» p. 27、微笑佛、五来重、1966

また五来は、木喰の過度な神格化を避けるため、晩年に授けられた「上人」の尊称を用いず、単に「木喰」と呼ぶべきだと提案している。

さらに五来は、1960年代に起こった第二次木喰ブームを「ネオディレッタンティズム」の広がりによって説明している。すなわち、人々に新たな美の理論を押しつける風潮である。かつて柳自身が激しく批判した、芸術に関する「知識」に基づいて美を先入観的に判断する態度は、皮肉にも柳の築いた世界にも及んでいた。五来は次のように述べている。

«柳宗悦のころとは段ちがいに強力なマスメディアにのって、美術評論家なるもののまきおこす波がひろがってゆく。人々はその波にのりおくれまいとし、得体のしれない「美」に心ならずも嘆声を発したりする。そのような場合は対象を美しいと感ずるよりも、美しいと感じさせられているようだ。それも柳宗悦のように神によって感じさせられるという自覚ではなくて、美術評論家によって感じさせられているのである。» p. 21、微笑佛、五来重、1966

五来は、柳が芸術を一瞬の閃光のようなものとして捉えていたと批判する。すなわち、時間の流れから切り取られた一断面の中に、すでに完成された美を見ようとしていたのである。

これに対して五来は、芸術を映画のようなものとして捉える。そこにはさまざまな形態や状態が連なり、時間の経過とともに物語や主人公の軌跡が展開していく。木喰という人物をより正確に再構成し、その作品をあらためて評価するためには、このような「発展の過程」として捉える方法こそが有効であると五来は考えている。

また五来は、柳が木喰の初期作品に見られる技術的な未熟さを認めようとせず、批評家たちの指摘に対して次のように反論していたことを紹介している。

«柳宗悦もこれは気にしていたとみえて、「伝統的見方に沈む者には、彼の作が粗悪なものとしてのみ映るであろう。さもなくば高々奇異な作だとして感じるに過ぎぬ。併しそれは見る者の心の乏しさによるのである。彼の作に乏しさがあるからではない」。と弁護する。

だれが見ても傑作でなければならね。「ある芸術家の群」はおそらく木喰初期の作品ばかり見たのであろうし、柳宗悦は習作時代の北海道での作品を見なかったばかりでなく、初期の栃木県栃窪や佐渡での作品まで、なんでもかでも依怙地になって強引に傑作のなかにおしこんでゆく。これではほんとうの、客観的な木喰芸術の評価にはならない。

現在でも栃窪や佐渡の泥絵具厚彩色をほどこした作品の作者としての木喰と、その他の木地のままの館彫り仏の作者としての木陰とは、別人ではないかという疑問すら一部にはおこなわれている。すなわちこの二群の作品は制作手法もちがうし、第一前者は微笑すらしないのに、後者は微笑どころか哄笑するのである。

しかしこの二群の作品が同一人の制作であることは墨書銘や宿帳、納経帳などの文献でうたがう余仏地はないし、北海道での作品がその一貫性の傍証になるであろう。そしてこの二つの様式は、その中間の様式もふくめて一人の芸術家の生長するプロセスとして見てゆく必要がある。作品は作者の成長のそれぞれの時点におかれたとき、駄作傑作の評価をこえて、絶対的な価値をもつ。» p. 29、 微笑佛、五来重、1966

それぞれの到達点は、ある理想へ向かう一つの近似にすぎない。しかし、その近似の連なりの中にこそ、本当の美が姿を現すのである。

«ここにいたって木喰芸術の魅力の正体はほぼあきらかになった。木喰仏は礼拝するものでなくて、したしむものである。木喰仏は一段たかいところから人間に君臨するのでなくて、席をおなじくしてかたるものである。出来のわるい作品にはひどく気むずかしい仏もあるが、それは法衣と製の手前、ーけとりすましたとおもえばよい。九十歳前後の晩年の作ほど、みずみずしい人間味をたたえてくるのも面白い。» p. 33-34

柳が木喰の作品に一つの絶対的な美の規範を見いだしたのに対し、五来はそれを動きの中で捉える。すなわち、創作の軌跡として、人生の流れの中で展開する変化の連続として理解しようとするのである。

五来は木喰の生涯を一連の場面へと分解する。しかし、その一つひとつは独自の絶対的価値を備えている。五来の方法は学問的であり、普遍性を持つ。それゆえ、この視点は茶を含むあらゆる文化現象にも応用することができる。

同じ視点から茶を眺めるならば、そこにもまた興味深い風景が広がる。若い新茶と成熟した番茶は、木喰の初期作品と晩年の作品ほどに大きく異なっている。味や香りだけを比べれば、まるで別の飲み物のようにさえ感じられる。

しかし両者はともに茶であり、同じ茶樹から生まれたものである。ただし、その成長過程における異なる段階を反映しているにすぎない。

五来の方法は、ある現象を個々の「静止画」としてだけでなく、連続する映画のような発展過程として捉えることの重要性を示している。

より厳密に言うならば、五来の動態的な視点が茶をより客観的に理解する助けとなる理由は三つある。

第一に、この方法は茶を固定された規範ではなく、一つの過程として捉えることを可能にする。

柳は晩年の木喰仏の微笑に魅了され、それを木喰芸術全体を評価する基準とした。しかし五来は、それでは芸術家を理解したことにはならないと考える。初期作品も、失敗作も、過渡期の試みも、技術の発展も含め、その全体を見なければならない。

この考え方を茶に当てはめるならば、現代の茶文化はしばしば柳と同じことをしていると言える。たとえば香り高い新茶や高級玉露といった特定の茶を理想像として設定し、それとの距離によって他の茶を評価してしまうのである。

しかし五来の方法は異なる。頂点だけでなく、茶樹の生涯全体と、その過程で茶が取りうるあらゆる姿を見ようとする。麓から頂まで、そのすべてが考察の対象となる。

そのとき番茶は「出来損ないの新茶」ではなく、同じ植物が示す一つの独立した発達段階として理解される。

第二に、この方法は事実と美的評価とを区別することを可能にする。

柳はまず美を見いだし、その美を通して木喰の生涯を解釈した。これに対し五来は、まず事実を復元し、その上で解釈を行うべきだと考える。

茶においても、この点は重要である。

たとえば、「新茶は番茶より優れている」という主張は科学的事実ではない。それは特定の時代や特定の消費者層が共有する嗜好にすぎない。

事実として言えるのは次のようなことである。

・新茶と番茶では化学組成が異なること

・葉の成熟に伴って各成分の含有量が変化すること

・香気成分の構成が変化すること

・味覚の知覚が変化すること

そのうえで、どちらを「優れている」と評価するかは別の問題である。

この方法がより客観的であると言えるのは、まず現象そのものを記述し、その後に評価を行うからである。

第三に、この方法は結果だけでなく、変化そのものの価値を見いだすことを可能にする。

五来によれば、木喰の作品は、それらを一人の人間の成長の軌跡として見たときにこそ、特別な意味を帯びる。

この視点を茶に適用すると、研究対象は個々の茶そのものではなく、その変化の軌跡へと移る。

たとえば、

・春から秋にかけて葉がどのように変化するのか

・茶が熟成によってどのように変化するのか

・異なる時代の文化の中で味覚認識がどのように変わるのか

・消費者の嗜好がどのように変遷するのか

・製茶技術がどのように進化するのか

といった問題を考察することができる。

そのとき茶は、品種や分類の集合ではなく、時間の中で変化し続ける動的なシステムとして現れる。

ここで現代科学との興味深い共通点が見えてくる。今日、多くの学問分野では、静的な対象の分析から、過程や相互作用のネットワーク、さらには発展の軌跡そのものの研究へと重心が移りつつある。生物学はもはや生物を単なる器官の集合として見ない。経済学も市場の集まりとしてのみ社会を理解しない。生態学もまた種の一覧表ではなく、時間の中で変化する関係性を研究する。

茶についても同様である。

この視点に立つならば、「どの茶が優れているのか」という問いよりも、「茶はなぜ、そしてどのように変化しながら、それでもなお茶であり続けるのか」という問いのほうが重要になる。

それは、あらかじめ選ばれた理想を擁護するのではなく、現実に起きている変化そのものを記述しようとする問いだからである。

もし現代科学の成果を信じるならば、静態的な視点と動態的な視点を組み合わせることによって、人は現実をより深く理解するだけでなく、その先にある未来をも見通すことができるかもしれない。

空――近似の空間

これまで私たちは、茶文化を「頂雪麓草」というイメージによって描こうとしてきた。この比喩は、茶の世界における二つの極を示すだけでなく、無数の近似によって構成される空間としての茶文化の構造をも浮かび上がらせる。

頂には、日常生活から遠く離れた希少で高級茶がある。それは複雑で高価であり、味わうためには特別な知識や能力、時間、そして注意力を必要とする。

一方、麓には人々の日常に深く組み込まれた茶がある。素朴で手に取りやすく、人間の生活にもっとも近い場所に存在する茶である。

この「頂雪麓草」のモデルは、「日常性の軸」として理解することができる。その一方の端には日常的な飲用から遠ざかった茶があり、もう一方の端には時間的にも空間的にも人間に近い茶が位置している。

しかし、この二つの極はどちらも現実の中に純粋な形では存在しない理念型にすぎない。その間には、さまざまな程度の近接と隔たりを伴う無数の中間状態が広がっている。

すでに述べたように、このような指標はドイツの社会学者マックス・ウェーバーが提唱した理念型(Idealtypus)の方法を思わせる。ウェーバーは社会を分析するために、現実には純粋な形で存在しない思考上のモデルを用いた。それらは複雑な現象の構造を理解するための座標軸として機能する。

現実に存在する諸形態は、これらの理念型にさまざまな程度で近づいたり、あるいはその中間に位置したりしている。この方法は本来、社会研究のために考案されたものであるが、その論理はきわめて普遍的である。

その意味で、「頂雪」と「麓草」は、茶文化という空間の中に設定された二つの理念型として理解することができる。それらは具体的な茶を指し示すものではなく、現実の茶がどのような方向へ向かっているのかを可視化するための座標である。こうした両極が存在することによって、茶文化は固定的な分類の集合ではなく、ある理想的な茶の姿へ向かう無数の近似の場として姿を現すのである。

この視点に立てば、さまざまな茶は二つの極のあいだに展開する近似の連続として理解することができる。現実の茶が「頂の雪」や「麓の草」と完全に一致することはない。しかし、それぞれが異なる程度でいずれかの極へと近づいている。現実の茶文化は、そのあいだに広がる無数の近似の連なりとして現れるのである。

茶について考える際に忘れてはならないのは、具体的な茶が百パーセント「緑茶」であったり、「紅茶」であったり、「日常茶」であったり、「渋い茶」であったりすることは決してないという点である。それは常に「おおよそ緑茶」であり、「おおよそ紅茶」であり、「おおよそ日常茶」であり、「おおよそ渋い茶」なのである。

このような見方は、複雑な体系を捉えるための方法としても応用されてきた。1968年、数学者ポール・チェルノフは、体系を固定された性質の集合としてではなく、現実の状態がいくつかの理念型へ向かって連続的に近づいていく空間として捉える見方を提案した。

そこに設定された理想的な点は完全には到達し得ない。しかし、それらは運動の方向を与える指標となる。この考え方において、現実とは近似の連続として現れるものである。そう考えるならば、日常性の軸とは目録や分類表ではなく、実在する茶がその中間的な位置を占める空間なのである。

前章で見たように、これとよく似た論理は人文科学の領域にも見出される。五来重は、遊行僧木喰の芸術を考察する際、その特徴的な微笑みをたたえた晩年の代表作だけを見ても木喰の様式は理解できないと指摘している。

その芸術の内的な論理を理解するためには、未熟で荒削りな初期作品から、やがて簡素さと軽やかさが自然に表れる晩年の作品へ至るまで、その歩み全体をたどらなければならない。

その系列に並ぶ一体一体の仏像は、それぞれが不完全であり、最終形態でもない。しかし、それらは全体として木喰という一人の創作者の軌跡を形づくっている。最終的に自然な微笑みとして現れるものも、実際には長い試行錯誤と逸脱、そして少しずつ積み重ねられた近似の結果として生まれたのである。

理想的な形は、あらかじめ完成された姿として存在しているわけではない。それは運動の過程のなかで徐々に姿を現す。木喰の創作の道程もまた、形が一歩ずつ立ち現れてくる近似の空間だったのである。

茶文化も同じように捉えることができる。多くの茶の教科書は、新茶、煎茶、番茶、玉露、抹茶といった固定不変の性質の集合として茶文化を描いている。しかし、そのような「博物館的」な分類は、個々の点を示しているにすぎない。そのあいだに広がる連続的な移行の空間は見えなくなっている。

現実には、生産者はごくわずかな調整によって茶をこの空間の中で移動させることができる。摘採時期を少し遅らせること、原料選別の基準を変えること、蒸しの条件を調整すること、あるいは異なる茶園の茶葉を配合すること。その一つひとつが、茶を日常性の軸の上でわずかに移動させ、「頂」へ近づけたり、「麓」へ近づけたりする。

したがって、新茶と番茶は互いに断絶した種類としてではなく、無数の組み合わせが広がる海に立つ灯台として理解することができる。茶文化とは固定された型の集まりではなく、現実の形態が近似の連続として現れる動的で、生きた空間なのである。

このような理解は、仏教の空の思想とも深く響き合っている。すでに述べたように、大乗仏教の哲学によれば、いかなる現象も固定された固有の本質を持たない。あらゆるものは、さまざまな原因と条件に依存して一時的に現れる仮の姿にすぎない。

したがって、いかなる名称も、ある現象領域を指し示すための方便(ウパーヤ)にすぎず、厳密に境界づけられた不変の実体を表しているわけではない。

この観点から見れば、「緑茶」「紅茶」「高級茶」「日常茶」といった呼称もまた、固定された本質を持つ実体ではなく、連続する状態空間の中に置かれた便宜的な指標にすぎない。現実の茶はそれらと完全に一致することはなく、たださまざまな程度で近づいているだけである。

だからこそ、茶文化は近似の連鎖として現れる。個々の茶はそれぞれ、可能性に満ちた空なる空間の中に一時的に生起した姿なのである。

興味深いことに、このような記述の方法は、変化する体系を研究する現代数学ともよく符合している。大気の運動から感染症の拡大に至るまで、自然界の多くの現象は微分方程式によって記述される。しかし、その解を直接求めることは容易ではない。

実際には、より単純な近似を積み重ねながら、少しずつ系の軌跡を復元していく方法が用いられることが多い。

最近、ロシアの数学者イワン・レミーゾフは、この問題に対する新しい見方を提示した。彼自身は、方程式の解を一枚の大きな絵にたとえている。

「その全体像を一度に見るのは非常に難しい。しかし数学は、時間の中で展開する過程を記述することに長けている。私たちの定理は、その過程を多数の単純な小さなコマへと切り分けることを可能にする。言い換えれば、完成した絵を推測する代わりに、その制作過程を収めたフィルムを高速で再生することで全体像を復元できるのである。」

レミーゾフは、絶えず変化する過程を無数の単純な段階へ分解できることを示した。それぞれの段階は特定の時点における系の振る舞いを記述する。個別に見ればそれらは単純化された断片にすぎない。しかし十分な数を積み重ねることで、それらは精密な運動軌跡へと結びついていく。

将来的には、この方法によって物理学をはじめ微分方程式を用いるさまざまな分野の計算が高速化され、複雑なシステムの発展をより正確に予測できるようになる可能性がある。

茶文化もまた、あらゆる複雑系と同様に、完成された静止的な実体として存在しているわけではない。それは可能な状態の空間の中で絶えず展開し続ける運動として現れる。

実際の茶は、「頂の雪」と「麓の草」という二つの極のあいだで生じる近似の連続として存在している。人間に近づいたり遠ざかったりしながら、その位置を絶えず変化させているのである。

さらに茶は、成熟度、遮光度、酸化度、蒸し度、施肥、焙煎、葉の完全性など、さまざまな下位軸の上を同時に移動している。実際の茶は、多数の条件が複雑に変化するなかで姿を現しているのである。

ひょっとすると、レミーゾフの数学的方法は、いつの日か「茶離れ」の進行を定量的に予測し、その速度を抑制するための手段となるかもしれない。そしてそれは、茶文化のさらなる発展にも寄与する可能性を秘めているかもしれない。

追記

報道によれば、イワン・レミーゾフは緑茶をこよなく愛し、その着想を空を眺めながら得たという。

日本語の「空」という字は「そら」とも読まれるが、「くう」と読めば仏教でいう「空」を意味する。

空を見つめながら空を発見した――そう考えると、どこか禅問答めいた不思議な巡り合わせである。

鍵穴から覗く茶の世界

前章まで、私たちは茶と人間との複雑なかかわり――私たちが「茶文化」と呼ぶもの――を、できる限り内側から考察してきた。

ここでは視点を変え、日本の茶文化が一般の消費者、すなわち専門的知識を持たない人々にどのように語られているのかを見てみたい。その一例として取り上げるのが、『宇治茶を受け継ぐ』に収められた「お茶の見方」と「茶の心」という二つの短い章である。

著者の堀井信夫は、宇治の茶業者・株式会社堀井七茗園の代表を務めるとともに、全国茶品評会での受賞歴を持つ茶業界の第一人者である。

堀井は疑いなく卓越した実務家であり、高品質な茶の味わいの構造を、「味覚的な味」と「生理的な味」との調和として見事に描き出している。彼の説明からは、良い茶とは«うまくてのどごしのいい»ものだと理解できる。

また著者は豊富な実践経験に基づき、読者を奥深い茶の世界へと案内している。

«茶は農道の右、左でも特質が違うほどに内容が深いので、品質のよいお茶を提供するには特徴を吟味する必要があります。茶の商売をするには茶の特質を知ることが第一です。全国主産地、それぞれに特質がありますが、このお茶はどこのお茶か、見ればいっぺんに分かる産地別の特質を覚え会得し自らのものにする必要があります。そのため、徹底して全国のお茶を調査研究しましたが、会得するまで20年の歳月がかかりました。

ようやく全国的にそれぞれの特徴を自分のものにすることが出来ましたが、まだまだ追求の必要があります。地元宇治市におきましても煎茶地域、玉露製に適する土地、碾茶作りによい土地があり、大別して山辺、平坦、川筋の三地帯です。自然の恵みを生かし各茶種の銘柄の製品を作るためには土壌、気候が根本であり、最終は飲むものですから、香りと味を中心に特徴を生かし、うまくてのどごしのよいお茶を作る事につきると思うのです。それが宇治茶の特徴です。形や色も大切ですが、手で持って見て重たい茶を中心に確保するようにしています。» 141-142 

堀井は品質を左右する数多くの要因のなかでも、とりわけ適切な時期に茶葉を摘採することの重要性を強調している。

«色や形も大切と申しましたのは、お茶には摘み旬というものがあって、煎茶、玉露の揉み茶は、早ければ細い茶が出来ますが、味はうまみより苦みが強く量も少ないし、遅れたら太くて味もうすいし、しゃぶしゃぶの茶しかできません。碾茶の場合も摘む旬は一番茶の新芽が止まってからあとさき3日といいましたように早ければ濃い色合いですが、形が堅く味にまろやかさがなく数量は少ないし収益にもなりません。

また遅ますと色が白く柏の葉のような、葉ごつい番茶香味の茶しかできないのです。摘み旬に製造された茶を考慮に仕入れる事が大切です。従いまして生産者も摘採時期を適切に判断することですが、優良品種改良で時機、品種、数量を調整する必要もあります。» p. 142-143

もちろん私たちは、ここで述べられている内容の重要性を否定するものではない。これらの要素が日本茶の高級茶系統において重要な意味を持つことは十分に理解している。しかし、それはあくまで高級茶系統の論理であって、茶全体を説明するものではない。

問題は、一般の読者にとって、「最良の摘採時期」がただ一つ存在し、そこから外れれば茶葉が損なわれるかのような茶の世界が現れてくる。摘採が遅れた茶葉は「味のない茶」として理解され、その結果、本来は独立した茶種である番茶が、摘み遅れた煎茶であるかのように見えてくる。まるでシンデレラの馬車がかぼちゃに変わるように。

私たちがこれまで繰り返し述べてきたように、茶葉の品質は生長とともに低下するのではなく、洗練性から日常性へと変容していくだけである。

しかし問題は、現代市場がそのような茶の価値を評価せず、生産者に早摘みを促している点にある。そして堀井の著作のような茶書を読む消費者もまた、知らず知らずのうちに高級茶の基準へと導かれ、その価値観を当然のものとして受け入れるようになるのである。

著者は、自らが「重たい茶」、すなわちアミノ酸を豊富に含む「肥培管理の行き届いたお茶」を市場で仕入れるよう努めていると述べている。しかし、その対極にある「軽い茶」は、まるで存在しないかのようである。番茶や、その中間に位置する多様な茶葉は、読者の目には、煎茶に及ばない茶として映ってしまう。

著者は、数多くの日本茶の種類の中から宇治茶を選ぶ。茶葉の多様性の中からは主に「重い葉」を選ぶ。幅広い収穫時期の中からは、春の新芽期というごく短い期間だけを取り上げる。品種についても在来種ではなく改良品種を選ぶ。そして水色についても、様々な水色の中から、ただ一つの「美しい水色」だけを理想として掲げるのである。

«今一つは製造工程で絶対に水色のよいお茶を作る事です。水色の悪い茶は生産工程で火が強いとか蒸し過ぎとか、むれ香とかの欠点のあるお茶になるからです。» p. 143

読者の意識には、茶の水色には良いものと悪いものがあるという二元論的な見方が、気づかぬうちに忍び込んでいく。

話が進むにつれて、著者は多様な茶の世界をどんどん狭め、厳格で固定的な標準へと当てはめていく。

話が進むにつれて、著者は多様な茶の世界をどんどん狭め、限られた評価基準の枠へと収めていく。しかし、農道の右と左ですら異なる特質を示すほど無限の多様性を持つ茶を、いったいどのようにして一つの標準へと還元することができるのだろうか。その役割を果たしているのが、全国茶品評会である。実際、著者もこの章を全国茶品評会の話から書き始めている。

«茶の見方ですが、玉露、煎茶など一般的にお茶を見分ける基準は、全国茶品評会の審査基準と同じです。形状色沢(外観)、香気、味、水色の四項目で採点、碾茶はそれにから色を一項目

増やし五項目で検査します。» p. 141

こうして堀井信夫は、茶の世界を宇治の伝統的な専門領域である高級茶へと収斂させていく。実際、茶の淹れ方を解説する章でも、取り上げられるのは上煎茶と玉露のみであり、推奨される湯温もそれぞれ60〜70度、40度へと限定されている。

このような低温抽出は、うま味成分を最大限に引き出し、茶をまるで濃厚な出汁のようなものへと変える。しかし著者は、そのような味わいが消費者にとって常に望ましいものなのかという問いを立てない。また、仕事や日々の生活に追われる人々が、宇治玉露の葉が開くのを三分間じっと待つ時間を常に持っているのかという問いも発せられない。

消費者はいつの間にか、「正しく」茶を見る方法を教えられる生徒の立場に置かれることになる。

皮肉なことに、今日、圧倒的多数の日本人が日常的に飲んでいるのは、著者が語る高級煎茶や玉露の世界と縁のないない、ペットボトル入りの茶飲料である。それらはしばしば「薄い味」あるいは「淡白な味」と評される茶である。

聖域にまで高められた高級茶の品質は、本来であれば日々の喜びの源であるはずなのに、いつしか二十年にわたる修練を要する難解な課題へと変わってしまう。真の品質という巨大な宮殿に足を踏み入れた消費者は、自らの小ささを意識させられるのである。

続いて著者は、「茶の心」の章へと話を進める。

«かの有名な岡倉天心は「絵画に傑作もあり駄作もあるように、お茶にもその淹れ方でおいしくもなりまずくもなる」といわれたとおり、自分の気持ち次第でよくも悪くも出るのがお茶です。自分が忙しく、急いで淹れますと、はしかいあわてた味になりますし、ゆっくり時間の余裕のある時、湯さましもして落ち着いた雰囲気で点てたら、同じお茶でもむっくり軟らかい味になってくれます。お茶はその人その人の淹れ方、性格、心と、熱い冷たいお湯の温度まで対応してくれます。なんとありがたい事ではないか。それが茶の心というものです。» p. 146-147

その後、著者は新茶を熱湯で淹れる場合についても述べている。しかし繰り返し強調されるのは湯ざましの重要性であり、その結果、「茶の心」は事実上、冷ました湯で淹れることへと収斂していく。

著者は事に、お茶の心を冷ましたお湯による「正しい淹れ方」にまで狭めているのである。その後、新茶には、まるで例外として「自分自身あるがままでいること」、すなわち荒茶の形態のままで他の茶とブレンドされないことが許されているのである。しかしすぐさま、厳格な茶師に茶が«有名な産地で早く摘まれたミル芽のする煎茶一本物で、ブレンドしない荒茶がでなければならず»厳しく制限される。

ところで、岡倉天心は、「正しい」淹れ方や「誤った」淹れ方について述べたのではない。むしろ彼が強調したのは、完全な茶を淹れるための唯一のレシピなど存在しないという点であった。以下に英語原文からの正確な訳を示そう。

«茶は美術品であって、それの最も高貴な性質を現わすには、名人の手を要する。われわれに善い茶と悪い茶のあるのは、善い絵と悪い絵のあるのと同じで、概して後者が多い。完全な茶を淹れるに一定の方程式のないのは、チチアンや雪村を生み出すに規則のないのと同じである。» 村岡博

このように、お茶の味に対する責任は、いつの間にか生産者から消費者へと転嫁される。お茶が強すぎたり重すぎたりと感じられる場合、その問題は原材料やその加工の特性ではなく、不適切な淹れ方によって説明されるのである。

消費者が多忙であったり、急いだりすることは許されない。お茶が「人間」に仕えるのではなく、人間がお茶の召使いへと変わるのである。

続いて、茶芸は茶文化の中心であり主要な原動力であるばかりでなく、人間の精神性を測る尺度でもあるという、定番のマントラが続く。

«お茶は私たち人類の生活に久くことの出来ない飲料です。特に日本では茶道とい精神文化をなし、茶道が中世以降の文化史に残された巨大な足跡や精神文化への強いあこがれに結びつき、お茶の消費拡大のために頼もしい味方でありました。このように「茶道文化」としての性格はきわめて高度化され洗練されています。そして、茶室なり、お道具と人との対話の中心に茶があります。茶は平和の原点であります。作法を習得された人の所作はむだがなく端麗で美しいものです。» p. 147-148

精神性に関する美しい言葉の背後で、日常の飲み物が形而上学的な実体へと変化するのである。お茶の品質をなぜ、そして何のために絶えず向上させ続けなければならないのかが、不明確になるのである。著者は次のように書いている。

«われわれ宇治茶の生産者は自前所作でお茶を点て自分で作ったお茶を味わいながら品質向上へと自己研鎖を行うのです。「百姓の来年」という言葉がありますが、来年があるからと今を諦めるのでなく、一生勉強する事です。» p. 148

茶の品評会における得点競争のほかに何も見えない高品質化は、「来年」という終わりのない輪廻へと変化するのである。

悪循環から抜け出して、お茶を淹れ、「これで十分だ!」と言う代わりに、消費者は生産者に追従して、宇治茶の高い水準に達することを願いながら品質の追求へと巻き込まれていくのである。

堀井氏の豊かな経験と深い知識は、彼自身がその一部である厳格な階層制度のレンズを通して伝えられているのである。この制度の歪んだ鏡を通して茶を見るならば、番茶は煎茶の失敗作のように見え、産地の特色は品質の欠陥のように映るのである。

品評会の基準や茶道のドグマという目に見えない壁によって消費者から隔てられた茶は、高級茶の品質への崇拝へと帰着したのである。茶の宮殿への入り口は、厳格な門番である茶の品評会の審査員によって管理されているのである。

高い壁は、主体と客体へと分裂した茶文化の崩壊を隠している。かつてその一部であり、茶の品質の主要な尺度であった消費者は、宮殿から追放されたのである。

彼は、農道の向こう側にある茶さえも見えない狭い鍵穴を通して茶を見ることを強いられる、見学者へと変わってしまったのである。

目に見えない美

«見ても見誤れば見ないに等しい» と柳宗悦が述べていた。p. 138、茶道を思う、茶と美

多くの者が何年も茶を見ているが、本当に茶を見ている者がどれほどいるだろうか。世界をあるがままの姿で見出すためには、どのように世界を見つめるべきなのだろうか。

それは、揺るぎない心を持ち、人々を守り、悪魔を威嚇し、穏やかな説法を理解しない者を力ずくで悟りへと導く大日如来の憤怒の化身である不動明王のやり方とおおむね同様である。

不動明王は「天地の眼」で世界を見ている。彼の片方の目は天、すなわち光と至高の真理へと向けられている。もう一方は地、すなわち人間の罪と苦しみの最中へと向けられている。そこで彼は、救いの手を差し伸べるために迷える者を探している。不動明王は世界を全体として見ているのである。

不動明王の像は、木喰や円空によってしばしば木から彫り出された。彼らを賞賛した柳宗悦は、事前の知識や社会的評価のフィルターを排して、物事を「直に」見ることを呼びかけた。

大方の人は何かを通して眺めている。いつも眼と物との間に一物を入れる。ある者は思想を入れ、ある者は嗜好を交え、ある者は習慣で眺める。それらも一つの見方ではある。だがじかに見るのとはまるで違う。じかにとは眼と物との直接な交わりをいう。直下(じきげ)に見ずば物そのものには触れ難い。優れた茶人達にはそれができたのである。それができればこそ茶人である。(中略)

さらば何をまともに見たのであるか。見る時何が見えたのであるか。内なるものが映るのである。あるいはものの真体(まったい)が見えるといってもいい。あの哲学者達が「全き相(まったきすがた)」と呼びなしたものである。物の一部を見るのでなく、物そのものを見るのである。

全きものは部分の総和ではない。「加」と「全」とは違う。全きものは分つことができぬ。分つものがない故に分けて見ることができぬ。それ故いまだ分別(ふнべつ)を挟む時をみたないのである。じかに見るとは、考えるより前に見る謂(いい)である。考えて見れば局部より見えはしない。見るより前にちを差入れる者は、乏しい理解に止まってしまう。見る力は知る力よりも多くを識る。» p. 140

柳は直観と人生経験から出発し、より高次の次元を見通す視座へと進み、やがて信仰の領域にまで至る。そこに込められた柳の思想は、『星の王子さま』の有名な言葉とも響き合っている。:

«心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ。»

柳はこう述べる。 

«名だたる宗教書はいう、「信ずる前に知ろうと試みる者は、神への全き理解を得ることができぬ」と。美のことだとて同じである。見る前に知を働かす者は、美への全き理解を得ることができぬ。茶人達は何よりもまず見たのである。物そのものを直ちに見たのである。» p. 140、茶道を思う、茶と美

茶道の根底にある原則は普遍的であり、それゆえに茶の選定や品質評価にも適用できる。

振り返れば2017年、静岡にある国立茶業試験場で研修を受けていたとき、私はある研究員に、自分が毎日飲んでいる煎茶の品質を判定してくれるよう頼んだ。

その専門家はすぐに茶葉を黒い拝見盆に広げ、ピンセットを使って手際よく、若い芽を盆の一方の端へ、より成熟した葉をもう一方の端へと分け始めた。芽と葉の比率がほぼ均等であることから、彼はこの煎茶が中級品、つまり中程度の品質に属するという結論を下した。形式的には彼は正しかった。しかし、今にして思えば、それはあくまで形式的な品質評価に過ぎなかった。

その後、私は別の職員に、また別の種類の煎茶を見せた。拝見盆に広げられた、通常の煎茶よりも大ぶりな葉を見て、その職員は微笑みながら私に尋ねた。「この番茶、どこで拾ってきたの?」……。

それは非常に美味しく爽やかな白川茶であり、私は何と答えるべきかさえ分からなかった。彼女には、大ぶりの葉に宿る別種の美しさが見えなかったのだろうか。

その後、私は他の研修生たちと共に茶工場で煎茶を作った。指導官は私にいくつかの茶葉が載った拝見盆を見せ、「どんな形状の茶を買うかね?」と尋ねた。

私は、茶を仕入れる際にはその色や形状をほとんど見ず、より関心があるのは味と香りだと答えた。指導官は研修生たちの前でそれ以上議論を続けなかった。なぜなら、彼は何よりもまず、茶商が喜んで買い取り、品評会に出しても恥ずかしくないような、標準的な形状と色を備えた茶の作り方を彼らに教えていたからである。

後になって、研修を終えて静岡を去ろうとしていたとき、私は指導官と一対一で会った。その際、彼は私に重要なことを語った。「形状が良くても質の悪い茶はあるし、逆に形状が悪くても質の良い茶はある」と。

時間が経つにつれ、私はかねてから薄々気づいていたことをやっと理解するようになった。茶の品質を評価するためには、その部分(形状や色といった個々の特徴)を見るだけでは不十分なのである。抹茶を指で紙の上にこすりつけて、その鮮やかで濃緑色を指摘するだけでは不十分であり、煎茶の美しい針状や光沢を誇るだけでも不十分なのだ。

茶を「じかに」、丸ごと見ることができなければならない。熟練した茶商たちは、まさにそのように茶を見ている。そしてこのことが、柳が書いた昔の茶人たちと彼らを結びつけているのである。

美術評論家や美術史家としてだけでなく、哲学者としても知られる柳は、美の普遍的な法則の研究と探求にその生涯を捧げた。晩年の著作の中で彼は、歳月を経て、自身にとっての美が善、真理、そして神性といった根源的な価値と融合し始めたと告白している。

私に言わせれば、茶の品質もまた美の類義語であり、そこには独自の美がある。日本語や中国語で「美味しい」が「美」と「味」の二字で綴られるのも、そのためではなかろうか。

品質もまた、美と同様に、作り手の術にあるだけでなく、見る者の眼の中にある。私たちが見出さない価値は、私たちにとって存在しないのと同じである。品質を見出すことによって、私たちはそれを自分自身や他者のために開く(発見する)のである。

柳は、昔の茶人たちが、元々は茶器ではなかった茶道具の品質を見分ける能力を持っていたことに感嘆していた。安価な飯茶碗の形状を眺めながら、茶人たちはそこに茶道に必要な美学と機能性を見出していたのである。

空の教えの観点からすれば、茶碗は「空(くう)」であったが、洞察力のある茶人達はそこに茶道の精神を見出したのである。

柳は次のように指摘している。

«それ故茶組は茶道で物を見たのではない。見たから茶道が起きたのである。このことそんなに多世の茶人達とは違うであろう。茶道で物を眺めれば、すでにじかに見るのとは違う。このことを多くの人々は気付かない。茶趣味に堕ちた「茶」は「茶」ではない。物をまともに見ずば「茶」は基礎を失う。「茶」はものをじかに見よと常々数える。「茶」で見よと教えてはいない。「茶」に捕われては却って「茶」を見失う。眼を清めずして、どこに「茶」が保たれようか。» p. 141

試験場の職員が、大ぶりの葉の品質を評価しなかったのは、「茶」で茶を見ていたからではないだろうか。現代の茶業には、「茶」という既成概念によって眼が曇らされる傾向があるのではないだろうか。

もしその職員が、大ぶりの葉のことだけでなく、美味しくて、飲みやすい、しかも安価な日常茶を必要とする消費者のことにまで思いを馳せていたなら、おそらく彼女は「素晴らしいお茶ですね!」と言ったはずである。彼女にはその品質が見えたはずである。

現代科学の生活からの乖離、あるいは理論と実践の不一致を、柳は自らの「ものとこと」の理論によって説明した。その理論によれば、人間はものを、それに関する情報である「こと」を通じて間接的に知るか、あるいは「もの」そのものを直接「見る」ことによって知るのである。

柳は間接的な認識方法を否定しておらず、著書『物と美』の中で次のように指摘している。

«この両者は相助けてよい。併し主礎の位置は韓倒されてはならない。「こと」を知る道はどこまでも発であってよく、「もの」を見る道が主とならねばならない。前者は補助としての理解であり、後者が主要な認識でなければならない。だから「もの」へーの正しい理解に基かないなら、「こと」への知識も不充分であると云ってよい。

「もの」への洞察は本質的なものに觸れる、「こと」への知識は如何に詳しくとも外形的理解に終る。» p. 20-21

柳は、両方の方法の適用について次の例を挙げている。

«哲學の學者とは違ふ。根本的に違ふ。併しこのけじめが今はつかなくなつてゐるのではあるまいか。哲學者とは宇宙なり人生なりの「事實」をまともに洞察する人をいふ。謂はばそれ等の「具體的事實」への深い理解者をいふ。自然や人間を活けるものとして見つめることを忘れない。然るに哲學の學者は、宇宙、人生に關する色々な思想を對象とする。謂はば抽象的な事柄に心を惹かれる。だから哲學の學説に通じるのが仕事になる。

人生といふ活きた「もの」を見るより、人生に關してどんな學説があるかといふ「こと」に注意を向ける。兩面とも分つてゐれば申分ないが、實際には人生そのものに就いては分らずに、人生に關する學説に就いて詳しいといふやうな矛盾が起る。哲學の學者としては卓越してゐるが、哲學者としては貧弱だといふやうな不思議なことが起きる。» p. 2-3、物と美

現代の茶学は、次第に茶を研究する学者へと変化していった。小川八重子は、茶学が茶に関する知識やその分類に満ちているものの、一般の消費者の日常生活からはかけ離れていると指摘していた。小川八重子は茶に百科事典的な知識ではなく、切実な価値を求めていた。

柳はこう書いた:

«「もの」はどこまでも質の問題に関はる。私達をして価値問題に到らしめるものは「もの」である。「もの」への認識が如何に重要であるかは、それが価値の領域に吾々を触れしめるからである。価値への認識は「もの」をぢかに見ることなくしては捕へることが出来ない。

若しこの価値が乏しいなら、存在の理由はその本質的な根據を喪失するであらう。» p. 21、物と美

どんなに単純に聞こえようとも、もし茶が価値を失えば、不要なものとなる。まさにそのために、小川八重子は茶の様々な価値を探求しながら、「物としての茶」を研究したのである。

「もの」を解せずして価値の世界を認識することは出来ない。」と柳が強調している。p. 22, 物と美

では、物が価値となり、その目に見えない美しさが現れる驚くべき世界は、一体どこに存在するのだろうか?

用の間の中の用の美

柳は静的な美学の枠組みを超えようと試み、一歩を踏み出した。昔の茶人たちの洞察力の主な秘密は、彼らが茶器を日常生活の中で用いた点にあり、その日常生活こそが物の価値の最高の尺度であると彼は見出している。このようにして、この研究者は「用の美」という自身の概念を創出した。柳は次のように記している。

«しかも見ただけではない。見ることで終ったのではない。ただ見ることだけでは見尽したとはいえぬ。彼らは進んで用いたのである。用いないわけに行かなかったのである。用いたが故になおも見得たのである。用いずば見了ることがないともいえる。

なぜならよく用いられる時ほど物の美しさが冴える時はないからである。それ故用いることで彼らはなおも厚く美の密意に触れた。よく見たくば、よく用いねばならぬ。

美をただ眼で見、頭で考えるより、進んで体で受けた。いい得るなら行いで見たと、そういおう。「茶」はただの鑑賞とは違う。生活で美を味わうのが真の「茶」である。眼先で見るだけでは「茶」にならぬ。» p. 141、茶道を思う、茶と美

柳の「用の美」の概念を発展させ、我々は美が展開され得る「用の間」という用語を提案する。人間の観点から見れば、日常生活は茶の「用の間」として最も自然なものである。

茶が生きる「用の間」の日常生活への近接度は、用の間の日常度によって示すことができる。茶の「用の間」は、茶そのものと同様に、異なる日常度のを持ち得る。

茶と人間を、より狭く、日常生活から離れた、人工的に構築された茶の湯の空間に置くことは、新たな精神文化の形態を生み出すことを可能にしたが、同時に、いわゆる「茶の病」をも引き起こした。

柳は、今日では「ただの鑑賞」――すなわち形式への盲目的な崇拝――へと変質してしまった茶の湯の「茶の病」について多くを記している。

しかし、茶人たちが茶碗を選ぶやいなや、選ばれた形式は理想的なものとして規範化され、茶碗そのものやその他の道具は、茶の湯の最高の品――「大名物」とされた。

理想的な形式は「化石化」し、かつてこの形式に命を吹き込んだ日常生活における使用の原則は忘れ去られた。多くの人々は、形式とは空(くう)であることを忘れてしまった。柳は彼特有の感嘆の念をもって、茶の道――過去の古典的な茶の実績――へと目を向けている。

«真の茶人達は物を生活に取入れて使いこなした。見ることから用いることへさらに道を深めた。生活で美を味わったことこそ、茶道の絶大な功徳である。» p. 142、茶道を思う、茶と美

今日、茶の湯から「生活」が消え去り、日常生活の中に真の修行を見出す「禅」が失われてしまったのだろうか。

結論を急ぐ前に、まずは茶の湯に本当に「生活」が存在したのか、そして存在したとすれば、それはどの程度のものであったのかを確認しておきたい。

というのも、茶の湯が生きる「生活」とは、人々の通常の日常生活ではなく、それを人工的に様式化したレプリカ(複製品)だからである。

茶の湯とは、人工的に狭められた「用の間」であり、実際生活への仮の接近、その遠い近似、あるいは円井康彦が著書『茶の文化史』(2017年)の中で用いている用語である「虚構化」にすぎないのである。

«茶の湯が喫茶というきわめて日常的な行為を虚構化したところに成立する、ということは、**その行為を日常性の次元に戻した時には成立の根拠を失うことを意味している。いいかえれば、どんな飲み方をしてもよいであろうに、という主張――日常性の論理――が罷り通ったら、その時点で茶の湯はたちまち茶の湯でなくなってしまうということである。茶礼は最少限度の枠組みなので原である。

茶の湯は、日常性と虚構性のはざまにこそ存在する文化形式である、といえると思う。そのことを岡倉天心も『茶の本』(The Book of Tea) のなかでこう述べている。「茶道とは日常生活の俗事のなかに見出されたる美しきものを崇拝することに基く一種の儀式である」と。簡にして要を得た定義づけであったといえる。

あるいはわたくしは、茶の湯がもつこのような構造や特質――それを具体的に追究するのがこれからの目的なのであるが――に示される文化を「生活文化」と呼ぶことにしたい。つまりここでいう生活文化とは、衣食住など生活上の利便が時代とともに増してくるといった意味ではなく、そうした日常生活を虚構化しそれを楽しむ傾向のことをいう。

たとえば京料理でもよい。食べるという日常行為、生命維持のための動物的ともいえる行為――そのために食料を加工することが「料理」だとしても、素材の味や色彩を生かすために味付けや盛合せを考え、それにふさわしい器を用意して季節感を出す。京料理は、茶会席料理を母胎として中世末から江戸時代にかけて発展したものであるが、そこに見られるのは一種の日常性離れであろう。「遊び」といってよいかも知れない。ここでは生活を、実用性・日常性において受けとめるのではなく、むしろ虚構性・非日常性の次元で楽しんでいる。そうした習性を、いいわるいというより前に、日本人のもつ文化の問題として理解しようというわけである。わたくしはその典型が茶の湯であったと考えている。» i-iii、茶の文化史

日常の喫茶行為から出発した茶の湯は、日常性と非日常性のはざまに、いわば宙吊りになって浮かんでいるかのような独特の芸術形式(文化形式)である。村井は、より初期の著作である『茶の湯の歴史』(1969年)において、次のように指摘している。

«さて、抹茶であれ煎茶であれ、茶の湯が以上述べて来たように日常生活と不可分のものであったことは、茶の湯の本質を規定する第一の条件であった。つまり茶の湯は何よりもまず生活芸能であることを特質とするのである。

一般に室内芸能(芸術)と称せられるもの、茶・花・香は、いずれも生活様式に密接した形で展開してきたといえるが、なかでも茶(喫茶)はもともと日常生活そのものであるから、その限りでは芸術とはなり得ない。

茶の湯を一定の芸術的境地に高めようとするなら、茶の湯のもつ「日常性」からの乖離を必要とする。そこにある種の茶礼が生まれてくる理由があった。喫茶という単純な行為(=日常性)にさまざまなルールがもち込まれて、点前作法がつくり出されるに当たって、それなりの法則性があったことはいうまでもない。しかし、そうした日常性の否定が行き過ぎると、今度はその型にとらわれたものに堕してしまうだろう。茶の湯は日常性に埋没しても成り立たないし、その逆もまた自己否定につらなることを自覚していなければならない。» p. 19

注目に値するのは、茶の湯の専門家として村井が、茶の湯や生け花などの日常性度を区別している一方で、抹茶や煎茶といった茶の種類における日常性の度合いは区別していないということである。

«こうして喫茶の風は、抹茶にしろ煎茶にしろさまざまな変差を示しながら、地方・庶民の間にもひろまり、それこそ日常茶飯事となったのだった。» p. 19

もちろん、茶種の区別は村井の課題ではなかったが、茶学の観点から見れば、異なる茶種における日常度の区別は、それ自体が重要であるだけでなく、例えば、煎茶や番茶を用いる煎茶道が、抹茶を用いる、より保守的な茶の湯よりも、なぜ高い日常性度を持ち、全体としてより民主的であるのかを説明するものでもある。

茶の湯と煎茶道は、「理想的な」日常喫茶の近似、および文化的虚構として立ち現れる。

そして抹茶、玉露、煎茶は、理想的な日常茶とされる番茶の一連の近似、および文化的虚構として捉えることができる。

このような視座に立つとき、茶文化全体はさながら一つの太陽系のように映る。その中心に位置するのは人間とその日常であり、その周囲を、日常性度を異にする様々な茶種が周回しているのである。常茶という惑星は、いかに高性能な望遠鏡をもってしても見出すことはできない。なぜならそれは、他ならぬ私たちの足元そのものだからで。

極端に言えば、貴族的な出自であった柳自身、自分がその文化を研究していた「普通の人々」の遠い近似であったであろう。

おそらくそれゆえにこそ、彼は茶の湯に組み込まれた「虚構」を、「生活」そのものとして受け入れたのかもしれない。

それでは、「生活」とは何か。生活、茶の湯、そして人間自身も、空(くう)にすぎないのではないかとさえ思えてくる。

柳は型に囚われた現代の茶人たちが茶の湯の本質に気づいていないと批判するが、彼自身もまた、茶そのものを目の前にしながらその美に気づいていない。茶の湯において、日常性の象徴である茶は後景に退けられ、茶道具の美しさの背後に隠れてほとんど見えなくなっているのである。

型は空である。柳の型に対する姿勢は両義的であった。一方では型に囚われることに反対していたが、他方では、次のように述べていた。

«形で「茶」を玩ぶことは慎んでいい。型をゆめ浅く受取ってはならぬ。型に入って「茶」がますます活かされねばならぬ。真の「茶」は型でいよいよ自由である。

すべての偉大なる藝術の仕事は法則の発見である。茶道は美の法則を語る驚くべき道の一つである。» p. 148、茶を思う、茶と美

柳の言説には、「こうあるべきだ」「こうしてはならない」という規範主義的な響きがしばしば混じる。その分析的な知性は、生々しい現実を普遍的な法則という「型」へと囲い込もうとした。しかし、空の思想から見れば、これこそが彼の達成であり、同時に彼の悲劇でもあったのであろう。

型への敬意は、器物への強烈な愛着へと姿を変え、生涯をかけた工芸品の収集という営みへとなだれ込んでいく。著書『工芸文化』において、彼はダンスや演劇、オペラといった動的な表現とは対比的に、工芸を「静的芸術」の側へと分類した。

分類はが「分類は概念を鮮やかにするための便法に過ぎない。」(p. 26、工芸文化)という、仮の枠組みであることを自認しつつも、ここでの彼の姿勢は、自ら提唱した「用の美」の動的な本質と、ある意味で矛盾をきたしている。

美に対する静態的な視座を超えようと試みながらも、柳は、茶の湯に代表されるような「人工的に切り詰められた機能空間」のなかで作用する、物の不動の美に縛り付けられたままである。

興味深いことに、芸術の諸ジャンルを分類する際、柳は独立した芸術としての「茶の湯」にも、同じく器を伴うはずの「食の芸術」にも言及していない。それらは、静と動の狭間に見失われ、溶け込んでしまっているかのようである。

茶の湯から工芸へとスライドされた、この「器物中心の視点」が災いし、柳は茶碗や急須に注がれた「茶」そのものを見落としてしまった。茶こそは、器の美を内側から躍動させる、いわば生きた役者にほかならないというのに。

柳自身はお茶好きであった。20世紀前半の多くの日本人と同様、彼が日常的に番茶を親しんでいたことは、写真に残された土瓶の佇まいからも窺える。それにもかかわらず、これほど膨大な著作を遺しながらも、柳は茶そのものにはほとんど筆を割かず、ひたすら器の美に視線を注ぎ続けたのである。

«よき土瓶はこの世で得難いものゝ一つである。私はそれを如何に探し求めたことか。(きつと私のやうに、之を求めてゐる方が他にもあるに違ひない。)之がないと快く茶は飲めない。よき土瓶を得ることと茶を飲むこととは一つである。初代の茶人達は茶入や茶碗に一苦労したに違ひない。心に適ふ器が無いと茶は建てられないからである。私はその氣持をよく察することが出来る。只飲むと云ふだけなら何でもいゝ。併しそれだけでは生活にならない。正しい器物がなければ完き生活もないのである。p. 1-2、諸国の土瓶

この一節においては、「木漏れ日」のように、柳の番茶に対する愛が感じられるのである。日本語の「柳」という言葉さえも、番茶の一種を意味することがあるからではなかろうか。著者は、番茶がいつの日か公式な用の間を得るかもしれないということさえ夢見ているのである。

«若し番茶道が興るとしたら、もろゝゝの器物の中で、土瓶はその主座を占めるであらう。私はよき土瓶の美しさにいたく心を惹かれる。だがこの日々の伴侶に就いて、之までその歴史や性質を書いてやった人がゐない。それで短くはあるが、私は私の愛するこの茶器のために、代つて一文を草しておきたい。» p. 2、諸国の土瓶

しかし、土瓶を絶賛する一方で、柳は茶そのものの分析を行っていない。味や香り、あるいは湯の温度について論じることはないのである。柳は事実上、茶器を選ぶことと茶を飲む行為そのものを同一視している。

当時、科学は茶の化学組成や性質の研究にようやく着手したばかりの時代であり、おそらく柳にとって茶は一種のブラックボックス、すなわち茶に関する世間一般の「観念」のレベルで知っている、ある種の与えられた前提にとどまっていたのである。彼は日常的に茶を飲んではいたものの、茶を「物」として直観的に捉えることができる茶の専門家としての知識や技術は持ち合わせていなかったのであろう。

茶について言及されている唯一と言ってもよい一節において、柳は、自身が工芸品という馴染み深い領域で生涯をかけて戦ってきたはずの垂直的な(差別的な)階層(序列)に対してさえ疑いを差し挟むことなく、標準的な情報を提示しているのである。

冒頭において著者は、伝統的な煮出しや茶漉しを通す方法に言及している。これら両方の方法にはそれぞれの利点があり、特定の状況(大人数の飲用者、または粉が多い場合など)に適しているにもかかわらず、柳は土瓶で出したお茶に比べてそれらを劣ったものと見なしているのである。

«だが茶を煎じるには以上の方法の他に、別に陶製の茶瓶を用ひる。之が前二者に比して最良であるのは云ふを俟たない。併し之には二つの器物が使はれてゐる。それは茶品の上下で分かれてくる。主として客用の上等の煎茶は急須を用ひ、家族が不断使ふ番茶には土瓶を用ひる。

上等の煎茶は最初の若葉を摘みとつて製る。その後生えるものを後より摘んだのが所謂「番茶」である。是等を一番茶、二番茶、三番茶など呼んでゐる。それ故番茶は民間の不断用であった。従って上茶に用ひる急須よりも、番茶に用ひる土瓶の方が、格が一段下つたものとせられた。

「ばんちゃ」は「晩茶」とも書くが、それより「番茶」の字の方が更に妥当であらう。「番」は不断使ひの粗末なものと云ふ意があって、「番傘」などと同じ使ひ方で、「番茶」と呼んだのである。

急須で用ひる上等の煎茶は誰も知る通り沸いた湯を少し冷して用ひる。之に反し番茶の方は熱湯を注ぐか、又は火にかけて煎じ出すのである。番茶は用ひる前に焙じるのを常とする。茶焙で茶をあぶるのは近頃のことでなく、幕末に出た例の草双紙などの挿絵にも既に出てくる。「番茶も出花」など云ふが、焙じたての最初の出花が最も薫り高いのは説くまでもない。» p. 19、諸国の土瓶

日本人の意識に深く根付いた番茶の格の低さは、「番茶も出花」といった表現として言葉に定着しており、柳に何の疑念も抱かせることなく、その視野の死角に入り込んでいる。柳は、日常の茶の美を解き明かす鍵を文字通り握っていながらも、ついにその扉を開くことはなかったのである。

当時の時代背景や、茶の科学が事実上未発達であったことを鑑みれば、柳の茶に対する知見の浅さを責めるのは酷というものであろう。彼自身、著作の中で、自らの仕事は未開の地を耕し、後世の研究のために地ならしをしたに過ぎないと強調している。

『工芸の道』(1927年)の序文には、次のような預言的な一節が見出される。

工藝の諸問題はまだ処女地として残る。あの堆積された美術論に比べては、いかにまだ初歩にあるであろう。不思議にも工藝の意義に関する深い叡智や正しい見通しは未だに語られていない。ほとんどすべては断片的であって整理せられた体系がなく、かついずれも内面的意味に乏しい。まだ耕して培わねばならぬ個所が限りなく拡がる。その土地の性質や何がそこに生い立つかについても見残されまた見誤られたものがはなはだ多い。

しかし早晩誰かが出てこの未の地に鋤を入れねばならぬ。それが耕すに足りる天然の浜野であるということに疑いはない。私はここに最初の難多き準備の仕事に身を置いたのである。すべての開墾者がなすように、私も雑草を抜き去り、石を除き、塊を砕き、畑を整えようと努めたのである。私はそこに幾個かの種を下ろした。

いつか春は廻り芽萌える時は来るであろう。収穫の悦びは来るべき人々の所有である。私のなさねばならぬ務めは、その実の日に備えるための最初の支度である。私は多くの愛と熱情とをもってこの仕事をなした。» p. 5-6、工藝の道、

柳宗悦の最大の功績は、伝統的に俗悪かつ原始的なものと見なされ、近代芸術の死角となっていた下層階級や庶民の日常生活の中に美を見出したことにあるとされる。

柳が切り拓いた文化的荒野から一世紀を経てその地に立つとき、私たちの眼前には「用の間」という無限の平野が広がっている。そこでは、日常の美という鮮やかな花々の奥で、茶の確かな「品質」という力強い新芽が青々と息吹いているのである。